紅鏡の傍らに眠る
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 東京、サンシャイン水族館。夢遊病者のように現れた一人の青年が、藍色の水槽の中で踊る魚たちを飽きもせず眺めていた。

 緋色や金色の魚が泳ぐ間隙を、脈絡もなくエイやウツボが通り過ぎ、深い水の底に溶けていく。青年はソファに腰をかけたまま、もう二十分かそこらは水槽を見つめ続けていた。
 空漠とした沈黙が非現実的な空間を包み込み、夢のような景色と、足を下ろした現実の境界を曖昧にしていく。何事もない平日を過ごす人々が、学校や会社などそれぞれの生活に追い立てられている中途半端な時間だからだろうか。大水槽の前には青年しかおらず、周囲はひどく閑散としていた。

 さかな。みず。藍色、緋色、金色、黒。意味を与えられた記号たちが、言葉に繋がれて視界の中に溶けていく。
 不意に青年は立ち上がり、藍色の世界に背を向けた。ハシバミ色の双眸は、もう水槽の方を見ていない。
 

 

第一幕 天象儀


01

2017年7月16日

 何か大切なことを忘れているような気がしてならないが、意識を向けた途端、小さな違和感は記憶の靄の向こうへ消えてしまう。
 きっと、確かに何かがあったはずなのだ。自分にとってはとても大切なことが。思考の奥で微かに鳴っている途切れ途切れの不協和音を感じながら、谷崎たにざき翔一しょういちは手の中で万年筆を弄んだ。軸に染められた硬質な銀色が、窓から差し込む日暮れの陽光を浴びて鈍く光る。
 
 直近一週間ほど──もしかしたら、もっと昔から予兆はあったかもしれないが──どうにも調子がおかしかった。自分の体と自分の精神が、数ミリほどずれているのを感じる。おかげで思ったように体が動かないし、思考回路は時々耐え切れないかのようにエラーを吐き出すのだ。
 まったく嫌になる、と谷崎はテーブルに頬杖をつく。自分で自分を御せないというほど、自分にとって気持ちの悪いものはない。

 ぼんやりと窓を見やると、太陽はすでに西に傾いていた。視界の端に一番星を見つけ、谷崎は微かに目を細める。数ヶ月前に比べ、随分と日が伸びた。時が経つのは早いものだと、なんとなく年寄りじみたことを思う。これでもまだ二十の半ばだ。まあ、今の職場は、いざとなったら年齢なんて関係なく死が人を轢き潰していくが。
 
 脳裏にわだかまった黒い靄を吐き出すように、谷崎はここ数十分で何度目かのため息を吐いた。思い出せないということは、忘れてもよかったことなのだ。今のところはそういうことにしておこう。書類とルーズリーフで散らかっているテーブルから、ワインレッドのタブレットを取り上げる。指紋認証、パスワード入力。さらにコードを打ち込むと、画面に三本矢印と盾の印章が現れた。

 示された書類を押そうと伸びた指先の動きを阻むように、控えめな扉のノックの音が三回。
 
「入っていいよ」
 
 反射的にタブレットの電源ボタンを押し、画面の中の文字列を隠す。数瞬の間のあと静かに扉を開けたのは、谷崎のルームメイト──応神いらがみなぎだった。

「夕飯はパスタだ。和風ソースとミートソースどっちがいい?」
「ミートソース」
「了解した」

 来た時と同じように、静かに扉が閉められる。遠ざかっていく足音を聞きながら、谷崎はテーブルに無気力に頭を乗せた。横に置いてあるタブレットを持ち上げると、黒い画面に自分の顔が映る。
 大丈夫だ、と谷崎は自分に言い聞かせた。ゆっくりと瞬きをして、視界に映る像の焦点を丁寧に合わせる。

 自分はエージェント・谷崎。異常と非異常の境を定め守る、正常性の門番。これは決して揺るがない。

 タブレットの電源ボタンを再び押すと、改めてパスワードの認証を求められた。緩慢な動作で頭を上げ、慣れた動作で数字を入力する。これを自分に渡した人曰く、「パスを三回間違えたら『操作ロックどころでは済まされない』」──らしい。真偽の程は定かではない。一度も間違えたことがないからだ。

 パッと画面に映った資料を、上から順番に目を通していく。何度も読み返した文面だが、仕事のことを確認することで自分の立場をきちんと自覚し直したかった。──二つあるファイルの一つを読み終えた時、側に置いたスマートフォンが着信を告げる。
 
「……もしもし」
少々お時間よろしいですか。エージェント・谷崎
「新しい仕事の話なら、わざわざキミが連絡してくるほどじゃない。送られてきた資料はちゃんと読んだ」
よく仕事の話だとわかりましたね
「キミがぼくのことを役職名エージェントと呼ぶのは仕事の時だけだろう」
 
 電話の向こうの言葉が数瞬途切れる。谷崎は、電話の向こうで立っている──もしくは座っている、ジョシュア・アイランズの顔を少しだけ脳裏に思い浮かべた。クリアな音声と通話のしやすさを売りにするスマートフォンともなると、無言の相手の胸の内まで伝えてくれるのだろうか。なんとなく、画面の向こうから「さっさと切り上げたい」という思念が伝わってくる。
 
「キミだって忙しいだろうに、急にどうしたんだい。資料で伝えられることをわざわざ電話で言うほど、渉外部門は暇になったのかい?調停官殿」
確かに貴方の言う通り仕事の電話ではありますが、皮肉を言うほどの余裕はあるようで安心しました、谷崎
「無駄口に無駄口で返してくれるくらいの時間の余裕はあるようで安心したよ、アイランズ」
 
 これが舞台や洋画なら、谷崎の台詞には肩をすくめる動作がついている。そう思えるような、芝居がかった軽薄な言い方だった。──電波を通してそれが伝わったのだろうか。アイランズのついた微かなため息が、谷崎の鼓膜を震わせる。
 
貴方の今回の任務──異常領域の調査、でしたか。応神は連れて行くなということです
「わかった。薙くんは連れて行かないんだね。──……それだけかい?」
それだけですね
「なんだ。どんな大仰な指示かと思ったけど、その程度のことか」
 
 
 谷崎と応神──エージェント・応神が同居を始めてから四年が経った。
 スタンスは異なれども道を違えることはなく、性格は違えど破綻することはなく。同じ財団職員として、もしくはルームメイトとして、二人はそれなりによい関係を築いている。二人の関係を繋いだアイランズを、当たり前のように間に挟みながら。

 比類なき優秀な戦闘技能を持つ応神と、犯罪や異常を解明する能力に長けた谷崎。畑も性質も異なる二人ではあるが、公私共にうまく噛み合った──出来過ぎるほど。お互いにお互いを頼る場面も多かったが、それが周りには「二人でセット」的なものに見えていたらしい。確かに二人で共同任務をこなすことも多かったが(その大半において彼らは一定の成果を上げてきた)基本的に自分という個を中心に据えて動く谷崎には少々不満だった。
 
 
「言っておくけど、ぼくとて薙くんを頼りっぱなしじゃない。確かにぼくは頭脳労働担当で、肉体労働はおおよそ彼に頼んでいるけど──」
頼りっぱなしだと思われてるんでしょうね。貴方と応神、両方に面識のある私にわざわざ声をかけて、連絡をしておけと言ってくるくらいですから
「非常に不本意な見解だ。キミの口から訂正を入れておいてくれないかな」
ご自分でどうぞ
 
 すっぱりと一刀両断。谷崎はつまらなげにテーブルに肘をついた。後半に差し掛かっていた資料を上にスクロールし、自分の名前しか書かれていない名前の欄を見やる。
 
「薙くんはぼくが『隣にいることを許しているだけ』であって、別に二人でセットじゃない。薙くんだってきっとそう思ってるよ」
まあ確かに貴方や応神ならばそう言うでしょうが、大抵の人間からはそう見えていないのも自覚してください。同じ屋根の下を共有し、思考と背を預け、同じ死地を抜けてきたなら、緊密な関係と捉えられても仕方ないですよ
 
 電話の向こうのアイランズが今どんな顔をしているか、谷崎はなんとなく想像がついた。自分に対してだけ温度のない視線を向けてくる蒼色の双眸を意識の中で弄びながら、努めて軽妙な口調で言葉を繋げる。
 
「そこらへんはキミがちゃんと理解してるからいいんだ。あとは必要な時に必要な訂正を入れてくれれば」
私は忙しいので切りますね。ああ、貴方が仕事に出ている間、応神は休暇です。大阪の実家に戻ると言っていました。寂しくなって深夜にイタ電とかやめてくださいね。私は応神の代わりにはなれませんよ
「そんな子供じみたことしないよ。別に薙くんがいなくたって寂しくないし」
 
 プツッという音を最後に黙り込んだスマートフォンをひと睨みし、無言でテーブルに伏せた。
 下の階を繋げる階段を上がってくる音に、谷崎はタブレットの電源を落としてから立ち上がる。部屋の扉を開けると、ちょうど廊下を歩いてきていた応神と目が合った。

「相変わらずエプロン姿が様になるね、薙くん。パスタは茹で上がったかい?」
「いや、もう少しかかるから、よければ先に風呂入っててくれ。お前が上がる頃にはちょうど出来上がるだろ」
「わかったよ」
 
 谷崎と応神の居住地──マンションの十四階と十五階は吹き抜けになっており、階段で繋がっていた。応神の少し後ろについて階段を降りる。風呂の前に、水でも一杯飲んでおこうかという算段だ。

「そういや薙くん」
「次の任務、お前一人だってな」
「知ってたのかい」
「アイランズさんから聞いた」
「ことごとく外堀を埋めてくるね、彼」
「今回俺は役に立たねえが、お前の力は信用してる。まあなんだ……ちゃんと帰ってこいよ」

 うん、ともわかった、とも言えぬ曖昧な声で、谷崎は返事とした。ウサギの絵柄の描かれた谷崎のカップの中に、よく冷えた麦茶が注がれていく。

「ありがと。……キミは実家に戻るとか言ってたっけ」
「………… ああ」

 実家という言葉を聞いた途端、応神が思いきり砂利でも噛んだような顔をした。

「次に行くとしたら盆だと思ってたんだけどな。知り合いから貰った果物が大量にあるから、貰いに来いだと」
「あんまり人の家の事情に口挟みたかないけど、……手段のためには目的を選ばない人なんだね。キミのお父上は」
「桃だの梅だのスイカだの、山ほど押し付けられるぞ。料理の方は任せた」
「消費は任せたよ」

 キッチンを占領する大量の果物を脳裏に浮かべながら、谷崎は麦茶に口をつけた。癖のない冷たさが喉を滑り落ちる。
 
「キミの家にはもう一度くらい遊びに行ってもいいかもね。飯がおいしいし、風呂が広いし。肩が凝るのが玉に瑕だけど」
 
 微かな笑い声を零し、谷崎はカップの中の麦茶を一気に飲み干した。
 
 
 
 脱衣所の右側に薄い扉一枚を隔てて浴室があり、正面に洗面台がある。
 ──そこに付けられた鏡に映る自分と、ふと目が合った。
 
 鏡面の中からこちらを見つめ返す自分は、自分の記憶や認識の中の自分と何も変わらない。焦茶色の髪。東洋人には珍しいハシバミ色の目。日焼けというものに縁のうすい、同世代の中では白めの肌。「狂ったウサギのような」顔。
 
 鏡に指先を軽く触れさせる。鏡一枚を隔て、向こう側に映る姿が、同じ角度で指をこちらに触れさせている。
 鏡を正面から見て、瞬きをする。一瞬視界が暗くなり、映る姿には自分がこちらを見返している。
 鏡に向かい合い、ゆっくりと口を開いた。鏡の向こうに映る姿も、同じように口を開けている。
 

「ぼくは谷崎翔一だ」
 

 特に意味のない行為だ。だが、どうやらやりすぎると正気を失うとか、なんとか。一瞬谷崎の脳裏にそんな記憶がよぎったが、すぐに色を失って霧散してしまった。
 つまらないなと息をつき、洗面台に背を向ける。鏡面に映る自分は、じっと谷崎を見つめていた。
 
 

02

2017年7月19日

 不協和音が鳴っている。
 パーカーのフードを上げかけ、脳裏に響くそれに対し耳を塞ぐのはなんの意味もないと気づく。谷崎は若干諦めを滲ませた顔でフードから手を離した。昔馴染みの場所──自分が今の姿でない時代を思い起こさせる場所だからだろうか。自分で結んだ自分の像がぶれて仕方ない。
 いや、今は仕事だと谷崎は長く息を吐く。パチリと瞬きをした瞬間、その榛の目は“エージェント・谷崎”のものになっていた。
 

 谷崎の──応神を連れて行かない──新たな任務は、出現した小規模な異常領域の調査だった。発生した場所は、プラネタリウムのドーム内。
 低レベルのミーム災害を伴う微弱な領域。発生条件は「プラネタリウムが上映されること」。
 侵入した者は、自身の位置と方向感覚を認識できなくなる。影響は領域外に出れば解除。すでに民間人が何名か侵入した事例があるため、早急な対応が必要とのことだった。現時点では「機器の故障」として、一般人の出入りを禁じているらしい。

 なぜそんな場所に、と谷崎は今更聞かなかった。少しは思ったが。
 できれば異常性が無力化されて、何事もなかったかのようにあのホールで星空を見させてくれないかと谷崎は内心で願う。財団職員として正しい思考とは言えないので、決して口には出さないが。
 幼い頃、親に手を引かれて何度も見に行ったあの星空を、易々と諦めてしまうのはどうにも惜しい。

 受付で観覧券(大人1人:200円)を購入する。券を売ってくれた同業者に軽く会釈をし、谷崎は中に入った。
 
 今日は仕事なのだ。ごまかしきれない不調が足元に引っかかっているのが気になるが、それでも今の自分がやれる最大限、最高率、最適解をこなすのが、谷崎なりの仕事への向き合い方である。世界の全てを──自分すらも情報として捉え、環境として考える谷崎にとって、自身の抱える違和もまた、これからのあるべき行動を決定するための一つの思考材料に過ぎなかった。
 

 もし財団職員なんてやっていなかったら、今でもなんの後ろめたさも無く、ここに来ることが出来ていただろうか。移りゆく夜を眺め、興味の赴くままその神秘に触れ、星座解説を思い起こしながら窓の外の星を見て────
 

 ────あれこれ余計なことを思い巡らせても仕方がない。谷崎はドーム内の椅子の一つに腰を下ろした。今は財団職員として、やるべきことをきちんとこなすべきだ。自分の中で自分の思考を再定義し、目の前に張りつめた緊張の糸を引き寄せる。
 自分は大丈夫。一つ瞬きをすると、谷崎はスマホを起動した。呼び出したのは、財団謹製のメッセージアプリ。
 

    薙くん    
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2017年8月19日(土)
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プラネタリウム、見たことあるかい?ぼくの任務が終わったら二人で行って、帰りに外食でもしようか

 
 
 照明が落とされていく。谷崎は、ドーム内に夜が訪れるのを感じた。
 
 
太陽は西へとゆっくり沈んでいき、街は夜へと向かっています。夕闇の訪れとともに、やさしい光を放つ星たちが、ひとつ、またひとつと輝きはじめました──
 
 
 耳に懐かしい星座解説が、何も知らない顔をしてゆったりと流れ始める。
 
 

◇◇◇

 

 違和感を感じたのは、星空解説が終わったあとだった。

 谷崎は少しだけ椅子から身を起こし、周囲を確認する。上映中は点かない非常口のランプ。リラックスするにはやや硬すぎる椅子。自分一人しかいないホール内。すぐ脇にあるプラネタリウムの装置。
 
 
 いつまで経っても、星が消えない。
 
 正確には、朝が来ないという方が正しかった。
 

 星空解説は毎回、太陽がのぼり始め、星が見えなくなる演出で終わる。そうして、本来ポスターに載っていた映像の上映が始まるのだ。星や宇宙に関係した、大抵は子供向け──時には、リラックスしたい大人に向けた映像が。
 ただこの画面はどう考えても、観客たちが本来楽しみにしていたであろう映像を映すという殊勝な思いはなかった。周りには満天の星空が広がり、太陽の出る幕などどこにもないように感じる。
 

 夜が、終わらない。
 

 谷崎は小さくため息をつき、鞄の奥で黙らせていたスマホの電源ボタンを押した。普段ならこんな非常識な行為は決して許さないが、今回は必要事項だと一言自分に言い聞かせロックを解除する。人工的なブルーライトは、暗闇の中では眩しいほどに存在を主張した。
 

[圏外]

 
 当たり前だとでも言いたげに座り込むその文字を一瞥し、谷崎はスマホを鞄に押し込む。大丈夫、まだ想定通りだ。スマホの代わりに、鞄の隠しポケットから財団の通信機を取り出した。電源を入れると自動的に位置情報がサイトに送信され、通話を繋げれば向こうと会話ができるはずだ。話ができる状態でなければ、専用の符丁を送信することもできる。
 
 

送信先が見つかりません。エラーコード:81-███──

 
 
「は?」

 間の抜けた声が出た。
 
 
 パソコンの不調は大抵再起動で直るんですよと、反応しなくなった画面の代わりにキーボードを押していた後輩の顔を思い出す。いやそんな間抜けなエラーじゃないだろうなと冷静な頭で思いながら、それでも一応電源ボタンを長押しした。着いていた青いランプが一度消えたのを確認してから、もう一度ボタンを押す。

 赤いランプが青く変わる。
 

送信先が見つかりません。エラーコード:81-███──

 
 解説のために使われていた文字や丸や矢印も消えて、視界は一面の星空で覆い尽くされていた。
 パチ。青が赤に変わる。そしてまた青に。
 

送信先が見つかりません。エラーコード:81-███──

送信先が見つかりません。エラーコード:81-███──

 
 
 谷崎は一度長く息を吐いた。肚のあたりに力を込めると、自然に背筋が伸びるのを感じる。自分のするべきことをきちんと見つめるためのおまじないだと、応神から教えてもらったものだった。

 思考を止めてはいけない。歩みを止めてはいけない。谷崎は青いランプの消えた通信機を鞄にしまいこむ。こうなったら残る選択肢は一つ──自力での脱出だ。数日間閉じ込められたら流石に向こうも異変に気づくだろうが、そんな事態はできる限り避けたい。

 スマホの電源を入れ、任務の資料をざっと読み直す。こんな時のためにとでも言えばいいのか、資料はオフライン環境でも閲覧できるようになっていた。
 この領域は、侵入者の空間認識能力を狂わせる。きちんとわかっていれば落ち着いて対処ができるだろうと谷崎は静かに息を吐いた。パーカーのフードに着けられた骨伝導のウサ耳集音器が、心音を静かに伝えてくる。空間にぶちまけられた静寂が、ただ一人息をする自分の存在をうるさいほど際立たせていた。
 

「ちゃんと帰ってこいよなんて、今更そんなこと言うとは思わなかったな。このぼく──エージェント・谷崎にさ」
 

 立ち上がって、椅子の背を持ちながらゆっくりと、平たく薄い段を降りていく。
 足が宙に浮くたびに──いや、しっかり地を踏んでいるつもりの時でも、乱れた平衡感覚が思考を揺らし、視界を歪ませ、足を踏み外させた。確かに視界には段の終わりが見えているはずなのだが、それが距離として処理されない。伸ばした自分の腕がどこにあるかすら分からなくて──いや、見えているものが本当に自分が動かせるそれなのか分からなくなっていく。空を彷徨う手が自分の視界に映るたび繋がった神経を意識し直し、手探りで椅子の冷たい感触に指先を触れさせた。

 薄暗い館内の中、頼ったのは自分の五感と四肢、そしてスマホのライト。
 自分の肺や心臓が動く音、爪の先が椅子に触れる音、床を踏む足。視界が情報として処理されない現実に焦り、先走ろうとする情動を肚の底に沈み込ませ、谷崎は丁寧に足を進めた。次の足を踏み出すための、下の段の位置。触れている椅子の感触。
 
 


 

「──今何時だろう。夕飯までに帰らないと、薙くんが心配する」
 
 ようやく階段を降り切ったとき、ぽつりと口からこぼれ落ちたのはそんな声だった。

 自分が言った言葉の意味を認識し、思わず自嘲のような微かな息が漏れる。今あの家には誰にもいないのだ。同居人は休暇を取って、ここから500km弱離れた実家に帰っているのだから。
 
 家に帰っても誰もいないのは、数年前の自分だったら当たり前のことだった。
 人の気配のない、暗くがらんとした部屋を少しだけ思い描く。なぜだか漠然とした孤独感が目の前を覆ってくるのを感じ、谷崎は突き放されたような不安感を振り払うように足を踏み出した。
 階段は降りきった。あとは、薄い傾斜を降って、扉を押せばいい。それだけだ。壁に手をつき、しっかりと地面を踏んでいく。右も左もうまく機能しない頭では、壁と靴の下の床を認識しながら進むのが精一杯だが、それでも階段よりはうまく歩ける。
 

 どのくらい歩いたのだろうか。
 どのくらい進めたのだろうか。
 どれだけ歩けばいいのだろうか。

 ぐるぐるぐるぐる、道は回り続ける。なだらかな坂道は下り続ける。

 後ろを振り向いたら本当に自分の位置がわからなくなりそうで、谷崎はひたすら前を向いて進み続けた。頭が痛い。さっきからずっと、同じ景色しか見ていない。足音と混ざり合って、二度の和音が延々と鳴り響いている。
 

 谷崎は後ろを振り返った。
 さっき降りてきたはずの階段と、立ち上がったはずの椅子が、何事もなかったかのようにこちらを見つめ返していた。
 
 

03

 構想をやり直さなくてはいけない。谷崎は星空に覆い被せられているように置かれた、決して座り心地がいいとは言えない椅子に腰掛けた。

 どうしてここに戻ってきてしまっていたのか?──位置感覚がおかしいとか、そういう問題ではないと谷崎は思案する。自分は壁に手をついて、確かに進んでいた。
 同じところをぐるぐると巡っていた?あれほど集中して歩いていて?

 扉からの正常な脱出は見込めないとなると、どうやってここから出ればいいのか?送られてきた資料には、脱出方法に関する特記はなかった──はずだ。谷崎はスマホを開き、事例部分を再三読み直す。いずれも、扉を開けた第三者によって、異常性の影響を受けた人物は外部へ脱出したらしい。
 財団の救助が来るまで、脱出は不可能?
 

 あくまでも冷静に、冷徹に、考える。考え続ける。事実をそのまま事象として捉え続ける。
 考える。

 考え
 

「かんないではケータイ電話、スマーつげんをお切りください、だよ」
 

 不意に背後から現れた音に、谷崎の思考はぶちりと音を立てて途切れた。反射的に伸びた手は鞄の中──隠しポケットにしまいこんだ護身用の拳銃、キアッパ・ライノに触れている。
 バッと後ろを振り返った先には、まだあどけない少年が、谷崎の隣の椅子に肘を乗せて立っていた。

「お兄さん、迷子?」
「は……?」
「ぼくも迷子なんだ。お父さんとお母さんにおいていかれちゃったんだって、ぼく」

 ゆったりとした足取りで、声の主である少年は谷崎の隣に近づいてくる。谷崎は警戒を緩めず、少年の一挙手一投足をつぶさに観察した。焦茶色の前髪の向こうから、ハシバミ色の目がこちらを見上げた。少し日焼けした肌が、半袖のシャツと半ズボンから伸びている。
 
 子供は苦手だ。無為な騒音を振り撒き、拙い思慮で世界の中心に立ったような傲慢さを振りかざし、それを当たり前だと思う程度の人生経験しかない。無垢で、無知で、無辜。無意識の中に生きる存在。まったくべつの世界の、べつのいきもの。
 それでも谷崎は、なんとかこの少年と話をしようと言葉を選んだ。迷子?──そんなわけがない。自分がここに来るまで、プラネタリウムは一般人立ち入り禁止だ。自分以外に財団職員が来るという話も聞いていない、ならば、考えうる可能性は
 
「夜だからね。ちょっとふしぎなこともあるよね」
 
 谷崎の思考を見透かしたように、少年が言う。
 

「──とりあえず、はじめまして。ぼくは谷崎翔一。ええと、『見るべき星をうしなった、夜空の中の迷子』……ってかんじかな」
 

 おおよそ子供らしくない言葉選びで、少年──“谷崎翔一”は、谷崎と同じ笑顔で微笑んだ。
 
 


 

[前略]Agt.谷崎は比較的に寡黙であるものの、話しかけられた際には快く応答します。露骨に他人を避けることはありませんが、自分から人に近づくこともありません。目立つことを嫌いますが、人間を嫌悪している訳ではないようです。彼はこの印象に対し、「ぼくは大体の人間に好意的に接していたいと思っている」と言っていますが、その言葉が他人の同意を得られたことはありません。
[中略]彼の声はしばし「軽薄そう」と形容され、状況によっては多弁になります。しかしながら、精神鑑定の結果は彼が感情を強く抑圧していることを示しています。幼少期の深刻なトラウマが原因と考えられていますが、Agt.谷崎が多くを語ろうとしないため詳細は不明ですAgt.谷崎の詳細な文書・診療記録を閲覧するためには、対話部門に所属する担当職員の許可を得てください。上記のことから、Agt.谷崎は定期的なカウンセリングを義務付けられています。[後略]

『Agt.谷崎の人事ファイル』より 一部抜粋

 

◇◇◇

 

 一日以上経ったのかもしれないし、数時間しか経っていないかもしれない。なんとなくスマホを見る気になれない谷崎は、無言で椅子に座ったまま、隣の少年の話し声を聞いていた。
 
「なにしてるの」
「待ってる」
「なにを?」
「太陽を」
 
 ずっと喋り続けていた少年も、谷崎が会話に応じる気がないとわかると、やや拗ねたように話をやめた。谷崎の隣の椅子に腰掛け、背もたれを下ろす。一瞥した先でぱちりと目が合ったが、すぐに視線が逸らされた。どうやらこの迷い子は本格的に機嫌を損ねてしまったらしい。別に傷つきもせず反省もせず、谷崎は無言で星空に目をやる。夜明けが来る気配はない。

「……あのね、お兄さん」
「……」
「うん。ぼくの話なんかぜんぜんキョウミないこと、知ってるよ。だから、べつに聞かなくていいんだけど──お兄さんはさ、このうちゅうのどこかに、自分以外の自分がいるとか、考えたことある?」

 聞かなくていいと言った割に、明確に返答を求めてくる。谷崎は沈黙を貫いたが、それでも目線を僅かに少年の方へやった。谷崎の興味がこちらに向いたのがわかったのだろうか──少年が言葉を継ぐ。

「いちばん考えやすいのが、反地球、ってやつかなあ。たいようのむこうがわに、もうひとつの地球があるっていう話。お兄さん知ってる?」
「太陽の向こうに地球サイズの惑星があったら、太陽系のバランスが崩壊する。反地球はあり得ないんだ──知らないのかい?」
「お兄さんの生きてるせかい、そんな『ありえない』がげんじつにおこりうるところなんでしょ?」

 反駁の言葉を何も思いつかず、谷崎は閉口した。──思った以上に自分は疲弊していると、頭の中の冷静な部分で分析する。こんなおかしな子供の話に付き合っているのもそうだし、思ったように言いたい言葉が出てこない。ずっと歩き続けたからだろうか。任務の緊張からだろうか。光明の見えない薄暗く狭い空間に閉じ込められているストレスからだろうか。

「えらびとられなかった選択肢せんたくし。かんがみられずに消えていった物語。ここではないどこかの、お兄さんの人生。ここにはない何かが、生きていたはずの物語」
「……何が言いたいんだい」
「いちばんきれいなものだけのこして、あとぜんぶ閉じこめてわすれてしまったらだいだんえん、って思ってるの。くるはずだった朝日をほうむってしまったのに、自分だけのぞんでいた夜明けを手にいれられるって、ほんきでおもってるの」
「……」
「パンドラのはこ、って知ってる?お兄さん。藍色の夢を見たんだよね。閉じこめていたたくさんのとがごとは、もうとび出してしまってるんだよ。向き合うときがきたんだ。たったひとつの小さな『きぼう』にすがるんじゃなくて」

 谷崎は一度少年の顔を見た。焦茶色の髪。中心に碧が染められたヘーゼル。それは今の自分の容姿と合致していた。沈む陽の空の際にあるグリーンのフラッシュ。蒼い目をした外交官に、そう褒められたことがあったのを思い出す。
 
 確か、記憶と写真に残された子供の自分の瞳は、緑がかった透き通るような碧眼ではなかったか?
 太陽の輝きを受け止め広がる、美しく澄み切った空の色だったのでは、ないか。
 
 少年は谷崎を見つめ返した後、不意に笑みをこぼした。何もかもを許すような、諦めてしまったような、綺麗な笑みだった。
 
「……藍色の夢って何」
藍色インディゴは、せいじゃくの中に身をかくす色だよ。深海しんかいの色、宇宙うちゅうの色。やみとせいじゃく。まぶしすぎる光、あふれる音から身をかくす、ふかく暗いせかい」
「……」
「光なんていらなかったんだ。ほんとうはさ。光がなければかげもない。きぼうがなければ、ぜつぼうだってないのと同じように」
「……それは」
「お兄さんが望んだのは、そういうせかいでしょ?ぜんぶ押しつぶした。ぜんぶころした。たのしさ、かなしさ、心をうごかすものなにもかも。消しさってしまったのはお兄さんだよ」
 

 砂を踏む。足を止めることはなく、後ろを振り向くこともない。
 ──後ろにあったものを、なにもかも消してしまったのは自分なのだ。
 後ろに匿ったものを、見てみぬふりをしたのは自分なのだ。
 
 何かが喉の奥、あるいは眼球の裏側に引っかかっている。
 それを知っているはずだった。でも絶対に知り得るはずがなかった。
 

「お兄さん、たいようを待ってるって言ったよね。お兄さんのたいようはどこにあるの」
「見上げればそこに。いつでもぼくの傍らに。キミは知らないだろうね──誰も彼もが、明日の朝日を拝める確証なんてどこにもない場所も。夜の底で見上げたたった一つの星の、揺るぎない光も」
「ずっと待つの?ここで?たいようを?」
 
 少し訝しむような様子の少年に、谷崎ははっきりとした声で答えた。
 
「きっと夜は明けるだろう。なんたって、ぼくには太陽がついてるんだ。闇を払う太陽がね」
 
 
 

第二幕 帰省


01

2017年7月19日

 久々に帰った家人を出迎えるように、羽を漆黒に濡らしたカラスが一声鳴いた。
 応神薙は嵌めていた黒手袋を外し、音もなく肩に乗ったカラスの頭を撫でる。その丁寧な手つきとは裏腹に、表情は固く強張っていた。今すぐにでも引き返したい──そんな思いが、引き結んだ口元に表れている。

 カラスが一つ鳴いた。その声に応えるかのように、威容な構えの門が静かに開く。
 

 およそ半年ぶりに帰ってきた実家は相変わらず荘厳で、首筋がピリピリと熱くなるような緊張感があった。
 無表情を顔に貼り付けたまま、廊下を一歩一歩進んでいく。廊下を歩き去っていく人間(と人間でないもの)が、すれ違う応神に丁寧に礼をした。それに一瞥だけ返しながら、応神はなまあたたかくて浅い息を吐き出す肺を誤魔化すように背筋を伸ばし、規則正しく進んでいく。
 
 千年続く蒐集院の名門、応神宗家の屋敷は、家人として住むには広すぎるが、客として来るにはあまりにも全容を知り過ぎてしまっていた。
 
 

◇◆◇

 
 

    アイランズ    
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2017年8月19日(土)
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そろそろ大阪に着いた頃ですか。何事もなく到着できたことを祈ります
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今駅に着いた
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アイランズさんは大丈夫か?
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今は遅い昼食です。食べすぎると夕飯が入らなくなるので軽めですが…
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せっかくですから応神はおいしいものたくさん食べてくださいね
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土産のリクエストは
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お気になさらず。好き勝手楽しんできてください
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いつもの感じで、箱入りの菓子でいいか?
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家に行く用事がなけりゃ楽しめるんだけどな
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たまにでも顔を出すのは大事ですよ。ご家族も待っているでしょうし
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貴方の帰りを待つ人たちは貴方が思うよりたくさんいますから
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食べ終わったなら戻ってこいと言われたのでもう行きますね。羽を伸ばせるような精神状態ではないでしょうが、せっかくですから楽しんできてください
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あと、お土産はお菓子よりも今はレトルトカレーとかが嬉しいです

 

 自室に荷物だけ置き、家の周りをなんとなく歩く。
 「応治製菓」と看板の置かれた和菓子屋に入り、抹茶アイス入りあんみつと水出しほうじ茶で一息。帰り際に買ったみたらし団子を食べながらぶらぶらと近所を散策していると、帰路につく頃には僅かに夜の波が寄せてきていた。
 

 ──薄暗くなったら、一人で外を歩いてはいけない。彼方と此方の境界が薄くなるからね。お前はまだそれに対処する術を知らないから、あっという間に呑み込まれてしまう。
 

 小さい頃、父親に手を引かれ歩いた黄昏時の街。自分に歩調を合わせてくれた帰路の中、そんなことを言われたのを思い出した。
 その時の父親の顔は逆光でよく見えなかったが、間延びした影と妙に真剣みのある声音が、言いようもない不安を掻き立てたのを覚えている。黄昏時──彼そ誰時。その言葉が示す意味も、「あちらとこちら」の境界も、正しい意味で理解したのはその後しばらくしてからのことだ。

「……団子、もう一本買っときゃよかったな」

 過去の自分が低い背丈で見ていた景色。それが、今の視界となんとなく重なる。応神は少しばかり歩調を早めた。早く帰らなければ。夕飯の時間に遅れてしまう。
 
 影が、伸びる。ひとつ分。
 応神はちらりと自分の影を一瞥した。黒く吸い込まれそうな闇の中に、微かに金の光が瞬いたのはきっと気のせいだろう。愛用の黒コートの裾を翻し、少しだけ歩みを大股にする。
 

 一、二、三歩。
 応神はぴたりと足を止めた。
 
「わかりやすく尾行つけてきやがって。バレてんだよ、わざと見つけて欲しいことくらい」
 

 投げ捨てるような声が夜道に響く。返事はなかった。応神は舌打ちをしたい気持ちを押さえ、コートのポケットに入れた手をゆっくりと引き抜く。

「わかりやすく気配と音出しやがって。アンタの目的はわかってんだ。まどろっこしいことしてないでさっさと目的地に行ったらどうだ?」

 返事はない。応神はため息をついた。
 
「ぐだぐだ小芝居打って寄り道してると、本命すら手に入らなくなりますよ。……アンタはいつだってそつがないから、結局はなんだかんだ一番いいところに落とすんでしょうが」
 
 トン、と音がした。ヒールがコンクリートを叩く音だ。
 少し離れたところで軽やかに浮き上がったその音は、しかし刹那の間を持って、応神の背後にぴったりと密着した。
 
「それは違う。物事が常にまっすぐに進むとは限らないぞ。時に寄り道、時に回り道、時に迷子になりながら、踏みしめるための道がそこにあると信じて、進む先に何かがあると祈って、歩き続けるしかないんだ。それが当たっているか間違っているかなんて、歩いてる時はわからないんだからな」
「俺はアンタを無視して家に帰るのが最適解だったと今気付きましたよ。お気をつけて帰ってくださいね。夜道の女性に襲いかかりそうなもので、アンタより怖いものなんてそうそうないでしょうが」
「つれないなー。一緒にまっすぐ帰ろうじゃないか」
「あれは俺の家であってアンタの家じゃない」
 
 ──言ってから、応神は少しだけ微妙な顔をした。「俺の家」だなんて勢いに任せて行ってしまったが、生家であるあの屋敷を「自宅」だと認識できるかは別の話だ。応神薙にとっての“帰る場所”はいつだって、東京の、谷崎と住むマンションの自室なのだから。

 そんな応神の心中を知ってか知らずか、背後の人物が笑みを深めた。──ように応神は思えた。背中にぴったりとくっついていた重みがパッと離される。応神の背丈よりも四十センチほど低い身の丈を持ったその少女は、無機質に道を照らす街灯をスポットライト代わりに、ブーツの先でくるりとターンを決めてみせた。夜闇を映しこんだように黒い丈なす長髪が、纏ったコートと共にふわりと揺れる。
 
「久々だな、薙坊。何も成長していなくて逆に安心したぞ」
「久々ですね、由倉ゆくらさん。できればもうしばらくお会いしたくなかったんですが」
 
 黒陶こくとう由倉──またの名をエージェント・黒陶──は今度こそ応神の前で笑みを浮かべた。形だけでも少女の姿を取ったものがするとは思えない、妖艶かつ嗜虐的な笑みだった。
 
 

02


お前が“俺”ならば、考えたことなどないだろうな 応神薙。
今朝の自分が、昨日の夜の自分と同じであるという確証など、世界のどこにもないことを。


 

2017年7月20日

 応神が違和感を覚えたのは、朝、気が済むまで裏の山(余談だが、かなりの広さと季節ごとに様々な顔を見せるその山は、応神家の敷地の一部である)を駆け巡り、汗の滲んだ顔を洗おうと鏡を覗いた時だった。
 
 奇妙な感覚だった。自分の像と世界が、数ミリ程度ずれてしまったように感じる。少し前の自分は本当にこんな姿で、自分のいる世界はここが正しかったかと、応神は思わず一度背後を振り返った。急に景色の輪郭が曖昧になったような気がしたのだ。鏡の中の自分は相変わらず応神の姿を真っ直ぐ見ている。
 異常はない。何かおかしなものの干渉を受けた痕跡も、そのようなものが存在する気配もない。小さく息をついた応神は、釈然としない顔で再び鏡に向き直った。
 
「おはよう、薙坊」
「……おはようございます、由倉さん」

 顔をタオルで拭いたところで、後ろから声をかけられた。
 わざと少しだけ時間をかけて振り返る。視線の先の黒陶は当たり前のように客人用の浴衣を纏っており、いつもは流した黒髪を一つ括りに結っていた。

「薙坊、今日の朝飯が何か知ってるか?」
「知りません。……というか、今回は随分と長くいるんですね」
「そうか?」
「泊まっていくのは珍しいじゃないですか」
「んー。気分だ。気分」
 
 気分で居候されてはたまったものではないと応神は思ったが、口に出すのはやめておいた。彼女の存在で、子供時代の自分が得たものはそれなりにあるのだ。失ったものも結構多いが。
 

 黒陶が応神家に嵐のようにやってきて、風のように去っていくのは、聞けば自分の祖父代からの出来事らしい。大叔父の話──より正確に言えば、武勇伝──によればそう悪い人間ではないから、応神は彼女がやってくること自体はあまり嫌とは思わなかったが。
 記憶の中では、彼女は自分の祖父とあまり仲が良くなさそうだった。祖父が少しだけ饒舌になったその言葉の先は、大抵彼女との皮肉と嫌味の応酬だった──気がする。祖父に関しての記憶はあまりないのだ。

 応神薙は、この黒陶由倉という人間が非常に苦手だった。できれば会いたくないし、話したくない。他人のふりをしたい。──誰だって、自分が予約済みの棺桶に突っ込んだ子供時代を意気揚々と開け放す相手とは、好んで関わりたくないものだ。
 
 レモンの味、だなんて爽やかではない。噛んだ唇から滲む血の味がする。この女との日々は──この女との過去は。
 それはもう見事に初めての恋を掻っ攫われていった幼い自分に対し、頼むから落ち着けと肩を揺さぶりたい。情動というには曖昧で甘やかすぎたそれは、爽やかと言うよりなまぬるくて、純情と言うより無知で、実らせる前に根腐れしていた。とっくに傷は塞がったものの、会うたびにつつかれるかさぶたを匿い続けながら応神は黒陶と接している。
 
 黒いコートでは翼なんてものではなかったが、世間知らずの自分には、美しく空に翻る自由の象徴に見えた。自分からは見えない様々な思いの全てを内包し、外から自分を揺らがす全てのものから身を守る大人の装いだったのだ。
 

「そういや薙坊。何の用だかは知らないが、お前の妹がお前を探してたぞ」
きょうが?」
「別に急ぎの用ではないらしいから、とりあえず見つけたら伝えておくと言っただけだが。お前、たまには家族サービスも大事だぞ?たまに帰ってきた時くらい一家団欒しろ」
「それが無理なのはアンタだってよく知ってるだろ」
「そんな面倒は知らないなー。私はいつだって無責任に理想論を振りかざす他人でいさせてもらうぞ」
 
 そこ貸せ、と黒陶が応神の後ろを指差す。そこでようやく応神は、黒陶が手に櫛を持っていて、どうやらここには雑に括った髪をきちんと梳かし直すためにやってきたのだと気づいた。
 女性の支度を邪魔するわけにはいかないと、無言でその場を離れる。先ほど覚えた違和感を、脳裏のやわらかいところから拭いきれないまま。
 
 
「……いやちょっと待ってください。鏡と洗面台は客邸の方にあるでしょう。どうしてわざわざ母屋まで」
「ガキの頃から目をかけてたかわいい子が帰ってきてるんだぞ?少しでも長く一緒にいたいと願う年寄りの心を察しろ」
「……結局アンタ歳いくつなんですか」
「女性に年齢を聞くのはマナー違反だ。次言ったら二度とそんな舐めた口きけない体にしてやるからな♡」
 
 

◇◆◇

 

「兄さん、少し時間もらえる?」
 
 朝食を終えた後、黒陶に言われた通り、妹──応神鏡が声をかけてきた。
 視界の中に、肘あたりまで伸びた濡羽色の髪が揺れている。黒の双眸の中に微かに金が混ざっているのを認め、応神は微かに目を眇めた。どうしようもなく同じ血だ。同じ一族。
 
「別に、大した用ではないんだけど。兄さんのお友達、元気かなって思ったのよ」
「トモダチ?」
「ええと──谷崎さんと、ジョシュアさん。兄さんとずいぶん親しくしてたから、お友達かと思ったのよ。違うの?」

 友達。応神はなんのてらいもなく生み出されたその言葉を、舌の上で転がした。何も知らない妹は、せっかくだからジョシュアさんだけでも来て欲しかったのにと残念そうな顔で呟いている。

 (そういえば、前回連れて来た時、翔一はさておきアイランズさんはずいぶん気に入られてたな)ただ、人手不足の渉外部門で休暇の少なさを嘆くアイランズを、東京から大阪までおいそれと引っ張り出せるわけもない。応神は妹の顔を一度眺め、それから「今回の休みは俺だけだ」と言った。
 

 応神はアイランズと鏡がどんな話をして、どんな関係を築いたのか知らない。自分の友人を躊躇いなく下の名前で呼ぶ妹に少し思うところはあったが、そこは詮索しても特に意味がないと、考えることをやめた。
 

「そうなの?……ねえ、兄さん。ジョシュアさん、ちゃんと休んでるよね?平気?」
「俺は渉外の事情に明るくねえ。わからん」
「でも、あの人兄さんのお友達なんでしょう?あの人、兄さんや本人が思ってるより深刻よ。ああいう、自分のことちゃんとわかってるから大丈夫って顔してる人ほど、意外なところであっさり手の届かない場所へ行っちゃうのよ」
「死ぬってことか?……そりゃアイランズさんは色々大変そうだが、お前が口を出すことじゃないだろ」
 
 半ばため息のように言うと、鏡は「は?」と冷え切った声音を吐き出した。──言ってから、すぐにしまったという顔で口元に手を当てる。応神が無言で目を眇めると、鏡は少しだけばつの悪そうな顔をしたあと、目を逸らして大きくため息をついた。
 我が妹ながら、端正な顔立ちをしていると思う。身内の贔屓目を抜きにしても。切れ長の目が、写真の中で見た若い頃の祖父に似ているなと漠然と思った。
 
「──どうして応神の男ってこう明後日の方向で思い切りがいいっていうか、鈍いっていうか、馬鹿なの?」
「主語を拡大して罵倒するな」
「あのね兄さん。大切なら、それ相応に大切にしなきゃ。兄さんはいつだって言葉が足りないの。大切に思ってるなら、大事にしたいなら、ちゃんと誠意を見せて。伝えられる時に伝えなかった言葉や態度や意思は、後悔という傷になる。そして、時が経つほどに爛れていくのよ」
「……」
「言葉にするって大事なの──難しいけど。言葉で引いた境界が後で自分の足を止めることもある。言葉で定めた関係が後で自分の心を貫くこともある。ただ、言葉にしないと決まらないの。伝わらないの。いろいろな物事は、頭の中で思っているだけじゃ形を持てないし、相手に伝えないと意味を為せないものだから」
「……」
「伝える努力をしたことがある?相手の話を受け止める誠意を見せたことは?兄さん、世界が何でもかんでも自分の考えている通りに回っていると思わないで。今は小さなヒビに見えても、すれ違い続けた心は時を経てどんどん大きな亀裂になる。壊れた後じゃもう遅いのよ」
 
 「お前は俺をどうしたいんだ」応神はやっとそれだけ言った。何とか言葉を挟まないと、喋り続ける妹を止められそうになかった。
 
「私?私は、兄さんに不幸になってほしくないだけよ」
「俺は不幸にはならない。俺の幸不幸はお前が決めるものじゃねえよ」
「私の勝手なわがままよ。誰も不幸になってほしくないなんて。幸せになってほしいなんて望まないだけ賢いと思って」
 
 感情的な言葉の割に、鏡の目はぞっとするほど凪いでいる。応神はその目を直視したくなくて、少しだけ視線をずらした。サングラスをかけていない今は、顔の表情一つひとつを気取られてしまう。半ば意地のような気持ちで、応神は真っ直ぐに妹を見下ろし直した。感情が揺らいでいる時ほどまっすぐ相手を見ろ、とは大叔父の教えである。

「……ごめんなさい、話しすぎた。私は出かけてくるから、兄さんも適当にくつろいでてね。あとこれ初日に言うべきだったけど、帰ってくる時は一言伝えて」
「俺が羽曳野入った時点で、烏の目から動向は分かってたんだろ」
「そういう問題じゃないの。家族なんだから……一言家へ戻ると伝えるくらい、いいでしょう」

 応神の返事を聞かず、鏡はくるりと踵を返した。髪の毛に嵌められた烏モチーフのバレッタが、光を反射してキラリと輝く。
 

「言われてるぞ、薙坊。妹に対しては結構饒舌なんだな」
 

 後ろで黒陶の笑い声が聞こえた気がしたが、応神は黙殺した。
 
 

03

 頬を撫でる冷たい風に、ここは冬だと感じた。同時に、今自分は夢を見ているのだと認識する。
 現実の意識をたぐり寄せようとしたが、寝付く前の記憶がどうにも曖昧だ。応神は夢から覚めることを諦め、一歩足を前に進めた──低い目線、小さな歩幅。目線をずらすと、開け放された縁側の襖から屋敷の庭にある大きな池が見える。

 下駄を引っ掛けて庭に降り、池を覗き込んだ。肌に懐かしい袴と、写真の中だけにいた顔が、静かにこちらを見返す。
 
 現実の今よりも十年ほど若い“応神薙”の姿になった自分が、池の中に映っていた。
 

「上着着ないと風邪引くぞ、薙坊」
「……由倉 ──ねーちゃん」
 

 由倉さんと言いたかったが、口をついて出た言葉は自分の思うものと違っていた。目を細めて笑う黒陶の姿は、自分が初めて会った時から今の今まで何も変わっていない。
 沈みかけた太陽の影が、世界の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。応神は少し瞬きをしてから、黒陶に家の中に入らないのかと聞いた。そう言いたかったわけではなく、意識の外側から何かが自分を動かすのだ。まるで、脚本か何かでも用意されているように。

「家に戻らんのか?薙坊。今日の夕飯は肉じゃがらしいぞ」
「……由倉ねーちゃん、今日は泊まってかないの?」
「今回はいいかな。……夜はたくさんやることがあるんだ」
「やること?」
「大人には、夜にしかできない仕事はたくさんあるんだ。子供は布団でぐっすり寝るのが仕事なように」
「……おれが大人になったら、由倉ねーちゃんと一緒にいられるようになる?」
「なんだ薙坊。お前、私がいなくなると寂しいのか?」

 黒陶はけらけらと笑った──ああ、思いだしてきたと応神は思う。これは自分の記憶だ。自分の主観で脚色された過去だ。自分好みの感情で脚色された、限りなく現実に近い夢だ。

「だめだぞ薙坊。お前はちゃんと、太陽の下で生きるべきなんだ」
「……太陽はあんまり好きじゃない。日差しが眩しすぎて──ぜんぶ、溶けてなくなってしまいそうになる」
「そうか。その考えはきっと正しいよ。風路が聞いたらなんて言うかはわからないが」

 不意に自分の父親の名前が出てきたことに、少しだけ違和感を感じる。応神は疑問の念を瞬きに変えた。
 「お前は自分の生きたいように生きていいってことだ」黒陶が取ってつけたように言い、乱暴に応神の頭を撫でた。「うわ」小さく声を上げた応神を、笑っていない笑顔で眺める。

「お前は大人の夜を知る前に、子供としてやっておくべきことがたくさんあるんだ──何もかも包み込んでくれる闇の優しさ。潜り込んだ布団のあたたかさ。引かれた手の安心感に、隣にいる人の肌のぬくもり──そして、一人で一歩踏み出した時の、暗がりの恐ろしさ。子供のうちに、ちゃんと知っておくんだ。夜の中で生きる覚悟を決めるのはその後」
「ユクラねーちゃんは知ってるの?」

 その言葉に答えが返ってくることはなく、その代わりにわしゃわしゃと頭を撫でられた。

 ──不意に黒陶が膝をつく。と同時に、応神の体にやわらかいものが当たった。
 衣摺れの音が耳に触れる。膝を折られて、背に腕を回されている。そう気づいた時には、頭をやわらかく押さえられて動きを封じられた。黒陶の顔が見えない。
 
「薙坊。私は、太陽の中で生きるに恥じない生き方をしろなんてそんな難しいことは言わない。しんどくなったら闇の中に身を隠していいし、息をしている間中ずっと背筋を伸ばす必要もないし、正しさの枠で心を無理に定めなくていい。名前の鎖に縛られ続けなくていい。誰かの定めた道からさっさと外れていい。私がお前に望む全ては、今のお前には難しいだろう。多分、意味もわからないだろう。それでいい。大人になる過程で、きちんと考えればそれでいい」
「……ユクラ、ねーちゃん……?」
 
 応神の頭を抱えたまま、滔々と呟く黒陶の声は明瞭だった。だがその言葉がうまく意味の形を取らず、応神は困惑を抱えたまま黒陶に体を預ける。少しだけ頭の重みを預けると、案外しっかりとした腕に受け止められた。
 
「覚えておけ、薙坊。昼間が終わって夜が訪れる、その意味を考えろ。暗闇の意味を知らないまま、夜闇の中に足を踏み入れたら────
 

────夜に囚われて、戻れなくなるぞ?」
 
 
 
 その後、この夢はどのように展開したのだっただろうか。覚めてしまった今ではよく覚えていない。応神は気づくと、薄暗くなった自室の畳の上に寝転がっていた。──どうやら昼食を食べて自室に戻った後、そのまま眠ってしまったらしい。
 
 縁側に続く襖を開け、庭の池を眺めた。涼やかな風が頬を撫でる。
 藍色の底から浮かんできた緋色の鯉が、視界の奥でとぷん、と跳ねた。
 
 
 

第三幕 それぞれの事情


01

2017年7月21日

 ジョシュア・アイランズは、スマートフォンを眺めながら気を揉んでいた。

 任務に行った谷崎と連絡が取れない。もう何度か通話とメッセージを送っているが、「電波が繋がらないところにいる」と返されるばかりで一向に返答がなかった。アイランズは新しいメッセージを一つ送った後、小さくため息をついてテーブルにスマートフォンを伏せる。半日置きに送信する微かな望みは、「送信できません」の赤文字で容易く壊されてしまうのだ。

 ──館内の職員の格好で谷崎の任務のバックアップをしていた職員から、時間になってもエージェントが出てこないと財団へ連絡が来た。どうやら放映の開始時点から通信も繋がらないらしい。アイランズは側に置いたペットボトルを開け、唇を湿らせる程度に口をつけた。メッセージアプリを閉じ、代わりに電話アプリを起動する。財団用の回線に切り替え、「応神」と書かれたアイコンの通話ボタンを押した。
 
もしもし。アイランズさん?
「もしもし応神。谷崎が任務に行った日の後から、通信は届いていますか?」
当日にメッセージが一個来た。一緒にプラネタリウムを見に行かないか、だと。それ以外は特にないな
 
 そうですか、とアイランズはため息まじりに吐き出した。そもそも、谷崎はそこまでこまめに連絡を取る方ではない。ただ、拭いきれない嫌な予感がじりじりと首筋を焼いているのも事実だ。浮き足立つ心を押さえつけて、アイランズは電話越しの相手にかける言葉を脳内で探す。継ぎ足そうとした言葉は、しかし向こうからの声に千切られて消えた。

……昼飯食ったらすぐに出る。午後開けられるか?
「話が早くて助かります。でも、貴方の休暇は今日まででしょう。余暇はしっかりと消費して」
親父に言ってくるからもう切る。俺用の資料を申請しておいてくれ
「待ってください、まだ緊急事態とは──応神!」

 心なしか荒げた声は、途切れ途切れの電子音によって阻まれる。
 せっかく今日は少し余裕があるから、あまり重たくないタスクを終わらせつつゆっくりしようと思ったのに。アイランズは頭を抱えたが、椅子の上で嫌な顔をしていても始まらない。ため息をつくと立ち上がり、くるりと後ろを振り向いた。
 
「──ということなので、貴女が大阪に行く必要はなさそうですよ。稲羽いなばさん」
 
 「そっかあ。じゃあもう少しここで待ってるね!」アイランズの視線の先で、金髪の女が笑った。明らかにサイズの大きいビビットイエローのパーカーを羽織り、青いショートパンツからはすらりと長い足が伸びている。ブルーのハイヒールのつま先でコンコンと床を叩き、女はこてんと首をかしげた。

「なんか、お取り込み中みたいだけど。あたしがいて大丈夫?」
「多分大丈夫だと思いますが……」
「まあ、邪魔だったらすぐ帰るよ。あたし、とりあえずなぎくんの顔見られればそれでいいし。……ね、アイランズさん。せっかくだから、お昼はここら辺のいいお店教えてくれない?おいしい洋食が食べられて、デザートがかわいいお店だと嬉しいな」
「三件ほど心当たりがあります。せっかくですから一緒に行きましょうか。どうせこの後貴女も私も忙しくなりますから」

 そっか、と女はホオズキを模したピアスを揺らして笑った。明るく跳ねる声がアイランズの鼓膜を震わせる。
 「なぎくん、元気だといいなあ」小さく呟いた声が、軽やかに浮かんで宙に溶ける。
 
 
 
 結局、仏教面の応神がサイト8100に来たのは、アイランズが谷崎が行った任務の書類の閲覧申請をし、金髪の女──稲羽杏子あんずと一緒に食事をし、サイトに戻って軽めのタスクを三つほど終わらせたところだった。応神が露骨に不機嫌そうな理由を脳内に並べる。考えた先に揃ったそれらは、どれも似たような姿形で鎮座していた。

「大丈夫ですか」
「……親父と話すのは疲れる」

 小さく息をついた応神が、手に持っていた紙袋をアイランズに突き出す。「──中を見ても」アイランズが若干困惑しながら袋を受け取った。

「ご当地のレトルトカレー、たこ焼き味スナック菓子、あと応治製菓の羊羹」
「……攻めたラインナップですね」
「日持ちする方がいいだろと思ったんだ。都心に足伸ばせる余裕もなかったしな」
「そう焦って来なくても──と言ったところで、貴方は聞かないでしょうね。転送した資料は読みましたか?」
「ああ、完璧に頭に入ってる」
「そうですか。ならば、今回の任務のスペシャルゲストをご紹介します」
「ゲスト?」

 応神が怪訝そうにアイランズの顔を見ると同時に、会議室の扉が開く音がした。コツリとヒールが鳴り、応神は後ろを振り返る。
 
「久しぶりっ!ぜんぜん変わってないねー、なぎくん」
「杏子……?」
 
 驚きよりも困惑の方が勝ったらしい応神が、稲羽とアイランズに交互に視線をやる。稲羽は応神の記憶の中と寸分違わない顔でにっこりと笑った。見る人を安心させるような、爛漫な笑顔である。

「なぎくんがお休み取ったって言うから大阪行こうかと思ったんだけどね、帰ってくるって言うから待ってたんだ。なぎくんのお友達を助けに行くんでしょ?あたしも着いてくことになったんだ。よろしくね」
「おいアイランズ、事情を説明してくれ。なんで杏子がここにいる」
「事情も何も、彼女が言った通りです。貴方と稲羽さんが一緒に谷崎を迎えに行くことになりました」

 応神は眉をひそめたものの、それは嫌悪ではなく純粋な困惑だった。稲羽は応神に言うことを言ったと判断したようで、話題を次に切り替えるようにバックの中に手を入れる。「あったあった」綺麗に整えられた爪の先に、紺色の紐が吊り下がっていた。

「アイランズさん、これ知ってる?」
「なんですか……ストラップ?」
「そうそう。そこの廊下で落ちてたんだけど、持ち主困ってるだろうなーって。なぎくんも心当たりある?」

 稲羽の指先で揺れているのは、小さな方位磁針がついたストラップだった。どうやら実用より見た目重視らしいが、少し揺れた後に落ち着いた針は実際に南北を示しているようだ。

「どうして鞄の中に入れておいたんだ」
「だって、小さいから探し主のために置いておくより直接渡した方が確実でしょ?」
「そりゃそうだが……この広いサイトでどうやって一人を特定するんだ」
「そこはまあ、なんとかなるでしょ!」

 あっけらかんとした様子の稲羽に応神は小さくため息をついたが、何も言わなかった。アイランズはニコニコ喋る稲羽と、それをまんざら悪い気もしていないような顔で聞く応神を眺める。
 

稲羽さん。あまりご家庭の事情に踏み込みたくはないのですが、貴女の家が、その──
五行にある、って話?なのになんであたしは財団職員として働いてるのか
ええ、そうです。……話したくなければ言わなくても構いませんし、貴女を雇用した人事部を疑うわけでもありません。これは、貴女をこちらに引き込む私の、個人的な信用の問題です
ハッキリ言うんだね、アイランズさん。あたしそういう人好きだよ!
……
多分、答えになってないと思うんだけど──あたしは、なぎくんが一番最初にできた、大事なお友達なの。なぎくんの役に立ちたい。だからなぎくんが困ってれば、全力で協力する
友達……
今回助けに行く人、なぎくんの大事な人なんでしょ?その人がいなかったらなぎくん、絶対悲しいじゃん。なぎくんは強いけど、悲しいとかさびしいとか、思う心がないわけじゃない。だからあたし、なぎくんのために全力でお仕事するからね!
 
 
 手繰り寄せた糸は本当に正しいのか。それを知る術は未だない。
 
 


 

2017年7月22日

「ここ?」

 応神の運転する車──34型GT-Rの助手席から降りながら、稲羽が言った。昨日は高いハイヒールを履きこなしていた足は今、白と水色とオレンジに染められたスニーカーに収められている。長い金の髪が背中でなびき、応神は若干眩しそうに目を細めた。サングラスを隔てれば光で眩しいということはないので、あくまで気持ちの問題である。

「プラネタリウム、来たことあるか?」
「うーん、ないなぁ」
「奇遇だな。俺もない」

 応神が扉のドアを閉めた。ミッドナイトパープルの車体が、透明な夏の空の日差しを受けて鮮やかに光る。食事をしていたら少し遅れてしまったが、誤差の範囲内だろう。応神はキーを鞄にしまった。
 
 中に入ると、同業者が軽く一礼してくれた。一応人数分のチケットを買い、ドアを開けてもらう。本来の放映時間にはあと二十分ある。まだ明るい室内の中を少し進むと、招かれざる男が廊下の壁に背をもたれかけているのが見えた。

「……ここは一般人立ち入り禁止のはずだが」
「あと一人、助っ人が来るってさっき連絡が来たから、その人じゃないかなあ」
「助っ人?」
「守備範囲的にあたしたちだけだとちょっと心許ないから、専門家を呼んでくれたらしいよ。聞いてない?」
「知らない」

 自分以外の気配に気づいたらしい相手がこちらを向く。応神と並ぶと低いとはいえ、それでも背の高い男だった。長袖の白衣の袖を肘までまくっている。紺色の直毛、赤い光を持つ双眸と視線は流れ、目は自然にチェーンで繋がった方位磁針に吸い寄せられた。
 
「……誰だ」
真北まきたむかうと呼ばれています。はじめまして」
「あっ、助っ人ってまきたくんだったんだ!久しぶりー」
 
 真北と名乗った男が若干視線をずらす。さっきから、合わせた視線が噛み合わないことに応神は気づいていた。
 第一印象で人間性を断定するほど単純な性格はしていないが、状況が状況なだけあってあまりにも、怪しい。無言できつく目を細めた応神の横で、稲羽がニコニコと人懐っこく笑っていた。

「杏子、知り合いか?」
「前いっしょにお仕事したことがあるんだ」
「……らしいです」
「俺は応神。エージェントだ」
「研究員をやっています。精神とか認識とかに影響する異常と、芸術に関する異常を研究する仕事を」

 応神が目を眇めた。その横で稲羽が、青いカラーコンタクトの嵌められた双眸をぱちぱちと瞬かせる。真北の顔をじっと眺め、それから首に下がった方位磁石に目を移した後、不意に思い出したように手を打った。
 
「あー!まきたくん、もしかしてストラップ落とさなかった?」
「ああ、それ僕のです」
 
 稲羽がいそいそと鞄を探す。「はい!」と明るい声で渡されたそれを、真北は安堵の混じった顔で受け取った。「お気に入りなので、見つかってよかった。知り合いにもらったんです」紐が切れたストラップを白衣のポケットに収める。それから、応神と稲羽に軽く一礼した。

「エージェント・谷崎さんの救出兼、この異常の実地調査に来ました。よろしくお願いします」
 
 

◇◇◇

 

 応神、稲羽、そして真北は、それぞれの意思と方法でドームの中を調べていた。
 ゆったりとしたBGMは、確かピアノ・ソナタ第8番『悲愴』だ。谷崎が好んで弾いていたから、クラッシックに造詣のない応神も知っている。

 並べられた椅子。
 星空を映し出す機械。
 背後の放送室。
 足元で点灯するライト。

 約十五分ほどの探索。元々狭い室内、詳しく調べられるような物も限られていた。通信機器が使えないことは既に確認済み。先の見えない行為の中で、のしかかるような沈黙が応神と真北の間に沈み込んでいる。
 その二人をちらりと一瞥し、稲羽はうーんと伸びをした後、ぺちんと自分の頬を叩いた。ズボンのポケットを探ると、中からラベンダー色のヘアゴムが出てくる。ざっくりと一つ括りにした髪の先に軽く触れ、稲羽は「よし!」と声を上げた。それを真北が珍獣を見る目で眺める。

「髪の毛縛る意味はあるんですか?」
「よーしやるぞー!って感じ?気合い入る気がする。まきたくんもなんか、そういうルーティーンみたいなの、ない?」
「いえ、僕は別に……」

 真北の指先が方位磁石に触れる。
 
 同時に、ドーム内の照明が落とされた。少しの間の後に流れ出す、女性の音声と星空の映像。
 
 応神は自分の頭が急速に冷えていくのを感じる。 夜明けを求めろと、自分ではない誰かの声が頭の中に響いた気がした。その言葉に背中を押されるように、応神は足を一歩前に動かす。少し距離があるはずだった階段の段差が、地面との空白の中に靴を押し込んだ。反射的に伸びた手が椅子を掴む。
 
「……始まったな」
「この異常の発露条件は『プラネタリウムが上映されること』ですよね。応神さんと言いましたか、今自分で自覚できる異常は?」
「見た距離感と実際の距離に、明らかに齟齬がある。移動は周りの物を使った方がいいだろう」

 真北が方位磁石を見る。赤い針は僅かにゆらゆらと揺れた後、ぴたりと一方を指さして止まった。真北は先ほど稲羽から受け取ったストラップをポケットから取り出す。意匠は違うとはいえ同じ機能を持つ針は、同じ方向をさして止まっていた。

「とりあえず、これで方角はわかりますね。あと、椅子があるから一方の方向も認識できる」
「俺は何があっても、翔一の元へ行かないといけねえ」
「その人が行きそうな方向、わからないんですか?」

 応神の目が少しだけ揺れた。が、それはサングラスに隔たれて真北に見えることはなかった──目とは裏腹にしっかりと芯を持った声が、躊躇いなく声を吐く。

「東」
「ひがし……ですか」
「太陽の方向に向かうんだ。翔一は絶対、そっちにいる」
「根拠はあるの?」

 有無を言わせぬ口調で断じた応神に、口を挟んだのは稲羽だった。少しだけ驚いた真北は稲羽の方を見る。口調と態度は軽いが、存外切れ者なのかもしれない。雰囲気に呑まれて進むべき道を定めないくらいには。

「……ない。これはただの勘だ」
「ふーん」
「別の方法を取ったって構わねえ。だが、俺は一人でも東へ行く」

 応神が静かに言い放った。
 
 

02

 応神と稲羽がプラネタリウムに到着する、約三時間前。
 

 真北向は焦っていた。鞄につけていたストラップが、どうやら紐が切れて落ちてしまったらしいのだ。別に取り立てて高級というものでもなかったが、アンティーク風の意匠が目に楽しく、最近のお気に入りだった。

 やるべき仕事が意外と早く終わり、残りの日数はフリータイムになった。せっかく東京に来たのだから少しは遊びたいなと、考え事をしながら歩いていたのがよくなかったらしい。真北は来た道を思い出そうとして──すぐに、記憶を辿るのを諦める。慣れていないサイトの似たような景色の中を無意識に歩き続けて──より正確に言えば、迷って──来たのだから、元の道など辿れそうにない。

 真北の頭にうっすらと「諦める」の文字が浮かんできた時、すぐ近くで自分を呼ぶ声が聞こえた。白衣を軽く払い、休憩室の椅子から立ち上がる。ドアを開けた数十センチ下の視界に、見慣れた顔があった。
 
「よ、真北くん」
「こんにちは飯尾めしおさん」
 
 軽く挨拶をすると、長身の真北を見上げるようにして立つ飯尾ゆいが軽く手を上げた。
 「今暇?」動くたびに、癖のない長髪を括ったポニーテールが揺れる。──なお、中性的な容姿ではあるが、飯尾唯──もとい飯尾博士は、歴とした男だ。見透かすような視線と言葉は他の職員には不人気であり、真北もまた例に漏れない。ただ、なんとなく彼とは親近感のようなものを覚えていた。この人も、人間の感情を「生物を形作る一つの機構」としてしか見ていない。飯尾と相対するたび、そんな漠然とした思いが首をもたげる。

 他人を暴く目が露骨な人間は昔から見てきた。それよりも、他人の目から見た自分を完璧に作り上げようとする人間の方が、よほど質が悪いと真北は思っている。真北が対話をするのはあくまで人間生き物で、一定の仕事をこなすために形作られた機械ではないのだ。
 
「真北くんさ、ここらでストラップ落とさなかった?」
「え」
「拾った奴が持ち主探してたぞ」

 中に入った飯尾が自販機に小銭を入れながら言う。あまりにもタイムリーな話題に、真北は目を瞬かせた。どうして知っているのかと言いたげな真北に、飯尾は微かに口元を釣り上げる。

「さっき会議室の前ですれ違った奴に聞かれたんだよ。この持ち主に心当たりないですか?って。方位磁針のストラップ、真北くんのだろ?」
「十中八九僕のだと思います」
「だよなあ。……あいつら、プラネタリウムドーム行くって言ってたぞ」
「プラネタリウム?」
「そ。多分、音楽ホールの隣に併設された小さいとこだろ。どうだろな、まだ会議室か?たとえもうここ出てても、今から行けば普通に間に合、う…………」

 飯尾の語尾が途切れていく。真北はゆっくりと見上げられる視線と目を合わせた。

「……地図は読めるんだって?スマホあればなんとか辿り着けないか」
「どのくらいで行けます?」
「歩きで二十分くらいか……?」
「じゃあ、四十分くらいで着くと思います」
「『片道切符』のあだ名は伊達じゃないかー」

 一度その場を離れると、元の場所に戻れない。なぜなら、迷うから──それゆえ『片道切符』。真北の大学時代に付けられたあだ名だった。

「歩けば着きますよ」
「不安だけど仕方ないな。嫌な予感がしたらすぐに戻って来いよ」

 飯尾に一礼して歩き出す。と、今度は別の場所から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。「真北ちゃーん」ひらひらと手を振る動作でも付いていそうな声音だ。真北は少しだけ躊躇ってから「なんですか」と振り返った。
 
「やっほー、真北ちゃん。ちょっと仕事頼めないかな」
亦好またよしさん」
「真北ちゃん今フリーでしょ?ピッタリの仕事があるんだけど、やらない?」
 
 赤縁眼鏡の向こうの目を楽しげに細めて、亦好ひさは真北の背を軽く叩いた。真北の目線の少し下で茶髪が揺れる。真北は舌打ちでもしそうな顔をしたが、何も言わずにふいとそっぽを向いた。その顔を亦好が楽しそうに見る。

「見ればわかるけどさ、認識異常とか精神干渉系の異常だよ。真北ちゃん認知心理学やってるでしょ?助っ人として駆り出されてくれないかな」
「急ぎですか」
「急ぎだね。エージェントは送ったんだけどさ、ちょっと心もとないっていうか。早めにお昼食べて、ちょっと見てやってくれない?そのうちの一人は真北ちゃんが一回会ったことある人だしさ」

 「詳しい資料は真北ちゃんの端末に送っとくから。細かいとこは私と、あと向こうに聞いてね」亦好がひらりと手を振り、休憩室に向かって歩き去っていく。
 少しの間を置いてから通知音を鳴らした自分のスマートフォンを開き、真北は僅かに目を細めた。
 
 
 
 結局真北は、最新以上に新しい財団製のGPSを利用し、方位磁石を最大限活用しながらプラネタリウムへ向かっても、数十分でたどり着く道をたっぷり一時間彷徨い続けた。『片道切符』と呼ばれる方向音痴は伊達ではない。ようやくクーラーの効いたドーム内に辿り着いた真北は、まず真っ先にコーラを買った。
 
 


 

star.png

 北極星は動き、北斗七星の星は七つで、方位磁針の針は実際の北からずれている。
 世界のどれが「嘘」でどれが「本当」で、どれを信じてどれを疑えばよいのか、真北向が自分の中で明確に答えを出せたことは、今まで一度もない。思考を巡らせてはみるが、毎回導く結論が変わるのだ。もしかしたら、本来自分はそもそもこんなことを重要視していないのかもしれない。それゆえ、満足のいく答えに辿り着けない。

 自分の望むたった一つの本質正しさを見つけられないのに真北はなんとなくモヤモヤとしたものを抱えていたが、それでもあまり特別に大事おおごとと思うことはなかった。方位さえ定まっていれば、あとはどれだけ迷ってもどれだけ時間がかかっても進み続ければどこかには辿り着くものだ。

 この状況でも、真北は案外冷静だった。冷静で、なおかつ冷徹だった。──自分は今、迷っているのだ。この空間の異常が、自分の道を乱している。ならば、探せばいい。歩けばいい。進めばいい。迷うことには慣れている。思い切って歩き続ければ案外どうにかなるし、着くまで歩けばいつかは絶対目的地に到着する。──本質には辿り着く。
 
「俺は一人でも東へ行く」
 
 自分が誤っているかもしれないと微塵も思っていない顔で、自分は迷子なのかもしれないと微塵も感じていない声で、はっきりと宣言する男を見た。名前は──確か、イラガミ。どのような字を書くのだろうか。人の顔と名前を揃えるのは苦手だが、高身長と黒コート、黒サングラスは一度見たらなかなか忘れられないなと真北は思った。
 
「あたしはなぎくんに着いてくよ。なぎくん、その人のお友達なんでしょ?一番知ってるから、ここはなぎくんを信じて進むのがいいと思う。──えーと……お友達の名前、谷崎翔一だっけ。じゃあタニショーでいっか」
「真北とか言ったか。お前はどう思う?」
「僕はその谷崎とかいう人を全く知りませんから、必然的にあんたについてくしか選択肢はないです。ここに来てからどのくらいの時間が経ったか知りませんが、どうやら空腹感も疲労感もあまり感じないみたいだ。ひたすら進み続けるにはおあつらえ向きの空間だと思いますよ」
「あのさ、なぎくん。根本的な問題なんだけど、どうやって進むの?だってここのドーム内は本来狭いから、いつか壁に──」

 稲羽が二の句を継ぐ前に、真北は方位磁石で東を確認すると、そちらに向かってズンズン進み出した。方位磁石と椅子の位置を確認しながら、とにかく足を前に動かす。高身長だけあって足もそれなりに長い真北は、一歩の歩幅が大きかった。迷いなく、躊躇いなく、真北は東へ歩いていく。壁にぶつかるような気配はない。
 
「──はい。東へ進むんでしょう?来ないんですか?」
 
 真北の言葉に、応神と稲羽は視線を合わせると、真北のいる方向に向かって歩き出した。彼らはどうやらスマホの方位磁石を起動したようで、限りなく正しい東へと歩いてくる。
 二人が自分の隣に揃ったところで、真北はしばらく思っていた事をそのまま口にした。
 

「この星空、張り付いてるんですよね。文字通り」
 

 真北向はそこまで星に詳しいわけではない。星空というものに特別な執心があるわけでもない。
 これに気づいたのは、彼が芸術畑の人間として「目の前の事象を冷静に分析する」能力スキルを持っていたからか──それとも。その過程はどうであれ、その本質はどうであれ、真北向は一つ、出口に近づくための案内板を見出した。
 

 星は、瞬く。
 

 子供にもわかることだ。星空を見たことのある者なら、常識以下の「当たり前」の事象として扱われるだろう。
 ──どうして星は瞬くんですか?温度が変わり密度が変化した大気の層の境界で、光が屈折するからです。それを、は本で知っていた。元々、図鑑や本のコラムを真剣に読んでいるような子供だった。ただ、子供の頃に読んだ片隅のコラムなど、彼の現実に押し潰されてどこかに消えてしまった。
 
「この空を歪めた人はきっと、本物の星を見ないか──星を通した何かしか、見てなかったんじゃ、ないですか」
 
 心当たりないんですか。友達なんでしょう。真北が温度のない声で言った。
 並びだけはどこまでも正しい星空。瞬かない星を認識し、応神は僅かに視線を落とす。
 
 
 『片道切符』が動き始めた。無数に繋がった物語の中の、たった一つの結末に向けて。
 
 

03


「この領域が人為的に引き起こされたものなのか、それとも自然発生的に生まれたものなのか、僕にはわかりませんが──とにかく、ここと共鳴した人が大事にしたのは多分、星そのものではなく文脈の方だったんじゃないかと。星の配列に物語を見出したその価値を、意味を、考えていた」

 少し間違ってたら星に線でも引かれてたんじゃないでしょうかと真北が笑っていない目で笑うのを、稲羽杏子は無言で聞いていた。内心で思うのは、話の中に出てくる元凶(仮)ではなく、滔々と話す真北でもなく、その前──自分の横の、お友達。応神薙。

「古代の人間は、星の配列を神の作った秩序の象徴と見做してきました。これは並びだけが正しい星空です。四等星以下がないんですよ、これ。目を凝らさないと視認できないような星は見えていなかったから、必要ないと切り捨てたんでしょうか。──とにかく、この星空を敷いた人はきっと、星の並びの正当性に何かを見出してる」

 四等星以下の星が見当たらないことは、稲羽も気づいていた。言わなかっただけで。
 稲羽の家は幼い時から星を読み、月を知り、夜の闇と光を理解するよう教育をしている。自然の力を読み、利用することは稲羽家の十八番だった。稲羽自身はそらの力を使う術師ではないとはいえ、流れた血は確実に、稲羽に月と夜の力を与えている。彼女自身がそれをどう感じているか──その思いを置き去りにして。

 応神は何も言わずに真北を見ている。稲羽はその姿をそっと盗み見て、内心で小さくため息をついた。サングラスに隔たれた目がどんな色をしているのか、見なくてもわかる。伊達に高校時代から友達やっていない。
 
(うーん。でも、これはなぎくんとタニショーの問題だからなー。あたしがあんまり手突っ込んでもなあ)
 
 大好きな応神の手助けをしきれないのは稲羽にとって遺憾だったが、あまり他人の人間関係に口を挟んでも仕方がない。求められた時と目に余る時と困ってそうな時にだけ手を貸そうと心に決めて、稲羽は真北の言葉を聞いていた。曰く、星と人の関係。そして、星空を見ている人の心理。

「そうか。なら、それを元にした救出・脱出方法はわかるか?」
「まあ、なんとなく想像はついてます。──稲羽さん」
「え、何?」

 急に自分に話を振られて、稲羽は少し驚いた声を上げた。ぱちくりと目を瞬かせた稲羽と対照的に、真北は冷静に話を続ける。

「月、出せます?」
「……月?うーん、出せないこともないけど……どうして?」
「プラネタリウムには普通、月を出しません。星空を観測したい時、月光他の光源は邪魔にしかならないからです」
「あー、なるほど。月を出して星空消して、この空間の成立条件を無理やり崩すってこと?」
「はい。あと、月は太陽からの光を受けているものです。太陽の光は月の光、月の影は地球の影。月は天の鏡と考えられてきました。──先程も言いましたが、星空を見る人の心理は大抵内生的です。でも、これは星空そのものではなく、星空の文脈だけを読み取っている。……こじつけた解釈ですが、月を鏡として、自分の姿内面としっかりと向き合わせることで、不完全な夜空を揺らがせることができるんじゃないですか」
「なるほど」

 稲羽は鞄の中から、小さな宝石を取り出した。月長石ムーンストーン──表面に月光を想起させる光が浮かぶことから、この名が付けられている。古代から世界各地で「月の光が封じられている」と信じられているこの石は、稲羽の大のお気に入りだった。毎月満月の日に丁寧に月光浴をさせているおかげで、霊力も満ちている。
 
「これを天高く上げれば、月の代わりにはなるよ。でも、あたしだけだとちょっと心許ないし……そうだ!」
 
 稲羽がジーンズのポケットから二つ折りの和紙を出す。切り絵の要領で兎の形に切り取られたそれを、稲羽は躊躇いなく二つに破った。──びり。乾いた音が響くと同時に、応神の足元にぽこんと、真っ白な毛と紅い目を持った兎が現れる。

「月と兎の親和性、高いからね。あたし一人だけじゃちょっと不安だけど、この子が月の概念に引っ張られてうまく形になってくれるんじゃないかなあ」
「ジャータカ神話ですか?老人のために自らの体を食料として焼いた兎が、老人──もとい帝釈天の手によって月に昇る事になったっていう」
「まあ、あたしは捨て身の善行なんてやる気はないけど……なぎくんのためならあたし、ちょっと頑張っちゃうぞ!」

 「なぎくん。この兎ごと、この石上に投げてくれない?」稲羽が兎の手に石を持たせ「ちゃんと握っててね」と言い聞かせながら応神に言う。応神は要領を得た様子で頷くと、前足でしっかりと石を握りしめた兎──の形をした式神──をひょいっと持ち上げた。元は紙でできているはずのその兎は、持ち主の好みに合わせたのかふわふわとした毛並みが丁寧に形作られている。ただ、本来感じるはずの生命のあたたかみはそこになかった。

 「完成度の高い剥製みたいですね」真北が呟く。
 
「これで終わるんだな」
「大丈夫、あたしを信じて。やっちゃえなぎくん」
 
 応神が兎を夜空に向かって投げる。跳ね上がった兎はぴょんと空を蹴ると、石を抱え込んで丸まった。
 
「そういえば、玉兎って月の異名だよね。金烏玉兎って言葉もあるくらいだし、運命みたいなの感じちゃうなあ」
 

 青と銀の光が放たれ、そこに金の色が溶け込んでいく。応神が静かに目を伏せるのを、稲羽は確かに隣から見ていた。
 
 

04


 谷崎翔一は夢を見ていた。
 

「しゃぼんだまとんだ やねまでとんだ」
「やねまでとんで こわれてきえた」
 
 ふわふわと、視界の上の方をしゃぼん玉が飛んでいく。それは角度を変え、溶かし込む景色を変え、あかやあおやむらさきを混ぜ込んでふわふわと浮いていた。
 

 ぱちん。
 

「しゃぼんだまきえた とばずにきえた」
「うまれてすぐに こわれてきえた」
 
 あお。あか。きいろ。しゃぼん玉が作られて、ぱちん、と消える。
 

「薙くん?」
 

 長いコートを揺らす男が、しゃぼん玉を吹いていた。

 男が振り返る。夜よりも深い色の目には、微かに金の光が溶け込んでいた。近づこうとして、谷崎はうまく体が動かないことに気づく。認識よりもずっと幼い四肢がそこにあった。
 谷崎が男の隣に立つ。男が谷崎を見下ろすと、膨らみかけていたしゃぼん玉が弾けた。ぐるりと混ざり込んでいた虹色が形を持ち、蝶の羽になってパタパタとはばたいた。
 
「美しいだろう」
 
 男が谷崎に向かって笑う。楽器が美しい音をしゃらりと慣らしたような、どこか惹き込まれるような響きを持った笑顔だった。谷崎は吸い寄せられるようにその金の瞳を視界に映してから、男の手元にあるしゃぼん玉の棒を見つめる。何の変哲もないその棒に染められた紅色は、男の纏った真っ白なコートも相まって、雪の中で咲く椿の花を連想させた。

「ここがどこだかわかる?」
「お前は知らないだろうな」
「ぼくはプラネタリウムにいたはずなんだけど──いつの間に眠ってしまった、のかな。いつの間にか、こんなところにたどり着いて──」
「違う。お前はずっとここにいた」

 男が妙にはっきりとした口調で言ったので、谷崎はやや困惑した様子でしゃぼん玉から目を離す。「お前はずっとここにいた。お前が知っていても知らなくても、それは事実だ」
 美しい響きはそのままだったが、男の声からはやさしさとかあたたかさとかそういうものがまるきり排されてしまっていた。谷崎は微かに瞳を揺らす。無意識に足を引くと、男はその音に応じるように谷崎を静かに見下ろした。
 
「……ここはどこ」
「夜の底だ」
「よるのそこ」
「過去に置き忘れてきたものを、今一度見直す場所だ」
 
 男が片手に持った瓶に棒の先をひたす。静かに息を吹き込むと、透明なしゃぼん玉が薄い膜となってまるく形作られた。

「みんな、夢に酔ってるんだ。おれはその酔いを醒まさせにきた」
「ぼくはこんなところにいない。ちゃんと進んでるんだ──進まなくてはいけないんだ」
「どこに向かって?」
 

 谷崎の喉からかひゅ、と音が漏れる。
 

 ──首を絞められていると気づいた時には遅かった。相手の長い指が、自分の細くてやわらかい首に巻きついている。ぎりりと爪が食い込み、脳を揺らす激痛が聞くに耐えない悲鳴をあげた。──折られる。絶叫にも似た恐怖と危機感が腹の底から一気に込み上げてきて、溢れそうなほど見開かれた双眸からぼろりと雫がこぼれ落ちる。痛い。死ぬ。死んでしまう。しばらく上書きされなかった、夢の中で嫌と言うほど殺されてきた記録が、現在進行形で更新されようとしていた。

 地面に押し倒される。ギリ、と爪が食い込む。
 銃もない。力もない。本当に、ただの無力な一人な子供だ──圧倒的な力を目の前にして、ただ無様に息を求めることしかできない、弱いいきもの。谷崎はなんとか首から指を引き剥がそうとした。どうやら折る気はないようだが、本当に折られるのではないかという痛みが、酸素が断たれた脳を蹂躙する。
 
「どこに向かっている?後ろを見もせず、自分が何か知ろうともせず、ただ目の前にあるものだけを必死で守ろうとして。滑稽に、無様に、馬鹿の一つ覚えのように前を見て、そらを見上げて、自分は正しいのだと──吐き気がする!美しい御託をどれだけ並べようと本質は何も変わらないのに、自分たちだけは、いつでもあるべき自分なのだと信じ切っている!」
 
 ずる、と指の力が抜けた。押し潰すように流れ込んできた息を受け止めきれず、谷崎は肺が激しく動くのを自覚する。不協和音のような咳をする中で、貫くような耳鳴りが自分の意識を掠め取っていくのを感じた。
 
「進むことは良いことか?後ろのどれだけを踏み躙ろうと?正しさを信じることは良いことか?他の全ての可能性を潰してでも?」
 
 ようやく息が落ち着いてきた。力なく地面に転がっていた谷崎は、喉を押さえながらゆっくりと起き上がる。脳内で鳴り響く不協和音が止まない。谷崎は男の顔を見た。夜の闇をそのまま形にしたような底のない双眸の中に、金の光が爛々と存在を主張していた。
 
 倒景の火。
 
「お前は太陽など嫌いだったはずだ。谷崎翔一」
「ちがう」

 男が谷崎の顔を見る。その顔は応神と瓜二つと言えるほどよく似ていて、そして全く別物だった。谷崎は、こんなぞくりとするほど端正な容貌に覚えがない。
 
「ここではないどこかのお前ならば、おれの手を振り払ってくれただろうか」
 
 男が谷崎に背を向ける。「まて」谷崎は声を上げた──声を荒げた。乱れたまま吐き出された呼吸がずるりと臓腑の中をせりあがる。喉元に込み上げた情動は吐き気に似ていた。「ぼくはお前とどこかで会ったことが」
 
「お前は、誰だ」
 
 男は一度だけ振り払った。少し目を伏せ、僅かに視線を逸らす。
 
「おれは生きながら死んでいる。生まれながら息絶えている。生まれるべきではなかったものであり、生まれてきた全てを否定するもの。敢えて呼ばれるとするならば──おれは霊。冥府わすれられたものいらえる者」
 

「おれは、空亡黒い太陽。お前たちの夜明け信じた星を否定する者だ」
 
 


 

「おきた?お兄さん」

 ふと気づくと、満天の星空の下。座り心地がいいとは言えない椅子の上。
 目の前で、自分と全く同じ顔が笑っていた。
 
「おむかえが来たよ」
 
 その言葉の意味を理解する前に、誰かに強烈に腕を引かれる。それはまるで、カーテンの隙間から容赦無く瞼を突き刺してくる眩い朝日のようだった。谷崎は必死で前を見る。腕の持ち主を。自分の体を熱く握った光源を。
 

「翔一!」
 

 コートの色は?黒。見慣れたサングラスの向こうの目が、美しい金色で満ちている。谷崎は反射的にその手を掴んだ。自分だけの。自分だけの、信じた、正しい、唯一の、太陽。
 

「ねえ、羅針盤らしんばんのお兄さん。たまにはさ、自分のうしろをふり返ることをしてみてもいいと思うな。こんなやり口ずるいと思わない?お兄さんみたいなのがいるからさ、ほしぞらのはいれつは正しいまま、どんどん夜のなかみだけがぐちゃぐちゃになるんだよ」
「帰り道がわからないのだから、前に進み続けた方が有意義だと思いませんか?」
 
 
 ぱちん。
 まるでしゃぼん玉が弾けるように、意識が途切れた。 
 
 

◇◆◇

 

05

2017年7月23日

「……どちらさまですか」
 
 心の底から困惑したような、どこか怯えているようなその声により、応神薙は人生で初めて絶望という言葉を身をもって知ることになった。
 
 
 

幕間

 応神薙にとっての「当たり前」とは、烏には足が三本付いていることだった。
 

 今でこそ「粗暴な性格」「協調性がない」と言われる応神だが、小さい頃は大人しく、真面目な子供だった。父や大叔父たちから習う技を会得し褒められることを喜び、応神家という名家に生まれたことを誇りに思い、そのあるべき姿に真摯に向き合っていた。真面目で、素直。純粋な子供だったのだ。自分の家のことも、周りからの教育も、何も疑わず、穿った見方などしなかった。

 どうすれば先祖に恥じない人間になれるか、どうすれば自分はもっと強くなることができるか、考え続けられるくらいには頭が良かった。頭が良かったし、向上心もあった。ただ、自分が「おかしい」ということに気づくには、彼はまだ幼すぎたのだ。使用人が身の周りにいること。小さい頃から式神に霊力を流し続けて自分の思うように術を組み上げること。そもそも日常的に術を学び、剣を学ぶこと。そんな日々は初めから決められていた。至極当たり前の、疑うまでもない“普通”だったのだから。
 

 信じ切っていた当然が音を立てて軋んだのは、その女──黒陶由倉に会ってからだ。確か、小学校に入ってすぐの時だったと思う。

 おかしな人間が家に来る時はよくあった。西の国から来たという行商人や、顔のよく見えない和服の男、黒いスーツを着た一団、自称親戚、エトセトラエトセトラ。その中でも彼女は特に異彩を放っていた。薙が彼女の姿を初めて見たのは八月の中旬あたりだったが、彼女は時期にそぐわぬ厚手のコートをなびかせながら、汗一つかかずに髪を払った。
 
『私は黒陶由倉。お前の大叔父たち──いや、今は引退したんだったか?──と同じ、エージェントだ。いつかお前が大きくなったら、財団向こうで見ることもあるだろ。よろしくな、薙坊』
 
 隙のない立居振る舞い。射抜くような炯眼。嵐のような人だった。夕立のような荒々しさはない。どちらかというと、春嵐。
 彼女は何にも縛られない風で、何もかもを巻き込んでいく嵐で、何も残さずに溶けて消えてしまう煙だった。
 

 そこからだ。応神薙の生活が少しずつおかしくなっていったのは。
 

 「開けてはいけない」と言われていた扉が、妙に目につくようになった。夜、一人で廊下に出ると、何かの気配を感じるようになった。写真の中の知らない女性と、いやに目が合った。学校では皆からよそよそしさを持って遠ざけられる。家を一歩出た世界では、自分の方が異端だと嫌でも自覚した。家であまり学校のことを話さなくなった。倉の中に、明らかに意図的に破られたであろう帳面があった。古い見取り図を見た日の夜、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえた。
 
 その場所は壁しかないはずなのに、知らない扉を見つけた。
 

風路ふうろ!お前の子供だろ、たまには責任持って外へ連れ出してやれ!』
『ユクラねーちゃん、今日はどこ行くの?』
『映画だ。人が自分の正義の名の下に斬り合って殺し合う映画。ポップコーンは塩でいいな?』
 

 「普通」を知っていくたびに、「普通ではない」自分の生活が、だんだんとおかしくなっていく。常識だと思っていたものはとんでもない非常識だった。普通はできると思っていたことは誰もできなかった。正しいと思っていたことは実は歪んでいて、自分が信じていたものは案外あっけなく崩れていった。言葉でどうにもならないこともあるし、剣でなんとかならないこともある。考えなくてはいけないことはたくさんあって、一つしかないと思っていた道は意外にたくさん広がっていて、理想としていたものは意外に脆くて。

 ただ、元々そこまで深くものを考えるたちではなかった。熟慮を重ね思案にふけるよりかは、単純明快な「正しさ」を求めるタイプである。それが正しいか、正しくないか。応神薙の尺度はいつもそれだった。正しくありたいと思うことは、正しいこと。そしてその杓子定規を他人にも当てた。行動。思想。理に適っているか、そこに自分の意思はあるか、自分の言葉はあるか。自分の正しさにはそぐわなくても、相手がそれを心から正しいと信じているなら、尊重はした。あくまで尊重するだけで、自分で納得するわけでも、その言い分を通すわけでもなかったが。
 
 応神薙は聡かった。それは応神家の教育の賜物であり、彼の中に流れる血によるものだ。
 聡かったから、このままずっと家にい続けては自分の「正しさ」の定規が歪んでいくと、はっきり言葉にはせずとも心のどこかで気づいていた。
 
 そうして、応神薙は自身の視界を塞いだ。
 他者と壁を作った。
 進むのではなく、ただそこに立ち続けた。

 自分が「応神薙」であり続けるために。
 他の何にも惑わされず、何にも揺るがされない、あるべき姿を見つけ出すために。
 

 自分の下の名前を呼ばれることは、応神薙にとって相応に価値のあることなのだ。
 
 
 

第四幕 夜明け未だ来ず


01

sora.png

 ジョシュア・アイランズが応神から電話を受けたのは、午後に行うべき重めのタスクに一区切りをつけた時だった。
 
 帰ってきた谷崎がずっと眠り続けたままだというのは、アイランズも知っていた。気にかかってはいたが、それで仕事に支障を出すほど幼くない。ただ、機会があると上手くアイランズを休ませたい上司はこの事を気に留めていてくれたらしい。やるべき仕事がひと段落ついたら様子を見に行ったらいいと言ってくれた。その言葉に感謝しつつ、アイランズは手の中の万年筆を置く。

「もしもし。谷崎の目が覚めたんですか?」
……
「沈黙を肯定とみなします。その様子だとあまり芳しくない状態のようですね。あと一時間半くらいでそちらに行けると思います。その時」
……一時間で来られないか?いや、無理を言ってるのはわかってるんだが

 アイランズは腕時計を見た。それから液晶画面の中に並ぶ書類に目を移す。一時間。ここから応神たちの家まで行くのに十五分。ゆとりを持って仕事を三十分に収めるとして、こなせる仕事は──

「十分ほどオーバーして良いのなら」
……すまない

 声が明らかに消沈している。いつもに比べてぞっとするほどしおらしかった。これは後が面倒だなと思いながら、アイランズの右手は迷いなくキーボードを叩く。二重のパスワードはもうキーを見なくても間違えずに打てるようになっていた。認証と同時に電話を切る。文字通り親の顔より見てきた三本矢印と盾の印章を軽く睨め付けて、アイランズは様子のおかしい友人のもとに行ってやるべくマウスに指をかけた。
 
 
 
 夕飯を一緒にしないか、と言われたのは久々だった。──というよりかは、応神と夕飯を共にできるほどアイランズに余裕ができたのが久々だった。応神の料理の腕を買っているアイランズは、その誘いに二つ返事で乗る。
 隣の友人の顔は陰鬱としていて、普段の寡黙さとは全く違う種類の沈黙をたたえていた。
 

「谷崎の、記憶が、ない」
「そうだ。……具体的には、財団のことをまるきり忘れてる」
 

 素性を聞くと、「自分は東京の大学生」だと答えたらしい。応神の声音は抑えられていたが、それが逆に彼が得た痛みと傷口の深さを物語っていた。アイランズは何もかも投げ出しそうになった自分を抑え、思考の綱を握る。応神の元に来るため仕事の処理速度を上げた脳は、そろそろ強制終了の気配が見え始めていた。

 普段ならもっと動けるはずなのに、どうして最近に限ってとアイランズは思う。まるで、自分の頭が自分の知らないところで常に重たい処理を行い続けているようだ。

「それで……今谷崎はどうしていますか?」
「顔見知りを連れてくると言って、とりあえず家に置いてきた。俺が出た時にはソファで膝を抱えてたな。夕飯何がいいかって聞いても何も言わなかったから、とりあえずあいつの好物作ろうと思う」
「そうですか……。脱走の可能性は」
「困惑しきってたし、……おそらくだが、あれは本気で怯えてた。とりあえず敵意はないことは納得させたから、勝手に外に出ることはないだろう。……多分」
 

 応神たちの家に着くと、谷崎──と呼ぶべき青年はソファに寝転がって膝を抱えていた。アイランズの視線に気づくと、気まずげにふいと目を逸らす。少しだけ傷ついたような思いを抱えながら、アイランズは荷物を橋に置いた。

「こんにちは。──いえ、はじめましてと言うべきなのでしょうか。ジョシュア・アイランズです」
「アイランズ、さん」
「貴方とは────……同じ職場で働いています」
「アイランズさんは信頼していい。俺の友人だ。お前のことも大事にしてた。記憶を戻すのにもきっと協力してくれるだろう」
 

 きちんと記憶がある時に、関係性の名前を決めておかなかった弊害がこんなところで出るとはとアイランズは思った。
 友人、ではない。同僚、とも若干違う。強いて言うならば共犯者。名前のつかない関係特有の、どこか不安定で息のしやすい空間がそこにはあった。──かつては“エージェント・谷崎”の新人教育を行ったこともあるアイランズだが、これは空っぽの人間に詰めるにはあまりにも質量があると考え言及を控えた。
 

 谷崎は困惑と怯えの入り混じった目でアイランズを見ていたが、やがて少しだけ肩の力を抜いた。所在なさげな姿が、まるで飼い主の家に初めて来た小動物のようだと内心で思う。
 
「ぼくは谷崎翔一。よろしく。……と言っても、ぼくとは既知の仲……なんでしたっけ」
 
 たとえ自分たちが知っている谷崎翔一が、目覚めたら全く知らない所に放り込まれ知り合いを名乗る見覚えのない人間に取り囲まれても、もう少し大胆な態度を取るのではないかとアイランズは思った。目の前の相手は本気で困惑しているようだ。これが人間としてまともなのだと一言自分に言い聞かせてから、アイランズはなるべく安心させるような声で言った。

「困惑しているのはわかります。ですが、貴方と私たちが正しく応神の言うような関係であることは事実です。貴方が応神と同居をしていたことも」
「ぼくたちはその……財団、というところで働いていたんでしょう?聞きました。どんな仕事かは聞いてないけど」
「はい、それについては後で説明します。すぐに記憶を取り戻せとは言いませんから、まずはこの状況に慣れてください。私たちは貴方に害意はありません。身代金を奪おうとか、貴方の身近な人に対しての脅しの材料に使ったりとか、友人を名乗る新手の詐欺だとか──」
「例えが妙に生々しくて嫌ですね。……信頼はまだできないけど、とりあえず信用はします。どうか」
「お前が記憶を取り戻すため、責任持って俺がお前を守る。安心しろ」

 谷崎が二の句を継ぐ前に、応神が言い放った。あまりにも強くはっきりとした言葉に、谷崎の目に若干の疑念の色が浮かぶ。どうして自分にそこまでするのか、とでも言いたげな気配を感じ、説明をしかけた声を喉奥で飲み下す。二人の関係をこの谷崎に埋め込むのはそれこそ悪手だし、そもそもの話、自分がこの面倒な二人の話をうまく説明できないだろう。アイランズはいくつか選び出していた言葉を投げ捨て、曖昧な笑顔を作るにとどめた。
 
 

◇◆◇

 

 夕食はカレー。水を入れずに煮込まれた玉ねぎと肉はやわらかく、とろとろのカレーとよく合った。白米とスパイス、肉の調和に溺れていると、ピリリとした胡椒が舌を痺れさせる。このレシピで作ったカレーは確か谷崎のお気に入りだったとアイランズは思った。まだ彼が応神と出会う前、タッパーに詰められた食べきれない分のカレーをお裾分けだと言ってよく押し付けられていたのを思い出す。
 
「おいしい」
「ならよかった」
 
 会話は薄かった。谷崎は本来社交的な性格ではない。ただ、出会ったばかりの時の、全ての人間をどこかで拒絶しているような様子だった谷崎を見ていたアイランズにとっては、当時の彼とも少し違うような印象を受けた。──きっとこれが、学生時代の谷崎の姿だったのだろう。自分からは会話をしないが、違和感なく応じはする。三歩歩けば見つかるような、どこまでも普通の人間。

「翔い──谷崎。敬語を使わなくていい」
「でも」
「確かに精神年齢はお前の方が幼いかもしれないが、俺とお前は同年代だ。気を遣わなくていい」

 ちら、と谷崎から視線が飛んできたのにアイランズは気づいていた。「私にも敬語を使わなくていいですよ」平静を保って、それが当たり前のような事実を薄く薄く、積み上げていく。

「でも、多分アイランズさんは年上──でしょう?一人だけ敬語使ってますけど」
「“谷崎”は私のことも呼び捨てしていましたし、敬語も使っていませんでした。ですから貴方もそれに倣って大丈夫ですよ。あと、私の敬語は癖のようなものなのであまり気にしないでください」
「そう。じゃあ、……アイランズ。キミは西洋人のようだけど、どこの国の人なんだい?日本語はとても綺麗だけど」
「アメリカです。小さい頃に日本に越してきましたから、日本語はほとんど第一言語なのですよ」
「へえ。後でキミの話を聞かせてほしいな」

 スプーンを動かす手が一瞬止まる。その刹那に谷崎が目を止めたのに気づかないアイランズではなかった。だが、すぐに何事もない顔でカレーを口に運ぶ。目の覚めるような胡椒が、とろとろの玉ねぎを鮮やかに縁取った。
 
 

02

『私は信じたいんです。考え方も、受け取り方も、利害も思想も価値観も違う人間が、理性と対話と共感で突き詰めた次善策は、そこにあったかもしれない“正解”と同じように価値があるものだと』
『百積み重ねた次善策より、たった一つの最善策の方が価値があるだろう』
『人間の事情は数学ではありませんし、世界の事実は、少なくともここでは──0と1だけでは表せません。受け取り手によって簡単に歪められる“真実”など、少なくとも私は信じられない』
 
 そう言うと、目の前の新人はその冷たい双眸にうっすらと不快の色を示した。わかりあえない、と。そう言いたげな目だ。アイランズはそういう目をする人間を──時には人間以外を、たくさん見てきた。そして、そんな相手に対しても対話の糸を断つことはなかった。
 首元に結ばれたネクタイを少しだけ緩める。縛られた呼吸を緩めると、僅かながらにも声が出しやすくなった気がした。
 
『貴方の意見は、理解はします。同意も共感もしませんが、尊重します。それは貴方の中にある真実で、貴方の在り方を定める理念で、貴方を形作る哲学なのでしょう』
『……否定しないのかい』
『言ったでしょう。真実は人それぞれ、だと。それが貴方の思う真実ならば、誰にもそれを害せないのです。どうか、大事にしてください』
 
 これはきっと、自分の本心だった。言葉を見目よく飾ることも、耳ざわりよく並べることも、美しく歪めることも容易くできたが、きっと奥にあったのは自分の本心の思いだった。少なくとも、自分はそう思っている。そう信じている。
 案外すんなりと滑り落ちた言葉を聞いた目の前の人間は、ぱちぱちと瞬きをした。予想外の言葉に、どう反応していいのかわからないといった顔だった。
 
『……どうやらキミは……ぼくが思ってるよりバカで、面白い人間だったようだね』
『別に私だけではありませんよ。そうですね、知り合いの言葉を借りるなら──“世界に突き放された才能を持つ、愛すべき馬鹿たち”が、ここにはたくさんいます』
『……』
『掲げる信条も敷いた価値観も違う人たちですが、自分が信じた一つ──確保・収容・保護の名の下に集まり、それぞれの形で前に進んでいるのです』
 
 かつて自分に向かってそう言った赤縁眼鏡のエージェントの顔を思い出し、小さく笑いがこぼれる。座った椅子をくるりと回転させ、アイランズは目の前の人間の目を真っ直ぐ見て言った。
 
『どれだけ事実が歪められようと、どれだけ思想を歪められても、どうか自分が信じる真実を大切にしてください。ここが、貴方が選んだ“正しさ”です──どうかお忘れなきよう。エージェント・谷崎』
 
 

03


あなたの話を聞かせてください。私の手の届かない、最適解の話を。


 

2017年7月23日

 コンコンと、飴色の扉を軽くノックする。
 『相談室』とプレートの下がったその部屋は、アイランズも定期的に世話になっていた。財団職員には、一定期間ごとのフィジカル・メンタルチェックが義務付けられている。──ただ、今回の用事は普段アイランズが世話になるカウンセラーではなく、また相談の要件もアイランズ本人のものではない。「どうぞ」とかけられた声に押されてノブを回す。白衣を着た丸眼鏡の医師が、目線の少し下でにこりと微笑んだ。
 
「こんにちはアイランズさん。事情はお聞きしました、どうぞ中へ」
「こんにちは、飴村あめむらさん」
 
 アイスティーでいいですかと、二人分のカップが白いテーブルの上に置かれる。鮮やかなオレンジの色からおそらくルイボスティーだと判断し、アイランズはいつの間にか乾いていた口内を潤した。

 谷崎さんの様子はどうですか、と聞く飴村の灰青の目は、彼が谷崎のことを心から心配している思いを映し出している。人間らしい感情の動きはあるが、決して情動に振り回されず、仕事となれば丁寧に冷静に言葉を作ってくれる。アイランズはこの医師のことを気に入っていた。
 
 普段はサイト8110で医師として働く飴村──飴村世継よつぎが、ちょうどここサイト8100に来ていたのはまったくの偶然だった。普段谷崎のカウンセリングも受け持つ飴村が、彼があんな状態になってしまった時に側にいたのは幸いだったとアイランズは思う。患者と向かい合わせに椅子を置き、白く大きなテーブルを隔てた向こう側で、飴村は穏やかな笑顔で座っていた。彼の背の奥には、患者として診療を受ける者たちの記録が並べられている。
 
「谷崎さんが記憶を取り戻すような予兆は、今のところありますか」
「いえ、特には。財団のことを説明しましたが、納得するようなしないようなといった顔でした。ただ、信じてはもらえたようです。だいぶ落ち着いて、この状況に慣れてはきているようですが、具体的にどうにかできるような様子は何も」
「……現状維持以上にはなりませんが、アイランズさんの対応は正しいと思います。まずは、状況をこちらで認めること、相手を安心させることが大事ですから」
 
 ここに来る前、アイランズは谷崎に対し財団に関しての説明をした。自分たちが今いる場所はどんなところで、財団とはどんな組織で、エージェント・谷崎はどんな仕事をしていたか。谷崎の疑念の糸を丁寧にほどき、疑問に対し真摯に答え、決して面倒がることも突き放すことも、そして無理に記憶を引き出そうともせず、ただそこに在る事実を伝えていった。

 主治医という立場から谷崎翔一という人物をそこらの人間よりは知っている飴村は、アイランズの精神に今どのように負荷がかかっているかも薄々気づいたらしい。大変ですねと同情するような言葉は、他人事と自分の事情の境界線が曖昧だった。
 
「記憶を失った原因がわかればそこから対応策も考えられると思うのですが、如何せんそこも曖昧なんです。対応した人曰く、真っ青な顔をした応神が谷崎を半ば無理やり閉じ込めるように医務室に叩き込んだらしくて。布団をかける動作はまるで、何かから谷崎を隠すようだった、と」
「何かから隠す……」
「ずっと眠り続けて、起きてみれば財団に関する記憶がごっそり抜けているのです。谷崎が財団に入ったのが──いえ、財団に入るきっかけとなったインシデントに巻き込まれたのが、2012年の夏。ですから、多分春先あたりなのではないでしょうか」

 アイランズが困ったように笑う。その言葉にはどこか「この状況に納得がいっている」ような響きが含まれていた。
 「……アイランズさんは、谷崎さんが記憶を失ったことに、何か心当たりがあるんですか」飴村が問う。アイランズは端正な笑顔で笑ってから、ルイボスティーに口をつけた。爽やかな味が頭を満たす。アイランズの、何もかも照らすような初夏の光を閉じ込めたような瞳に、薄い茶色に彩られた睫毛の影が静かに落ちた。

「財団職員としてこのような曖昧なことを言うと、怒られてしまうのかもしれないですが──なんというのでしょう。私にとってはそうですね、因果が巡ってきた、という感じなのでしょうか」
「因果」
「今まで目を逸らしてきたものに、きちんと向き合えと言われているのでしょう。言葉にすることから逃げてきたから、届く声を失った。形を定めることを恐れていたから、作ってきた基盤が崩れてしまった」
 

「結局私たちは、言い訳を探していたのです。現実に甘んじて隣にい続けるための、お利口な言い訳を」
 
 そう言ったアイランズの声は穏やかで平坦で、彼が織り交ぜた感情を読み取ることができなかった。
 

「その場凌ぎに繋いできたから、内側からひっくり返ってしまったんでしょうね」
「……」
「責任を、取らないといけませんね。壊れてしまう前に。見なかったことにしていたのは私もです」

 底のない海を見ないふりして生きていたのですと、アイランズは静かに笑う。それは感情を正しく言葉にしようとして、うまく文脈が繋がらずに宙に浮いているのを見るようだった。
 
「……アイランズさんは、谷崎さんとどんな関係なんですか」
「この世界には、言葉にしなくては伝わらない思いの他に、言葉にしない方が賢明なこともあるんですよ」
「僕の目には、アイランズさんは谷崎さんと──応神さんと、滞りない関係を築いているように見えます」

 滞りがないだけですが、という言外の声を、アイランズは確かに聞いた。「そうですね」カップを持ち上げその軽さに瞬きをする。飴村が側のポットからお代わりを注いでくれた。
 
「千の美辞麗句より一つの本心が届く人もいれば、万の美辞麗句を一つの本心に昇華できる人もいます。応神と谷崎は、たまたま後者の人間だったんですよ」
「……それって」
「ふふ、貴方に建前はなしですよ。ただ、これはオフレコでお願いします」
 
 アイランズは飴村を見た。白いテーブルの端には、アンティーク調の意匠を持つ小さな天球儀が飾られている。後ろの棚には美しく煌めく紫水晶や、中に愛らしいミニチュアの入った透明のドームが置かれていた。

 美しいものをこよなく愛するこの医師は──思いがけず同じ世界に足を踏み入れてきた学生時代の後輩は、今の自分を──自分たちを見て、なんと言うだろうか。他人の持つ可能性希望を切に信じるこの人間は、自分たちがこの世界に形を為す価値のある可能性の煌めきだと、思ってくれるだろうか。
 
 白磁に青のラインが入ったカップを眺めていると、自分が調停官と名乗る所以が想起された。空をそのまま持ってきたような青さの海と、雲をそのまま持ってきたような砂浜。どんな相手でも、絶対に会話を──言葉を伝えることを、諦めてはいけない。そんな言葉。紅い飛行機で空と海の境を自在に駆けていた一人は、境界など取り払えると言い、スーツを鎧にペンと言葉を自在に操っていた一人は、境界を見ることができると言う。相反する二つの言葉の意味を正しく証明したくて、アイランズは交渉のテーブルにつくことを選んだ。たとえ信じるものは違っていても、言葉があればきっと手を取り合うことができると──そう思っていたのだ。
 
 冬と灰色の底の景色に生きてきた人間には、夏の太陽は眩しすぎる。
 
 

04

──それで、その飴村って医者と結局、どうしたんだ?
「記憶喪失の患者に対する対処を教わりました。……それと……」

 アイランズが一瞬、言葉に詰まる。
 
 
『飴村さんにとっての星とは、なんですか』
 

──ぼくは自分の星に従って、正しく進めていると思うかい?

 そんな記憶がふと脳裏によぎり、思わず口をついて出た言葉だった。
 ぱちっと瞬きをした飴村に、内心しまったと思った。あまりにも脈絡がなさすぎる。アイランズはすぐに撤回しようとしたが、思案を巡らせ始めた飴村の邪魔をする訳にもいかず、中途半端な思いを紅茶とともに飲み下した。
 
 しばらくして出てきた言葉は、とても飴村らしいというか──アイランズにとっては納得で、同時に少しだけ意外な部分も残す言葉だった。
 

『美しいものですね』
『やっぱり、そうですか』
『丹念に織られた濃紺色のベルベットを敷いて、砂糖をきらきらと散りばめたような星空。古代から連綿と受け継がれている、星座に託された秩序と祈り。底知れぬ闇を溶かした宙に輝く、神秘の光。それは時に唯一無二の輝きとして例えられ、時にたくさんの煌めきを持つ景色の比喩に用いられます。星というモチーフに込められたたくさんの美しさを僕は愛していて──そういう意味で、僕は星が好き、なのだと思います』
 
 四角く切り取られた隔絶の村の中から見上げる夜空は、確かに飴村だけのものだった。あの村には飴村以外に、星空を美しいと思って見上げる者などいなかったのだから。くすんだ日の元から逃れて、一人で見上げる鮮やかな夜空は、飴村だけが知っている秘密の宝石箱だった。飴村はその輝きに、自身が感じていたおさない信仰うつくしさを託していたのだ。
 
『星そのものよりは、星というものに込められた文脈を、美しいと』
『はい、どちらかといえばそうですね。──いや、もちろん星そのものも美しいと思いますよ!』

 躊躇いのない声で言う飴村に、どうして彼が谷崎の主治医をやっていられるのか少しわかった気がしたアイランズだった。ルイボスティーを一口飲む。クーラーの乾いた風が喉を乾かしている。
 

『逆にお聞きしますが──答えたくなければ答えなくていいんですが、アイランズさんにとっての星って、なんですか?』
 
 
話を聞いてるかぎり何も知らんガキだが、妙に核心を突いてくるな。お前、奴を好ましく思い切れていないだろう?
「私にはない強かさがあります。……人を真っ直ぐに信じられて、人のために素直に心を動かすことができる。できた後輩ですよ」
へえ
「……どうして急に電話なんてかけてきたんですか。黒陶さん」

 なるべく息を殺して言うと、電話の向こうの相手が微かに笑う声が聞こえた。
 
 応神を隔てるか、仕事の関係以外で、黒陶由倉が向こうから電話をかけてくるのは本当に珍しい。例えるならば、クリスマスイブに東京の中心に初雪が降るくらいの確率だ。内心の困惑を気取られないように電話に応じていたアイランズは、いつの間にか向こうの手管に乗って谷崎の現状や飴村との会話の話をしていた。
 
薙坊が久々に実家に戻っただろう。あいつの妹が色々言っててな、ふとお前の顔を思い出しただけだ
「この携帯の電話番号は教えていないはずですが……?」
長く生きるとその分、いろんな伝手ができるもんだからな。お前だって妙な人脈お友達たくさん持ってるだろ?

 次に暇が取れたら、絶対に電話番号を変えようと心に決めるアイランズだった。そんなアイランズの決意など露知らず、黒陶は面白がる様子を隠さずけらけらと笑う。

お前たち、仕事となると頭は回るのに、自分のことになった途端てんでダメだな
「だめ、ですか」
鏡とかいうのもそうだ。心から家族のことを心配しているんだから、一言そう言ってやればいいのに、立場やら何やら気にして一歩踏み込めない
「……」
幸せになる奴は勝手に幸せになるし、破滅する奴は勝手に破滅するのに、ばかだな。隣にいる人間に何もできない自分をどこまでも許さないんだ
「……鏡さんはお元気そうですか。また機会があればお会いしたいものですね」
お前のことを心配してたぞ。電話の一本でもかけてやればいい。応神家の番号は知ってるだろう?
「プライベートな話をするには躊躇われまして」
気に入った女とは連絡先の交換くらいしないか。この甲斐性なし
「……」

 貴女どこまで知ってるんですかとか、どこまで人の事情に踏み込んだら気が済むんですかとか、言いたいことは色々あった。だがそのどれもは、姿は違えど結局似たような感情を内包しているのだ。押し黙るアイランズをどう思ったのか、黒陶の声が不意に優しくなる。

お前はあいつらに対して責任だかなんだかを感じているんだろうが、別にそこまで深く考えなくたっていい。どうせあいつらは何も考えてないんだ
「ええ、でしょうね。……初任務時点から知ってましたよ」
お前には言葉があるし、考える頭もあるだろう。それともなんだ、居場所がわからないから進めないとでも言いたいのか
「なんですか。私が迷子か何かになっているとでも?」
地図ばかり見ていちゃ、周りの景色も人も見えないぞ

 どういう意味ですか、と微かに息が漏れた。が、言いかけた言葉は電話口から聞こえてきたノック音と、相手がそちらに意識を向けた気配で霧散する。
 
──何、いい加減オフィスを片付けて道具の申請をしろ?今そんな余裕は──おい待て、勝手に入るな!あっそのぬいぐるみは勝手に触らな……やめろ!今持ってる物を今すぐ元の場所に置け!好いた女に触れるみたいに、懇切丁寧にだ!
「…………お忙しいようなので、一旦切りますね」
ジョシュア君、最後に一つ言っておく。お前は大人であろうとし過ぎなくていい。たまには人間らしく、自分の本心に従って生きることを──私は本心に従いすぎ?いつからそんな舐めた口きけるようになったんだお前!というか人の電話をじっくり聞くな!この
 
 何かとんでもない罵倒が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。ドタドタという音が聞こえた後、唐突すぎるほどあっけなく電話は切れる。電子音を吐くスマホを見ると、真っ黒くなった画面の中に、空の底のような深い青の色を持つ自分が映っていた。
 
 
 信じる星は一つではなく、夜は必ず明けるわけではない。
 そんな世界に足を踏み込んだのは確かに自分の意思であったはずなのに、どこかで見えない脚本をめくる音が聞こえる。鏡の向こうの何かに目を塞がれている。
 
 まだ夜に溺れていたい。黎明が陰影を定め境界を引く、その時まで。
 
 
 

第五幕 紅鏡の照らす夜


01

2017年7月24日

 体が熱い。
 谷崎翔一は、慣れない布団の中で寝返りを打った。んん、と言葉にならない声が漏れる。体を丸め、布団から頭だけを出して、ベッドサイドの棚に置いてあるウサギの形の目覚まし時計を確認した。ピンク色の体に青い目を持つウサギが示しているのは午前一時。成人男性が枕元に置いて大真面目に確認するにしては、随分とふざけた造形だと思う。誰かからのもらい物だろうか。

 引き出しを開けた。入っていたのは何本かのペンとメモ帳、手鏡、ブックカバーのかかった文庫本が一冊。睡眠導入剤と書かれた袋が、そこだけ世界が真っ白く切り取ってしまっているように見えた。どうやら、大人の自分の日常生活は一筋縄ではいかないらしい。

 手鏡を取り上げる。映った顔はなんとなく見覚えがあるような、ないような気がした。紺と銀の、特に装飾のない鏡をくるりと手の中で弄んでから、だるい半身を起こす。一度瞬きをしてから、自分の榛色の目をじっと見た。
 鏡の向こうの世界が一瞬、ぐにゃりと歪む。──いや、歪んだのは自分の視界だろうか。

 ──高校時代の友人曰く、あまり続けると自我が保てなくなって発狂するらしい。そんなことはない、とも言い切れない、妙に質感のある声音は「俺これ以上自我ガバりたくないからやらねえけど、谷崎も冗談でだってやるなよ?」と笑っていた。
 
「お前は誰だ」
 
 冗談めいた忠告がどこか遠い。お前は、誰だ。自分は谷崎翔一。東京に住む一介の大学生で──いや、本当ならば、財団とかいう場所で働くエージェント・谷崎──鏡の向こうの自分は死んだ目で自分を見ている。形がどうであれ、自分は確かに谷崎翔一ではあるのだ。かつてそう定義して、ずっとそのまま生きてきたのだ。
 
「ぼくは谷崎翔一だ」
 
 頭がぐらぐらとする。何か大事な、大事なものを忘れてしまったような──置き忘れてしまったような、気がする。ここではないどこかに。
 体が熱い。鼓膜を貫いていくような耳鳴りが止まず、谷崎は無意識に自分の両耳を塞いだ。自分の体と自分の頭が別物のように思える。あたまと、からだが、おかしく、なる。テセウスの船。あるものを構成するパーツが全て置き換えられた時、現在のそれは過去のそれと全く同じものと言えるのか──
 
 鏡の中の自分の瞳に、昏い光が宿る。
 
 

ぼくも谷崎翔一だ
 
 ここではないどこかの自分が、歪な笑顔で笑った。


 
 ずる、と胃の中から──体の内側から、何かが這い出してくる。気持ち悪い。そう思ったと同時に、喉をなまあたたかいものが這い上がっていった。反射的に顔を横にずらす。ぼたりと、重たい水音がフローリングを叩く音がした。

「……っ…… ぅえ……」

 汚してはいけない。ここはまだ、自分の家ではないのに──おかしなほどに冷静な自分がそう訴えかけてくるが、熱くなった頭が込み上げる吐き気と共になけなしの理性を奪っていく。ゴミ箱は?ベッドサイドの反対側。思考回路が焼き切れる。自分の体と精神が数ミリずれている違和感があるのに、焼けるような喉も抉るような不快感も、紛れもなく自分のものだ。……そして、先程どこかここではないどこかから聞こえた声も。

 一度堰が切れてしまえば一気に流れてしまうのは簡単で、谷崎は体の内側からぼたぼたと溢れるものを半ば絶望したような目で見ていた。気持ち悪いと思った途端、強烈に波が寄せるように思考が攫われていく。
 
「おい、なんか物音が…………翔一!?」
「げほ、うぇ…… いらがみ、さん……?っつ、う」
「待て、無理して起きあがろうとするな。とりあえず腹の中のモン出せるだけ出せ」

 ぶれる視界に応神の顔が映る。と思うと、割と強めに背中をさすられた。何かを言う気力もなく、されるがままに胃の中のものを吐き出す。ぐるりと視界が回転したと思った途端、何かあたたかいものに抱き止められた。

「……落ち着いたか」
「ごめん。その、床と布団を……」
「汚したことに関しては気にするな。あとで掃除しておく。ただ、今夜はお前の寝る場所がないな……ひとまず俺の部屋でよければ貸せるんだが、どうする?ソファで寝るとか言うなよ」
「……実質、拒否権、な……」

 最後まで声を絞り出す気力がなく、谷崎は応神にぐったりと寄りかかる。それを微動だにせず受け止め、応神は優しく谷崎の目を覆った。温かい手のひらの体温が、じんわりと肌に溶けていく。

「水と袋持ってくる。とりあえず、一人で歩けるか?」
「体調不良とかじゃないから、ぼくは大丈夫。多分……」
「無理すんな」

 急に咳を始めた谷崎に、応神が目を見開く。咄嗟に先程の場所に頭を寄せ、胃液を浅く吐き出した。息が整わない。応神に体を収めるのがひどく安心する気がしてしまう。「翔一」鼓膜を震わせる心地のいい音に身を任せ、谷崎はゆっくりと瞼を下ろした。精神のずれは収まっている。不協和音はもう、聞こえない。
 
 

02

 まどろむような、というにはきつすぎる、夏の鮮やかな日差しがカーテンの隙間から差し込んでいた。ゆっくりと瞼を上げ、谷崎はその日差しの強さに眉根を寄せる。色素の薄い虹彩にとって、直射日光は最も忌むべきものだ。
 
「起きましたか」
「ええと……アイランズ?」
「はい」
「どうしてここに」
「応神に頼まれました」
 
 彼は仕事ですと、ベッドの脇に座ったアイランズが言う。あまり多くを語られないその言葉に、財団とはきっとそういう場所なのだろうという、どこか仄暗さを孕んだ質量を感じた。目の焦点を蒼色の瞳に合わせる。アイランズは丸椅子に腰をかけ、スマートフォンを触っていた。

「失礼。貴方が起きたら連絡するようにと応神から言われていまして」
「気にしなくていいよ。……キミの仕事は大丈夫なのかい」
「ええまあ、色々あったのであまり大丈夫ではありませんが、幸い今は火急の案件などもありません。昨晩半ば徹夜気味に処理をしたので、それなりに穴は埋められていますし」
「……何というか、ごめんね」
「貴方が謝ることではありませんよ。……なんだか不思議ですね。私の知っている谷崎ならば、私の言葉に『過労自慢かい?』と冷たい一瞥を向けてくるか、もしくは『それじゃあ、今度ディナーでも一緒にしないかい?薙くんの料理で』とか言ってくるので。しおらしい貴方は新鮮です。なんというか、とても“普通らしい”」
「……」

 一つ目と二つ目の温度差があんまりだと思ったが、他人の目から見た自分は大体こうなのだろうか。いや、自分はもっと、まともな人間のふりができている。谷崎は思った。まだ頭に気だるさは残っているが、人と話したことによって眠気の靄が大分晴れてきている。ベッドから起き上がって挨拶をすると、アイランズは綺麗な微笑みと共に挨拶を返してくれた。どうやら、意識を失ったあと本当に応神が自分の部屋に連れてきてくれたらしい。小綺麗だが生活しやすいようまとまった内装に少し感心しながら、廊下に出て下に繋がる階段に降りる。

 カウチに座ってから気づいたが、どうやら服も着替えさせられていたらしい。次会う時なんて言えばいいのかわからないなと思いながら、アイランズが持ってきてくれたお茶を一口飲んだ。馥郁とした香りが鼻を抜ける。次いで差し出されたケーキを一口切り取ると、しつこすぎない甘さが起き抜けの頭にじんわりと滲んだ。

「……おいしい」
「ありがとうございます。応神が帰ってくるまで時間がありますから、よければ簡単な紅茶とケーキの作り方でもお教えしましょうか」
「キミが作ったのかい?これ」
「キッチンを借りたいと言ったら、好きにしていいと言われたので。自前で買った材料がまだ残っていますし、洗い物の手間も取らせません。気楽なお料理教室か何かだと思って、どうですか」

 邪気のない笑顔と共に穏やかな声で言われ、谷崎の心が揺れた。アイランズの料理の手腕は、話している間にも動きが止まらないフォークで実証済みだ。二つ返事で了承すると、アイランズがどこか懐かしいものを思うように目を細めた。
 
 
 
 「ただいま」という声に、若干肩が跳ねた。
 顔を上げると、部屋に入ってきていた応神と目が合う。「おかえり」となんとか言うと、「ただいま」と落ち着いた声で返される。自分ばかりがいやに気を遣っていて、なんとなく気に食わない気がしていた。

 そして応神の後ろからひょいと顔を出した、見慣れない金髪の女。──この場合自分の記憶は当てにならないから、きっとエージェント・谷崎の知り合いか何かだろうと判断した。荷物を下ろした応神の横で、女が「お邪魔しまーす」とぺこりと頭を下げる。

「あ、あんたが噂のなぎくんのお友達?」
「ええと、ぼくは……」
「あー、ごめん。記憶なかったんだっけ。ええとね、あたしはどっちのタニショーとも初対面なんだけど……稲羽杏子っていうんだ。なぎくんの友達。よろしくね」
「はじめまして。……タニショーっていうのは」
「谷崎翔一だからタニショーだよ。ね、あたしたちどこかで会ったことなかったかな」

 友達。うまい表情を作り損ねた谷崎は、中東半端な顔をしたままその言葉の意味を脳内辞書で検索する。稲羽から軽やかに投げられたその言葉には様々な文脈がギチギチと詰まっていて、明るい響きに対してどこまでも質量があった。ともだち。──ルームシェアまでしているくらいだし、エージェント・谷崎と応神も、そう呼べる関係にあったのだろうか。

「暑かったでしょう。お疲れ様です」
「アイランズさんこそ、突然留守頼んじまってすまなかったな」
「やっほー。ごめんね、行くっていう連絡が急になっちゃって」
「紅茶の分量を決める時には間に合いましたから大丈夫ですよ」
「杏子、適当に座っててくれ。アイランズさん、生ものだけさっさと冷蔵庫にしまいたいから、ちっとどいてくれるか」
「ええ、大丈夫です」
 

 ややあって、アイランズと谷崎が出来上がった菓子をダイニングテーブルに運んだ。それから、キッチンの大幅な面積を占拠していた果物も切って皿に出す。
 応神が綺麗な等分にケーキを切り分けるのを見ながら、谷崎は一足先にアッサムのアイスミルクティーに口をつけた。アイランズが丁寧に教えてくれた甲斐あって、初めてとは思えないほど上手くできている。いや、初めてではないかと谷崎は思った。記憶はなくとも、体に染み付いた習慣は思考を置き去りに体を動かす。
 
「話してみるとわかるけど、タニショー、本当に何もおぼえてないんだね」
「ええ、まあ……。わかるんですか」
「うん。なんというかさ、なんとなく見分けつくよ。ヴェールのどちら側にいるかってのは、なんとなく」

 ヴェール。アイランズも言っていたその言葉の意味を反芻し、谷崎は甘いケーキを一口切り分けた。稲羽は屈託のない様子で応神やアイランズと談笑している。柄にもなく“疎外感”のようなものを感じて、谷崎は喉を潰す疎ましい思いをミルクティーと一緒に飲み込んだ。

「もしかしたら早くあるべきものに戻りたいって思ってるかもしれないけどさ。不安だろうし。でも、あんまり焦ることもないと思うよ」
「自分のあるべき姿とか、そういうのって進んでくうちになんとなく見つかるものじゃん?探そうと思って見つけられるもんじゃないから。最悪ずっと記憶がそのまんまなくても、また新しくたくさんのこと、積み上げてけばいい。ちゃんと歩いてきた道のりは無駄にならないから、そう焦ることもないよ」

 その声音は、夜のいちばん静かで美しいところをそのまま音にしたような、静謐な響きがあった。
 下ろした金の髪の隙間から、兎の形のピアスが揺れている。稲羽は残り少なくなったケーキを飲み込んだあと、「ね、なぎくん」と応神に水を向けた。応神は仏教面でミルクティーを飲んでいる。思い当たる節でもあるのかと思ったが、あまり深掘りするのはやめておいた。アイランズは涼しい顔で二切れ目のケーキに手をつけている。目が合うと、口元を緩めて微笑まれた。
 
 応神もそうだが、アイランズも綺麗な顔をしている。睫毛から落ちた影に深い色が満ちるのを、谷崎は芸術品かを値踏みするような目で見ていた。まるで空のように、鏡のように、移り変わる世界を映し取る色だ。彼はいつもこんな目で、交渉のテーブルを前にするのだろうか。見たこともない光景を脳裏に描き、谷崎は静かに目を伏せる。

 黙り込んでしまった谷崎と、微妙な顔をしている応神を交互に見た稲羽が、話の結論をつけるように笑って言った。
 
「まっすぐ進まなくたって、自分がなんなのかよくわからないまま生きてたって、それもそれでいいかなあとは思うよ?最後はちゃんと自分の望んだ目的地にたどり着いて、ああよかったなあって思えればそれで」
 
 

03

「お前、もう記憶戻ってんだろ」
 
 なんてことないように、ただ淡々と事実を述べた応神に、谷崎翔一は狂ったウサギのような笑みで応えた。 
 
 

04

 起きろ、と声をかけられ、もぞもぞと寝返りを打った。
 最初は聞き間違いかと思ったが、どうやら声ははっきりと、自分に向かって放たれているらしい。ぐずぐずと布団の中にうずもっていると、そのうち肩を掴まれた。なんだい、と声をかけて瞼を開く。

「出かけるぞ」
「…………どこに」
「決めてねえ。とりあえず出かけるぞ」

 コンビニくらいには行ける服装にしておけと言われ、ぼんやりとした頭でタンスの中に手を入れた。とりあえずズボンを履き替え、Tシャツを一枚羽織る。半ば腕を引かれるようにして車に乗せられ、谷崎は目を擦りながらシートのヘッドレストに頭を預けた。

「……どこに行くんだい」
「うーん。とりあえず海にでも行くか?」
「海?」
「俺は結構好きなんだよ、海」
 
 応神の愛車『34型GT-R』は、基本的に乗り心地が二の次の車である。ただ、そのシートと走りが、谷崎は結構好きだった。体に馴染んでいる、とでも言うのだろうか。隣にいる応神への安心感が、そのまま車にもたらされているのだろうか。
 
「夜、家を抜けて海に向かってドライブか。まるでデートみたいだね」
「言ってろ」

 夜の底の中に流れていく景色は緋色、藍色、金色。色とりどりの光が閃光のように視界に放たれては過ぎ去っていく。星空のことを夜空の宝石箱と言うことがあるが、この夜景の方がよほど夜の宝石に思えると谷崎は思った。眩い闇の中共有された沈黙が非日常的な空間を包み込み、夢のような景色と、足を下ろした現実の境界を曖昧にしていく。

「どうでもいいんだけど──あんまりよくないかもしれないけど、キミはこの車どこで手に入れたんだい」
「なんでだ」
「だってミッドナイトパープルこの色、確か限定生産だろう?五百万くらいしたと思うよ」
「…………知らなかった」
「知らないで乗り回してるのかい。あまつさえ財団の手で改造までさせて」
「もらい物なんだ」
「こんな高級車をポンと譲る人がいるのかい?さすが応神家に関わる人間は気前がいいね」

 その言葉に何も返さず、応神はハンドルを切った。急激なコーナリングでも体を掴んでくれる車体が、谷崎の体をシートに押し付ける。そのままエンジンを一段階加速させた応神に、谷崎はやや咎めるような目を向けた。ぼすりと背もたれに体を預け、勢いに任せて流れていく外の景色を眺める。小さい頃は何も考えずに車に本を持ち込んで案の定酔うような子供だったので、意識して乗り物の動きを感じる癖がついていた。

「でもお前、好きだろ?この車の色」
「もちろん」

 間髪容れずに応えた谷崎を一瞥し、応神はまた運転に意識を向ける。いわゆる走り屋と呼ばれる人々が愛用していたこの車は、その冠に恥じず快調な働きをしてくれた。エンジンは年季を感じさせず動き、財団の幅広い改造にも耐えうる柔軟性を持っている。

「……あれこれ急に連れてこられてしまって、なんだか腹が減ったな。何かあるかい?」
「非常食用の鯖缶がある」
「さばかん」
「鯖の味噌煮だ。後部座席に積んである。適当なところで止めるから、その時に取れ」
「……冗談だよね?」
「冗談だ。下に置いてある袋にスナック菓子が入ってるから、食べていい」

 言われるままに下を見ると、エコバックの中にいくつか菓子が入っていた。その中の一つを選び取り、カップ状になった蓋をペリッと剥がす。棒状の菓子をポリポリと食べていると、不意に応神が口を開いた。

「……杏子が帰った後。お前、眠いって言って昼寝しただろ」
「ああ、したね。なぜだかひどく体がだるくて重くて、眠かったんだ。まるで、パソコンが同時にたくさんのソフトを開いてるから、一つひとつのソフトの処理が重くなっているように」
「ただ、まだ俺はお前の部屋のベッドメイキングをしてなかった。だからとりあえずお前はソファで、タオルケットにくるまって寝た」
「お世辞にも寝心地がいいとは言い難い。そもそも寝られるか寝られないかにムラがあるんだから、やはりどうせなら柔らかいベッドがいいね」
「で、起きてきた。その後、されてばかりだと悪いから夕飯の手伝いをすると言ったんだ」
「……今のぼくはあまりしないことだね」
「で、俺は断った。そうしたらお前は分かったと言ったが、キッチンを出ていく時、お前がいつも使っているウサギのマグカップを持っていったんだ」
「……それで?」
「俺は、それが翔一の物だと教えてなかった」

 谷崎はため息をついた。体を前に傾け、その体勢のまま前髪の隙間から応神を見やる。

「……続けて」
「その後、お前はタオルケットを片付けに行っただろ。普通は洗濯するか元の場所に戻すか聞くと思うが、躊躇いなく、洗濯に」
「……」
「他にはまあ、思うところは色々あった。だが、確証を得たのは夕飯の時だ」
「夕飯?」
「お前の顔を正面から見て分かった。目の色が見慣れた色に戻ってる。色が違うと思っていたのは、光の加減や見る角度や、俺の記憶違いじゃなかったんだ」
 
 榛色を含めた色素の薄い虹彩は、光の当たり方や見る角度によって微妙にその顔を変える。応神は谷崎の目を真っ直ぐ見た時に見える鮮やかな碧も、角度によってはその碧を混ぜて溶かし込むヘーゼルも好きだった。ただ、応神に対し「どちら様ですか」と拒絶した青年の目は、緑の気配を内に宿した透き通るような碧眼だったのだ。
 
 それを聞いた谷崎は、微かに目を見開いた。それから肺の中の息を長々と吐き出すようなため息をつくと、はぁ、と応神の方を見る。

「……キミってさあ。ぼくのこと大分だーいぶ好きだよね」
「あえて語弊のある言い方を選ぶな」
「悪い気はしないよ」
「嫌いな奴と四年も同居できる訳──今なんか言ったか」
「別に何も?」

 谷崎がポリ、と菓子をかじる。応神は一瞬怪訝そうな顔をしたが、まあいいかとでも言いたげに運転に戻った。夜の闇の中でサングラスを着けるほど応神は酔狂ではない。彼は今素顔を晒していた。端正な横顔に嵌め込まれた瞳はさながら、夜の中の一番深くて静かなところを形にしているようだと谷崎は思う。ただ、時々入り混じる金の光は、夜に佇む静謐な月光というより、朝に浮かぶ高雅な天日を思わせた。
 

 しばらく車に乗っていると、やがて水面が見えてきた。窓から入り込む涼やかな風が頬を撫でる。谷崎はスナック菓子にノロノロと手を伸ばしながらしばらく倒景を眺めていたが、やがて前を向いて椅子に収まった。

「ぼくはどこに連れてかれるんだい?」
「なるべく人がいないところがいいな。今日は飛ばしたい気分だ」
「もう既に結構スピード出 、」

 危うく舌を噛みそうになって、谷崎は慌てて口を閉じた。応神がまた一段スピードを上げたのだ。走り屋愛用というだけあって加速力の強いGT-Rは、スピードを求める持ち主に真摯に──とは言えずとも、相応に応えてくれる。鮮やかなドライビングテクニックを披露しながら、応神はどんどん夜の奥の方へ車を走らせていった。

300キロ限界を超えた世界を見たくないか?」
「遠慮しておくよ。まだ命は惜しいんだ」
「俺に命が預けられないのか?」
「キミ酔ってるのかい?飲酒運転は犯罪だよ」
「はっ、そんなことやるかよ。プロの走り屋曰く、男はスピード浪漫は求めても事故と犯罪は求めないらしいぜ」
「いやそもそも改造自体が犯ざ──」
 
 応神が珍しく──本当に珍しく、快活に笑いながら車を走らせる。この車の元の持ち主のこと、「プロの走り屋」のこと、応神がどうしてこんなに饒舌なのかということ、聞きたいことは色々あったが、とりあえず谷崎はぐんぐんと前に進む車に思考が根こそぎ持っていかれていた。車とは前に進むものなのだなあと、本当に当たり前の事実を当たり前以上の場所で叩きつけられる。いつの前にか辺りにあったはずの車も、夜景も見えず、横にはただ広い海が広がっていた。

 ゆっくりと、車が平常の速度になる。

 黎明を染め抜いたような色の車が、閑静な沿岸道路を走っていく。谷崎はようやく人心地ついた様子で深呼吸をした。先程まで視界を鮮やかに彩っていた藍色や緋色や金色はどこにもなく、ただ深い夜の闇が世界を描き出している。谷崎は自分を形作る境界がぼやけて、この夜の中に溶けていってしまうような錯覚に陥った。
 運転手の邪魔をしないようにと思いながらも、腕は無意識に横へ伸びる。谷崎の指先は応神の羽織ったコートの裾を掴んだ。ん、と応神が僅かに視線をこちらに向ける。
 
「……目的地は?」
「決めてなくたって来てくれるだろ?」
「キミと一緒ならね」
「はは。どうも」
 
 車が加速する。谷崎はもう舌を噛みそうにならなかった。スピードに身を委ねると、暴力的なまでの圧の中に確かに、何かを引きちぎって吹き飛ばすような爽快感がある。谷崎は声を上げた。声を上げて、笑った。自分からこんなに激しく情動を揺さぶるのは数年ぶりのことだった。
 
「あのねえ!薙くん!」
「なんだ!」
 
 風圧とスピード感でうまく声が届かない。今の谷崎にとってはそれすらも可笑しかった。けらけらと笑いながら、顔だけは真っ直ぐ前を見たまま、運転席の応神に話しかける。
 
「例えぼくは!キミが応神家の後継ぎじゃなくても、あれこれトンチキな術が使えなくても、キミを選んでたと思うよ!」
「そうか!」
「ぼくはキミが財団職員だったからとか!応神家の人間だったからとか!そういうんじゃなくて!キミがキミだったから選んだのであって!」
「おう!」
「だから!キミは応神!薙として!自分の価値をちゃんと誇っていい!」

 急に車が減速した。シートベルトに縛られた体が軽く浮かび、そしてシートに叩きつけられる。谷崎は若干の避難の目で応神を見上げたが、その微かな苛立ちはすぐに収まった。
 

「薙くん」
「うるせえ」
「顔赤いよ」
「うるせえっつってんだろ」
「罵倒の語彙をあと三倍は増やした方がいいね。人をからかうことに余念のないあの元祖黒コート女にご教授賜ってきたら?」
「由倉さんは関係ねえって」
「そういや、面と向かって褒めたのは初めてだったね」
「ばかやろう!」
 

 応神が思い切りアクセルを踏む。谷崎は今度こそ思いきり舌を噛んだ。口を押さえてうずくまる谷崎をちらと見て、応神は熱くなった顔を誤魔化すように前を向く。

「……薙くん、窓の外見られるかい?」

 ようやく舌のダメージから抜け出したらしい谷崎が、まだ軽く口を押さえながら言った。

「…………なんだ」
「夜明けだよ」
 

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「綺麗だな」
「そうだね」

 谷崎が放置されていたスナック菓子を噛む。朝日が応神の横顔に陰影を落とし、境界を浮き彫りにした。(マブい……)やはり応神には朝日が似合う。濡羽色の髪に鮮やかな金の光が浮かんでいた。
 
「あのな、翔一」
「何」
「お前が記憶を無くして、俺のことを『知らない』と言った時、俺は自分が思った以上にショックを受けてた──と思う。お前が俺のことを知らないのは嫌だったし、お前に名前を呼ばれないのは辛かった」
「……そう」
 
 応神が言葉を詰まらせる。自分でもうまく言語化できていないものを、なんとか言葉にしようと声を継いでいるような様子だった。谷崎は静かに応神の言葉を待つ。谷崎は、応神の滑らかな声や、均整の取れた音の一つ一つが好きだった。それらは彼に元々備わっていた音による共感覚によって形を持ち、谷崎によって心地いいものとして定義されている。
 
「俺は多分、お前がいなくても生きていけたと思う。ただ、今の俺にとって、お前の存在は唯一無二だ──少なくとも、今の俺はそう言い切れる。お前の危機には背を守りたい。お前が苦しい時には隣にいたい。我儘かもしれないが──俺はそう願ってる」
「……」
「翔一。俺は、お前の太陽でありたい。だめか」
 
 
 夜の底に沈む二人を、金烏の羽が静かに掬い上げようとしていた。
 
 
 

幕間


お父さんとお母さんは、お空の向こうへ行ったの。今は会えないけど、遠くから翔一のことを見守ってるわよ
 
 
 谷崎翔一の人生には、物心ついた時からいつも、考えてはいけない空白があった。
 覗いてもそこには何も見えない。ただ吸い込まれそうなほど黒くて、痛いほど静かな無があった。

 自分の中に埋められない隙間があることを幼い頃から自覚していた彼は、やがて自分の外にある何かで空白を定義することで、自分を形作るのが上手くなった。自分の内面にはぽっかりとした空しかないのなら、まずは踏みしめるための地を作る。

 このままだと寂しい。このままだと、この世界は自分一人になってしまう。暗闇は怖くて、一人は嫌だった。
 地面の上にたくさんの物を置いた。色鮮やかな世界の中を歩いていくたびに、地面の上はどんどん華やかになっていく。石、花、木。水を作って、草を生やして、動物を入れた。
 光源がなかったから、薪を置いた。燃やし方まではわからなかったけれど。
 
 自分は全然、かわいそうではなかった。抱かれた記憶などろくにない両親の代わりに、優しい母親がいる。寂しくはなかった。新しいことを知るたびに、自分の中の世界には花や魚が増えていく。怖くはなかった。たとえ夜は母親が知らない顔をしていても、朝になればいつものように、平穏な一日が始まるのだ。
 

暗転。

 
 足元には、燃えることのなかった薪だけが残っていた。
 呆然として、何もかもなくなってしまったような世界を見る。こんなはずではなかったのに。こんな場所で生きたかったわけではなかったのに。消えてしまった。守れなかった。名前を付けることもできない曖昧な絶望感だけが、いやに質量を持って頭の中を支配していた。
 
 体だけ成長したのに、心はいつも、銃声の鳴り響く世界の腕の中で永遠に止まっている。
 

反転。

 
 それから谷崎は、自分の空白の中に物を置くのをやめた。
 何もなくなった世界は砂と空しかなくなったが、別にそれで構わなかった。色鮮やかな景色も、心を弾ませる情動も、自分には何もいらない。ただ、目の前に映る世界を直視し続けた。

 苦しくはなかった。「普通」の人たちはずっと見てきたから、常人のふりをして周りに溶け込むのは容易い。辛くもなかった。自分というものをきちんと定義すれば、外部からの手で自分が揺さぶられることなどない。怖くはなかった。覚えのない記憶も、所詮はただの夢なのだから。
 
 まともではなかった。
 
 どうして空は青いのか、どうして星には線が引かれたのか、どうして生きていたものは死んでしまうのか、まともに考え続けてしまった。科学という言葉で轢き潰されていく小さな子供の空想、妄想を、捨てきれずに匿ってしまった。どうして人は夢を見るのか、どうして感情というものがあるのか。
 抑圧した感情を箱に詰めて、子供の頃の純粋な疑問に鍵をかけて、心の一番奥の奥、自分でも見ないことにしている深層に押し込めた。自分と世界を繋いでいたそれを、大人になる過程で、くだらないと消し去ってしまうことができなかった。
 
 不幸を詰めたパンドラの箱。底を知らないふりをして、心の奥にしまい込む。奥にたった一つ、自分が信じた「希望」を庇うように。
 

再転。

 
 足元を見るのをやめて、空を見上げる。そこに月はいらない。その輝きは自分を惑わせるから。そこに星座はいらない。自分の秩序は、羅針盤などなくても自分でわかっているから。

 己の形を定めてしまえば、もう何も恐れることはない。深く暗い穴にも飛び込めるし、情動に振り回されることもない。一寸先の闇は見えないけれど、自分が信じた道がそこにあればどこまでも進むことができる。
 “エージェント・谷崎”がどうであれ、いつでも自分はたった一つ、選んだ真実を信じ続けることができる。

 見上げた先には、たった一つの揺らぎない太陽
 藍色の空に浮かぶ金色の輝きは唯一無二。永劫不変。いつでも谷崎を導いてくれている、たった一つの道標。
 

不退転。

 
 結局のところ、谷崎翔一はこの世界を嫌いになりきれなかったのだ。
 
 
 

終幕 彼方と此方


それでも、キミは希望を望むだろう、“谷崎翔一”。
決意を固めて、覚悟を決めて、進めばいい。キミの太陽はそこにある。


 

2017年8月13日

 いつもどおりの朝だった。
 
 谷崎は見慣れた自室のベッドの上で目覚めた。硝子の瓶の底を通して覗き込んでいるような、鈍い陽光が瞼を叩く。麗かとは最も遠いところにいる日差しがカーテンの隙間からこぼれ落ち、谷崎は眩しげに目を眇めた。

 コンコン、と扉を叩く音が鳴る。谷崎は小さくうめき声を上げた。再びのノックの音。夏特有の、湿った熱の籠った部屋の暑さ。さざ波のように脳を揺らした小さな違和感を振り払うように身じろぎをした。

「どうぞ」

 気持ち声を張り上げたつもりだったが、思った以上に力がなかった。少しの躊躇いがあって、身なりを整えた同居人が部屋に入ってくる。廊下の光が部屋の中にこぼれ落ち、谷崎は薄くなったタオルケットに体をうずめた。
 同居人の落ち着いた音が聞こえる。ざっとカーテンを引かれる音が聞こえ、瞼を鋭い日差しが突き刺した。

「おはよう翔一」
「……おはよう、薙くん。すまないが、カーテンを……」
「残念ながらそれは聞けない。駅の時間があるだろ」
「駅…… あ」

 ようやく合点のいったらしい谷崎がもぞもぞと起き上がる。それを半ば呆れたような目で一瞥してから、応神は一足先に部屋を出た。
 

 応神薙は、盆暮れ正月には絶対に帰ってこいと実家から厳命されている。毎年応神一人で帰省していたが、今年はせっかくだから友人も連れてこいと誘われたのだ。一人で行って気まずい空気で帰ってくるより、せっかくだから谷崎やアイランズと一緒に行き、楽しんだもの勝ちだと応神はその誘いに乗った。
 
 谷崎とアイランズが応神の実家に行くのは二度目である。谷崎は寝癖でひどく乱れた髪の毛を抱え、洗面台へと向かった。応神の父親──風路は礼儀に厳しい。具体的に示してはこないが、相対するあらゆる要素から確実に人間を見定めてくる。言葉や視線を巧みに操りさりげなく、しかし確実に価値を値踏みしてくる姿と、応神とよく似ているのに中に詰められたものはどこまでも噛み合わない人格を思い出し、谷崎は肩をすくめる。

 一つ瞬きをして、鏡を覗き込んだ。榛色の目がこちらを見返している。
 
「お前は谷崎翔一だ」
 
 ばしゃりと水で顔を洗い、鏡の前でついと笑顔を作ってみせる。くるりと踵を返して立ち去っていく背中を、鏡の中の谷崎翔一は感情のない目で見ていた。
 
「おはよう、薙くん。出発はいつだっけ?」
「九時過ぎにアイランズさんが来て、半に出発だ」
「今何時?」
「七時半過ぎ」
「キミの作った朝食を食べながら優雅に新聞でも読もうかな」

 谷崎は冗談めかして笑おうとしたが、寝起きの鈍い筋肉は彼の思うように動かなかった。谷崎がコーヒーを淹れにキッチンへ立つ横で、応神が二人分のフレンチトーストを作ろうと卵を溶き始める。

「そういや、キミのお父上から家に来いと言われた時、随分あっさり了承したね。例年のキミなら数日前から露骨に不機嫌そうな顔して、当日は死刑台へ登る囚人のような顔をして家を出ていたじゃないか。どういう了見だい?」
「まあ、ご先祖さんへの礼を欠かす訳にもいかねえしな。……それに今年は、翔一お前がいる。アイランズさんもいる。それだけで、なんとなくうまくいく気がするんだ」
「大層な信頼だね」
「そこは素直に受けとっとけ」
 
 応神が手際よくパンを乳液に漬ける横で、谷崎は棚からアールグレイの茶葉を取り出した。本場英国の方法で行う、ティータイムの主役を飾るこだわりの紅茶。初めてその世界を自分に伝えてくれた蒼い目の元上司を思い出し、谷崎は微かに口元を緩める。
 
「そういや前回キミの家に遊びに行ったのは正月だっけ?本当にいろいろいたけど──今回は、あんなものが出たりしないだろうね。おかしなしきたりとか、トンチキヒューマンの来訪とか」
「ない訳ないだろ。……まあなんだ、大事なのは、決してあっちの世界に呑まれないようにすること、だな。境界をちゃんと自覚して、自分の位置を正しく見定めるんだ」
「……何というか、なんでキミの家はいつも一筋縄ではいかないことばかりなんだい?」
「俺は子供の頃みんなそんなもんだと思ってたぞ」
「そんな訳ないだろ」
 
 耐熱硝子のグラスに紅茶がなみなみと注がれ、氷が跳ねる。応神は焼き目がついたパンをひっくり返した。いい色になった焦げ目に満足したのか、心なしか機嫌よさげに細められる目を、谷崎は片手間で盗み見る。夜の色をした瞳に金の光が瞬く双眸は、時に彼の口や態度よりも饒舌に物を語ることを、谷崎は知っていた。サングラスに──壁に隔たれない応神の言葉や感情を直近で見ることができるのは、ある種役得めいたものがあると谷崎は思っている。
 
「そういや薙くん。この間行った人生初のプラネタリウム、どうだった?」
「人生初……?ああいや、そうだな。まともなやつを見たのはあれが初めてだ」
「未来館のドームは最新機器を使った美しい星空が売りなんだ。どうだい、綺麗だったろう」
「そうだな」

 応神はフライパンに集中しながらも、谷崎の言葉を考える。谷崎は応神に渡すための砂糖とミルクを棚から出していた。甘い物をこよなく愛する応神は、いつも谷崎が半ばうんざりするほど甘い物をさらに甘くする。
 
「星には詳しくなかったが、ちっとは知識がついた。今度は、お前と星空でも見に行くか。──あの車で」
 
 フレンチトーストを一度ひっくり返す。いい焼き色が付いていた。
 
「……あのさ、薙くん。もしもぼくがうっかり足を踏み外して彼方側に連れ込まれようとしてしまったら、キミの手でちゃんと連れ戻してくれよ」
「もちろん」
「その代わりぼくは、キミが足を踏み外しそうになったら、きちんとその手を掴んで引っ張り上げてみせよう。ぼくといる限り、キミを迷子になんてさせない。ぼくたちが定めた道がどこに繋がっているかはまだわからないけど──きっと正しく何処かに辿り着くだろうと信じて、進んで行こう」
「朝飯作りながら言う話じゃねえな」
「そりゃそうだ」
 
 パンを火から下ろして皿に盛り、砂糖とはちみつをかける。応神の分は砂糖もはちみつも多め。谷崎の分は砂糖少なめ。完成したフレンチトーストを見た谷崎が、とっておきを自慢するようにできたてのアイスティーを手で示した。
 
「きっと俺は、お前とならどこまででも進んでいける気がするんだ」
「ああ、ぼくもだよ。キミの手を取ったのは間違いじゃなかったと、そう思ってる」

 ここではないどこかでは、ぼくたちもしかしたらいい友達になっていたかもしれないね。そう言って谷崎が笑う。応神も目を細めて笑い、谷崎のアイスティーと共に二人分の朝食をテーブルに置いた。
 
 
 夜の底、紅鏡の傍ら。役者は未だ眠れど、脚本物語は否応なしに動き始めている。
 窓の外では太陽が上り、世界の境界を音もなく描き出そうとしていた。

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