「あなたがわたしの。」
「そうだ、私だ。」
不自然な部屋の中、長い髪とひょろりとした足を不自然に動かしながら、彼女は何か言うことを探していた。金属製の椅子を引き摺るひどい音が部屋に反響して、彼女の歪んだ爪は使い古されたマットレスに食い込んだ。
服が擦れる音と小さな唸りの後に──それが男の声なのか椅子の音なのか彼女にはわからなかったが──向かいの男は椅子に座った。
彼女は小さく首を傾げ、伸びすぎた髪を視界の外に追いやりながら訪問者の方を見た。
「私は──ええと、お前を見た瞬間からお前のことがわかったよ。いままで本当に会ったこともなかったのにな。」
小さな笑いがあった。「ああ、そう思った。」残酷な笑い方ではなく、彼自身この状況に対する心の準備ができていないことを示すような、脳で深く考えずに、不器用にも話を始めているような笑いが。「お前と話がしたかったんだ。」
彼女はちょっとの間彼の目を見て、なんらかの感情の動きを探った。「あなたが置いていった手紙について知りたかったです。」彼女は黙り込んだ。彼女は何年もの間この男に言いたいことについてたくさん考えてきたが、いざ彼を目の前にすると、言葉はまるで紙片のようにこぼれ落ちてしまった。口が乾いていた。
「他にいい方法がなかったんだ。」彼は彼女から決して目を逸らさなかった。彼の口は薄く笑みを浮かべていた。後悔でいっぱいの笑みを。
彼女があごを少し上の方に傾けると、髪が激しく滝のように落ちて顔を覆った。巻き毛。絡まっていた。話を続けろという彼への誘いだった。「払ったよ──」彼の太い、古傷だらけの腕が部屋の周りを指すような身振りをした。「細心の注意を。」
はっきりとしたため息。彼女は、彼のそれに似た渋い笑顔を浮かべた。「注意ですか。」彼女は呟いた。「近ごろはそういうふうに呼ぶことに決めたんですか?あれは注意なんかじゃない。」彼女も身振りをした。「これは、わたしのせいではない理由でわたしを閉じ込めている動物園です。」彼女のぎこちない話し方は、言葉の響きをより皮肉っぽく聞こえさせるだけだった。結局のところ彼女にとっては、誰かに対して悪意を抱くと言うこと自体が今まで教えられてきたことすべてに反することだった。しかし、もしかすると、長年に渡って一人でいた間に無意識にも彼女は怒りの湖を構築していて、湖のダムが今決壊しようとしているのかもしれない。
もしくは、皮肉っぽさとは遺伝性のものであるかもしれなかった。
部屋に流れる空気そのものが、目に見えて居心地の悪いものだった。大柄な男が眼をぐるぐるとさせながら目前の少女に視線を戻し、肘を膝につくと大きな音がした。彼は指の関節を擦った。「居心地が悪いってのはわかってる。だが──」
「居心地が悪い。」彼女は訝しんだ。「ごめんなさい、でも、居心地が悪いなんてものじゃありません。あなたは自分が制御できないことのために獣みたいに檻に閉じ込められていないから。」彼女の言葉選びは、まるで会話の間に仕掛けられたワイヤー罠を制御しているかのようだった──ゆっくりと、とても用心して。彼の視線は彼女から離れ、殺風景な部屋の隅に向かっていった。「会いたかったよ。」彼の膝は落ち着きなく揺れた。
彼女は自分の膝を見つめ、ぼんやりと髪にできた玉結びを手でつまんではいじっていた。「もっと早く来られなかったんですか?」
また小さな笑い。「あの手紙をお前に届けるのでさえ大変苦労したんだ。ここにいられるのだって奇跡だよ。」彼女はその言葉を聞いて少しだけ目を輝かせたが、いちばん頑固な玉結びをほどく作業をやめなかった。「聞いてくれ、私はこうしたいんだ──」
「あなたが彼女を殺したんですよね?」
膝の揺れが止まった。笑顔は消えた。
「あの手紙の中であなたは、あなたが……あなたが殺したって言っていました。彼女を。わたしのお母さんを。」彼女の声は僅かに揺れて、どうして自分は会ったこともない女の人に対するここまでの悲しみと彼女を殺した男の人に対する軽蔑をまだ抱いているのだろうか、と心に思った。
数秒後には彼の口元に小さな笑みが戻り、広い肩を椅子に預けて軋ませながら何食わぬ顔で座っていた。「ああ、そうだ。夫婦喧嘩domesticでね。」身の毛のよだつような不愉快な笑い方だった。
彼の目を見るだけでわかった。彼は質問に答えるのに、ほとんど考えることすらしなかった。嘘は息をするのと同じくらい簡単に彼の舌からこぼれ落ちる。
「わたしは教わりました。」彼女は姿勢を正しながら言った。「嘘をつくことは罪であると。」
爆笑、しゃがれ声で。「“修道女を信用するな”と聞いたことがないのか?うさんくさい女どもだよ。」彼は少し、シャツについているボタンに親指で触れた。彼の腹の重みから、服の生地は既に伸びていた。「自分を気にもかけないものを崇拝してやがる。お前ももう気がついてるとは思うがな」
「こんなふうに生きていると、やさしい神様を信じるのは難しいです。すべてを愛されたもう神が、わたしにこのような呪いを与えるでしょうか?男のひとに──」彼女は自分自身を抑えた。研究員たちはいつも、彼女に自分の経験について話させようとしてきた。話したくなんてなかった。
「ああ。」あの笑顔は消えて、彼女は確かに男の眼に光る悲しみを見た。「そうだろうな。すまない。」
彼女はため息を吐いた。「そのことについて悔やまないで。わたしのお母さんにしたことについて悔やんでください。」
彼の眉間に寄っていたしわが、微かにやわらいだように見えた。「私は私の行いを後悔していない。お前を彼女に会わせられなかったのについてはすまなかったと思うが、」椅子の向こう側で、彼は肩をすくめた。「後悔はしていない。」
彼女は頷くことしかできなかった。例の感情が再び喉につかえた。覚えてもいない誰かの死。この無愛想で太っていて愚かな男が、生きた彼女の親であるという皮肉。おそらくは親であるという。
彼女は別の玉結びを強く引っ張り、頭皮に感じる痛みを無視した。彼女には怒る権利があった。あらゆる権利が彼女にはあった。
けれど、そうすることはできなかった。
この男に関するすべてのことが彼女を傷つけた。同時に、この男に関するすべてのことが彼女を癒した。心臓と脳が互いに矛盾を孕んでいた。一方は愛することを、もう一方は嫌悪することを薦めた。彼女はどちらに従うべきか、本当にわからなかった。
「わたしが思うに、」考えた末に彼女は言った、「あなたにも理由があったんでしょう。わたしに理解できるとは思えないし、本当を知ることも望まないけれど、あなたにはきっと理由があったはず。」
彼女は感じよく振る舞おうとした。自分が怒りに支配されたとき、何が起こるかを彼女は知っていた。それは以前に起こったことがあったし、また起こるであろうと言うことを彼女はわかっていた。けれど、今ここではいけない。彼女が未来を望むのならば、冷静でいなければならない。
彼は彼女の考えを理解しているようだった。まるで覆われた眼の向こう側に何が動いているのか探ろうとするかのように、少しの間彼は注意深げに眼を細めた。けれど彼女は、彼自身と同じくらい隙を見せないことに慣れすぎていたので、彼女の視線の意味はほとんど見通すことができなかった。
ふたりの間には沈黙が訪れ、ぎこちなさが──不自然がunfamiliarity──尾を引いたが、暖かいやすらぎが徐々に入り込んで来ていた。
「もしお前が望むなら、私は裏で糸を引けると思う──」
「クレフ。」部屋の中のスピーカーが、短いハウリングと共にがなり立てた。「会議室Fからの呼び出しがあります。ドアに近づいてください。」
クレフは目を丸くした。彼は椅子を軋ませながらゆっくりと立ち上がり、手を悠々とポケットに滑り込ませた。「呼ばれたみたいだ。」
彼女も本能的に立ち上がった。スピーカーが再びがなった。「SCP-166、あなたは部屋が無人になるまでその場所に留まりなさい。」
そして一瞬、ふたりの間の数フィートが広大な海のように思えた。髪の下から彼女は手を伸ばし、そうして引っ込めた。彼女はどうすればよいかわからなかった。数ヶ月ぶりに不安を感じた。
彼女が寂しげな表情で彼を見つめると、彼の大きく開いた口元に一瞬だけ悲しみの笑顔が浮かんだ。「なあ、心配するな、」彼はドアに向かって歩きながら言った。「私は……私はもう二度とお前を一人にはしない。」その言葉は不器用で、ドアが開くと少しの機転もなく地面に落ちた。
そして、彼女が手を振っているのであろうと推測した小さな身振りと共にクレフは部屋から消えた。
背骨に溜まっていた緊張を解くと同時に、彼女は背中からベッドに大きく倒れこんだ。そして一瞬、彼女の頭蓋の中に、あるひとつの言葉が響いた。
うそつき。