一本の樹があった。仄かな青白い光源によって照らされた、決して広くはない部屋。その中央に、緑色とは無縁のゴツゴツとした蒼白な樹皮に覆われた枝を、幾重にも張り巡らせている樹があった。その根本に立ち、虚空に吸い込まれていきそうに朧気な天井を見上げながら、巨大な樹の枝付きを隅々まで眺めている、一人の男。
この空間には、今は男と樹の他には誰もいなかった。男はコミュニケートに寄与しない独白をつぶやくような非生産的なことを好む性格ではなかったし、樹は開くべき口を持っていなかった。それにもかかわらず、この部屋はいつでも無数の喧騒に包まれていた。その発信源は、樹の枝先それぞれに"生って”いる、直方体に近いブラウン管モニターの集合体。各モニターが映し出している映像の多くは取るに足らない日常生活の風景であった…映像の登場人物が生きる「日常」が、男の知るそれと全く異なる様相であることを除けば。しかし、男の興味を引くシーンは決して多くはない。彼が注意を向けるべき存在が現れるのは、映像が"分岐点"を映す、その瞬間に限られるからだ。
獲得すべき僅かな情報を得るために消費される膨大な時間量は、しかし彼にとっては無視できるほど小さかった。なぜならば、彼に残された時間は十分にあるからだ。そして彼は今、その理由…彼の死体が映された画面を、じっと見据えていた。
《ARBEIT MACHT FREI》
日付の変わって間もない時であった。夜の帳が下り、東からの物寂しい風だけが辺りにそよぐ。かつて地獄の入り口だった鋼の文字列の下を通り抜ける、二人の男の姿があった。
「はあ。この年にもなって、未だに任地に口出しもできないなんてな。私はこんな所は金輪際ゴメンだ」
「先輩がナチスに良い感情を抱いてないってことは知ってますよ。俺だってそうです」
「マラスピーナの爺さんはRIDIA出身だったろう。枢軸国同士だし、戦時中はナチスとの絡みもあったんじゃないか」
「俺のジジイはもうすっかりボケボケですよ、やれ聖杯がどうだの天空がどうだの、出自だってどこまで本当なんだか」
エージェント・ポイットマーは、上層部から仰せつかった今回の任務に、その現場の立地を理由として内心では反対していた。往年のナチスが実行した人類史に対する仕打ちを、祖父から何度も聞かされてきたからだ。後輩のエージェント・マラスピーナと共に彼が深夜の強制収容所に派遣された理由は、昨日の博物館の閉館後に発見された黒いビニール袋であった。それが運び込まれる様子が監視カメラに一切記録されていない、ちょうど人一人分が収まるであろうサイズの物体の中から、まだ僅かに温かみを帯びた右脚と、完全に白骨化した左腕とが飛び出していたことが、超常現象のスクリーニングを行うに足る奇異性を持っていると判断されたのだ。
「全く、ナチスの輩があんまりにも手酷いことをしたせいで、『収容』ってワード自体の印象が悪くなっちまう」
「ポイットマーさん、俺たちがやってるのは妖精や化け物から人類を守ることじゃないですか。人を人扱いしないで他の人間から遠ざけてた連中とは違いますよ」
「ああ、勿論だとも。我々には“正常な世界の守護者”として振る舞う責務があるからな」
人類が光の中に暮らすことを助け、自分自身は闇の中からそれを支え続ける。だから、ヒト並みの知性を持ち、共に歩むことを望む多くの超常種族たちを冷たい収容房の奥深くへと幽閉する行為は、財団の仕事としてはごく当然の内容であった。ポイットマーの財団に対する忠誠心に一点の嘘偽りも存在しないことと裏腹に、彼の頭の中には財団の理念に対するいくらかの疑念が未だに残り続けていた。我々の仕事は本当にナチスとは違うのか?
「さてと、この先がクレマトリウム2、現場ですね」
「"水漏れ 配管工事中"…張り紙が雑だな、誰がやったんだ」
ドアをマスターキーで解錠しながら、ポイットマーは苛立ちのこもった感情を呟いた。
「とにかく、我々は守護者であり、征服者じゃない。アノマリー相手なら手荒な真似も避けられない、でもそれはナチスみたいな残酷な巨大組織とは違う」
「俺たちは残酷ではない、冷酷であるに過ぎないのだ…もうすっかり聞き飽きましたね」
「ああ、これまでも、これからも同じだ」
ガス室の中へと消えていく彼等の耳に、遥か30km先から風に乗って流れてくる"別れのワルツ"の旋律が入ってくることは無かった。
「あれか…」
1940年代におびただしい数の罪なき人々が屠殺された忌まわしい部屋。その最奥に目的の物体が鎮座していた。遺体を覆う漆黒の袋は見たところ新品同然であり、中身が収められた時期がそう昔のことではないと示していた。オブジェクトの一箇所には大穴が開いており、周囲には焼け焦げた跡が残されていた。
「どれ、ガイシャは…ダメだ、顔が全くわからん。真っ黒に焼け焦げている…下手人はゴックスだな」
袋の穴を覗き込んだポイットマーは、中の頭蓋骨と目が合った。眼窩の直上に見える額には、アラベスク紋様のように複雑怪奇な銃創がありありと刻印されていた…GEN+2相当の対人ライフルには、処理後の標的の身元を判別不能にし隠蔽を簡易にする目的で奇跡術紋様が搭載されていることがあると、世界オカルト連合構成員との戦闘に関わる講義の記憶が示していた。
「守衛の買収は済んでますし、こんな呪われた場所に夜中に来る一般人もそうは居ません。仕事は済みましたね」
「うむ、問題はないな、後は収容チームに引き継ぐか」
異常物品回収の鉄則は非破壊・非侵襲。それに則り、収容チームが進入可能な現場へのルートさえ開拓すれば、ポイットマーとマラスピーナの仕事はそれで終わりであった。残りのチームへの連絡のため携帯端末を取り出そうとしたポイットマーは、ふと遺体の脇に落ちている一枚の小さな紙に目を留めた。
「どうしたんすか?何か気になるものが?」
「ああ。マラスピーナ、これを見てくれよ」
純白のネームカードは、所々がどす黒い血で汚されていた。問題の物品に近づいたポイットマーは、触れないように注意しながらそのネームカードを隅々まで観察した。名前は解読可能な形では残されていなかったが、一つの幾何学的紋様の存在がはっきりと読み取れた…中心にτ、外周に△、そしてそれを覆うのは、他ならぬ財団のエンブレム。それを視認した二人は即座に飛び退いた。
「先輩!この人、財団職員ですよ!」
「これは厄介なことになった。ゴックスの連中が我々の同僚の誰かを殺したってことだ。現場がどこかは分からないが」
「対要注意団体部門の連中も呼ばないと…」
「早まるな!そもそもこの遺体そのものが罠だったらどうする」
「どうすれば?」
「こう言うときにエージェントは咄嗟の判断が要るんだ-」
しかし、今回に限っては、彼はこの問題にその場で判断を下す必要は結果的には生じなかった…全く別の、そして極めて差し迫った危難が彼等を襲ったためである。
「熱い!」
ポイットマーは周囲の気温が急上昇するのを感じた。明らかに方向性を持った熱波が、どこからかクレマトリウムに届いたことを感じ取った。何もしなければ、次の瞬間には自分と後輩の体は火達磨になるだろう。しかしあまりにも唐突に現出した死へ続く道に対し、彼は事前になんの有効な策も講じることはできなかった。こうなれば、やれることは一つしかない。それが意味のある行為か否かを判断する余地はなかった。
「これに触れ!」
エージェント・ポイットマーは横で立ちすくむマラスピーナを強引に抱きかかえると、彼がそれまで遵守し続けてきたオブジェクトに対する鉄則を破り、地面に添えられた血染めのネームプレートへと乱暴に飛びついた。ガス室の天井が火を噴いて崩落したとき、その下に人間の形をしたものは既に存在しなかった。人類史に刻まれるべきであった負の遺産は他のポーランド南部のすべての建築物と同様にして融け落ち、抹消されていった。
強制収容所に比肩する非人道施設を世界中に建設してきた冷酷な組織の存在が明るみに出る、12時間前のことであった。
一枚、また一枚と、アスファルトの破片が空へと消えていく。建物はなく、道路もなく、ただただ一面に広がるモノクロームの舗装面の上には、負の質量を獲得したことにより地面と永久に別れを告げる運命が確約された大小不均一な瓦礫の層が形作られていた。その道なき道の上を、明らかに場違いな真紅の振り袖に身を包み、ミディアムのゴールドブロンドを一つの髷に結い上げた一人の女性が歩いていた。
「この場まで進むことを許されたのは、今や私一人だけですわね。他はもうみんな、留められてしまった」
オフィーリア・イアハートの脳裏に、自身が経験した3年間の学園生活が改めてありありと思い出されていた。2029年の秋、花籠学園では大きな体制の変革が起こったものの、学校中を覆う色とりどりの草花によって支えられる学園の基幹システムには手が加えられることはなく、関東圏の随所から集まってきた生徒たちは引き続き青春を謳歌していた…彼女もまたその一人であった。出身地がネクサスであったことを除けば取り立てて自慢できるような異能もなく、ごく一般的な話術と人心掌握術だけで学業と将棋部の活動とを乗り越えてきた彼女には、自分のこれからの将来も棋譜のように大局を読めていた気になっていた一面があった。それが単なる思い上がりであったことに気付かされたのは、今から1ヶ月前のことであった。
「この世界に、私の学園はありません。この場所に花はありません」
由緒正しき歴史と呼べるほどには長くなくとも、花籠学園には10年以上は続くある程度きちんとしたヒストリーがあり、東京都9区の緑化区域全域が生徒たちの青春のワンシーンを彩る主要な舞台としての役割を果たしてきた。しかし今、東京都9区には緑と呼べる色は一切存在しなかった。「この地は2017年から延々と続く多種多様な超常災害の被災地である」という何処かから湧き出た概念によって、東京都の発展は全てが消し飛ばされ、上書きされたのである。花籠学園の建つ土地も勿論例外ではなかった。さながら将棋盤をひっくり返され、その上に組み上げられていた駒と駒の鬩ぎ合いの過程が全て否定されたかのような感覚。こうして彼女は自身の青春と、それをともに作り上げたほぼ全ての学友とを、一度に失ったのだった。
「でも、ここには緑があります。みんなが全力で守り抜いてきた二つの緑が」
緑に囲まれた学園の残滓を残すものの一つは、イアハートの持つ萌葱色の双眼。もう一つは彼女が両腕に抱えている、まだ細く小さな一本の木の苗であった。死の色に染まる大地の上にもし視力を持つ命が他に居たとすれば、砕かれて舞い上がる灰色の人工物の嵐の中を進む赤と緑の点は、さぞかし奇異なものに映ったことだろう。
「福路さん、日奉さん、それに鵺さん。みんなが私のために動いてくれたお陰ですわ」
彼女の歩みは、明瞭な実態を持たない黒い柱に衝突したことで唐突に終わりを迎えた。鈍い感触を受けて三歩ほど後退したイアハートが視線を上方に移動すると、柱の正体が朧気に浮かび上がってきた。それは一体の巨人と形容し得る存在であり、彼女がぶつかったのはその右脚の先端であった…しかし「人」と呼ぶにしては些か縦に引き伸ばされすぎているようでもあった。巨人には脚があり、胴体があり、腕があり、頭があった。しかし、実体の頂点を規定している楕円形の影の上には、白い二点の眼光のみがあり、その他には生物の顔面を形作るような要素は何ら確認できなかった。
「神さま…またお会いできましたわね。私、とっても嬉しい」
イアハートは、彼女が持つ全てである一本の苗を、巨人へ向けて高く掲げた。女子高生にしては高めな背丈の上に持ち上げられた苗は、しかし巨人の踝に辛うじて届く程度に過ぎず、そして彼はなんの有意な反応も示さなかった。少しの逡巡ののち、イアハートは意を決して苗を地に突き立てた…
「王手」
…まさに捲れあがらんとする、彼女の足元のアスファルトの下へと。また一つ空の彼方へと飛翔していく地盤に脚を取られ、彼女は倒れかけた。自由になった両腕を地面につき、身体を落ち着かせた彼女が再び頭を上げたとき、そこには膝を曲げて態勢を下げ、白黒の地面に現れた緑を見下ろす巨人の姿があった。
彼女には自分が正しい一手を打ったという確信があった。今、東京都9区の地表には緑がある。植物が、命が、人生の背景となる世界がある。自分が生きてきた青春が、明日にはそこから卒業するはずの学園生活がある。それらの存在を肯定することがオフィーリア・イアハートの目下の任務であり、そして彼女の存在意義であった。
「…貴方の番ですわ」
瞬刻の後、巻き起こるアスファルトの嵐が一気に激しさを増し、イアハートと、彼女より遥かに巨大な存在とを、徐々に覆い隠していった。盤上に現れる次の一手が何なのかは、まだ誰も知らない。
ギラギラとした太陽の光を遮る砂嵐の中を、4人乗りのバギーが駆け抜ける。助手席に乗せられている老人…ファイサル・バシャールの、手の先と顔面にわずかに見える陽に焼かれた黒い肌には、数々の修羅場を潜り抜ける過程で受けてきた多数の古傷が刻まれている。そして豊かに蓄えられた白髭には茶色の砂が絡みつき、あたかも彼が傷つき弱った老いぼれであることを強調するかのようである。しかし、彼の落ち窪んだ眼窩の奥には、自らの故郷を取り戻す確固たる意志の光が、今なお色濃く残されている。
「お主たち、老いぼれの妄言でも聞いてはいかれませんか。ここからイエメンまではまだ相当な距離があるでしょう」
「アルタイル・パシャ、お申し出は感謝致しますが、我々は任務が終われば記憶処理を受ける身です。それでも宜しければ」
「構いませんよ。むしろそれが良いのです。誰にも覚えてもらいたくはない話ですから」
護衛のアルファクラス職員たちと老人は、舞い上がる砂埃から守られた空間の中で語り始める。
「我々が知る貴方は、60歳の穏健派人権活動家です。それはお間違えありませんか」
「もう25年前になりますか。ヴェール崩壊後間もない世界で、人種差別の無意味さと民族融和の意義とを語って歩いていた時を思い出しますな。全く軟弱な腑抜けの青二才でしたわい」
「ご不満でございましたか」
「今になって思えばの話ですがね。単に自分の意見を暴力で押し通す過激派団体の頭領として扱われるのが嫌だったんですよ。そして、優柔不断さはやはり不要だったのです。手段を選ばない人道保護を推し進めたところで、人ならざる者どもから故郷を守り通す悲願はついぞ叶うことがなかったのですからね」
2019年の秋、故郷が突如としてヴェールを取り戻したという報を、彼はウクライナの地で聞いた。それまでにエジプト全域にはびこっていた半神半獣の知性ある化物たちは、故郷から影も形もなくなっていた。人間は世界をやり直すチャンスを得たのだと彼は理解した。しかし、理想郷の生活は長く続かなかった。わずか5年後には、異常の存在しなかった大陸の住人もまた、神話の怪物の牙にかかるようになっていたのである。
「そもそものきっかけは、人間がミイラの干物を食べる文化を持っていなかったせいですよ。信じられますか?」
「アルタイル・パシャ、申し訳ございませんが」
「まあ、信じられる方が困りますわい。これを主力製品として事業拡大に乗り出した異常組織が、エジプトにおける商品販路を増やすため全世界的な神話企業となったトリスメギストス・トランスレーション&トランスポーテーション社に業務提携を持ちかけたんですわ」
「今のTtt社は一般社会には出ていない小規模な事業家ですね。それほどまでに大きな存在に?」
「それはそれは酷く巨大で醜いものですよ。エジプト出身だった神話企業の副社長がこの呼びかけに応え、ユーラシアではもはや当然のように我が物顔で人類社会に混ざり込んでいた憎き伝承部族たちを、私の故郷、アフリカ大陸の玄関口へと集結させたのです」
「それは、いくら財団や連合でも見逃さないでしょう」
「いやいや、それが真逆だったのですよ。ユーラシアと北アメリカの世論では、人間を保護し他部族の手が届かない自由な居住区を作ろうという私達のささやかで平和的な試みは、世界の平衡と安寧に楯突く危険思想と見做されたのです。なんと無慈悲なことでしょう!」
老人が組織した人民守護戦線は名を"アルタイル"とつけられた。輝かしい夏の世界へと飛ぶ鳥たちの名だ。緒戦は人数で勝る人間側が優勢に推移したものの、国連の息がかかった者共が「正常性維持」を掲げて伝承部族に肩入れするようになってから状況は一変した。
「ネコの一匹、タカの一羽、フンコロガシの一匹一匹に至るまで、あらゆる畜生どもが神の分霊にも等しい力を獲得し、私たち地上の支配種に向けて一切の躊躇のない反逆をしてみせたんですわ。神の加護とやらを得て際限なく強化された太陽光線は人間の居住区を焼き払い、死者たちは弔われる間もなく地下深くへ連れ去られ、心臓を奪い取られ…そして2025年には、故郷のカイロから、ホモ・サピエンスは絶滅に追いやられたのです…ただ一人、私だけを残して」
忌まわしきヴェール崩壊の時、セミ神の崩壊はアウシュヴィッツの存在抹消を引き起こした。それは人類が常識として語り継ぐべきであった人種絶滅政策の悪、負の世界遺産の記憶をも薄れさせていた。
「私の故郷はヒトの真似事をするエセ人間の怪物で溢れかえりました。奴らはカイロに留まらず、近いうちにアフリカ全土の人間に対して同じことを仕掛けるでしょう…ですが、私がここに辿り着いたからには最早それは起こりえないのです」
かつて穏健派人権活動家であった60歳のバシャールは、今や85歳、歴戦の過激派組織首領としての経験を積んだ状態で同じ時代へと帰ってきた。数奇な運命のめぐり合わせというべきか、世界の理はもう一度だけ人間にチャンスを与えたのである。今度こそは、将来にわたる禍根の一切を残さぬように刈り取らねばならない。老人が次に口を開こうとした時、後部座席の護衛が彼のもとへ携帯端末を差し出した。
「アルタイル・パシャ、上層部からお電話です」
「おや、私の到着が待ちきれないのですねえ」
傷だらけの老人の顔が、歪んだ笑顔に染まった。受話器を受け取る前から、デルタコマンドに上申すべき案件が何であるか老人は既に理解していた。伝承部族の増長を招いた元凶となった事件が、もうすぐ起こる。ここから遥か遠く、マンハッタンの地で。
行政執行法人 日本時空間因果律総合調整機構。英語でJapan Spatiotemporal and Causality Agency、略してJSCA。群馬に作られた中央新都心の高次元ビル、その頂上に理事長室は存在する。四次元開窓構造の窓ガラスの先には、下層次元の360°を見渡すことが可能な魚眼視野が設けられている。その窓を背にしながら黒檀製の広々としたデスクに向かうのは、JSCA理事長にして組織の代表を務める、神楽 陽仁その人である。
デスクに備え付けられたダイヤルアップの電話がけたたましく鳴り響く。少しばかり、否、かなり時代遅れなアナログ通信機器であるが、神楽はこの文化遺産の如きアイテムをJSCA設立前から愛用している。過去と未来、様々な時間軸に顧客を持つJSCAのトップならではの感性だ。
「神楽だ。名前と用件を」
『失礼いたします。時間軸編纂部門の鹿場です』
電話をつないできたのは時間軸編纂部門の有望ルーキー、鹿場 浩介であった。彼は上司に対する一通りの事務的な挨拶をつらつらと並べ立てたのち、本題を切り出してきた。
『非存在国家シガスタン首都・シガスメンバシが、大津市に重複する恐れがございます。早ければ、昨年2022年にも顕現するでしょう』
「なんだと、去年か!」
『はい、未来の改変であれば通常の軍事方法でも阻止可能ですが、過去への介入となると対処は非常に困難です』
「それで、どうする予定だ」
『はい、僭越ながら、中規模の第二世代時空兵装の新規開発プロジェクトを新規に立ち上げさせてほしいのです』
JSCAは設立されて間もない団体である。東京事変によって大打撃を受けた日本の歴史を立て直すことを第一の目標とし、正常性維持機関、JAGPATO加盟超常組織、新都心を本拠とする新興一般企業、さらには官公庁など、100以上にわたる様々な団体から職員が募集されている。中でも影響力が強いのはやはり財団と世界オカルト連合であり、歴史改竄を目論む危険な超常団体から歴史を守ってきた時間異常部門と因果脅威対処部隊の技術が、JSCAの初期軍備としてほぼ丸々受け継がれている状態だ。しかしながら、神楽はこの状況に対する不快感を滲ませていた。
「なるほど。どこに頼むつもりだ。財団か?」
『現時点では、連合の因果脅威対象部門に所属していた勢力を第一候補と考えております。世界水準の技術が必要とされる案件ですから』
「ふむ」
日本における正常性維持組織の影響力は、概して落ち目である。というのも、奇蹄病事件の事後対応では日本生類総研の処遇をめぐる責任問題でJAGPATOの会議を長々と紛糾させ続けていたし、その最終対応が決定する前に発生した未曾有の大災害に対する予見も全くなされていなかったからだ。この2つの事件は、日本の有識者層に「過去の正常性維持組織に頼らない超常防衛力確保の必要性」を意識させるに十分なものであった。日本はいずれ、独力で危険な超常脅威を制御できる力を手に入れなければならない。我々JSCAはそのモデルケースとして、国民に希望を持った未来を見せる必要があるのだ。これらの構想が一通り脳を去来したのち、神楽は鹿場に返答を返した。
「プロジェクトの開始は許可する」
『光栄にございます』
「ただし正常性維持機関は関与させるな。純日本の組織だけでやれ」
何も、世界的組織におんぶにだっこになる必要はどこにもない。東弊、神々廻、理外研、その他の国産超常団体。そして彼らを取りまとめるJAGPATOには日本政府との確かなパイプが築かれている。財団抜きで実績を示すことができれば、庇護の下で得る仮初の平穏から国を挙げて独立する機運が産まれるだろう。それが神楽の目下もっとも重要な目標なのである。
瞬刻、電話越しに張り詰めた沈黙が生じたことに神楽は気付いた。しかし次の瞬間には、平静を崩すことのない鹿場の返事が受話器を通過した。
『承知致しました。必ずや、今後の世界水準を牽引するだけの新規武装を開発してみせましょう』
「ハハハ!話がわかるな。やはり優秀な部下は持つものだ。頼んだぞ」
アナログ電話に一頻り強い激励の声をかけ、受話器をデスクに戻したJSCA理事長は、数秒の沈黙ののちデスクの後ろを振り返り、四次元レンズの窓を通して十文字の街並みを見下ろす。この街は常に通勤者の雑踏でごった返している…殆どは日本国民だ。
「いずれ、国民の未来は古い守護者の手から離れ、国民の組織の下に戻ってくる時代がやってくるだろう。JSCAはその未来を創り出すのだ」
神楽が改めて自身の歩むべき道を確かめたところで、再びデスクの電話が鳴った。
「神楽だ」
『鹿場です。時空兵器の開発プロジェクトを承認頂きましたことで、2022年に見込まれていたシガスメンバシ顕現は2034年までずれ込むことになりました』
「素晴らしい」
二人は電話越しに破顔した…この業界では、結果は即座に前借りで現れるのだ。
仄かに灯るキャンドルの光の下で、マホガニーのリクライニングチェアに腰掛けた一人の女は分厚い装丁の施された本を開いた。机の上には緋色の羽ペン、インク壺には禍々しく紅い液体が満たされていた。しかし、人生の峠に差し掛かり、平たく折れ曲がった三角帽子の下から少しばかり白い髪が見え隠れするようになった彼女は、ペンを右手に取ることはなく、本のページ上でひとりでに生じていく変化をじっと見つめていた。色とりどりの文章からなるコメント、セッションの集合体。それらが全て、遠い世界の上に存在し得たかもしれない自己の可能性の投影たちから届けられたものであることを、彼女は知っていた。
妙な話ね。私がこのタイムラインで新聞社のオッサンを見に来た時は、NY発スコットランド行きのワープホールなんてものは無かったはずよ。まして、それをこんなに多くの人数が日夜通ってるなんて。 現在のK-998における跳躍路技術が確立したのは2010年代とされていますが、これは私が以前に訪れた時の記録とは全く矛盾しています。私の記憶では2040年になって漸く試験段階に入ったもののはずです。 その上、通行人は皆ヒトとは似つかぬ獣の顔をした者ばかり。我が以前に世話になったC-002のレジスタンス達も確かに奇人変人揃いではあったが、ここまで多様ではなかった。 私が初めてK-998の存在を知った時は常識外れの人間社会が長く続いていたことに驚いたものだが、果たしてこの状態で本当に「人間社会が存続している」と見做して良いものか?経緯を知らない者が見れば“SK”と見分けがつかなくても不思議ではないだろうな。 違うと思うわ。カルミナさんも言っている通り、このタイムラインにも本当に「人間社会が存続していた時期」があって、私達は以前にそれを見たことがあるはずなのよ。ひょっとしたら、過去に遡る世界の改変が発生しているのかも? グリーンアイスの意見には反対する。通常、改変による分岐が発生すれば、その時点で両者は別々のタイムラインに分かれるはずだ。同一のタイムラインであるという符号が変化することなく、その中の歴史が大きく塗り変わることは考えにくい。 ですが、その考え方がこの状況を最も説明しやすいのは確かだと思います。私達が今までにこの地で目を疑うような事象を数多く見てきたことを考えれば、この世界自体にも何らかの仕掛けが施されている可能性に留意することは不自然ではありません。
本を読む老女は顔を上げ、左の窓の外を見ていた。二代前の支配種によって育てられ、現在に至るまで継がれてきた、鬱蒼とした森林。その木々の上から光が差すことがなくなって、丸1年が経とうとしていた。この場所は地球上の地図には載ったり載らなかったりする辺鄙な場所ではあれど、極夜を迎えるにしては些か緯度が低すぎた。太陽を最後に見てからどのくらいの時間がたったのか、彼女にはもうはっきりと思い出すこともできなくなっていた。
ところで、我が前々から疑問に感じていることが一つあるのだが…この世界を直接の出身地とする我らが姉妹のことを存じている者はこの場にいるか? リンドバーグが言っているのは、ビッグ・シスター・“ミレニアム-ワン”のことかしら?「マンハッタンの大魔女」として語り草になっている存在の正体らしいと噂されていることくらいしか知らないわ。 そうなると活動時期は2001年近辺か、私達からすれば相当な先輩になる。故に、残念ながら私も“図書館”では彼女は勿論、彼女について少しでも知っている姉妹にさえ殆ど出会ったことがない。おそらく、“L.S.”としての活動期間は極端に短かったのだと思われる。 ホローポイントの情報収集力をもってしても限界があるのですね。私が彼女について知っているのは、ある時期に図書館から多数の本を持ち去ったことだけです。古風な洋館に見立てた移動図書館が、事件後の彼女の本拠地であるとも。 彼女なら、K-998全体の異常性に関して何かしらの知識を持っているかもしれない。移動図書館を探してみる価値はあると思うわ。でも、どうやって…?
黒の女王・ミレニアム-ワンは、リアルタイムかつ緩徐に追加されていく文章を眺め、また一つ大きな溜息をついた。書斎の右手の壁に架けられた額縁には、年老いたと言うには少し早い父を写したモノクロ写真が飾られている。彼女にとって、“放浪者の図書館”の力を借りて探すべき存在はとうの前に見つかっていたし、そしてそれが永久に失われてからもうすぐ25年が経とうとしていた。つまり、自身の多次元同位体と出会うための場に彼女が改めて踏み込む必要性は、本来の目的からすれば限りなく低かった。それにもかかわらず、彼女はインク壺から自身の声を引き抜き、それを発信した。50年ぶりに綴られようとする、女王としての意志。
小さな妹たちへ。スコットランドの辺境、かつての妖精の手で造られた国で、貴方達を待っています。私には全てを話す用意が -
「アリソン」
そこまで書いたところで、彼女の筆は止まった。本の向こうに居る妹たちからの返信を待つためにしては半端な位置で。常夜の地に蔓延する沈黙を破ったのは、彼女の右後ろから肩にそっと手を置いた一人の男が発した、彼女のファーストネームであった。
「久しぶりだね。早速だが、君に懐かしい仕事が舞い込んだ」
男は、アリソン・チャオと比べると明らかに一回り若い外見であった。恐らくはモンゴロイド系、20世紀を思われる小洒落た洋装、それと不釣り合いに多い構成部品からなる左腕の時計。そして小さな中折れ帽子は、白と紫の混じったファーフェルト製だった。
「貴方との関係は25年前に終わったものと思っていたわ、Herrヘア Hexenmeisterヘキセマイスター Saigaサイガ。せめて、妹たちへのメッセージだけは書き残させて下さらない?」
男は回答を与える前に、腕時計のゼンマイを二度回した。
「教えて。それは私のパパを取り戻すより大事なことなの?」
「当然だ」
燭台の炎が消え、移動図書館の書斎の中は、窓の先に広がる空と同じ黒い洞々とした夜へと沈んでいった。色めきたった四人の妹たちによる困惑の書き込みを見る者はもういなかった。過去に伝説へと仕立て上げられた50年前の魔法少女は、今宵、再び闇へと引き込まれる。
降り積もる放射性廃棄物と不可侵の灰が、遙か彼方の地平まで延々と尾根を描いていた。ソーマトキル、オモイカネ、かつて奇跡の物質として崇められていた貴重な合金資源も、ひとたび端材として地表に落下してしまえば、あとは誰からも忘れ去られるゴミとなる運命だ。人類なき後の地表面の片隅に、「人類」として定義されることを拒まれた生命が1体、横たわっていた。
《……》
彼の目が、重力に抗う方向へと向けられた。彼が知覚できる範囲の空には、ほとんど何も映されていなかった。より正確に言うと、なんの模様も描かれていない単一の青に塗り潰された長方形が十数枚。それ以外のスクリーンは全て、非通電状態にあることを示す漆黒に埋め尽くされていた。太古にも等しい過去の遺物を今更修繕しようとする意欲を持つ者は、少なくとも空の上にはもう残っていないだろうし、一方で空の下の生命体にとっては些か難しすぎる作業になるだろう。
22世紀。液晶の空が地球を覆った世界。
数千万色のバリエーションを持つ高精細グラフィックによって描写されるバーチャル・スカイ。50年前の人類たちがそう呼んで褒めそやしていた発明品は、現在では「地球」に暮らすことを認められた人類が創り出す世界の底面、字義通りの基盤となっていた。文化的と呼べる暮らしをしている者たちが仮想の天井に今更興味を示すことは無いだろう。何故ならば彼らは既に無限の天空を手中に収めているからだ。しかしながら、文明に息づくことを否定され地上へと突き落とされた生命体にとっては、人工の天がかなり以前から描画機能を停止していることは、僅かばかりの心の慰めすらも失うことに他ならないのだ。
《……》
ゴミの山に埋まっている“人間”は放射性物質から適切に身体を防護するための装備を持っていないし、それに関する知識を含む教育も受けていなかったが、しかし彼はそれを必要としなかった。無意識下に行使される現実子歪曲能力が、有機物代謝や有害化学物質の解毒、あるいは寸断され続けるDNAの修復といった数々の必須かつ面倒極まりない作業を代行していたからだ。尤も、これは決して彼にだけ許された神の御業というわけではなかった。100年以上をかけた人類の世代交代と生存淘汰の中で培われた、現実改変事象に対する抵抗力の蓄積の賜物であった。彼は「第七世代」。総人口は数百億のスケールまで膨れ上がっている一方で、この劣悪な地表の環境に留まっている、換言すれば幽閉の身にある者は、高々3桁に過ぎなかった。
《……》
ともあれ、人類史に対して果たす役割をもはや終えたかつての母星の上で、ひたすら無為な時間を過ごし続けることは、彼が授かった一つの命を全く無味乾燥な世界で消費することに他ならなかった。そして、彼は自らの命をそれ以外の方法に用いることを試みる機会を今まで得られていなかった。彼が眠っている廃棄物の山の下から、一つの長大な咆哮が聞こえてくるまでは。
《……?》
一つの山を崩し、それを自らの表皮に絡みつかせるように纏った存在が、彼の前にゆっくりと這い出した。ぬらりと鈍く光る赤褐色の長い胴は、生きとし生けるものを肉として取り入れるために用いられるであろう無数の口と牙とを備えていた。そしてそれらの有機的構造の上には、栄華を誇る超常人類文明の残滓、力学的加工が施された多種多様な合金の破片が覆いかぶさり、砕かれていた二対の神の破片が、それが意図していなかったであろう筋書きの下に、一つの肉体の上に統べられていた。
《……!》
蛇は静かに身を擡げ、側面に開口した無数の発声器官を鳴動させた。その上に取り残された少年にとって、蛇の発する語句は全く耳に覚えがないものばかりであったが、しかしその意図は少しずつ、確実に彼の空虚な心に浸透していった。
《…………》
生命が芽吹く水の星に建てられた一本の柱は天を突き破り、地上に芽吹いた命が成層圏の高みへと登ることを可能にした。それは人類社会の興味がもはや母なる星を離れ、その目が無限の虚空にのみ向けられたことを意味した。彼らにとってもはや狭すぎる故郷を乗り越えるために、人類は何層にもわたる新たな居住区を建設し、そこに巣食い、自らの活動の矛盾をかつての母へと押し付けることを選択した。漆黒の宇宙空間を先へと進み続ける人類は今や蕃神の眠る“太歳”に手を伸ばし、それらを討ち果たすか、その存在を抹消するかを好きなように選択するだろう。一方で地表に遺された文化もまた失われ、人智を超えた存在として畏怖された肉の神、鉄の神もまた飢えて、支持者とともに地表から消え去ろうとしていた。上と下の両方で、蛇は完全な滅を迎えようとしているのだ。
《……》
いつしか少年は、蛇とともに歩み始めていた。彼の決して長いとはいえない生涯の中で、特定の目標に向けて移動することはこれが初めてだった…たとえそれがいかに漠然としたものであろうとも。偽りの天球から、人類を母なる星の元へと取り戻す。それはあまりにも壮大かつ荒唐無稽な計画であったが、ともかく計画ではあり、進むべき道ではあったのだ。
「失礼します、博士」
樹木に実る無数の画面を前にして石のように不動であった男の沈黙は、彼の後方から声をかけた二人の助手によって破られた。博士が振り返ると、片方の助手の両腕には一つの歪んだ画面が抱えられていた。
「ポイットマーとマラスピーナか。剪定は済んだのか」
「はい、ご覧の通り」
黒く腐り落ちた植物質の外殻の中には、頭部がヒヤシンスとジャガイモへとそれぞれ置換された二体の人型が、男の理解できない言葉を捲し立てている映像がノイズ混じりで映し出されていた。不適切な時間軸がまた一つ刈り取られたことを報告した二人に、男は労いの言葉をかけた。
「よくやった。これで2000年代初頭の言語は、少なくとも人間に理解可能なものにはなるだろう」
「ありがとうございます、シャンク博士」
タデウス・シャンクにとって二人はこの場所で最初の部下であったし、逆に二人にとって男は命の恩人であった。歴史の徒となった果実を背中に載せたbig dogが、助手と共に時間の狭間にある部屋を後にする。シャンクはその後を追うことはなく、少しの時間を消費して自分の思索を整理することを選択した。地球に衝突した直径10km級の隕石が弾き返される様相を映すモニターを一瞥し、彼は珍しく誰も居ない空間に向けて口を開いた。
「全ては望ましい選択のために」
タデウス・シャンクが何者かであった時代が、GEN+2対人ライフルの一撃によって1998年に終わりを告げることを、彼は知っている。故に、彼は今後の世界全体に対して既に何者でもなく、激動するタイムラインの中を動き回る単なる一個人である。“異世界受信樹”の映像は、それぞれが真実にも虚構にもなり得る。彼は庭師であり、最善の世界は一本の植え込みの上に生み出される。神は乗り越えられる試練しか与えない、では
神から諮問を受けるべきは誰なのか?シャンクは改めて振り向き、蒼白な部屋のドアに手をかける。彼が見てきたモニターの情景たちの中から、どれを刈り取り、どれを確定させようとしているのかは、彼自身のみが知っていることだ。
誰も居なくなった部屋の中で、閉じられるドアの先から漏れ出した現世の風が、一本の樹に優しく吹きかけられる。樹が揺れ動くことはなかった。