立入禁止
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暴かれた秘密が綺麗だったことなんて一度もない。

実家に帰省する度、自分にそう言い聞かせている。

もう十年は昔になる。

二階の子供部屋の北窓からは、いつも二階建ての古い家が見えた。コンクリートの塗装は剥がれかけで、赤い平屋根は色褪せている。庭の木や草は鬱蒼と生えていたが、緑の印象はなかった。枯れ葉が庭を埋めていて、年がら年中、茶色いマントを纏っているように映ったからだろうか。

近所の子供にお化け屋敷と呼ばれてはいなかった。お化け屋敷と呼ぶにはリアル過ぎた。僕たちが想像するお化け屋敷はもっと荒廃していた。壁が破れて、屋根も壊れて、色はどこかに消えている。ずたずたになった障子とか、格子状の門とかがあるとさらに良い。冒険の舞台にはぴったりだ。

だけど、裏の家はまったく魅力的ではなかった。ときどき見かける時代遅れの家が、腐った臭いを発して朽ち果てているだけ。異空間じゃなかった。僕たちが住んでいる世界に間借りした、空気の読めない居候でしかなかった。

そいつは僕たちにこう言う。本当はこっちで、本物はつまらないんだ。

そんなわけで、僕の裏の家は皆に無視された。人気ゲームで首吊り死体を出す方法とか、近くの公園に出没する怪しいおじさんとか、都市伝説は僕の小学校でもいろいろ流行ったけど、誰も裏の家の話はしなかった。通学路に面する場所にあったのに。いや、それも一因か。

僕だけだ。僕だけが、裏の家のことを考えながら過ごす羽目になった。

元々、謎の多い家ではあった。まず間違いなく、家は放棄されていた。誰も枯れ葉を掃かないし、雨戸は閉まっていた。そのくせ、駐車場には黒い車が停まっている。型の古い車で、父さんが前に使っていた車とよく似ていた。

車を置いたまま、どこかへ引っ越すのだろうか。そうでなくても、家を手入れせず投げ出すのだろうか。家をそのままにしておくなんて、なんて勿体ないことだろう。小学生らしい現金さで、僕はよく考えていた。そんな勿体ないことをわざわざしたのは、なぜ。

きっと、何か起きたに違いない。一家総出で逃げ出すような出来事が。

幽霊か。男か女。なら女。少女の霊がスンスン泣いているといい。でも逃げないか。そもそも死者なら家の関係者だろう。流産した赤子の霊が化けて出てワーッと家の人間が逃げ去っていくのがいい。関係者ならお手伝いさんもいいな。幽霊だけじゃないかもしれない。

呪いのアイテムもいいな。むしろそっちの方が現実的かもしれない。絵画、日本人形、インディアンのお面。ちょっとそれっぽ過ぎ。能力を使っていろいろしてしっぺ返しにあうパターンが好きだな。最後には一家全員が消えちゃうやつ。うん。だとして、どういう能力なら成り立つのだろう。

空想が膨らんでいく。背伸びじゃ届かない高い場所から、薄汚れた家を見下ろして。僕の窓からは玄関すらも見えず、家の裏側しか見えなかった。

庭木が茂って枯れ葉まみれの庭。縁側と、引き戸式の雨戸で閉じられている大きな窓。二階の窓二枚も相変わらず雨戸。煤けた雨樋、室外機。錆びた物置に立てかけられた箒。その横に蛇口とホース、バケツ。家屋の脇に、黒い車の駐車場。

もしこれがプラモデルやレゴブロックだったら、退屈だと駄々を捏ねていたはずだ。僕に贈られた箱庭は地味で、すぐに他の玩具にその地位を引き摺り下ろされていたかもしれない。それでも、僕は毎朝起きて、学校から帰って、寝ようとして、その度に裏の家と向き合わされた。

この家で何が起きたのか。僕は家に上がり込んで、過去を荒らして回った。

窓から視線を送り込み、架空の家族を配置する。会社員の父、専業主婦の母、中学生の兄、小学生の妹。それか、学校で働く父、病院で働く母、小学生の子。オプションで祖父母や、従兄弟を付け足したりもした。八人の大家族を詰めたこともあった。そこでは人が生きて、生活していた。庭は整えられ、雨戸は朝に開いて夜に閉じ、車は出たり入ったりする。

話の舞台は平凡でいい。多少、曲がってないと面白くないけれど。それでも、僕はその日々に終わりを設けなくちゃいけなかった。僕の目の前で家は廃墟になって、人に避けられたまま時間に置き去りにされていた。話を描くなら、合わせなきゃいけなかった。

平凡から人が去って、死んで、殺されて。異常が絡んで、蝕んで、壊れて。

虫歯ができた歯は例え完治しても元の形には戻らない。悪いものが生まれたら最後、小さいか大きいかに関係なく抉り取られる。裏の家は、何かを抉り取られてしまった。今思えば、僕は原因を考えると同時に、抉り取られた何かについて考えていたのだと思う。

たくさんの人を裏の家に並べた。人に曖昧な、願いとか悩みとかを抱えさせた。それを叶えさせ、解消させ、最後には滅ぼすキャラクターやアイテムをばら撒いた。眼鏡、化粧品、財布、壺、本、カード。どんどん現実にあるシルエットになっていく。参考になりそうなテレビや小説や漫画は世の中に溢れていて、僕が描いた話はほとんど模倣だった。

裏の家を舞台にして、何パターンも話を作る。ホラー、エスエフ、コメディ、サスペンス。僕が人形を動かしている間、裏の家はリアルではなかった。リアルを抜け出して、ファンタジーに飛び出していた。埋もれた庭も閉まった雨戸も忘れられた車も、全部が意味を持っていた。空白ではなく激動の過去を経たのだと、全部が僕を納得させる。

僕は裏の家を窓から見ていた。見るだけに留めていた。

最初から僕の話が全部嘘だってのは、僕が一番理解してたはずなんだ。

晴れた日の夜十時、裏の家に人がやって来た。僕はベッドで横になって、眠気に従って寝入ろうとしているところだった。北側から、微かなエンジンの音とドアの開閉音が聞こえた。慌てて、という程でもないが、僕は身を起こして窓の外を覗き込んだ。一階にいる両親が灯した照明が漏れていて、その光を頼りに裏の家を眺める。

光は十分ではなかった。けど、庭に誰かがいるのに気付いた。影が伸びた草や枯れ葉を掻き分け、庭を進んでいく。複数の影が動き、うち一つが庭の中心に立って腕を回していた。駐車場の方に視線を移す。黒い車の向こうに、タイヤと白っぽい車体が横付けにされているのが分かった。

家主か。家主ならこんな真似はしない。じゃあ泥棒か。わざわざボロボロの家を狙うかな。それに、泥棒だとしても挙動が変だった。さっさと家に入ればいいのに、取り囲むように影は散らばる。しきりに家に注意を向けて、ときどき周りの家を警戒している。

影の一つが、頭をこちらに振ろうとした。僕は急いで窓の下に潜る。ハァハァと、自分の息が荒くなっているのはそこで知った。震える手で、ばくんばくんと打つ心臓を抑え込んだ。震えは体中に広まって、一時間あっても収まりそうになかった。

誰なんだ。あいつらは誰なんだ。僕は必死に考えた。戻ってきた、帰ってきた、逃げてきた。どれも違うような気がした。壁の裏側で、庭を踏み荒らす音と金属がガコンと外れる音がする。静かだ。影たちは、余分な音を発さない。僕が描いた話とは桁違いに静かだった。

入ってきた。そうだ。あいつらは入ってきたんだ。侵入してきた。あいつらは侵入者だ。

僕の舞台に土足で上がり込んで、僕の話にはちっとも似ない話を繰り広げている。

出ていってくれ。そう叫びたかった。僕が思い描いていた無数の話が、丁寧に捻り潰されていく。音が来ない。違うよ。事件が起きるときはもっとダイナミックに、ドタバタして収束なく暴れ回っていくものなんだ。

引き出しの幽霊。顔を失った息子。なりたい自分に変われる鏡台。三日前にタイムリープするおまじない。卵焼きの匂いを嗅いで棲みついたエイリアン。無限に広がっていた分岐が一つに束ねられ、色を失う。崩れて、荒れて、褪せて、本当の姿になる。

ファンタジーが解ける。僕とつまらない現実を騙していた魔法が、消えてなくなる。

悲鳴は胸の中を駆け回った。僕は疲れ果て、知らないうちに眠ってしまった。

目覚めると、夜は明けていた。僕は飛び起き、着替えも済ませずに走り出した。

裏の家の正面をはっきりと見たのは、そのときが初めてだったと思う。屋根と同じ色の玄関戸の手前、ありふれた観音開きの鉄の扉。違和感が先に来て、北窓から見えるあの面だけに余程囚われていたんだなと感じた。

扉には「立入禁止」の看板と、規制線が張られていた。近くに停まった灰色のバンは昨夜の車とは違う雰囲気で、ツナギを着た作業員たちが工事道具を抱えて家の近くをうろついている。家のほとんどは緑色の防音幕に包まれ、全体はすっかり覆われていた。

両親によると、裏の家ではガス管工事が始まったそうだ。地下に通っているガス管が老朽化し、可燃性のガスが漏れているかもしれないというのだ。行政が動き出し、危険だからと立入禁止の措置が取られた。普通に暮らす分には問題ないそうで、大人たちも騒ぎ立てようとはしなかった。

しかし、子どもはそうはいかなかった。ガス管工事にしては大掛かりな防音幕に、好奇心旺盛な小学生が食いつかないはずがない。家の中で何かを隠している、探している、調べている。それか、抉り取ろうとしている。噂の種になって、種は芽になって、芽は花になって爆発した。侵入を試みたグループもあったと聞くが、しばらくして取っ捕まったというオチも一緒になって流れてきた。

僕は「立入禁止」に立ち入る気分にはならなかった。北窓から、防音幕に包まれた裏の家を眺めていた。毎日、あの夜に見た影が僕の話を砕いていくのを思い出す。その度に身震いして、僕は窓から目を逸らした。ファンタジーから卒業するには、ちょうどいい時期だったのだろう。

やがて防音幕は外れたが、僕はもう裏の家を見ようとは思わなかった。中学、高校と階段を昇り、大学へ進学するときに実家を出た。一年の夏、初めて帰省をしたときだ。裏の家は取り壊され、更地になっていた。

庭も雨戸も車もそこにはなかった。平らに均された土しかなかった。何も変わったことはない。小学校に近い住宅街の空き家が潰され、土地として売り出された。自然なことだ。

だけど、僕は実家に帰省する度に後悔する。裏の家に立ち入っていたら、何かが起きていたかもしれないのに。いくらでもチャンスはあった。影がやって来る前も、やって来た後も。僕は裏の家には立ち入らなかった。立ち入らなかったから、僕のファンタジーは裏の家と一緒に消えてしまったんだ。

子供部屋のドアを開け、ベッドに倒れ込む。今日は一年振りの我が家だ。顔を枕に埋め、しばらくしてから頭を上げた。癖で、窓の外を見る。そのまま、僕はベッドの上で固まった。

新しい家が、裏には建っていた。整備された芝の庭には幼児用の遊具が設けられ、開放的なテラス窓が家には取り付けられている。二階建ての軒のない近代建築。壁は真っ黒で、雨樋や窓枠の白がアクセントとして上手く効いていた。駐車場には青い車が、アーケードの下に停まっている。

どうして、僕は裏の家に一度も立ち入らなかったのか。新しい裏の家は僕の代わりに答える。

おそらく、これ以上の現実はここにはない。不都合があって放棄されただけで、オカルトが絡んだ事件など何一つ起きてはいないのだ。それを僕はよく知っていた。わざわざ確かめにいったところで、ファンタジーが無駄に壊れて終わりなのだと悟っていた。実際には、あの家には何かがあったかもしれない。僕は今でも、あの影がガス管工事だとは信じていない。それでも、立ち入ったらたぶん僕は失望していた。

怪物とか超能力とかが眠っていたのだとしても、そこに裏の家の住人たちはいない。僕が裏の家に押し込んだ人たちは、跡形もなく消え去っている。万が一何かの記録が残っていたとしても、起こった出来事でその人が浮かべた表情とか、声とか、負った傷とかを僕が追いかけることはできない。僕はただの小学生だったんだから。

僕が好きだったのは、話だ。異常さじゃない。影たちに破壊されていったのも、話だ。異常さじゃない。無限大の可能性がリアルに引きずり出されて一つにされ、劇的なストーリーなんか残ってないことを示される。思えば、僕はあの後一切取り乱さなかった。あの夜は、家の中身が公開されると思い込んでいた。だからああまで苦しくて、夜が明けてからは落ち着いていたのだろう。

暴かれた秘密が綺麗だったことなんて一度もない。秘密は、ファンタジーは、暴かれた瞬間に薄汚れたリアルになってしまうのだから。もちろん、あの家で何があったかは僕も知りたい。知りたいし、まだ惜しいと思える。でも、知らなければ話としては生き続ける。

架空の人物と、架空の異常が織り成す、架空の話。描きたいのは、それかもしれない。

本当に立ち入ることはしない。ひょっとすると、僕はあいつらに「立入禁止」を掲げられる前に、無意識のうちにあの領域を「立入禁止」に指定していたんだ。そうじゃないと、僕の作った話は崩れてしまうし。

僕はもう一度、新しくなった裏の家を見た。昔みたいに架空の人物を押し込もうとして、やめた。今は他の人が住んでいる。僕が何かを追加する隙はどこにもない。新しく始まった裏の家の話は、これからも長く続いていく。

寂しいな。完全に僕の勝手だけど。もし機会があったら何が起こったか、今回くらいは知りたいな。

僕は含み笑いをして、レースのカーテンを閉じた。

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