波が埠頭に当たり、まばらに砕け散る音を聞きながら男は再び竿を振るう。うねうねと動く餌を串刺した針が浮きを連れ立って飛び込んだ先は、男にとっては己の血潮と言って差し支えのないものだ。
今の男に名はない。いや、今の彼にとって自身を甲斐甲斐しく世話してくれる――もっともそれも決してただ奉仕しているわけではなく、彼らの側もそうすることで得るものがあるのだろうが――相手である財団と名乗る団体のもとで、確か清掃員として働いている彼の両親からは、彼の生まれ持った名を呼ばれることはある。
しかしながら、普段はその名は伏せられ、代わりに財団から与えられた番号でもって呼称されることを彼は慣れないながらに受け入れていた。
彼の名はSCP-094-JP。研究者たちに「海洋人間」などと渾名される、ちいさな世界の大きな海を体に宿すこと以外はごく普通の一般男性だ。
ふと、SCP-094-JPの背筋が疼いた。彼の体の隅々まで、それこそ親よりも知っているであろう白衣の集団から聞かされた自分の体の異常性に照らし合わせるなら、彼が自分の背中に手を伸ばしてぎりぎり手で触れられる位置で身動ぎするそれも、この大海原のどこかで眠っているのだろう。
彼の体内では1cm程度の寄生虫、そう聞かされている。しかしそれでも現実の海に置き換えれば10kmにも及ぶ巨大な生物だ。
彼の体からそれを取り除くことで現実のそれもどこへともなく消え去ってしまうことを懸念してか、財団は彼の背中のそれには手をつけていない。
彼としてはこの寄生虫が原因で仰向けで寝られないなんてことがなければそれでいいとはいえ、10kmもの大きさを持つ怪物を倒してしまわなくていいのだろうかと疑問に思うが、小耳に挟んだ彼らの信念から考えれば「必要がないならば殺さない」という選択は自然なものに思えた。
幸いなことにこの怪物はたいへんな寝坊助らしく、普段は海の底でぐーすかとイビキをかいているらしい。財団の手にかかれば、寝惚けたただデカイだけの怪物を落ち着かせるくらいわけないのだろう。
それよりも、むしろ彼自身のほうが厄介な体質をしていると言える。この体質のせいで、財団は彼が軽い風邪にかかった程度で大騒ぎし、気分が落ち込まないように元々の彼の稼ぎでは叶わないようなプレゼントを買い与えているのだから。
小市民な彼が降って湧いた待遇に恐れをなし、彼らの仕事の手伝いを申し出たのも無理からぬ話である。なお、その仕事はほとんどがダミーであり、彼のあれこれは基本徒労に終わっているのだが。
そんな彼と、定期的に入れ替わる彼の同居人である財団職員の他に誰もいなかった物寂しい島だが、ここ最近は時たま彼と同じ奇妙な客が現れるようになった。
「我が居城よ……アイリはまだか」
「そろそろ給食の時間じゃないですか? 大人しく待ってないとまた怒られますよ? 王様」
「ぬぅ……」
彼のことを「居城」などと珍妙な呼び方をしているのは、彼の隣に置かれたタブレットのビデオ通話に映る、彼の拳より少し大きいほどの殻を背負ったヤドカリだった。
当然、喋っている時点でただのヤドカリではない。それはSCP-120-JPと呼ばれている、彼と同じ財団の収容物である。
自らを『深き海とそびえる山を統べる偉大なる王』と呼称する彼曰く、彼の真なる姿は30mをゆうに超えるオオヤドカリであるらしい。
そんな王様と出会ったときは既にかの寝坊助の話を聞いたあとだったのでどうにもスケールダウン感が否めないのだが、どうやら王様も寝坊助の存在は知っていたようで「あのデカイだけのデクノボウと一緒にするな」とお冠であった。
王様にとってSCP-094-JP、海を体に宿す彼は自らの城と言っても過言ではないようで、他の人間に比べいくらか友好的に接せられている。もっとも、この王様がいたく気に入っている"宝石"であるところの、アイリと呼ばれている少女には幾分劣る扱いではあるが。
直接会うことこそ叶わないもののそれなりの頻度でSCP-094-JPのもとに通話をかけてくるこの王様は、彼の数少ない話友達になっていた。
「……そういえば我が居城よ」
「なんですか王様」
「夢を見たのだ。アイリが……愛する男を連れてくる夢だ」
SCP-094-JPの脳裏に、かつて王様に見せられた無邪気に笑う少女の写真が浮かぶ。彼にも彼女と同じように屈託もなく笑っていた時期があるように、彼女もやがて彼のように大人になるのだろう。そして、彼とは違いなんの異常性もない、ただ王に見初められただけの彼女は、やがて愛する者をその隣に置くのだろう。
普段の尊大な態度とは少し違う、哀愁を纏った様子でつぶやく王の声は、さながら娘の将来を想う父親のように思えた。
「まぁ、子供の成長ってのは早いもんですからね……」
「うむ。アイリもいつかはそうして伴侶を得るのだろう。そこで思いついたのだ」
「何をですか?」
「我が居城よ。アイリを娶めとる気はないか?」
SCP-094-JPはその言葉にバランスを崩し、危うく釣り針と同じ道を辿るところだった。
「おかしなことではあるまい。宝石は宝物庫に置かれて然るべきだ。我が居城であればアイリに、まぁ相応しくないとは言えまい」
「い、いや、アイリちゃん小学生でしょ!? 干支一回り以上差があるじゃないですか!!」
「ふん、『深き海とそびえる山を統べる偉大なる王』たる私が認めるのだ。十分だろう」
SCP-094-JPは、婚姻が許される程度には大きくなったアイリと、同様に歳を取った自らの姿を想像する。なんだか自分の姿が異様にくたびれて見えて、SCP-094-JPは項垂れた。
「それに、だ」
そんな彼の様子を知ってか知らずか、王は続ける。
「王は城にいるものだ。お前がアイリを娶めとるならば、私もまたお前と共にいられる。3人共にな」
その言葉を最後に、王と居城の間に沈黙が降りた。潮風と波が埠頭を叩く音と、口うるさいウミネコの口喧嘩にかき消されそうになった浮きの沈む音をなんとか捕まえて、SCP-094-JPは竿を引いた。
虚しくも針だけになった糸の先を手で弄びながら、彼は王に返す言葉を考える。アイリはここに来る前に、災害で両親を亡くしている。
怪物と人間の歪な家族。しかし、SCP-094-JPにはその内情が、人間とさして変わらないものに見えた。
「……まぁ、まずは会ってみてからですね」
「うむ、顔も知らぬ者だとアイリも不安がるか……ココのものに言ってお前と顔合わせできるよう取り計らおう」
「ははは、楽しみにしてますよ」
そんな彼らの会話もまた、海に溶けていく。ちいさな世界の海と居城は、こんなものだ。