実験
評価: +10+x

午後7時35分、針が動くと同時に天井の照明がまたたいた。

四方八方の壁には人の上半身が映り込む程しかない高さと長さに調節された鏡が配置され、それを支えている枠には簡素なコンクリートのみが採用されている。

あまりにも剥き出し状態のそれらはもはや建設業者の怠慢を象徴する様で、天井、床、そしてこの四角形に区切られた部屋の備品である鉄製の机と椅子にすらも純然たるそれが見て取れる程だ。

相も変わらず秒針は時を知らせるという作業の進捗を報告し、事あるごとに刻み産み出した新たな「今」の産声うぶごえを私に聴かせている。配線の接触が芳しくない灯りの光が私の目をつんざき、思考することで平静を保とうとする余裕すらも打ち砕いているのだ。

この部屋の出口はただ一つ。今、私の目の前に座っている男の背後にある鉄製の扉のみである。

彼の口が少し開き、言葉を発する。口角が、私をあざ笑うかのようにほんのりと上がっているのが見て分かる。

「どうも、エージェント・『船坂』。今日は、私の個人的な実験に参加してくれて本当にありがとう。さて早速だが、君には二三、質問したい事がある。何、時間が許す限りで良い。あくまで、私は君の意思を尊重するし答えにくいことがあるのならば沈黙を紡いでも構わない。この部屋から出ること以外、君には選択肢が与えられなおかつその身の自由も健在だ。……まあ、その自由というのもある意味、まるで決められた社会規範の中でのみ保証される事柄の中の様な、本当の意味での自由といった感じではあるがね。いやはや、私が言えたことではないとは思うが、君には本当に、心の底から同情するよ。」

己の言いたいことを発しただけの男は、ジェルで整えられた髪を右手で掻き揚げ、終わりに愛用しているであろう赤縁の眼鏡を人差し指で押し上げた。

全体のしぐさはある意味とても優雅で、しかしどこか人間味が感じられず、まるで彼自身がこの無機質な尋問部屋の一部であるかの様な錯覚を覚える。

それが、少しづつ速度を上げていく私の動悸に比例する焦燥感を加速させる。

この男の一挙手一投足には、本来人間にあるべき無駄ともいえる動作や間違いが一切無いのだ。

まるで彼自身が、彼と私の間に置いてある机と同様の簡単なつくりで構成され、言ってしまえば量産化と簡略化を大いに成し遂げたであろうあの椅子と常に一体化している、そんな幻想を私に思い起こさせるのだ。現に、彼もそれがさも当たり前かの様に腰を下ろしながら足を組み、端正に座ったその姿勢を維持している。それを証拠にしてしまえば、その姿が、彼の灰色な人生を表現しているといっても過言ではないだろう。

彼はその姿勢に似合った微笑を常に顔に張り付け、私をまっすぐに見据えている。だが、その瞳の奥に光はなく、どこまでも暗い底が私を延々と射抜いているのがこの現状だ。そこにあるのは未知への恐怖であり、これが人一人の醸し出す畏怖への誘いなのか。私は静かに、ただ静かに驚愕きょうがくする。

経過した時間はほんの数秒程だろうか。

ふと、私は背後に人の気配を感じ取る。

「深淵を覗く時、深淵もまた私たちを覗いている。哲学的でありながら現実を良くとらえている、いい言葉だと私は思うね。そうだろ? 梁野博士。」

私の背後で聞き覚えのある男の声がする。ほんの数分前、私がこの手で息の根を止めたばかりであるはずの男の声だ。

その筈なのに、彼奴きゃつの声が私の後頭部を不快かつ丁寧に撫でるあげるのだ。

その男の亡骸は今、私の前に置かれた机の上で無残にも横たわり捨てられている。その惨状はまるで堪え性の無い子供が遊んだかのように臓物をまき散らされ、皮肉にもその色彩がこの部屋を彩る唯一の配色であるのは言うまでもない。

私は私の両肩を優しく掴んだ彼の男の空気を感じ取り、目の前にいる男とはまた別の感情を高ぶらせながらそれにふける。

殺したい。私は、今すぐこの男を殺したい。

この高ぶりはまさに必然であり、全世界が許した原罪だ。私の嫌う男の行動すべてが、私の苛立ちを助長し、耐えがたい苦痛とはらわたの煮えくりを想起させる。そして、次第にそれらが物理的様相を呈し始めるのが手に取るようにわかり、明確な殺意が私の中に再び湧き上がるのを感じる。

私は殺す。私は、お前を絶対に殺す。

「ええ、その通りですよ。『大和』博士。」

刹那、赤縁眼鏡の優男によって私の思考は遮断する。

二人の雰囲気はまるで軽い談笑をする様子であり、この場の状況すらも話題の種のように会話を続けている。

彼らにとっての私は舞台装置の一種であり、時と場合によっては使い捨てられる事でしか役割を果たせないそこいらの駒の様な扱いだ。

なおも会話が続く。

「この私自身、今まさに彼に覗かれている一個人にしか他ならならず、ある意味とてもとてもロマンチックなこの一時、確かに些か幼稚が過ぎる度合いの方が勝りますが一種の共演の様なものを感じています。ああ、なんと素晴らしいこと。まるで私の副交感神経が、博士の手によって直接愛撫されている様。私は今、彼と一つになり、彼の抱いているであろう甘美なそれの舌触りを共に享受しているのです。本当に素敵だ。素敵すぎて、今にも昇天してしまいそうだ。」

「それは結構な事だがね、私の目の前で果てるのだけは勘弁してくれたまえよ。博士、流石の私もそういった趣味は持ち合わせていないし、私自身、比較的Normalな嗜好を持つと自負しているのでね。」

何気ない会話が続く。所謂いわゆるワードサラダの猛襲という奴が、私の事をどこまでも置いて行く。

「ええ、私だってそこはちゃんと弁えていますよ。愛は人それぞれ。何も、貴方に私を強要するつもりもありませんし、そこは構いませんよ。『大和』博士。」

「……それで? 何か変化はあったかな?」

「勿論! 今までに感じたことのない高ぶりですよ! 」

この狂気に塗れた時間はいつ終わるのだろうか。

私にとってはそれが心の全てと成り、一匹、二匹と私の目の前を飛び交う小さな蛾が唯一の理解者と変わっている。私が今視線を落とせる場所も碌に無く、眼の前に転がされているあの憎たらしい小太りな醜男しこおの死体も、心の落ち着く場所足りえはしないのだ。

私が何をしたというのだろう。

私はただ、今も私の背後できっとあのニタニタした笑みをたたえている大悪漢を、この感情の赴くままに殺しただけだ。

これは人類にとっての善であり、悪であるあの男から解放されるためのたった一つの方法だ。

それ以外に彼の害悪を退ける術など、どこにも存在はしない。

私は間違っていない。私は正しい。

これだけは、信念をもって語る事が出来る。そう確信している。

一体、どれだけの時間が経ったのだろう。

まもなく時刻は午後の8時を回ろうとしている。体感の経過時間との差異が激しい。まるで、ここはひとつの宇宙だ。

相対性理論の外側を歩き、概念だけがチーズの様に溶けている。

私が助けを求めて声を張り上げようと既に外界はとっくの昔に滅び去っていて、残された人類はこの私を含めた役の3人だけなのだろう。この空間にいる私と、私と机を挟むように座っている異質な眼鏡の男と、憎き例の太った男とその死骸。ここはどこだ。地獄か。

助けてほしい。

誰か助けてほしい。

「……素晴らしい。『大和』博士。実験は成功です。」

「それは何より。で? 感想は?」

私の目の前で座っていた男が、おもむろに立ち上がりながら語りだす。目は大きく見開かれ、口元には歓喜に満ちているがごとく歪められた耳まで裂ける程の笑顔が生まれている。

「最高ですよ! 今! この時! この場所で! 私は、私は今まさに貴方のことが、心底心底! 暗い感情に支配され、今にも貴方のその首をこの手で、締め上げて……! ああ、なんてことだ! 初めてだ! こんなの私は初めてだ! 素晴らしい……! 素晴らしく最悪だ! 黒く渦巻いて、目の前が赤く染まって、眼前敵を抹殺せよと私に語り掛けている! 素敵だ! 素敵すぎるほどにくそったれだ! 素敵で、悪で、排せつ物的で! これを言い表す言葉はまさに……! これは……。」

ほんの少ない時間、秒針の音が無意味にこだましそれ以降の鼓動が消えてしまう。

男は語りを止め、先ほどまで交えていた身振り手振りのままに静止する。その様は、まるで彼の中にある歯車が急に狂ってしまったかのように滑稽で、どこか哀れだ。

時間が流れる。そして、憎き男の方が先に口を開く。

「……残念だったね。梁野博士。君の言葉を借りるなら、心底、同情するよ。」

私が嫌う男がそう言うと同時に、梁野博士は落胆するかのように首を垂れながら机に両の手を置いた。

顔に張り付いた笑顔をそのままに、あと数cm程下に顔を落とせば、私が葬った彼の糞野郎との接吻が叶う距離でその身を落とす。

「……君への質問を忘れていたね。エージェント・『船坂』。」

矛先が私の方へと向かう。

「興奮してしまって申し訳ない。今、君に訊きたいのはたった一つだ。エージェント・『船坂』。君はどうやって、その感情を彼に抱いているのかね?」

彼は、感情の起伏が感じられない面持ちで私に語り掛ける。

しかし、生憎私には彼の質問の意図がまるで理解できない。意味が分からないと言った方が正しい。

「その感情だよ。私が持ちえないその感情。皆が皆、彼に対して抱いているその思い。私は、彼にそれを抱くことが出来ず、愛することしか出来ない。いつまでたっても特別足りえず、それ以上にはなれないんだよ。教えてくれ。君のその感情を。彼を殺した時のその激情を。……『大和』博士の腹を引き裂き、内臓を引きずり出したその高ぶりは一体どこから湧き出たものなのか。何故、君は彼にそれ程までの感情を抱いたんだ? 君は彼にそれをぶつける事が出来た。どうして、そこまで躊躇いもなく彼を想う事が出来るんだ。……何故、何故、何故。」

彼が私の方へと次第に間隔を詰めていく。私が殺したあの男の亡骸に覆いかぶさる事など気にもせず、彼のスーツと白衣が次第に染まっていくのがこの目に映る。

「お願いだ。教えてくれ。私は今、初めて一瞬だけ彼の事を、『嫌い』に成る事が出来たんだ。外界からの情報を遮断し、今まさにこの場所だけが私達の世界となり、初めて、私の中の新たな正解を導き出す事が『出来た』んだ。エージェント・『船坂』。私は、君を介入させることで私が博士に抱くであろう感情の平均化を防ぎ、大多数に流入するであろう感情の濃度を上げ、それを可能にした。恐らく彼とこのような場所で二人きりになったとしても、彼に抱く感情に変わりは無いだろう。所詮、それではこの限られた世界に取り残されたアダムとイブだ。でも、ここには、君という第三者が存在する。君の存在を私が感じ取り、君の存在を介し、本来、彼に抱くはずだった感情の方向性を示す事で、君が彼に抱いたであろう感情と同等の気持ちを彼に抱く事が出来る。出来る筈だったんだ。なのに、何故。」

梁野博士の額と私の額が、接触する。

「何故、私は君に、こんなにも『嫉妬』しているんだい?」




『実験』
世界から嫌われた男その男に何も抱けなかった男の戯れ

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。