エージェント・ヤマトモには過去がない。気付けば財団で働いていた。
彼はこの境遇に対して、自分なりに考えたことがある。
医療部門に記憶を改変され過去の記憶を失った可能性……自身が誤って過去改変オブジェクトに暴露した経歴を消失した予測など……しかし、どれだけ考えても答えが出ることはなかった。
しかし、『過去がない』とは云っても、白衣の博士にしろ、黒衣のエージェントにしろ、財団においてはそう珍しくない。よくあることだ。突然、空から降ったか……地から湧いたのか……そのような人達は財団において、決して奇抜でも珍妙でも、そして少数でも稀有でもない。オブジェクトが突然現れるように、いきなり知人顔のように出現する財団職員だっている。
ヤマトモはあまり物を所有しない。必要最低限の金と、財団から支給される携帯食と一般人向けの記憶処理剤、野営のためのキャンプ一式が財産だ。必要以上に物があっても仕方が無い。可能な限り、全てを必要最低限にしているが、手荷物の中に誰の物なのか分からない手帳があった。まるで……突然、現れた『エージェント』のようにその手帳は、己の手にいつの間にか所有していたものである。
彼は時々、手帳の中身を読む。時間がある時に目を通す。
紙面に書き連ねてあるのは、個人の日記であった。少し乱雑な文字で記載した日付と数行程度の一日が、淡泊で非常に素っ気なく書き込まれていた。時には鉛筆で、多くはボールペン、稀に血液で書かれているその手帳は、過去を持たないヤマトモにとって興味深いものだった。
誰の物とも知れぬ日記は、ページの端がボロボロになり、文字がクタクタに滲んでいる。これはヤマトモが手帳の扱いが雑なことと、暇さえあれば読み耽っている所為であった。パラリパラリと紙を捲り、汚い文字を見るたびにヤマトモはふとあることを思う。……もしかしたらこの手帳は、日記の内容は自身が失った過去の結晶――否――化石ではあるまいかと。
その考えに到達するたび、ヤマトモはその手帳を大切に保管したくなった。……いや、正確に言うなら、金庫などに入れて捨てておきたくなった。
さほど重たくない手帳が、鉛にでもなったかのように、ずっしりと手の平に圧し掛かる。その重量は義肢より重たく、凍て付くように凍みるのだ。手の平だけじゃない……彼のこころに黒く粘着いた感情が淀み、それはドロドロと溶け合って渾然一体となる。恨みだ。憎しみだ。憎悪である。
日記に記されている過去の記憶は、明らかに財団エージェントが記したものであった。SCP……異常オブジェクトの収集……知っている財団職員の名前……名も知らぬ同僚の死……顔も知らぬ両親……そして、妻子のことがとても大切そうに記されている。日記の内容は、基本的に自身の身に起こったことしか書かれていないが、妻と子は例外であるらしい。妻が何を買い、子が誰と喧嘩したのかを、乱雑で無愛想ながらしっかり確かに書かれているのだ。
日記の最後は、妻と二人の我が子に対する心配と悲哀で締めくくられている。自身の身体や生死など、一切微塵も記されていなかった。彼は純粋に妻子が無事に生きて、懸命に生き延びてほしいとただそれだけを願っていた。文字上でも伝わってくる激しい感情を想像し、彼の陥った境遇を考えると自然悲しくなった。ヤマトモは自分のことのように哀しくなった。
「 」
中でも一番悲しいのはこの文末の一文である。この一言のあとに何も記されていないことから、これが最後の言葉であることが易々と想像できた。ヤマトモはこの文末を読むたび、心臓に毒矢が突き刺さったような激痛を感じた。人知れず呻き唇を噛み締め、鞴のように吹き荒れ爆発しそうな感情を堪える。毒が、横溢しそうになるのを無理矢理、抑え付けるのだ。
ヤマトモは感情が不用意に乱れ、無意味に悲しくなる想いを想起させるこの日記を捨てるか、誰かに預けようと何度も考えた。実際に、信頼できる同僚に日記を差し出し預かってくれるよう頼んだことがあった。しかし同僚の誰もが残念そうに首を振り、受け取ることを拒否する。そして何故か、自ら手放せないことが、非常に解せなかった。
捨てる事も預ける事も出来ないのならば、本来の持ち主を探し出して墓前にでも添えようと行動を起こしたこともあった。しかし探せば探すほど、深入りすれば深入るほど、この持ち主に該当する人物が見当たらず、やはり自分の物なのではないかと思えてくる。
ヤマトモは待っている。日記を手渡す相手を待っている。だが……しかし、受け取るべき相手はいつまで経っても現れない。
ヤマトモは気付かない。何も気付けない。日記は白無地無記の白紙であることを……。