墓参り
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「足元にお気をつけくださいませ。」

苔むして、滑りのある天然の石段を、少女はその和装からは考えられぬほど軽やかに、一段一段登っていく。
周りが険しい山道なのと比べ、比較的足を掛けやすい高さ、大きさの岩が露出している。
長い年月をかけ、これまで幾多ものヒトや獣がここを踏みしめ、自らの道、獣道としてきたのだろう。

少女が歩くこの路こそ、生命が息づいた痕跡であり、名もなき歴史の存在証明、そこに日常が在った動かぬ証拠である。
少なくとも彼女はそれをよく理解していた。

「ここに来るのって、去年ぶりだっけ?」
「左様でございます。昨年もまた、今日の日のような、いい天気でありました。」

付き人の声に耳を傾けながら、少女は木々の間から溢れる青空を眺める。街の喧騒とは無縁のこの森の風景が、少女は好きであった。時に聞こえるけたたましい鳥の鳴き声も、地を照らす木漏れ日も、ただありふれた山中の景色であって、彼女はそれを愛していた。

「やっぱり、なんとか時間を作れてよかったな…」

ここに来たのは、ただ景色を楽しみに来たのではない。
少女の目の前にあるのは、緑の景色の中で異様な存在感を放つ、漆黒の石柱であった。

奥には、今度は天然のものではない、幾つもの石が組み合わされ、整った階段の形を作っていた。血の通った、人の手で作られたと見える、それは見事なものであった。

これを、と付き人が少女の手に、細長いものを包んだ、藤色の風呂敷を渡す。

「ここから先は聖域ゆえ…私はここでお待ちしております。ごゆっくり…」
「ん、ありがとう。じゃあ、行ってくるね。」

頭を下げる付き人に軽く手を振り、彼女は石柱を通り過ぎて階段に足をかける。
年老いた付き人はその背中を見上げ、彼はもう一度、恭しく頭を下げた。

長い長い階段を登り終え、その頂にあったものとは、

少女の何倍もの大きさの漆黒の巨石。これこそが、少女の、否、”鵺”代々のもうひとつの魂の宿りそのものであった。
当代”鵺”である少女はその巨石にそっと触れ、
「お久しぶりでございます。御先代様方…お変わりはありませんか?」

この山は、元来蒐集院の所有していたものであり、この巨石1は、その時代に発見されたものである。
明らかに他の岩とは違う、漆黒と呼ぶにふさわしい、深みのある黒色、そして光沢。
それに感嘆した初代”鵺”がここを聖域、及びもう一つの魂の宿りとしたことで、歴代”鵺”はここに参ることが慣例となっている。

少女は自分の和装が汚れることも構わず、そのまま地面に座る。
そして藤色の風呂敷の結び目を解きながら、今日までの記憶に思いを馳せる。

「私が”鵺”になって…私は、普通の人の見ることも、知ることもない世界をたくさん目の当たりにしました…」

中から、一点の曇りのない、純白の徳利を取り出す。

「理事としての責務、判断、知識、先代様方はずっと、それらに向き合ってきたのだと、最近、やっと気づくことが出来た…」

蓋代わりになっている猪口を外し、ゆっくりと、そこに酒を注ぐ。

「そして、もうひとつのことに気づいたんです。」

立ち上がり、注いだ酒を巨石に、先程猪口に注いだときのように、ゆっくりと、ゆっくりと振りかける。
漆黒の表面を流れ落ちる雫を眺めながら、彼女は自らの記憶に思いを馳せる。

梢から覗く空、けたたましい鳥の鳴き声、木々のさざめき、この山の中だけではない。
仕事に向かう人々、談笑する若い女性、騒音の刹那のガード下。

「この世界にありふれた、すべての景色。”ありふれた”この世界こそ、先代様達が守ってきたものであると、そう気づいたのです。」

雫が、地面に垂れ落ち、土に瞬時に吸収され、そしていずれこの雫が、新たな命を生む一滴となる。あまりにもありふれた、生命のサイクル。

「私が、またここに訪れる時、空がまだ、美しくありますように。小鳥がまだ、さえずっていますように、木々がまだ、さざめいていますように。街がまだ、喧騒を生み出していますように。人々がまだ、生命を営んでいますように。ありふれたこの日常が、当たり前に続いていますように。」

徳利ごと傾け、最後の一滴まで、”墓石”に捧げる。

「世界が、正常でありますように。」

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