ウィリアム・フジタの親孝行
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オセアニア随一のメガパラシティにして、連邦共和国政府の束縛を受けない自由都市、メルボルンへようこそ!
メルボルンは荒野の広がるオーストラリア大陸において唯一の最先端都市、あらゆるカネとリソースが海外から流れ込み、行き場を失った/身の丈に合わない夢を追う「市民」たちがこの希望の街に集まる。ビジネス・アカデミー・エンタメ…なんであれメルボルン行のチケットは頂点への近道だ。しかし日本にはこんなことわざがあるらしい──急がば回れ。
光を放つ摩天楼の下では、底知れぬ闇が広がっている。裏道にはオマエの財布から金を抜くためにホルスターから銃を抜くやつが、摩天楼にはオマエを出し抜くためにオマエの電脳をファックするやつがいる。ヤツらに気を付けてやっと成り上がったと思った次の日には、ギャングかコーポかゴックスにぶん殴られて、良くてメトロ駅の隅っこで乞食だ。度胸が無いなら、悪いことは言わない、今すぐそのeチケットは端末ごとゴミ箱に捨てて、もっとマシな場所に行け。例えばコロンビアのボコタにでも行けば「幸せ」になれるぜ。
そしてもうキャビンの中のオマエ、このメルボルン・サバイバルガイドを頭に「インストール」して、帰るその日までせいぜい生き永らえるようにな!
ジョー・B(2040), 「メルボルンへようこそ」,『メルボルン・サバイバル・ガイド』より引用


ウィリアム・フジタは、ニュージーランドの小型船舶メーカー、アムーア・マリンクラフトで働いている事務弁護士だ。

彼のデスクにはイーステック1の安価なノートPCとホロドキュメントスタンドが備え付けてあった。そして出勤するたびに、型落ちのデジタルフォトフレームをデスクの上におくのが習慣だった。フレームには女手一つで彼を育て上げた母リリーの写真が映し出されている。彼女を治療している財団の職員たちが毎週送ってきてくれるものだ。何でもかんでもAR化するこの電脳の時代に、彼はわざわざフォトフレームを使い続けていた。

一方で父の写真を彼は飾ろうとは考えていなかった。父は彼が物心づく前に、趣味のスカイレジャー中に事故で亡くなっていたからである。母が息子のために身を粉にして働く姿を見る度、病院のベッドでの笑顔を見る度、彼は父の「身勝手さ」を思うのである。とはいえ彼は機微の分かる子であったから、「フジタ」姓が嫌いなことを決して母には悟らせなかった。

今日もフジタは同僚と軽い挨拶をしフレームをデスクにおくと、ニュースに目を通した。業界のニュースを追うと共に最近の社会の動向も追い、彼は思わずため息をついた。

"首相 財団異常疾患研究・治療センター2への補助金削減を示唆"
"Docter-PAV International社(日)3 NZ進出を発表 25カ国目"

国民の一定数が財団への支出金カットを望んでいることは確かであり、情報開示に不安があることには彼も共感していたが、軽微なものといえど財団指定難病(DIDF)4の罹患者である母を思えば、医療費が上がったり、治療環境が悪化するのは受け入れがたかった。昨年の選挙で反正常性維持機関の連合政権が成立し、サイト-81Q5事件が発生して以来、フジタの不安は大きくなるばかりであった。DIDFの治療費の多くは慈善(そしてその内訳は実際には政府からの支出金であり、元をたどれば税金である)で軽減されているだけで、本来はバカにならない額であることを彼は知っていた。とはいえ、いずれにせよ仕事を頑張るほかない、そう思って彼はニュースサイトを閉じた。

しかし、メールボックスを確認したフジタの目に飛び込んできたのは、プロメテウス・ラボ・グループ傘下、アルゴ・オートモーティブ社5メルボルン支社からのメールだった。
「貴社製品 FL-Cruiser 100Sの特許侵害疑義につきまして」。

こうしてウィリアム・フジタは、法廷弁護士6を求め、製品の資料を抱えて急遽メルボルンへ向かうこととなった。


地下鉄7駅の階段を上りきると、目に飛び込んできたのは鮮烈な青色だった。
今朝の砂嵐がウソのような光景にフジタは一瞬目を奪われたが、それも一瞬。人の波が押し寄せ、彼はつんのめって人ごみから押し出された。
足元のタイルの隙間には砂が堆積しているのが良く見え、履き慣れた革靴を通じて足裏からはザラザラとした感触が帰ってくる。そして手首のウェアラブル8が一瞬バイブして、会合30分前を伝えた。

「流石にここまでとは思わなかった」
そうフジタは、冷たいコンクリ製のベンチの上でぼやいた。確かにNZでの経験通りならば、今頃彼は早めに会合場所に着いていたし、ここメルボルンのラッシュにおいても乗換案内アプリケーションはそれなりに役に立つはずだった。砂嵐と人身事故というイレギュラーがなければ。

一先ず現状を飲み込んだフジタは、先方に謝罪の電話を入れた後、立ち上がって「コンバットでイエロー」9なタクシーを待つことにした。苦い顔をする経理の顔が脳裏に浮かんだが、「スーツを着たよそ者が、目をちらちらさせながらメルボルンのストリートを歩くというのは危険すぎる、パスポートを取られた日には大変なことになりますよ。」というのが、タクシーを手配してくれた会合相手の法廷弁護士の談だった。

実際、ストリートを行き交う人々の格好は、モダンでもシックでもない。自己主張の激しい蛍光色の化学繊維とプラスチックフィルムで成形された服を身にまとう若者と、くたびれてぶかぶかとした服の中に光る眼を宿した老人たちがそこかしこにいた。路地からは人工皮膚10でインプラント11を隠さない素行の悪い連中がフジタに鋭い視線を浴びせている。2042年のメルボルンは数ブロック離れただけで、その様相を変えるのだ。

目の前のアスファルトのひび割れをタクシーが何台も通過するのを見送った後、やっと一台のタクシーが路肩に寄った。

拳銃弾をものともしないだろう外装板は所々剥げた真黄色の塗装に覆われて、ダッシュボードにこれ見よがしに置かれているのは96年のポートアーサー事件以来豪州全土で禁止されているはず12のサブマシンガンだ。車に乗り込めば、内装からトキワ自動車製の高級乗用車と一目で分かるだろうが、地場企業の手でコンバット仕様に改造されたこのタクシーが放つ威圧感は、他の都市ではなかなか拝めないだろう。

「あんたがウィリアム・フジタか。遅くなってすまないね」
背筋のよく伸びた男の声が車外スピーカー13を通して、フジタに乗車を促す。車内のインテリアは外見のいかつさとは裏腹に、フジタの体をやさしく包み込んだ。既に予約の時点で知っているだろうに「決まりだからな」と男は行先をフジタに再確認すると、車は丁寧に加速を開始し、大通りの車列の中に溶け込んでいった。


フジタは初めて見る窓の外の景色を楽しんでいた。ブロック毎に町並みは少しずつ姿を変え、衣食住が完結するメガビルディング14、煌びやかなホロサイネージ、アジアンパンクな市場、これらがフジタの目を楽しませた。
しかし次第に壁にはグラフィティが増え、街路を行く人々には、サイボーグ、虚ろあるいはギラギラした目の人々の比率が高まってきた。気づけばフジタの脳裏には、数分前に電話相手が発声した"コンバット"の語が張り付いていた。

「な…なあ、この辺はどこなんだ」
ここはオールドノースだよ、運転手はそう答える。

オールドノース──フジタには見覚えがある地名だった。恐らく出発前に僅かな時間でチラ見したシティガイドだろう。
オールドノース。危険。
第二次エミュー戦争後15、しばらくメルボルンの北辺だった地域。かつてはエミューの襲来に備えて、市・州の軍、そして正常性維持機関の武装資産が駐屯する一方、市内でのまともな家にありつけない人々が、廃墟に住み着いた。現在では軍や正常性維持機関は去り、代わりに未登録移民・超常犯罪者・非合法悪魔・半神格が流入している。治安は劣悪、ドラックと銃弾の民間取引数は市内随一。ただし、シティセンターへのそこそこのアクセス性から、周縁部に宿を取るバックパッカーも多い。

おどろおどろしい観光案内に目を通していると、やはりフジタの不安感はますます醸成されていく。30分で着けなんて言われたので仕方なくショートカットしてここを通っている、と言われたときには、法廷弁護士の言う通り前金をはずんだことをフジタは後悔していた。そして急な停車によって彼の後頭部は座席に強く打ち付けられた。

KABOOM!
直後にそんなオノマトペが適当な爆発が起こり、タクシーの前を走っていた自動車は爆発と炎上で見るも無残な形になっていた。むろんオールドノースを走っている車であったから、耐久性は折り紙付きのはずだった。黒煙でフジタからは見えなかったが、その前方では凶悪な電子ドラッグを掴まされただろう白人のバックパッカーが、錯乱して銃を周囲に乱射する光景が広がっていた。さらには、これを鎮圧しようと道の両脇から飛び出してきた2つの自警団、もといギャングが流れ弾で衝突を始めている。

「捕まっててくれよ」
状況を把握した運転手はすぐに転進を開始したが、今日ばかりは運が悪かった。ハンドルを切り出した瞬間にフロントガラス兼ディスプレイは原色の赤に染まり、コントロールを失ったはずの車体は急加速を開始して、そのまま縁石に乗り上げる。ひとりでにクラクションが鳴り、サイドミラーが転回と開閉を繰り返し、エンジンはバイオ燃料16を消費しようと喘いでいる。バックパッカーの電脳から周囲にばらまかれた、典型的だが巧妙なデーモニック・ウイルス17が引き起こした惨事だ。

運転手はダッシュボードのサブマシンガンを掴むと、フジタの腕を掴んで強引にタクシーの外に引きずり出す。そしてトランクからマシンピストルを取り出すと、フジタの手にねじ込んだ。


「数ブロック走ればシティセンターだ、あんた、銃は使ったことあるか」
運転手は自分が着ているものと同じジャケットをフジタに着せながら、車の影からすぐ前方の惨状を窺った。暴走を起こした安物のインプラントを装備したギャング共が銃撃戦を繰り返している。
「ないよ」
フジタは何とか勇気を奮い立たせて、そう答えた。
「こいつは追尾式の小型ミサイルが装填してある。大雑把な狙いでも十分当たる新兵にも優しい武器18だが、弾数は多くない。いざというときに使え。そして当たるまで銃口を向け続けろ、前を見て逃げながらでいい」

運転手は話は終わりだと言わんばかりに、「ついてこい」のジェスチャーをしながら車の影から飛び出すと、路上の人工物で身体を隠しながらシティに向けて前進を開始した。フジタの脳も、もはやここにおいては前に進むしかないと判断したのだろう、ダッシュを開始して間もなく、彼の視野からは運転手以外が消え、さっきまで聞こえていた銃撃も遠い後ろに過ぎ去っていく。路駐された自動車、路上変圧器の影を縫って、息も絶え絶えに普段使わない筋肉を酷使する。

それ故、少し前で立ち止まって何かを訴える運転手の声が、フジタには聞こえなかった。

彼が革靴の踵をタイルに大きな音を立てながら叩きつけて踏み込むと、ゴックスの置き土産、プロメテウス・ミリタリー・インダストリーズ製のセキュリティタレット19が、廃墟となったステーションの外壁から突き出してきて、円筒形の本体を露出した。銃声を探知してスタンバイモードだったタレットは、銃を握って全力疾走するフジタをセンサで認知すると、劣化した在庫をフジタの下半身に叩き込もうと、ぐるりと体をひねる。最後に銃身が吹き飛んで外壁に焦げ跡が出来たのと、フジタの足が吹き飛んで歩道に血だまりが出来たのはほぼ同時だった。

「助けてください……」
フジタは焦点の合わない目で運転手のほうを向きながら呟いたが、運転手は申し訳なさそうな顔をして、声をかけた。
「あんたを背負ってオールドノースを抜けることはできない。オレだけ生き残るか、両方とも死ぬか。あんたも同じ立場ならオレを置いていくだろう。命あっての物種だからな」

彼はフジタの外見を最初に見て金払いのよさそうな客を期待し、実際そうだったので気をよくしていた。これだけあれば、幼馴染のささやかな誕生日プレゼントにイチゴがいくつか増える程度の余裕が財布に生まれるのだ。それでも会社の持ち物である車を失ったとなれば、稼げるような地区には今後回してくれなくなるだろう。ただし、それもこれもここでくたばらなかったらの話だ。彼はジャケットの内側に入れたロケットペンダントの感触を上から確かめる。

「すまないね」
トランクから運び出していたファーストエイドキットで簡単な処置を終えた運転手は、立ち上がると「要救護者」を意味するホログラムを気絶したフジタのそばに展開し、そっとその場を立ち去った。


「DP, Doktor Patch. Emergency evac. All PAVs, vacate the airway. DP…」
(こちらDP、ドクトルパッチ。救急救護のため出動中。全てのエアリアルビークルは空路を開けなさい。こちらDP…)
オールドノースの都市スラムの上空を民間武装救急ドクトルパッチ20のエアリアルビークル(AV)21が事故現場に急ぐ。

「こちらオペレーター。プレストン1、契約者のバイタルは危機的状況にある。またドローンによれば周囲では武装した自警団が抗争中…」
ビークル内では契約者を救い出すために、救命士たちが急行中のわずかな時間で、段取りを整えている。
「各位、武装を優先。威嚇射撃後降下し、引かない場合は"自警団"を"掃除"。続いて降着したAVに契約者を収容し撤収する」
「「ラジャー」」

「Evac is landing. Cooperate with emergency services. Evac…」
(救急救護機が着陸します。救急活動にご協力をお願いします…)
事故現場に録音音声が響き渡る。
AV備え付けの機関銃が威嚇射撃を開始、続けてジェットパックを着装した武装救命士が続々と飛び出していく。
「DPが来たぞ!」
「引け引け!」
「あのバックパッカー、契約者だったか!」
直下の"自警団"の内、理性のある連中はあっという間に路地裏の影に消えていった。残った者たちには降下する武装救命士の手により空中から、鉛球を用いた"外科的処置"が施され、彼らのウェアラブルに表示されている心電図はフラットライン22を描き出す。

こうして武装救命士を除けばストリートから五体満足なものはいなくなった。そしてAVはゆっくりと静かに、ボコボコしたアスファルト舗装の上に降着した。

「オペレーター、こちらプレストン1、契約者を確保。回収し直ちに帰還する」
「待てプレストン1、現在確認したところ契約者の契約期限は今日までだ。口座の残高不足のために契約は更新されていない」
「マヌケな"沈没船"23か。では、こいつは公営のノロマに任せて、帰還でいいのか」
「いえ、ドローンで確認したところ、後方に要救護者のホロが出てます」

プレストン1と呼ばれた武装救命士が、ホログラムのすぐそばを確認すると、男の肉体が変形した路上変圧器の影から飛び出していた。正門をぶち破ろうとする車を蜂の巣にするために用意されている弾丸を食らった男の片足はものの見事に吹き飛んでいる。もう片方も衝撃であらぬ方向にねじ曲がってひしゃげており、何とも痛々しい。2040年代の医療技術と軍役の経験が、その場で出来る簡易な処置でもフジタの命を何とかつないでいる様相だった。
「まだ息はあるが、これは車いすか両足義足だな…。オペレーター、彼を救護するのか」
「ボディカメラ24を見た限り、日系人25だな。この車内の有様では個人を特定できないが、服装は上等なことだし、支払いは出来るだろう」
「了解。AVの稼働費の足しになればいいのだが」


生体情報モニタの定期的な電子音で目を覚ましたウィリアム・フジタの目に飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。

モニタの変化に気づいた女性看護師が病室に駆け込んでくる。
「あなたの名前を言ってみて下さい」
「ウィリアム・フジタ」
「体に違和感は」
「特にないです」
「なるほど」
なるほど、の言い方にフジタはやや引っかかったが、一度下がった看護士が連れてきた女医の言葉で明らかになった。
「落ち着いて聞いてください。今後、あなたは、義足を付けない限り、歩けません」
女医の命令を受けた看護師が、彼の体を起こして布団を除けたところ、確かにフジタの両足は使い物にならなくなっていた。
「なるほど、本当だ」
グッと力を込めて足を上げようにも、上がるものがないと聞いたので、試してみたところ、本当に感覚がない。あまりの非日常間にフジタは何だかよくわからなくなって、「その通り」であることに興味深さを感じていた。

女医は、運転手に見捨てられ、足を失ったというのに余りに落ち着いているフジタに感心した。当のフジタは、むしろ置き去りにしてくれたおかげで救急車に助けられたことをよく理解していたし──運転手が彼の職業倫理を信奉してフジタを背負って、事件現場からさらに離れたところで倒れたらそれこそ一巻の終わりだったはずだ、足が吹き飛んでも一周まわって落ち着いている自分に謎の安心感を覚えていただけである。女医による現状と今後についての説明が終盤に近付くと徐々にその安心感は取り繕ったものになっていき、口数が多くなっていった。
「つまるところ、車いすに乗るか、義足をはめるか、そういうことなんですね」
「そうです」
「義足っていうのはどんなのが」
「うーんまあ色々ありますね。ジオテクニスタ・サイバネティクス26、プロメテウス・メディカル、ニッソ医機、理外研メディカル、新星27…。特にジオテクの新製品は凄いですよ。チューニングは必要ですが─」


テックマニアの女医の勢いのおかげで平静を何とか保てたフジタではあったが、実際のところフジタは女医が挙げたような医療企業製のフラッグシップを足に嵌められるような資産を持ち合わせてはいなかった。それに会社の福利厚生ではとても間に合わないことは百も承知だった。彼は白いベッドの上でグルグルと考え出す。

確かにお金自体はある。が、母さんの医療費の事も考えれば、ある程度余裕は持たせないとまずい。母さんのことを考えるのであれば、万一財団の治療センターの病床が減って通院になった時を想定して、僕の足が万全な方がいい。車いすでもいいかもしれないが、足があった方が仕事には向いているだろう。ああクソ、メルボルンに来る前にしっかり調べておくべきだった。いやメトロで人身事故さえ起こしてくれなければ。なんだってメルボルンに来ちまったんだ。いや元はといえば、
「アルゴ・オートモーティブのせいだ!事故もそのせいだろう!」

「呼んだかい」
病室のドアを開けて立っていたのは、50代ぐらいの恰幅のいい男性であった。見るからに仕立てのいいブラウンのスーツを着て、胸には原子のモデルをもとにしたピンバッジを付けている。つまりプロメテウス・ラボ・グループ、アルゴ・オートモーティブの人間だ。
「呼んだのはあなただよ。おかげさまでこのざまですよ。アーノルド28が退任したからプロメテウスは落ち着いたんじゃなかったんですか!」
来客29にフジタが今にもつかみかからんというのを見て、男性を連れてきた看護師は酷く動揺していた。この中年の男性がフジタの上司であると聞いていたからである。なんでこの男を入れたのだとフジタに声を荒げられたところ、看護師は消え入りそうな声でアルゴの男のせいだと答えるしかなかった。だがアルゴの男はメルボルンで大企業のメルボルン支社にそれなりに長く務めただけあって、続くフジタの剣幕にも涼しい顔だった。陰謀や策謀でからめとってくるライバル企業、コーポから金をむしろうとする街のフィクサー、そして街のギャング。そんなものに比べれば今のフジタはハイハイも出来ない赤子同然である。その内フジタの根は尽きた。
「怒りは収まったかね。オールドノースの事件はウチは無関係だ。話を聞く限り元はといえば、砂嵐のせいだし、何なら出張する社員にコンバット・イエローの一つも用意してくれない会社のせいじゃないのか」

「ところで提案だ。本当にうちの社員にならないか」
この男は「本題」に入ろうとしている。フジタはそう感じ少し身構え、もうメルボルンはこりごりだよ、と答えて受け流そうとした。そもそもここで係争(になるだろう)相手に事務弁護士である彼が転職するのは背信行為に他ならなかった。

「何、NZだよ。自宅には住み続けられるし、年収も上がる。君もいい義足を付けられるよ。プロメテウス・メディカルの製品なら社割で安く買えるし、メンテナンスが社の健康診断に含まれるからね」
「それは魅力的ですね」
「そんな半分冗談を聞いたような声音で言わないでくれ。プロメテウスに入れば、君の母も安心してこの先を過ごせるんじゃないか」
「この先?」
"老後"ではなく、まるでここ数年を指すかのような表現。まさか母の病気のことをこの男が知ってるとでもいうのだろうか30。フジタの訝しげな顔を知ってか知らずか、アルゴの男は続ける。
「君が望むなら同じような環境で働くこともできるよ。オークランドで船舶事業を立てようと思っているんだ」
男は、鞄から端末を取り出すと、書類のホログラムを呼び出して、白いシーツの上に広げた。
確かに提示された金額はフジタにとって、確かに魅力的で、これぐらいあれば母も安心できそうだった。

「もちろん、しばらくは船舶関連の部署ではないからね、余計な火種を抱えるのはまずい。それと、情報料がこれだ」
フジタの目の前にもう一枚ホログラムが滑り込んでくる。
「ここにこれだけの価値があるとは思えません」フジタは自分の電脳のストレージを指さして訊ねる。
「いいや、そんなことはないさ」


「よく考えて見てくれ。足がないと君のこれからの生活は成り立たないことは君もよく分かっているだろう。明日また来るから、その時答えを聞かせてくれ」
アルゴの男は、そう言い残すとホログラムを残して病室を立ち去った。

『足がないと君のこれからの生活は成り立たない』
弁護士としての職業倫理ももちろん大事だが、フジタもアルゴの男の理屈はよく分かっていた。信念のために命や生活を投げ捨てるというのは愚かである。それに信念を守ったからと言って良い結果がついてくるとは限らないのだ。

まず彼は日が沈むまでに出張の現状の報告書を当たり障りのない文章で書きあげた。その後やや薄味の病院食を胃に流し込むと、NZの会社のサーバーに、報告書と共にケガの容体と有給休暇の消費、そして退職の意向を送信した。同僚のメールボックスには仕事上のものと個人的なものの忠告をいくつか放り込んだ。彼は就寝時間を過ぎてなお、真っ暗な病院の個室の中で、ホログラムに囲まれながら電脳のデータ整理を敢行する。彼の頭の中では勤務経験が何度も反芻されていた。

アルゴの男の期待にある程度応えながらも、同僚が男に一矢報いる可能性を追求する。
そして一つのファイルを完全に抹消した。

その後パーソナルリンクから資料がフラッシュメモリにコピーされきったのと、早めに出社した社員がネットワーク経由で彼のストレージの該当資料を念のため差し押さえたたのは、コンマ数秒の差だった。
「間に合ったか」
彼はそう呟いたが、出てきたため息には若干の後悔の色が混じっていた。


ウィリアム・フジタは山間にある財団異常疾患研究・治療センターを訪れていた。
太陽光再現照明システムが作り出す柔らかな"陽光"の差し込む廊下はあたかも普通の病院のようである。ただし等間隔で鈍重な鉄扉が配置され、超常医療の粋を極めた機器を職員が運搬する様相は、ここが財団施設であることを訪問者に強く印象付ける。
「こちらです。先にご説明した通り、内部は撮影・録音しております。ご入室後、施錠しますのでお帰りの際はベルでお呼び出し下さい」

フジタは扉の前でぴたりと止まると、つま先を揃え、意を決して開ボタンを押下した。
扉が開くと、そこは財団職員が"上級ヒト型収容室"と呼ぶところの変種であり、要はワンルームマンションの小奇麗に整えられた一室が広がっていた。

「ウィリー、来てくれたのね」
ホロウィンドウの隣に据えられた木製の椅子に佇む女性は、彼が部屋に入ってきたのを見て、作業を中断し扉に向けて姿勢を直した。
「母さん……。病室の中で働く必要はないっていつも言っているじゃないか。それに今はほら」
フジタはピンバッジを付けた胸ポケットを母に向けて引っ張って見せる。

「今日は相談、というか提案があるんだ」
「なあに」
「……母さんをリタイアメント・コミュニティ31に移してあげたいんだ」
フジタは母の机にホロパンフレットを滑り込ませた。パンフにはプロメテウス・メディケア32が運営する患者・高齢者向け住宅地の説明が記載されている。
「図書館、運動場、カフェ。そして高度医療。全部そろってる。余生を過ごすなら、こういうところの方がいいんじゃないのかなと思って」
「お金は。入所金としてまとまった額が必要でしょう」
「グループ社員の親族なら、どのプランであれ入所金も年額費用も大幅に安くなるし、臨時収入も入ったから大丈夫だよ」
笑顔を見せるフジタに、母は自分のために魅力的な提案を持ってきてくれたことに大変驚いた。一抹の不安こそあれど、こんなにうれしいことはない。
分かったわ、彼女はそう息子に返答した。


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