掻き出す
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kakidasu

 死体はフルーツナイフを持って扉の前に横たわっていた。頭髪が剃り上げられた死体は骨格から辛うじて男だと分かった。名前も記号も見当たらないので、私は死体を「彼」と呼んでいる。

 彼の寝顔は安らかで、心配事など何もなさそうだった。着せられたグレーの作業服に汚れはなく、清潔が保たれている。青白い肌に塗られた化粧は彼から色を奪い取っていたが、死体が持つ穢れも拭い取ってどこかに捨てていた。彼が左手に持つ小ぶりな刃物だけが異物だった。

 この刃物を見るたびに私は憂鬱になる。隔離された部屋と停滞する時間の中で、ナイフは唯一、私に行動を促していた。この部屋を抜け出さなくてはならない。焦燥を駆り立て、私の内側に行き場のない熱を発生させる。今も背中が熱い。強迫観念から逃れるために視線を天井に投げると、円形の白い照明が私を見下ろしていた。

 私は箱に閉じ込められている。彼もその箱で、外に繋がる扉を塞ぐように眠る。彼を意識から切り離すことは、私にはもはや不可能になっていた。

 状況について、私は何も覚えていない。気がついたらこの部屋にいたとしか説明できない。ベッドに寝かされていた私が真っ先に見たのは自分の着ているグレーの作業服。素足で床に立って、大部分が白で構成されている部屋をぼんやりと見回した。

 角に置かれたベッド、その対称となる位置に便器と洗面台。そこから少し離れて二段式のチェストが置かれている。水と保存食、チリ紙が入っていてどれも使用に問題はない。すべての家具が壁沿いに設置されているため、中央付近には小さな空間が生じている。ここまでがこの部屋の半分で、明確に私の場所だ。大抵、私はこの空いたスペースに腰を下ろし、黙って壁を眺めている。

 私が視線を向ける先には、黒い扉がある。縦長のモザイクガラスが嵌め込まれた現代的な扉だ。モザイクは濃く、奥を覗き見ることはできない。しかしガラスの向こうでは、ちらちらと不安定に光が明滅する様子が伺えた。あの扉の向こうが外。目覚めてから扉を見た瞬間もそれを考え、私は自然に歩き始めた。

 そのとき初めて、床に人間が寝転がっているのを知覚した。それが彼との最初の接触だった。

 彼は部屋に溶け込んでいた。臭いもなく肌も綺麗な彼が死んでいるとは考えもしなかった。私と彼は着ている衣服が同じ。覚束ない頭で、一致する部分の存在に微かな喜びを感じたほどだった。肩に触れ揺すり起そうとする。体温の冷たさに異変を覚え、私は手を払い除けた。

 彼に同族意識を持ったことを私は後悔し、以降、私と彼との間には隔絶が生まれたのだった。

 今も私は部屋の中央に座って「彼の場所」を眺めている。私が時間を過ごす空間と彼が横たわっている空間には、不可視の線が引かれていた。私は盤上で不要になった駒のように黒い扉を見つめるばかりだ。

 結局、扉は鍵が掛かっているせいで開かなかった。取っ手をどれほど執拗に握っても扉が動くことはなく、外に出たいという私の欲求は完全に折られた。折られてもなお、その欲求は思考の端でくすぶっていて脳の容量を圧迫し続けている。

 何もせずに外に出られるほど都合の良い話ではないのだろう。私は鍵を見つけ出さなければならない。膨らんだ欲求が余裕を喰らい、義務感で頭が染まる。破裂寸前の苦しい思考のタンクに、最初に脳裏をよぎった胸糞の悪い思案が浮上しようとしていた。

 きっと私は何かを試されている。懇切丁寧に水と食料が配備され、排泄と睡眠の取れる環境まで整えられている。この部屋の外、ぐらぐらと揺れる光の正体に私の行動を測られているのは明白だった。そして私に何をさせようとしているかも、安直なまでに想像できた。

 彼を見る。脈のない首を、鼓動のない胸を見る。私と同じ色の作業服を通って、左手。

 フルーツナイフが私の視界に映り込む。

 悪趣味な妄想だ。そんなことをしても何の解決にもならないかもしれない。

 説き伏せようとする理性を振り切って、私は立ち上がった。私の場所を脱し、見えない境界線を踏み越える。成分は同一であるはずなのに、彼の場所へと侵入した途端に吸った空気が喉に詰まったように思えた。

 私は彼に目を落とす。結ばれた口から力は感じられない。この身体に熱が宿ることはないのだと実感する。されるがままに身体を放り出しているようにも取れて、その無警戒に場違いな苛立ちが湧き上がった。

 あなたが抵抗できるなら、これからやることを遅らせられたのに。私は彼を睨みつけた。彼は無味乾燥な寝顔を返すばかりだ。沈黙が場を支配して、私が沈黙に耐えられなくなる。姿勢を低くして、私は彼の左手に寄っていく。遠目に眺めるだけだったナイフとの距離がだんだん消え失せていって、実体としての認識が私の中で形作られる。

 私はナイフを彼の手の内から掬い取った。ナイフの温度は彼の体温と重なるように冷ややかだった。柄を握る。氷みたく、この寒冷が私から熱を吸い取ってしまわないだろうか。こそばゆい感覚が私の皮膚の上を走り抜けた。

 作業服のファスナーを探り当て、引手を指で摘まんで滑らせる。私が着ている衣服と異なり、金具は水平方向へ動いた。ポリプロピレンの表面を軽やかな摩擦音がスライドしていく。鈍く開いた私の瞼とは違って、彼の作業服はいとも簡単に開く。鞄の口を開けているかのようだった。

 筋肉質な白い肌が露出する。産毛まで剃られていて、外部からの視線を阻む物質はすべて取り払われていた。私は彼の腹に指を沿わせる。最初に触れたときと同一の温度が私の指先を侵食する。彼からは臭いがしない。穢れと呼べる乱れもない。

 それならどうして、私はここまで彼に忌避感を覚えるのだろうか。

 目眩がした。頭をスイッチする。沿わせた指の隣にナイフの刃を構えたことで、疑念は自動的に流動してくれた。刃の中の私が瞬きをする。水を浴びていないせいで束になった髪と疲弊した眼球が映っていた。

 私はナイフにいる自分を見て問いかける。これしか方法はないのか。金属に投射された私の頭が縦に揺れた。そうか。そうだ。私は自分の背後にある、遠くなってしまった私の場所のことを考えた。

 鍵は私の場所には隠されていなかった。ベッドのマットレスにも洗面台の蛇口にも。保存食に封入されていないかと疑ったが、いくら振っても異音はしなかった。可能な範囲はすべて確認したが、調査に破壊を伴う部分を除けば不審な箇所はどこにもなかった。極力、可能性を遠ざけながら鍵が見つかるように願った。しかし叶いはせず、私の中で後ろめたい確信が敷き詰められていった。それは迂回路が埋められていくのと同義だった。



 掻き出す。



 道を一本に絞られた途端、その動作が喉奥で言語に化けそうになった。誰も言葉で命令はしていないのに、この状況を構成するすべてが私を試している。そう思えてならなかった。

 試しているのは色彩のない部屋であり、部屋の外で観察しているだろう誰かであり、掻き出される彼本人。ファーストコンタクトから、彼は自分の使命と役割について雄弁に語っていた。気圧された私は自分の生活圏に閉じ籠り、彼を障壁と見なして透明な線引きをした。彼越しに開かない扉へと自身の欲求を投げつけ、ぶつけた衝撃で扉が開くのを期待していた。

 だが、寝ても覚めても扉が勝手に開くことはなかった。部屋に時計がなく外光も入らないせいで、何日が経過したかは分からない。水と食料は大量にあり、私が躊躇するのを予期しているかのようだった。

 彼に介入しなければ、この状況からは脱せないのではないか。最初に抱いた懸念が、時間が経つごとに現実味を帯びる。消灯のない天井照明がじりじりと私を焼く。欝々しさと同時に、私の内部では熱が生じる。密閉された部屋では熱はどこにも逃げ場がない。

 ナイフを握る現在の私は、その不快な熱で満ち満ちていた。

 柄を握り締めた手を高く振り上げる。冷たいナイフが私にこもった熱を吸収することはなく、逆に私の体温が伝播して刃は温くなっていく。あれほど遠ざけたがった凶器は、融解して私と一体になっていくように感じられた。

 熱が、また私の内部で噴き上がる。新たに生まれた背中の熱さが身体の真ん中を通り、掲げた腕に流入する。熱暴走が内側で起こったのか、腕が独りでに震え出した。私は息を吸い込んだ。外部の空気で冷却を促そうとしたが、彼の身体の上で吸う空気に喉が詰まる。

 論理的には存在しないはずの彼への忌避感が、私を悶えるような炎天の檻へと閉じ込める。

 どうしてだ。どうして私は、彼をここまで嫌うのだろう。死んでいると分かるまでは親近感すら覚えたではないか。それに、記憶がないせいで知るよしもないが、彼は私と深い関係があるのかもしれない。そうでなくても、この部屋に閉じ込められた者として、彼を嫌わず迎え入れるべきだ。

 そう思考を綴っていると、私の眼前に佇むフルーツナイフの中の私と目が合った。ナイフに封じられた私は目も口も力を失っている。まるで彼と同じ、死人の相貌だった。半笑いで、私は自分の忌避感の理由に勘づいた。

 私は彼を好いてはいないが嫌ってもいない。衰弱する私は、着実に彼へと近づいていた。当初こそ死体として忌んでいたが、それは時間の経過によって解消されていった。彼、と死体を呼ぶくらいには。

 私が嫌っているのは、彼を掻き出すという圧迫そのものだ。理解可能になった存在を解剖して、何が詰まっているかが不明瞭な肉体として彼を捉え直さなくてはならない。

 その圧迫が返って私を縛り付けた。彼を掻き出さなければ部屋からは出られず、延々と圧迫に晒され続ける。脱出不能、死体のある部屋という単純な不条理に重ねて、容認しがたい選択が目の前で垂れ下がる。時間によってその選択肢は私の内部で膨張し、熱に変化して私の身体を突き動かす。

 だが手に取ってしまったが最後、私自身がこの部屋の秩序を壊すことになる。理解できない不条理を、自らの手で実践してしまう。

 この部屋は私を誘導している。そこからさらに奥がある。構造としてそれを認識できる程度に末端に甘さを置き、私に意図を気づかせるように仕組んでいる。

 そのうえで私が彼を掻き出すか、観察しているのだ。

 私は妨げるように、ナイフを持つ腕の手首をもう一方の腕で掴んだ。意味はない。ここで彼を掻き出すことこそ部屋の外にいる何者かの思惑だ。鍵が確実に見つからないのなら、今からやるのは異常行動でしかない。線の向こうにいる相手を引き留めるみたく、私は自分に語りかけた。

 それでも、腕の震えが止まらない。掴む手が包んだ部分より上、ナイフを握った手の指はより一層、刃物の柄を締めている。ナイフに反射した私の瞳孔は、既に決心したかのように開き切っていた。

 ナイフを彼から受け取った時点で、私はもう手遅れだったのだろう。

 この息が詰まるような圧迫から解放される。閉塞感から抜け出して自由になれる。彼を一度掻き出してしまえば、二度と掻き出すことは考えなくてもいい。思い悩まなくて済むわけだ。思考の端でくすぶっていた欲求が豹変して、急速に肥大化する。今や脱出の算段からナイフを手に取っているのではなくなっていた。

 私は彼を掻き出したくて、掻き出すのである。

 感情を自覚すると、自分の口が歪むのが分かった。脱力した口角は今、不気味に釣り上がっているのだろう。掠れた笑いが耳に届いた。久々に聞いた自分の声は他人の発した物音のようだった。

 阻んでいた手をナイフの柄に添え、私は彼の腹に向けて垂直にナイフを振り下ろす。その瞬間の私はいやに無気力で、ただ自分の重みを刃物に乗せることしか考えていなかった。

 ナイフは彼の腹に突き刺さり、蓄積されていた血液が外圧によって傷口から滲み出た。彼の出血は緩やかで、短い刃が身体に入っていくにつれ漏れ出す血の量が増していった。

 溢れ出る血液に、私は自分の内側を循環する熱のイメージを重ねた。溜め込んでいるのに出口のない熱が、彼の損壊を通して微量ながら放出されていく。顔に触れる空気が涼しくなり、身体が軽くなる。彼の冷たい身体に欲求を衝突させれば、私は熱を吐き出せる。

 こんな手段があったのか。ならば殊更、掻き出さなければ。

 端的に言えば、私は狂ったのだった。

 刃の短いフルーツナイフでは彼の腹を裂くことができなかった。ナイフを引き、押し込む。繰り返し、ノコギリを使うときのような挙動で彼の腹を捌いていく。付帯する粘着質な肉の感触が私の精神にまとわりつく。気味の悪い反動を捻じ伏せようと、私はナイフの入射角を鋭くした。白い皮膚を金属が引き裂いて、赤い口が開く。

 手を動かせば傷が大きくなる。全身から、あの充満した熱が噴き出していく。気分が良かった。溜まりに溜まった執着が蒸発していく。著しく隆起した心地よさに目的が刷り替えられる。

 私は思考の全部を放棄して、彼を傷つける行為に溺れた。途中で何故自分が必死に彼の腹を裂いているのかを忘れてしまうほどだった。それでも忘却に悲愴は覚えず、むしろ前後不覚になっていく自分が嬉しく感じた。

 こんなにも疲弊しているのは何かを考え過ぎたせいだと思うから。

 目に映る情景にピントが合うようになったのは、硬質な物体に突き当たった感覚が手に伝わったときだった。そのときの彼の腹は酷い有様だった。腹に開いた口は穴と呼べるほど広くなり、洞窟のような空洞ができていた。ナイフと私の手は、塗料缶に漬けたみたく赤に染まっていた。

 ナイフはスチールの小箱を突いたらしい。人間の腹に入れるには十分小さいが、鍵を入れるには申し分ない。私は周囲の肉を除き、彼の腹から箱をもぎ取った。箱を手の内に収めると、からからとした乾いた笑いがどこかで起こる。笑い声はわけもなく愉快そうだったが、先の見えていなさそうな物悲しさがあった。

 箱を開ける。入っていたのは密封パックに包まれたスピーカー付の端末だった。

 端末は短く、人間の声で発した。

試験番号06、失格です。

 声が告げると、天井照明から霧が噴射される。霧は一向に停止の様相を示さず、密室を自分で埋め尽くしていく。私の顔にも霧が付着した。薬剤の臭いが鼻を突くこの霧は、火照った私の頬をゆっくりと冷やしていった。

 失格、という言葉が持つ理不尽な響きが私を失望させることはなかった。終わりが見えたことに対する淀んだ歓喜に浸って、私は降り注ぐ粒を迎えた。雫は熱を放射して眠くなった私を鎮静させ、身体の末端に詰まった温度すらも拭い取る。

 内側で暴れていた熱は総じて掻き出され、空っぽになった私と最初から何もなかった彼が部屋に残された。

 水滴を浴びる私は彼に重なるように倒れ込んだ。からんとナイフが床に落ちて、その後一切、音は鳴らなかった。倒れた私は起き上がる気力すら湧かず、どんどん鈍くなる瞼に逆らえずに目を閉じる。

 私は失格したが、どうなるのだろう。自分がこの状況について何も記憶していないのを思い出す。部屋から出られないままなのだろうか。このまま彼と折り重なって、そのまま死んでいくのだろうか。

 そう思い至っても、自分でも驚くほど何も不安を感じなかった。内側にあった私の熱はすべて掻き出された。もう今後を案じる熱量すら私には残っていないのだ。しかし、外に出ようと内側で私を掻き乱していた熱のことを考えれば、現在ほど休まる状況は他にないと思えた。

 彼の剥き出しの腹は冷たい。それと同程度に、私の身体も冷え始めている。

 彼と同一の体温であることが、私には果てしなく幸せに感じられた。


新規エージェント雇用試験

第███回 最終試験 結果報告 

  • 試験目的

最終試験では、定例に従って異常事態に対する精神適性および耐性の測定を実施する。本試験環境は、異常存在によって一時的に閉鎖空間に幽閉された状況を想定したものである。

本試験が想定する『異常環境下ながら切迫した身体的危険は存在しない』という状況においては、一定期間以上自身の情動を制御して暴力的行動を回避する素養が要求される。本試験の目的は、対象が同様の状況に置かれた際の生還可能性の高さ、および正確な情報を収集・伝達が可能かを確認することにある。

  • 試験内容

本試験に関する記憶を抹消し、候補者を閉鎖環境に5日間軟禁する。内部には最低限度の生活設備、および人間の死体を設置する。死体の付近には刃物を配置する。

候補者は監視・計測される。試験中の行動、および試験終了時の精神診断により雇用を確定する。特定条件に到達した候補者は到達時点の状態により判断する。

  • 試験結果

10名中、4名の雇用が確定した。雇用者以外は財団に関する記憶を消去し、放出した。

以上。

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