静寂の村
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奥支野おしの村に帰るの、何年振りなんですか?」

 運転席に座る廃棄部門の職員が、雑談が途切れた瞬間にそう口にした。俺は窓の外に視線を向けたまま、声で答える。

「財団に保護されてからは初めてです。十……五年、になります」

 俺は今日、片割れを捨てに帰る。十五年前に置いてきたはずのものに、今更になって呼び寄せられたから。

 薄曇りの灰色の空。微妙に色味の違う緑で構成された山の群れ。背の高い建物など、ここには影も形もない。時折、山の中に民家の集合が見えては、すぐに車窓の後方へと流れ去った。
 ありふれた高速道路の景色だ。普段と違うことといえば、今乗っているのが小型トラックで、多少視線が高いことぐらいだろうか。

「不謹慎かもしれませんが、久々に里帰りができて、良かったですね」

 そんないいもんじゃない、と言いかけた言葉を飲み込む。悪気なく言っているのは、相手の顔を見ずともわかる。今、この運転手がどんな表情をしているのかさえも、その声音から見て取れるようだった。

「……そうですね」

 無遠慮に釣り上がった口の端、盛り上がった頬の肉で形の歪んだ両目。村の外の人々の大袈裟な「笑顔」が、今も気持ち悪くて仕方がなかった。


 あの村で俺は「普通」ではなかった。
 俺は人の話を聞くことができなかったから、両親と妹は家ではいつも声話で話してくれた。

「ダメでしょう、家ではちゃんと声で言わなきゃ」

 うっかり妹が母に話を向けるたびに、母はそう言って注意した。

「……だって、まだ口の中に残ってたんだもん」
「なら、飲み込むまでちゃんと待てば良いじゃない。それぐらいは待てるでしょう」

 妹が話をするのは、食事中が多かったように思う。口の中に食べ物を入れたまま声話をするのは難しいし、とても行儀の悪いことだから、妹がそうしてしまう気持ちもわかった。

「良いんだよ、別に。母さんへの話なら、別に聞けなくても問題ないし」

 自分には聞こえない話をされることよりも、母が毎度毎度いちいち注意することの方が、恥ずかしくて嫌だった。

「そういう問題じゃないの。ほら、お兄ちゃんに謝って」
「……ごめんなさい」

 そうやって不満げな声で妹に謝られるたびに、肺の中に苛立ちが渦巻いた。

 話を聞けないのは、村では俺一人だけだった。学校の授業は声話でされるから、授業は理解することができた。まだ多人数に話を向けるのに慣れていない子供たちばかりだったから、子供同士での三人以上のおしゃべりも、基本的には声話だった。だから、そういう場でも、会話についていくことはできた。

 でも、仲の良い友達はいなかった。

 普通の話でなら十秒で済むものを、俺に伝えるには喉を使って三十秒かけなければならない。そんな面倒な子をわざわざ話し相手に選ぶ子供はいない。

 あの歳ごろの子供というのは、親友だのなんだのと、特別な相手を作りたがるものだ。俺は誰にとっての一番でもなく、特別でもなかった。侮蔑や哀れみの対象、厄介者という意味でなら、特別だったのかもしれないが。

 映像的な情報を伝達するには、言葉だけでは限界がある。中休みや昼休みの遊びでは、話ができないのは連携に差し支えた。体育の授業でのチーム分けでも、休み時間のボール遊びやSケンでも、子供たちは俺をチームに入れるのを嫌がった。

 さらに言えば話が聞けないせいで、相手の感情を察するのも苦手だった。キカズの俺には、当然、彼らが体に纏っている感情もわかるはずがない。普通の人ならば軽く意識を向けるだけで表情を読めるのに、自分はいつも神経を研ぎ澄ませてわずかな視線の変化や仕草から察しなければならなかった。当然、読み間違えることも多く、その度に同級生や先輩、時には家族からも苛立った視線を向けられた。

 嫌われてもいいなどと言えるのは、強い人間の特権だ。弱者は集団に嫌われないように、愛想良くしていなければ、普通の平穏を享受することすら許されない。

 正月やらの祝い事で本家に行かねばならない時も、当然のごとく、居場所などというものはなかった。

 大部屋の片隅の席で、静かな食事会が終わるのをいつも息を殺して待っていた。それは俺にとって無音の嵐だった。
 本家の人間の価値観では、「口は食事のためにある不浄なもの」らしい。大勢での集まりでさえ、声話を使うものは誰もいなかった。自分にはわからない話が音もなく食卓の上を飛び交っている中で、俯いて黙々と食事を口の中に押し込んだ。
 たまに視線を感じることもあったが、どう話されているかわからない中では、ただただ恐ろしいだけだった。井戸端会議からたまに漏れ聞こえてくる「長男がキカズだなんて、」「分家で良かった」などの言葉が耳の奥で反響した。あれは多分、被害妄想ではなかったように思う。
 俺に話しかける人間は、その場には誰もいなかった。

 一人を除いて。

 その子はマサと呼ばれていた。自分よりも二つ上だった。本名からとったであろうマサよりも、ノロマと呼ばれることの方が多かった。俺が村の大人たちからキカズと呼ばれていたのと同じように。
 本名は知らなかった。その子の名前を書く機会などなかったから、当然、どのような漢字なのかも知らない。多分、マサエか、マサミか、マサコか、そのあたりだろうと思っていたけれど、知らなくても不便はなかったので、わざわざ聞くこともなかった。

 マサは顔も声も妙に間延びした女の子だった。

「マサ、それじゃ俺はわからないんだって」
「……うん、そうだったね」

 マサは度々、俺には聞こえない話を向けた。嫌がらせではない。悪気なく、うっかり忘れて、話を向けてしまうのだ。もしかすると、わざと目の前で見せつけるように会話をする意地の悪い同級生よりもタチが悪かったかもしれない。

「ごめんね」

 何十回目かもわからない謝罪には、いつも、「うん」と答えることしかできなかった。

 マサのぼさぼさの髪を雑に括った一つ結びは、いつも形が歪んでいた。服の裾は泥やら食べこぼしやらで汚れていることが多く、たまに、変な匂いがすることもあった。マサも本家での集まりでは自分と同じように無視されていたから、除け者同士、自然と一緒にいることが多かった。

 食事の時間が終わると、人目を避けるように裏庭へと抜け出した。広い裏庭には手入れが行き届いていない場所がある。雑草の生い茂る庭の隅には誰も寄りつかない。あの静かすぎる部屋の中にいるよりも、何倍も居心地が良かった。
 丈の高い草に埋もれるようにしゃがみ込んで、手遊びをしたり、泥団子を作ったり、下手くそな草笛を吹いたりしていた。

 小学生の低学年か中学年か、それぐらいだった年に、マサと共に裏庭へ向かうところを本家の子供に見られた時のことが、妙に記憶に残っている。本家の次男は俺よりも一つ上の歳だった。村には一つしか小学校がないから、当然のように同じ小学校に通っていたけれど、彼の声を聞いたことはなかった。

 あの時、マサの手を引いていた俺のことを、次男は縁側から、野良犬、あるいは石ころでも見るような目で見ていた。侮蔑する色味さえなかったあの目は、すぐに他のものへと視線を移した。彼にとって自分たちは、汚い犬猫が歩いている、という程度の、三歩歩けば記憶から消えるような薄汚い光景なのだろう。
 ああ、同じ人間とすら思われていないのだなと、そう思ったのを覚えている。

 家の集まり等がなくとも、何かにつけてマサは俺に付き纏っていた。

 マサは、とろいところのある子供だった。二つ年上だから、その時の自分よりは背が高かったけれど、ボールはろくに投げられないし、足も遅かった。駄菓子屋に行く時も、毎度のように小銭の計算を間違えていた。

 村の小学校は小さかった。一学年あたり五人か六人、学校全体で三十二人。秋の大縄跳び大会では、全校生徒が春夏生まれと秋冬生まれ組の二チームに分かれて点数を競うものだったけれど、同じ組になっていたマサは何度も縄に引っかかって、その度に白い目で見られていた。

 一時が万事あの調子だったから、同い年の子供の間でマサがどう扱われているのかは、想像に難くなかった。

 マサと声話をする時は、話が噛み合わないことが度々あった。話を聞くことができても、その意味を正しく理解できないのなら、それは聞けないのと同義だ。きっとマサも自分のように、普通の人にとって話し相手にしたい友人ではない、厄介者だったのだろう。

 俺は一人で本を読んだりテレビを見たりする方が好きだったけれど、そんなマサを放っておくのも可哀想だから、よく遊んであげていた。時系列もめちゃくちゃに話される雑談を辛抱強く聞いてあげたし、よくわからないルールだらけのごっこ遊びにも、独自ルールばかり押し付けられるオセロにも、ちゃんと付き合ってあげていた。

「今日ね、また『そ』を書き間違えて、先生に怒られちゃった」

 ランドセルを背負ったまま家に来たマサは、俺の顔を見るなり、へにゃり、と眉尻を下げた。マサのランドセルの隙間からは、くしゃくしゃになったプリントがはみ出ていた。赤ペンらしきもので添削されているあたり、おそらく小テストか何かだろう。

「日記とか書いてみたら。たくさん書けば、覚えられると思うよ」
「……交換日記でもいい?」

 面倒だなとは思ったが、「いいよ」と答えた。文章ならば、自分も普通の人と同じように書ける。キカズであることが障害にならない事柄は、他の遊びよりも気が楽だ。
 マサの字は想像以上にぐちゃぐちゃだった。「りょうくん」と書かれているらしい部分では、「り」の左側の縦線の方が長く、鏡文字のようになっていた。「よ」の下部分も逆回転に書かれているし、他のひらがなも妙な形に崩れていた。

「逆だよ、ここ」

 そう指摘するたびに、マサは少し顔を歪ませて、日記の中の文字を書き直した。

 マサは中学生になってからも、相変わらず、放課後は俺の家に遊びに来た。中学になっても放課後に遊ぶ友達を作れないマサが哀れだった。狭い村だから、小学校も中学校も、同じ顔ぶれしかいないので当然ではあるのだけれども。

 その日はちょうど、父方の親戚のおばさんが家に上がり込んでいた。親戚の人間が相手の時は、母も普通の人のように話をしていたから、何を話していたのかはわからない。俺は本を読み、二人は無音で会話をする。静かな居間の中に、玄関から俺の名を呼ぶマサの大声が響いてくるまでは。

「マサちゃんとリョウくん、お似合いよね」

 おばさんがいきなり発した声話に、びくり、と肩が震えた。マサや、他の大人たちと同じく、聞き取りやすいように丁寧に発話された声。
 それが意味を伴って鼓膜から脳に届いた瞬間、体温が下がった気がした。胃の下を冷たいものが重く圧迫して、むかつきが心臓と肺の間を暴れ回る。

 気持ち悪い、と思った。

 そんなんじゃないよ、と言いたかった。大声で否定したかった。けれども、キカズの自分には、普通の人の気分を害する権利はないのだ。「声で話してくれてありがとう」、「邪魔をしてしまってごめんなさい」。そういう言葉を日常の中でばら撒いて、ようやく弱者として存在を許されている立場なのだから。

 だから曖昧に「そうでしょうか」と言って、逃げるように家を飛び出すしかなかった。

 本当は、ずっと本を読んでいたかった。おばさんがいないならば、ビデオで録画している番組が見たかった。

 テレビは電気製品だから、人のように話すことができない。出せるのは音と映像だけだ。だから、テレビに映る人間は、俺にもわかる声話でしか話さない。

 本も同じだ。本の中では、音も匂いも色も話も、全て文字として記されている。本を読んで主人公に心を寄せている時は、自分も登場人物の話を聞ける普通の人でいられたから、穏やかな気持ちになるものだった。それが現実逃避に過ぎないとわかってはいても。

 マサと遊んでいるよりも、ずっと楽しかった。

 決定的な失言をしてしまったのは、「お似合いよね」と言われた日と同じ週だったと思う。

「なんで、いつも俺に構うのさ」

 ちょうど図書室で借りた本の最終章を読んでいる時に呼び出されて、思わず苛立ってそう言ってしまった。数日前にマサなんかと「お似合いね」と言われたことも、きっとそう言ってしまった理由のひとつだった。可哀想だから構ってあげてるだけなのに、一緒にされるのはたまったものではない。だから、マサのことが普段に増して鬱陶しく感じてしまった。

 それが間違いだった。

「リョウくんはキカズの可哀想な子だから、優しくしてあげなさい、ってお母さんに言われたの。だから、」
「──は?」

 カッ、と体が熱くなった。
 可哀想なのはマサの方で、構ってあげているのは俺の方だ。そうじゃないのか。誰にも相手にされず、一人遊びもできないノロマの子に、手を差し伸べていたのは俺の方だ。それが何だ? 自分はこのノロマに哀れまれていたのか?

「俺はそんなの、頼んでなんかいない。──出てけよ、ほら! 俺は好きで本を読んでるんだ。仕方なく、なんかじゃない。言われたからってだけなら、余計なお世話だ。そっちは勝手に同じ歳の子とでも遊んでいればいいじゃないか」

 俺に大声をぶつけられたマサは、途端に顔を青白くさせた。他の村の人と同じく変化の乏しいはずの顔から、あからさまなほど血の気が引いていた。

「……もしかして、怒ってるの?」

 いつものように抑揚の薄い声の中には、怯えや困惑の色が滲んでいた。

「そんなこともわからないの?」
「わからないよ、だってリョウくんには表情がないんだから。側にいてもわからない」

 その後、どう別れたのかは覚えていない。マサは泣いていたような気もするし、そうでなかった気もする。恥の念と怒りに呑まれていて、そんなことはどうでも良かったから。

 それから、マサは俺の家に来なくなった。本家での集まりでも、自分から俺に話しかけることも、近寄ることもしなくなった。

 俺が中学になってからのある日、「財団」を名乗る人間たちがやってきた。

 彼らは村の人々を異常と呼んだ。村の外から隔離して、普通の人の目に触れないようにしなければならないと言った。奥支野村と外を繋ぐ道に門を設け、人の出入りを制限し、役人を常駐させた。ほんの数週間、村人たちが呆気に取られている中で村は財団の作る渦の中に飲み込まれ、瓶詰めでもされるように収容された。
 元々、農産物や生活必需品などの物の出入りはあっても、人の出入りはない村だったから、村の人々の生活は、拍子抜けするほど変わらなかった、らしい。村を出た後に、母からもらった手紙によるならば。

 村の中で、俺は普通ではなかった。でも、財団にとっては、俺だけが「普通」らしかった。

 村人たちが村から一歩も出ることを許されなくなった一方で、俺は財団に連れられて外の学校へと入れられた。

 村の外は何もかもが違っていた。否、何もかもは言い過ぎかもしれない。授業で使われる教科書やノートはほぼ同じだった。犬も猫も話すことはなく、無意味な鳴き声しかあげないし、雪は冬にしか降らない。SFアニメに出てくるようなロボットが街を闊歩していることもない。

 ただ、全ての人が、自分と同じように声で話していた。

 それだけの違いだったのに、そこは別世界だった。

 表情というものが、村の外では顔の変形のことを言うのだと知った。村の中にいた時も、テレビの中の人間たちが顔を大きく動かしているのを見たことはあった。でもそれは、漫画の中で驚いてひっくり返ったり、目玉が飛び出たり、或いは顎が落ちたりするのと同じような、非現実的な誇張表現なのだと思っていた。
 音と映像では話や感情を直接表現できないから、代わりにわかりやすく観客に見せるための手法なのだと、そう、思い込んでいた。

 キカズの人間同士の感情表現方法として、顔による表情というものの役割は理解できた。
 それでも、顔を目まぐるしく大袈裟に動かす人々は気持ち悪く見えた。まるで周りの人間全てが舞台の上で芝居をしているようだった。あるいはミュージカル調で日常会話をしているかのような、違和感。

 中学、高校と、財団の息のかかった学校に進学した。あの村の中でのように除け者にされることはなかった。芝居のように会話することに慣れてからは、友人も増えた。青春というものを満喫できていたように思う。

 その一方で、全ての声がわざとらしく、大袈裟に聞こえるのは、変わらなかった。休み時間や登下校の雑踏の中で、大袈裟に感情を乗せた無数の声の中で溺れているような気分になるたびに、自分は此処の人間にはなりきれないのだと察した。

 そして、村の外も完全な楽園ではないことも、徐々に理解した。村の外でも子供はクラスの中で序列を作っていた。人間とは上下関係が好きなものらしい。
 いじめられている子が無神経な発言をするのを何度も見た。だからいじめられるのだろうな、と察せられた。加担はしなかったが、彼らを止めようとも思えなかった。それよりも、やっと手に入れられた平穏が大事だった。ヒーローになりたい訳ではなかった。その時、今の自分が、村にいた時あれほど嫌っていた「傍観者たち」と全く同じであることに気づいた。

 財団に引き取られた日から、将来は財団のフロント企業に就職することが決まっていた。学位のある人材の方が使い道が多いとのことで、財団の奨学金を借りることができた。元々、本を読むのは好きだったし、勉強も嫌いではなかったから、彼らの援助で進学できるのは僥倖だった。

 ただ、その一方で、財団は俺の下宿生活については難色を示した。俺自身には異常な形質が発現していなくても、異常な遺伝子を待っている可能性があるらしい。子供ができる可能性のある行為については厳しい監視と制限をしたいと主張されたので、GPSによる常時監視を受け入れた。
 入りたい大学で好きな勉強ができるならば、この程度の制限は安いものだ。

 就職先を見つけるのに苦労していた他の学友たちと違って、自分の将来は決まっていたから、緊張感なく四年間を過ごした。必要な単位を取り、興味のある授業には潜り、サークル活動をほどほどに楽しみ、卒論を提出して学位を得た。そして、エスカレーター式の進学と同じように、流れるようにフロント企業に就職した。望めば異常に直接関わる職員にもなれるようだったが、危険に身を投じるほどの使命感はなかった。

 人と関わるほどに、村の外の人間も本質的にそう変わらないのだと知った。
 都会にも息苦しそうにしている人がいた。承認欲求に囚われた人々、エコーチェンバーの中で煮詰まっていく偏った意見、正義を振り翳して大声で叫ぶ者達。
 自分から関わろうとしなければどこまでも他人でいられるこの都会で、何者かとして認められようと足掻く人々を遠巻きに見つめた。自分は、村の中ではただの空気でいたかったから、彼らの気持ちはわからない。けれど、彼らにとってそれが切実であることだけは、見えすぎるほどに見えてしまっていた。

 大学でもフロント企業でも、俺は有能な人間ともてはやされた。

 あの村では俺は人の感情を察するのが苦手な人間だったが、村の外ではむしろ逆だった。視線の動き、仕草のわずかな変化から相手の感情を読もうと神経をすり減らしていた子供時代のあの努力は、いつの間にか大きな武器になっていた。サークルでも職場でも、俺は誰よりも相手の感情を察するのが上手い人間だった。

 それだけで勝手に有能と判断されて、財団の隠れ蓑の、半分ハリボテの会社の中で職位だけが順調に上がっていった。

 部下や上司の気持ちが手に取るようにわかるのは、仕事を円滑に進める上で便利ではあったけれど、これは新しい価値や何かを生み出すようなものではない。褒められるたび、もてはやされるたび、居心地が悪くなった。

 学生の頃は、どうして皆、こんなに鈍いのだろうと思っていた。相手が明らかに不機嫌なのに話し続ける同期。後輩から向けられる好意に気づかない先輩。

 否、今も思っている。部下が取引先の人間の神経に障ることを平然と言っている場面を目の当たりにするたびに。どうしてこんなこともわからないのかと。お前の目には何も見えていないのかと。

 その度に苛立ち、そして繰り返し理解させられた。目の前にいるのは、あの村での俺なのだ。わかるはずのもの、見えて当然のものが見えていない、空気が読めない出来損ないのキカズ。

 だから、怒鳴ることだけはしなかった。それがどれだけ理不尽なことか、自分は知っている。やり場のない苛立ちを飲み込んで、腹の底に隠した。

 廃棄部門から呼び出しを受けたのは、そうやって仕事に追われている日々の中でだった。

 人事部門が所有するファイルには、当然ながら、俺があの村出身の人間であることが記されている。俺のファイルはあの村の情報に紐づいているだろうし、逆にあの村の資料から俺まで辿ることもできるのだろう。

 「人型実体の遺品整理・清掃業務」と題された短いメールには、死亡したアノマリーの名前の欄に、自分と同じ姓の名前が記述されていた。

 金平 真子。

 母の名でも、妹のものでもない。祖母のものとも違う。
 狭い村の中に、金平の姓を名乗る人間は大量にいた。本家だの分家だのがあるぐらいなのだから当然だ。だから遠い親戚なのだろうが、親類からは邪険にされていた自分に、遺品整理を手伝う縁も義理もあるはずがなかった。

 何かの間違いだろう──そう思って、断りのメールを書こうとした時に、「真子」の上に書かれた振り仮名に気づいた。

 真子まさこ

 マサだ。俺があの村に置いていった、もう一人の出来損ない。

 俺はあの村の人間にはなりきれなかったけれども、完全に村の外の人間になることもできないのだと、学校や職場で何度も痛感した。だが俺は同時に、あの閉鎖的な村から逃げ出して、多少は息のしやすい場所で生活を楽しめるようにもなっていた。
 マサと違って。

 葬儀はもう終わっているらしい。死因は書かれていなかった。でも、邪推せずにはいられなかった。あの村で俺の次に生きづらかったのは、マサだっただろうから。


 耳鳴りのような蝉の声。

 奥支野村へと続いているはずの道路には、見慣れないゲートと警備員室が作られていた。この村を出て行った時に見かけた、簡易的なものではない。機密の厳しい工場の入り口か、あるいはジュラシックパークのように危険な大型生物でも閉じ込めているかのような、重々しいゲートが聳えている。

 奥支野。ゲートに綴られている文字列を見て、少し奇妙な気分になる。十五年ぶりに見る文字。
 村人たちは何故か、奥支野という地名を使いたがらなかった。学校の名前にも「奥支野」は含まれていなかった。当時はそういうものなのだと受け入れていたけれど、村の外から帰ってから思い返してみると、地名を忌語のごとく避けるのは、いささか奇妙なことのように思えてくる。おそらくは、「口は食事のためにある不浄なもの」のような、独自の価値観による因習なのだろう。

 運転手が警備員室の前に小型トラックを寄せて、警備員兼監視員に職員証を提示した。警備員が頷き、開かれたゲートの中をトラックが通過する。

「せっかくの里帰りなんでしょう。先に実家に寄って行きませんか?」

 左右を野放図な緑で覆われた道を走らせながら、運転手は何気ない風を装った声で話しかけてきた。

「それぐらいの融通は利きますよ。金平さんはここ育ちの財団職員で、部外者ってわけじゃありませんからね。業務ついでの面会ぐらいなら、どうとでもなります。……ほら、僕たちって職業柄、明日すらも危ういものでしょう。会えるうちに会いに行っておくべきですよ」
「……じゃあ、少しだけ。お言葉に甘えて」

 ここを右でしたよね、などと道を確認しながら、トラックは徐々に村の中へと近づいていく。

 なんということのない、ただの面倒な仕事のつもりだった。幼い頃に縁の切れた村に、今更強い感情など抱いていない。自分の人生とはもう交わることのない、他人しかいない村。

 そう思っていたのに、見慣れた稜線を見ていると、胸の中に何かが込み上げてくる気がした。

 母は、父は、妹は、どうしているだろう。今まで財団から何の連絡もなかったから、きっと息災なのだろう。少なくとも、生死に関わるようなことがあれば、間違いなく今回の業務のような連絡な連絡が来ていたはずだ。

 ここでも芝居をするべきなのだろうか、と迷う。外の人と話す時と同じように、分かりやすい表情を作るべきだろうか。村の中では顔の表情など見たことも作ったこともない。

「つきましたよ」

 悩んでいるうちに、トラックは生家の前に着いていた。促されるままに車のドアを開けると、車内の冷えた空気の中に蒸し暑い風が吹き込んできた。懐かしい土と草の匂いに、眩暈がしそうになる。嗅覚は記憶と強く結びついているという雑学が、咄嗟に頭の中に思い浮かぶ。

 ほぼ天頂からの直射日光が肌を焼く。
 視線の高い助手席から見た村の景色は記憶の中よりも小さく感じられたが、降りてからもその違和感は続いていた。ここにいた時よりも背も高くなったからだろう。もしかすると、都市で活動する社会人として子供時代よりも行動範囲が広くなっていたことも、感覚の違いの一因かもしれない。

 丈の高い建物がないせいで、空がやけに広く感じられる。

 現実感の乏しいまま、家に近づく。生垣越しに発した「あのう、」という声は、中途半端に小さくて、家の中に人がいたとしても聞こえそうになかった。
 息を詰めて、玄関に近づく。もう一度。今度はちゃんと、大声で。

「ごめん、ください」

 玄関を軽く叩き、呼びかける。足元の感覚が頼りない。息が喉に引っかかる。
 家の中から足音が聞こえてきた瞬間、血液が心臓を逆流した気がした。

「ええと、……久しぶり、母さん」

 記憶にある姿よりも、小皺の増えた顔。老けてはいるけれど、すぐに母だとわかった。声がまた、少しだけ上擦る。

「……どうして、ここに?」

 母の顔は変わらなかった。目元も眉も口も、微動だにしない。けれども、まじまじとこちらを見つめる視線に、呼吸の拍子、重心の掛け方、声の強弱は、わかりやすすぎるほどに感情を示していた。驚きと困惑、そして強い喜び。

「仕事で呼び出されて……その、マサの関係で、さ」

 かいつまんで、事情を説明する。一度話し始めると、不思議なほど落ち着くことができた。すらすらと言葉が自分の口から紡がれて、いつの間にか、ここに住んでいた十五年前に戻ってしまったかのような気分になる。
 母のほぼ動かない顔に、どうしようもないほどに安心した。芝居のない顔。声話を語るためだけの口。その体の端々から滲む、感情の断片。
 これこそが自分の知る「人の顔の自然な形」だった。

 直前までどう振る舞うべきか迷っていたのに、自分の顔は当然のように芝居を抑えることを選択した。大袈裟な動きはここではふさわしくない。けれども完全に辞めてしまうのも、母の側からすれば不便だろう。村の内側と外側の両方の流儀で無表情なのでは、マサの死を悲しむ感情も、彼らとの再会を喜ぶ感情も伝えられない。
 だから控えめに表情を作った。テレビでドラマも見る母のことだから、本人は使わなくとも顔の形の意味は知っているはずだ。

 母はマサの家のことについては、語りたがらなかった。自分からも、敢えては聞かないことにする。あの日から部外者になった自分が土足で踏み込めることではないのだろう。
 キカズであり、人生の半分以上を村の外で過ごした自分は、もはやこの村の人間ではない。母もそれをわかっている。

 母と話していると、胸の奥にあった重く冷たい塊が、ゆっくりと溶けていくような気がした。母との会話を後ろから職員に見られていることへの気恥ずかしさは、いつの間にかどこかへと消えていた。

 今年も軒先に燕が巣を作っていたこと。向かいの家に子供が産まれたこと。妹がオンラインで働ける企業に就職したこと。思いつくままに話しているのだろう。最近のことから、村を出て行った直後のことまで、様々な出来事を母は嬉しそうに語った。

「……立ち話もなんだから、中に入る?」

 そう言われて、少しだけ、現実に引き戻される。今日の主目的は里帰りではない。

「いや、これから仕事で……相方も、待たせてるし」

 途端に、母の体の端々が示す感情の色が変わる。

「代わりに、さ、近いうちに手紙送るから。通話も許してもらえないか、財団に頼んでみるよ」
「そう。……じゃあ、残念だけれど、今日はこの辺りで。また来れる機会があったら、今度は事前に連絡を頂戴」
「分かった。……じゃあ、ね。元気で」

 元気そうで、よかった。
 嫌われていなくて、よかった。

 今回の業務のきっかけが訃報であっただけに、村への感情を抜きにしても、胸の内がただでさえ冷たく棘ついていた。それなのに今は、息がしやすい。
 軽くなった足で、小型トラックの助手席へと上がる。

「……すまない、待たせてしまって」
「無理強いしてしまって、すみませんでした。実の息子が十五年ぶりに帰ってきたのに、ずっと仏頂面だなんて。……酷いものですね」

 心底申し訳なさそうな声に、一瞬、愕然とする。温まっていたはずの何かが、急速に冷え切る。

「いや、喜んでいてくれていましたよ。俺たちには分かりにくいだけで。……この村の人間はそういうものだから」

 つい、口から滑り出てしまった言葉だった。いっときの仕事の相方などというものは、気を悪くさせないよう、上辺だけも取り繕って接しておくのが自分の定石だったはずなのに。
 けれども、母が誤解されることが、自分でも意外なほど嫌だった。

「体の向きも指の組み方も、ちゃんと、喜んでくれている時のものでした。……母の顔を見られて嬉しかった。実家に寄ってくれて、ありがとうございました」

 廃棄部門の職員は、奇妙なものを見るような目で俺を見た。

「……金平さんって、本当に此処の人なんですね」
「中学までは、ここで育ちましたから」

 窓の中を、平坦な村の風景が流れていく。
 この村の普通にはなれず、けれど村の外の普通にも馴染めなかった。

 痛みはとうに風化して、ただ苦味だけがそこにある。

 見せようとしている感情、その下に隠そうとしている感情。それら全てが見えすぎてしまっている自分は、やはり対人の場において「普通」ではなかった。人より多いにしろ少ないにしろ、見えているものが違うというのは、違う世界に生きているのと同じで、村の外でも自分は異物だった。
 生まれと育ちは、自分というものと連続的に繋がっていて、どれほど嫌ったとしても、完全に切り離すことはできないらしい。

「あの村から出る廃棄物は、すべて廃棄部門が回収しています。家庭から出る一般ゴミや資源ゴミを定期的に回収している、という意味です。……まあ、あれです。また家族の顔を見たくなったら、廃棄部門を頼ってください」
「……ありがとうございます」

 どこかバツの悪そうな声が、暖かく沁みた。

 マサの家は、村の奥まったところにある。このトラックが入ってきた道とはほぼ逆側だったから、トラックは村を突っ切って進む必要があった。
 だだっ広い畑、半透明のビニールハウス。この村を閉じ込めるように囲う山々。蝉の声とエンジンの低く単調な駆動音を背景に、勾配のある道を進んでいく。

 昔から、鳥と虫の声ばかりがうるさい村だった。無数の人の声が響く、都会の喧騒とは正反対に。
 だから、その声を聞いた時、最初は空耳かと思った。

「おーい!」

 二度目の声。空耳ではない。
 まるで大声を出すのに慣れていないかのような、妙に歪んだ声だった。聞こえてきた方向を見る。畑の中から道路の方へと歩いてくる、壮年と老年の間のような背格好の男が、こちらに向けて手を振っていた。帽子の影になっていて、夏の日差しの強い明暗のコントラストでは、顔がよく見えない。

 運転手も気づいたのだろう。トラックの速度がゆるまり、程なくして停車する。

「あんた、リョウだよな?」

 無遠慮にトラックの中を覗き込んだ男は、母と同じく抑揚のない声話で俺に話しかけた。その問いに頷いて答える。
 近寄られて、ようやく顔がはっきりと見えるようになる。声話で口を開けると、ガタついた歯並びが目に入った。見覚えのある気がする顔だった。

「久々に戻ってきてるって聞いたからよ。でっかくなったな」

 噂話が馬より速いというのは、この村に限っては誇張ではない事実らしい。思い返せば、自分はこの村の人々の話がどの距離まで届くものなのかをあまり把握していなかった。

「せっかくだし、美味いもん持って帰るといい。そこでちょっと待ってろ」

 返事を聞く前に、男は畑の方へと戻っていった。運転手に目配せする。彼は構わない、とでも言うように、肩をすくめた。運転手の無意識の仕草は、男を薄気味悪く感じていることをはっきりと示していた。

 男の背を見やる。
 母がそうであったように、十五年の歳月は、人を老けさせるには十分だ。
 その上、自分もその十五年の間、村のことを思い出すことさえ避けていたのだから、記憶の中にある顔の方も朧げだった。まともな照合などできるはずもない。

 ビニール袋いっぱいに夏野菜を詰め込んで、男が畑から戻ってくる。ビニールに押し付けられたトマトときゅうりの、鮮やかな赤と緑。
 十五年前の記憶が頭の隅を這う。あの頃も、こうしてたまに採れたての野菜を振る舞ってくれた人がいた。

「あんた、トマト好きだったろ」
「ありがとうございます。……並木のおじさん?」

 車窓に押し込まれたビニール袋を受け取る。ビニール袋がはち切れそうなほどの量の野菜が、ずっしりと重い。
 半分疑問符をつけて、あの頃のように呼んでみる。

「覚えていたんか」

 瞬間、ぱっと「並木のおじさん」の周りの空気が変わる。

「すっかり、忘れられているものかと思っていたが。嬉しいものだね」

 少しだけ前に寄った重心が喜びを示している。運転手にはわからないほどかすかに、俺にははっきりとわかる程度に。

「マサもきっと、あんたが帰ってきてくれて嬉しいだろうよ」

 咄嗟に、発するべき言葉を手繰り寄せられず、曖昧に「はい、」と言って頭を下げる。続く並木の「行ってきな」の一言に押し出されるように、小型トラックが緩く走り始めた。

 ここに来るまでは、村への印象に良いものなどなかった。
 村人の誰かが、余計な配慮をしたのだろう、と思っていた。やらねばならない清掃ならば、故人と縁のある者の方が良い、と。もしかすると廃棄部門の誰かが言い出したのかも知れないが。ともかくも、葬儀には呼ばれなかったのに、仕事は押し付けるだなんて、全く、都合の良いことだ、と思っていた。
 ノロマの遺品にすら触りたくないのか、とも思っていた。

 不信感と敵愾心を抱えた里帰りだった。マサを殺した村としか思えなかった。

 けれども、いざ並木さんについて思い返してみれば、嫌な記憶はなかった。草笛の吹き方を教えてくれたこと。マサと俺を家に招いて、よく冷えた麦茶と野菜を振る舞ってくれたこと。庭で採れた柿を干して作った干し柿を子供達に配ってくれていたこと。
 他の子達と区別なく接してくれていたこと。

 並木さんだけではない。川沿いに住むお姉さんは、いつも聞き取りやすい丁寧な声話で話しかけてくれていた。公民館の図書室の司書のお婆さんは、嬉しそうに本をお勧めしてくれていた。
 どうして忘れていたのだろう。

 酷い態度の人間ばかり、印象に残るものだ。そのせいで取りこぼして見えにくくなっていた、小さな優しさも、確かにこの村にはあったのだなと、今になって気づいた。

 トラックが止まる。

 目的地に着いてしまったらしい。運転手は仕事道具を抱えて玄関の前に立った。戸を叩いてしばらく待つと、家主が戸を開けた。白髪の目立つ、少し痩せた猫背の男。前に立つ職員の背に半ば隠れるような形で、家主に頭を下げた。

「失礼します」

 この村の人間らしい無表情。本家の集会でマサの父親には何度か会っていたはずだが、あまり印象に残ってはいなかった。体の一点に注視するのではなく、ぼんやりと体全体を視界に収めるようにする。これが自分にとって一番「感度がいい」見方だけれども、この父親の感情はうまく読めなかった。

 先に線香をあげたい、と頼むと、仏間に通された。小さくない仏壇の横には、大人になったマサの写真と、見覚えのあるマサの母の写真が置かれていた。

 マサの母まで亡くなっていたとは知らなかった。咄嗟に職員の顔を見たが、娘を亡くしたばかりの父親の前で聞くこともできず、口をつぐむ。

 まだ四十九日は過ぎていないはずだったが、骨壷は見当たらなかった。財団にとっては人型実体の遺骨だから、研究か何かのために回収されたのかもしれない。

 二階のマサの部屋へとあがる。体重をかけるたびに、階段が軋んだ音を立てた。部屋の襖を開ける。埃を含んだ空気が喉にちりつく。薄暗い部屋の中は、遠い昔に来た時よりも、随分とものが増えていた。

 職員が荷物の中から大きなビニール袋を取り出し、袋の口を大きく開ける。続いて、マスクとビニールの手袋を俺に差し出した。

「……市販のものですよ。パラテクは使われていません。ここにあるものは全て、粗大ゴミあるいは機密情報書類として処分されます。この村の人々の異常性は他の物質に作用するようなものではありませんから、脅威度は最低レベルで防護服も必要なし。普通の部屋掃除のつもりで、全て処分しましょう」

 既に背に汗が滲んでいるこの暑さでマスクや手袋をするのは気が進まなかったが、職員に倣って身につける。
 棚の中の絵本にCD、学校時代の教科書やノート。くたびれた毛布、薄汚れたぬいぐるみ。紙類はビニール紐で縛り、それ以外は無造作にビニール袋の中に放り込んでいく。電子機器や紙類は機密情報を含むものとして処理されるらしいが、それ以外は普通ゴミや粗大ゴミとほぼ同じように処理されるらしい。

 廃棄部門の職員と共に、黙々と作業をする。職員はドアから向かって左側の棚から、俺は向かって右の机の上を。
 机の上や下には、小学校から高校時代のものらしき授業ノートが所狭しと詰め込まれていた。それらを処分しやすいように紐で縛っていく。「理科」、「社会」、「古文」、「生物」。

 「日記」と題されたノートが目についた。

 手が止まった。
 躊躇いと好奇心の天秤は、数秒の間拮抗して、好奇心の方に傾いた。
 少しだけだ、と言い訳をして、軽く開く。お世辞にも綺麗とは言えない、崩れた字体。この部屋の中でのノートの埋もれ具合と、使われている漢字からして、中学か高校時代だろうか。

 授業のこと、畑仕事を手伝ったこと、神社でお祭りがあったこと、おみくじが中吉だったこと。
 何ということのない平凡な日常が綴られている。それらを流し読みして、ページを捲っていく。なんだ、そんなに酷い日々ばかり送ってきたわけじゃないじゃないか、と、頭の中で自分の声がした。ページが進むごとに膨れ上がっていく、置き去りにしてしまったことへの罪悪感を抑えつけるように。

 ──りょうくんは外で、元気にしているかな。

 その文章を見た瞬間に、手が勝手に日記を閉じた。鏡文字になっていない、正しく書かれた「り」だった。

 君がここで押し潰される前に、一度ぐらい、戻ってくれば良かった。

 同種間のコミュニケーションでしか異常が発現しない、危険度の低いアノマリーなのだから、他の収容施設に移ることだって、不可能ではなかったはずなのに。

 外に出てからの自分は、何者になろうともしなかった。鬱陶しい視線もなく、常に頭を下げなくても許される場所で、ただ伸び伸びと生きていられればそれでよかった。

 どうして、マサの友達であろうとすらしなかったのだろう。

 マサを置き去りにして一人だけ村を出ていった俺を、どう思っていたのだろう。

 上部に埃がついたままの日記を見つめた。あの時と違ってきちんと漢字で書かれている「日記」の字が、自分を責めている気がした。

「……あの、」

 気づけば、背後の職員に声をかけてしまっていた。

「一冊だけ──これだけ、持ち帰らせてくれませんか」

 マサは出て行った俺のことを気にかけてくれていたのに、俺は一度も村に置いて行ったマサのことを思い出そうとすらしなかった。
 ならばせめてもの償いに、マサがどう過ごしたのか知っておきたい。
 道中に実家へ寄る融通も利かせてくれた、この情に厚そうな職員ならば、きっと──

「……金平さん、それは人型実体の書いた日記ですよ。アノマリーが死後に残せるのは、後の研究の資料になるものだけです」

 息が、止まった。
 油断のあった心臓に、その言葉は鋭く突き刺さった。
 馬鹿なことを言った。この村に関わる職員にしては珍しく、俺をSCP-████-JP-Bと──オブジェクト番号では呼ばないものだから、勘違いしてしまっていた。
 血流が氷のように冷えていく。

「申し訳ありませんが、規定上、許されません。オブジェクトが書いた文書は、機密文書と同様の扱いで廃棄しなければなりません。金平さんの思い入れも理解はできますが、それが機密漏洩のリスクを上回るものではないと、わかっていただけますよね」

 その声音だけで、この職員にどう頼んでも受け入れてもらえないのがはっきりとわかった。
 ふつふつと、腹の底に何かが込み上げてくる。

「そうでしたね。……我々人型実体ごときに尊厳はないことを忘れていました。すみません」

 あからさまに棘のある言葉で応じる。もう、どう思われようがどうでも良いと思った。どうせ自分は、マサは、人間ではなくオブジェクトとしてしか見られていないのだから。
 大多数の村人たちからキカズというラベルでしか見られていなかったのと同じように。

「──違います」

 硬い声の中に、慌てたような色が滲む。

「違います、断じて。例えこれが自分の息子や娘の遺品だとしても、機密情報が残っていたのなら、迷わず捨てます。廃棄部門とは、そういうものなんです」

 硬い顔の表情、指先や体勢を見れば、彼が本心から言っているのだと確信できてしまった。

 この人間はおかしい。

 突然、目の前の職員が奇妙な宇宙人か何かのように見えた。あるいは、物事を自分の感情として知らない、幼い子供に。
 今、当事者になっているからこそわかる。そんなに好きなわけでもなかった、ただ縁のあっただけの幼馴染の遺品でさえ、これほど捨て難いものなのだ。身内の遺品を躊躇なく捨てられるだなんて、どうしてこんな声音で言うことができるだろう。

「……僕が廃棄部門に配属された時のオリエンテーションでは、そういう慢心から起きたインシデントの数々を聞かされました。あなたも財団の職員ならば、職務を遂行することへのプライドはわかっていただけますよね」

 職員としてのプライドなど、俺には理解できない。
 これは自分で選んだ道ではない。保護された時から、それ以外の生き方を選べなくなったから、職員になっただけだ。

 この鈍い「普通」の人間は、俺の顔に、態度に、一体何を見ているのだろう。その曇った不明瞭な視界の中に、俺はどう映っているのだろう。
 なぜ、こんなにも必死そうな顔で、訴えているのだろう。
 目の前にいる人間の感情すら理解できないくせに。──否、理解できないからこそなのかもしれない。

「捨てるというのは、何かを軽んじることではありません。何を後の世に残すかを選ぶということです。金平さん、僕は真子さんの遺品が何らかの災厄になる可能性を廃棄したいんです。それが廃棄部門職員としてできる、彼女への敬意の表し方なんです」

 理屈の上ではわかる。財団の理念は知っている。だから、財団がどういう判断をするのかも理解できる。
 けれど彼のいう結論は、やはり受け入れ難い。業務としてここにいる以上、従う他ないのだと理解はしていても。

「……じゃあ、どうすれば良いのだと思いますか。真子をこの村に置き去りにして、あの子が死ぬまで帰ることすらしなかった俺に、何ができるでしょうか。あの子の過去を辿る以外に、一体、何が」
「廃棄部門としてお答えするなら、彼女の持ち物を敬意を持って捨てることである、としか。研究資料として収容サイトに提出するならば、焼却処分は免れるかもしれませんが、僕はお勧めしません。無闇に故人のプライバシーを踏み躙ることになりますから」

 上辺を滑るような言葉。まるで、何処かで聞いた言葉を繰り返しているかのような。
 しばらく、不自然に黙りこんだ職員は、ひどく重たげに息を吐いた。

「……当事者以外の言葉なんて、響きませんよね。僕も、そうでしたから」

 迷うように揺れていた視線が、俺を見据える。

「僕自身からの答えを言うならば……僕は、同期の友人を財団の業務中に亡くしたことがあります」

 即座に、語りたくないことを語らせてしまっているのだと、わかった。彼の全身からは生々しい痛みが滲んでいた。まるで、たった数ヶ月前の悲劇を話しているかのように。

「僕は彼の遺体を感染性廃棄物として処理しました。彼の持ち物全てを廃棄しました。死者のためにできることはないのだと、そのときに知りました。死者に時間や労力を捧げることは、底なしの虚に声をかけ続けるようなものです。嘆いても祈っても、何も返ってきません。……けれど、残されたものをどう扱うかについては、確実に今と未来を変えるんです」

 こうまで真っ直ぐに、実直に俺と向き合おうとしているのは、同じ人間、同じ職員として、理解の及ぶ相手だと本気で信じているからなのだろう。彼にはこちらが見えている断絶が見えていない。

 だが、とも思う。話が聞けること、相手の感情を察することよりも、理解しようと歩み寄ることの方が、より重要なのではないか。村にいたあの日々、迷いながらも家族としてどう共に過ごしていけるかを考えてくれた両親のように。他の人間と分け隔てなく接しようとしてくれた、遠慮がちな数人の村人たちのように。

 納得はできなくても、そう見せることはできる。芝居は上手い方なのだ。この十五年、毎日その仮面を被り続けてきたのだから。
 それがきっと、歩み寄るために語ってくれた彼への礼儀だ。

「そう、ですね。あなたの仕事に対して、無茶を言ってしまってすみませんでした。折り合いの付け方は、自分で考えてみます」

 日記を差し出すと、彼はほっとしたように微笑んだ。

「ありがとうございます。……きつい言い方をしてしまって、すみませんでした。実はまだ、僕の方でも整理がついていないのに、でしゃばりすぎました。
 もしよければ、帰りに、この村の話を聞かせてください。報告書には載っていない、あなたの目から見たこの村の話を」


「……真子さんの死因は、熊害だったそうです」

 夜の高速道路には、周期的に灯る白い電灯ばかりがよく見える。眠気覚ましも兼ねて、俺と職員は交代で話をした。俺は幼い頃の村の話を、職員は機密に触れない範囲で、最近の仕事の話を。
 その合間で、ようやくマサの死因を知った。

 最初に襲われたのはマサの母だったらしい。マサはおそらく、母の声なき「悲鳴」を聞いて、現場に駆けつけたのだろう。そうして、二人目の犠牲者となったらしい、というのが、村の人々の証言から推測した財団の結論だった。

 三人目の犠牲者が出なかったのは、マサが死に際に近隣の村人目がけて無差別に警告を放ったおかげだと、運転手は言った。そのおかげで速やかな避難と機動部隊の派遣が叶ったらしい。
 運転手はマサと村人の関係がどのようなものだったか知らなかったし、俺も村を出て以降のことは知らなかった。家族に聞いたとしても、都合よく美化するだろうことは目に見えている。マサは村人への恨み辛みを口にしたことはなかったから、もし何か思うことがあったとしても日記に書かれているかすら怪しい。

 ただ一つ確かなのは、マサが道連れを望まなかったという、そのことだけだ。

 そして俺は、村でのマサは愛想よく振る舞おうとはしていたけれど、誰彼構わず能動的に親切を振る舞う人間ではなかったことを、知っている。収容前から閉塞していたあの村に、財団が関わったことによって、もしかすると良い風が吹き込んでいたのかもしれない。
 十五年は短くない。村人とマサの関係性が変わっていたとしても、おかしくはないのだ。
 俺自身だって、今回の帰省で一度も「キカズ」の単語を耳にしていないのだから。

「あと、もう一つ」

 あの村がなぜ奥支野おしのと呼ばれているのか知っていますか、と運転手は問うた。外に出てからは、通常は小学校あたりで地元の地名の由来について学ぶものらしいと知っていたけれど、異様なほどに「奥支野」の地名を避けていたあの村では、当然、聞いたこともなかった。

「元々は、『聾唖』の『唖』の字で、唖之おしの村、と書いていたそうです」

 言葉を話せない者、という意味のオシ。今ではメクラやツンボと同様に差別用語として認識され、さまざまなメディアが放送を自粛している言葉。

 古くからある村一つを収容するのに、記憶処理剤を使うのは現実的ではなかった。情報操作するべき範囲も、村にまつわる記憶や記録の根深さも、記憶処理剤でカバーできる領域を越えていた。薬剤は新しい記憶を削り取ることには向いていても、人の中に長く根付いた概念を狙って除去することは難しい。

 代わりに、財団は唖を口にするべきではない差別用語だという認識を広めて、村の名前を廃棄した。名を奪うこと自体、それを語ることを難しくさせる。その上、この場合は理由が理由なだけに、精神的な面からも言及を躊躇わせた。
 そして財団は、公には公害で廃村になったことにし、唖之村を知る近隣の人々には、自ら語るのを憚るようになる話──所謂、カバーストーリーを流布した。結果、唖之村を語る者はいなくなり、十五年の年月と共に唖之村は忘れられていったのだという。

「使われるものはいずれは捨てられます。物も、言葉も、概念ですら。物事が絶えず新しく生じ続ける傍らで、残すものと捨てるものの分別が日々行われています。オシも、あの村の中でのキカズも、残すべき言葉ではないのでしょうね」

 暗い高速道路を、重くなったトラックが走って行く。静寂の村を背後に置き去りにして。

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