主よ、人の望みの喜びよ
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私はかつて海辺であった処を歩いている。海はとうに干上がり、不毛の砂浜だけがただ続く。時折聞こえてくる怒号と金属音が、まだ私以外に生きているモノがいると知らせる。


始まりは唐突であった。大猿が復讐を始め、大蛇が海を割り、大熊が地に満ちた。あらゆる異常が解き放たれ、財団はもはや公然と活動せざるを得なくなった。組織の垣根なく、平穏を愛する人々は滅びに立ち向かうために団結した。あらゆる知恵とあらゆる技術とあらゆる力を財団は手にした。私も出来る限り彼らに助力したが、この戦いが敗北で終わるだろうという予感があった。

勇気と希望が三日間残っていたことは褒め称えるべきだ。

四日目、火山の爆発でようやっと財団は敗北の事実を受けとめ、彼らが出来る唯一の"やり直し"を行うと決断した。彼らはその後人々を導く道標を集めた。私もその一人であった。私たちはどれか一つでも生き残りその場所に辿り着くよう、散り散りに送り出された。おそらく、まだ辿り着いた者はいないか──辿り着く手段か命を無くしてしまっているかしている。

私を輸送していたトラックは、五日目に地を這い咀嚼する歯車の群に飲み込まれた。乗っていた人々は私を逃がすために全力を尽くし、死んだだろう。生き延びた私が見たのは、聳えるような肉塊と歯車と──少女を王冠のように頭に(それの頭と少女の股座は分かち難く繋がっていた)戴く悪魔が争う光景であった。私は逃げ、逃げ、約束の地を目指した。逃げる間無力な生命が怪異に蹂躙されてゆく様を、ただ見ていた。


悪魔はいつのまにか肉塊と繋がり、歯車の機械と闘っている。疲れ果て、私は歩き続ける意味を見失いかける。平穏な世界を守ることを、私は本当に望んでいただろうか?忌々しいほどに甲高い鳥の声を聞き、私は空を見上げる。


無力な生命が死に絶えると、怪異と怪異の喰らいあいが始まった。私は隠れ潜み、ただそれを見ていた。果てのない殺し合いに定命のものが耐えられるわけもなく、やがて不死不滅のものたちが倦んだように互いを破壊するサイクルへと変化した。それらは争い合うことの不毛さを理解しているにも関わらず、それをやめられないのだ。

争いは地だけではなかった。見上げると空一面に燃え盛る緋色の鳥と、それを塗り潰さんとする青が拡がっていた。私は初めて、赤と青が混じり合うと紫ではなく、見るものの眼を灼くような強烈にして不快な色となると知った。


とうとう脚が動かなくなる。私は立ち止まり、ただすべてを見届けることだけはやめまいと眼を開き続ける。そしてようやく、私は地平線の涯てから来る黒を見、この放浪の終わりを知る。

は腕を広げ、駆けてくるを迎える。私の胸が彼の剣を抱擁し、流れる血と痛みが私に永い償いの終わりを告げ、私の眼は闇に閉ざされる。

だが、闇の中からこそ光が生まれるのだ。

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