「恋昏崎新聞の財団ヘイトは相変わらずだなぁ」
「あなたにだけは言われたくないでしょう」
雛倉の声は淡々としていた。他人には嫌味に聞こえてしまうかもしれないが、戸神はこれが彼女の平常運転だと分かっている。機動部隊をトラックで薙ぎ払って助けてくれた時も、お久しぶりですとしか言わなかった──その後、グーで殴られたが。無論、自分に黙って姿を消したことを怒っていたのである。
以来、二人はパートナーとして行動を共にしている。
「取り敢えず、お疲れ様でした」
「ああ、ありがとう」
時空の狭間に浮かぶ街、スリー・ポートランド。そのホテルの一室で、戸神は雛倉と祝杯を上げる準備をしていた。オーナーは蛇の手に恩があるらしく、メンバーはいつでも無料で泊めてくれるのだ。
もう財団から逃げ隠れする必要はないのだが、それでも彼はこの街に居る時が一番落ち着く。どこの国にも属さず、あらゆる者を受け入れる──彼のような魔術師はもちろん、人狼や悪魔でさえも──スリー・ポートランドは、世界で一番理想郷に近いと思う。
しかし、明日にはここを離れ、久しぶりに日本に戻らなければならない。SCP-606-JPの研究には、自分も参加することになっている。そのために3年間も放浪者の図書館とディア大学で学んできたのだ。この経験を無駄にする手はない。
「でも、明日からまた忙しくなるな」
「少しくらいゆっくりなさればいいのに」
「いいんだ。一日も早く、蒼井先輩に会いたいし」
戸神は万感の想いを込めて呟く。僕の半分は蒼井先輩でできています──あの言葉だけは、誇張でも何でもない。敵の先の先の先を読みつつ、両の眼では現在をしかと見据える。彼が財団という強大な敵から逃げ果おおせ、銀の弾丸を撃ち込むことが出来たのは、全く皮肉なことだが、師が叩き込んでくれた財団エージェントの心構えのお陰だ。いや、皮肉か?
『俺みたいになるなよ』
弟子が財団を見限ることを、師は予想していたのではないか。それでも、一切教え渋ることはなかったのだ。
「──本当に蒼井さんをお慕いしているんですね」
雛倉の声は淡々としていた。いつも以上に。
「お、おい、先輩とは変な関係じゃないからな。僕のパートナーは君だけだよ、うん」
「それは光栄ですね。おつまみは何がいいですか」
「あ、広末さんの差し入れの松前漬けがあったはずだけど」
「はいはい」
雛倉はソファーから立ち上がり、キッチンに向かう──と見せかけて。
戸神は驚かない。窓に映る雛倉を、きょとんと見つめている。
「話してくれそうもないので、こちらから訊きますね」
雛倉の声は相変わらず淡々としている。しかし、戸神には分かった。今は無理にそうしていることが。雛倉はスマートフォンを取り出し、音声ファイルを再生する。何者かの会話が流れ出す──。
“音楽界への接続システムの進捗はどうなっている?”
“理論はできています。簡潔に言うと、人々の思考を繋ぎ、その深層意識を介して音楽界を具象化させる計画です。”
“ふむ。”
“しかし、この計画には最低数百人分もの思考を繋がねばなりません。そしてそのようなシステムの開発は難航しています。何分、協会員の大半は音楽家だの宗教家だのですから、我々技術者連中の人手は圧倒的に足りないのです。”
“ふむ、人員は後でそちらに回そう。おそらく後20人ぐらいなら送れるはずだ。”
“ありがとうございます、大司祭殿。”
深みのある年配男性の声と、ボイスチェンジャーを使っているであろう歪んだ声。どちらもポーランド語で話していた。
「大司祭と呼ばれているのは、ショパン・カルトのノヴァク司祭です」
ショパン・カルト──音楽家ショパンを神と崇め、その再臨を目指すカルト宗教だ。ヴェール崩壊前だったらパロディ宗教としか思われなかっただろうが、今は違う。何せ、彼らの儀式による神格実体の降臨と、その巻き添えによるポーランドの壊滅で人々は知ったのだ。世界には人知を超えた存在が実在することを。
ノヴァク司祭こそは、その事件──ポーランド神格存在出現事件の首謀者と見られている。世紀の狂人、世界の革新者、その評価は毀誉褒貶甚きよほうへんはなはだしい。だが、雛倉にとっては、どうでもいいことらしい。窓に映る戸神の顔だけを見つめている。燃えるような怒りの目で。
「そして、もう片方の人物は──あなたですね、戸神先輩」
「何のことだ」
「惚とぼけても無駄です!」
雛倉がついに仮面をかなぐり捨てた。それでも、戸神は驚かない。自分に先輩と呼び掛ける時、彼女はいつも容赦無かったなと懐かしんでいる。
「この数年間、私が何もしていなかったとでもお思いですか。カルトの生き残りを徹底的に締め上げたんですよ。奇妙な東洋人の協力者に関して!」
対照的に、雛倉の声はますます上擦っていく。拳銃の引き金に掛けた指が震えて、今にも撃ってしまいそうだ。
「慎重に正体を隠していましたね。でも、私には分かりました、あなただって!」
「そのこと、財団には?」
「言える訳ないでしょう、誰にも!」
叫んだ瞬間、雛倉は咄嗟とっさに飛び退いていた。
黒い旋風が、彼女の手から拳銃を弾き飛ばした。戦慄と共にその正体を悟る。戸神の影だ。墨のように濃さを増し、のみならず立体になって立ち上がっている。ぐうと膨れ上がり、猛禽の翼と蛇の尾を持つ巨大な狼に姿を変える。双眸を真紅に輝かせ、短剣のような牙が並ぶ顎あぎとで襲い掛かる。
雛倉の上半身が一瞬で噛み砕かれ、血の噴水が上がる──寸前で。
「手を出すな、マルコシアス」
ソロモン級悪魔実体、三十の軍団を指揮する地獄の候爵は、ぺたんと耳を垂れ、しおしおと主人の影に戻った。情けないことに、とは誰も思うまい。戸神の静かな声が孕はらむ、凍てついた殺気を感じ取れば。
彼がこんな声を出せるとは、救う会の会員たちには想像も出来ないだろう。
「ああ、そうだよ。ショパン・カルトに神格召喚の知識を提供した。放浪者の図書館の蔵書と、エージェント時代のコネを駆使してね」
雛倉が息を飲む。ここまで追求しておきながら、否定して欲しかったのだろうか──片岡の正体を暴いた時、蒼井も同じ気持ちだったのかと、戸神はぼんやり思った。
「何人死んだと思っているの!? 分かっているだけでも一万人以上、しかも殆どが民間人ですよ!」
「仕方なかったんだ。蒼井先輩を助ける為には、ヴェールは邪魔だった。財団やGOCに揉み消されないように、あれぐらい大きな花火を上げる必要があった」
「蒼井さんの為だけじゃないでしょう? 波戸崎さんから聞きましたよ、あなたは元から財団を恨んでいたって。復讐でもあったんでしょう、お祖父さんの!」
戸神は初めて顔を歪めた。苦々しいものを飲み込むように。
(お祖父ちゃん──)
幼くして両親を亡くした彼を育ててくれた祖父は、文化人類学、特に西洋魔術では世界的な権威だった──あくまで学問としての、だが。今では誰もが知っているように、魔術はれっきとした実用品だったのに。祖父は魔術の研究にそれこそ生涯を捧げていたのに、遂に真実を知らないまま逝ってしまった。祖父の研究人生はヴェールによって殺されたのだ。
許したつもりでいた。正常性を守るためには、やむを得なかったのだと──そう、財団が蒼井を切り捨てさえしなければ。
「あなたはヒーローなんかじゃない、史上最悪のペテン師よ! マンハッタンの時だって、どうせ人気取りが目的だったんでしょう?」
「それもある」
「それも? 他にどんな理由が?」
「──言ったら、きっと君は怒るよ」
「言いなさい!」
「償いたかったんだ、少しでも!」
血を吐くような叫びが交差した。永遠のような刹那せつなのような静寂を挟み──雛倉が泣き崩れる。
彼女の涙を、戸神は初めて目にした。
「信じてくれるのか」
「信じますよ──だって先輩、しょっちゅう魘うなされているじゃないですか。ごめんなさい、ごめんなさいって」
(それでか)
雛倉が疑いを確信に変えたのは。戸神はぐったりと椅子に身を委ゆだねる。
「はは、初歩的なミスだな。ベッドで秘密を漏らしてしまうなんて」
彼らは初めて、お互いの素顔を見せ合っていた。財団に居た頃から、何度も生死を共にしてきた仲だというのに。今更、ようやく。
「ところで、君も正直になってくれないか。今でも財団と連絡を取り合っているんだろう?」
雛倉の肩がびくりと震える。戸神の影が再び膨れ上がるが、彼が一睨みするとたちまち元に戻った。
「分かってるよ、僕を護衛するためだろう? そりゃあ、この状況で死なれたら、財団の仕業にしか見えないしなぁ。それに、おそらく君の上司は改革派だろうな。彼らにとっては、僕は便利な駒だろうし──旧保守派を追い出すための」
また利用する気か、戸神は忌々しげに吐き捨てる。え? と顔を上げる雛倉に、一瞬だけ迷ってから続ける。
「こう言っては何だけど、ポーランドの件は──僕が覚悟していたより、遥かに被害が少なかった。本当なら、あの百倍の犠牲者が出てもおかしくなかったんだ。そうはならなかったのは、財団とGOCが予想よりずっと素早かったせいだ。しかも、ポーランド軍との連携や、対神格兵器の配備も完璧だった。神聖祈念弾頭搭載ホーリープレイミサイルなんて、世界に何発もないだろうに」
さすがの雛倉も、それらが示す真実を理解するには、多少の時間が必要だった。ゆっくりと、その青い瞳が見開かれていく。
「財団とGOCは知っていた? 知っていて止めなかった──ヴェールの崩壊は、予定されていた?」
「蛇の手のメンバーに財団の会計係だったAIがいてね。手持ちの情報を元に、当時の財団の財政状況を調べてもらったんだ。ざっとだけどね」
「財政──どうだったんです?」
「どう節約しても、このままでは破産は避けられないという結果だった。オブジェクトとその収容コストは、増えこそすれ減りはしないからな」
フロント企業の売却など、当時の財団が金策に苦労している様子は、戸神も感じていた。SCP-606-JPの研究が打ち切られたのも、緊縮財政の一環だったのかもしれない。しかし、所詮は焼け石に水だったのか。
「残された道は、ヴェールの放棄による隠蔽費用の削減、それしかなかったのかもしれない」
GOC側の事情は、さすがに戸神にも分からない。しかし、ポーランドでの一致団結ぶりからすると、彼らも似たような状況だったのかもしれない。そうでなかったとしても、財団がやると言ったら付き合わざるを得なかっただろう。
「ただし、金に困ってとは口が裂けても言えない。口実が必要だったんだ。異常存在の脅威を人々の目に焼き付け、ヴェール崩壊後も財団の必要性をアピール出来る。そんなシチュエーションならなお良い。そのお膳立てのために、ショパン・カルトも僕も泳がされていた──だとしたら、僕はペテン師ですらない。ただのピエロだ」
ショパン・カルトの協力者の正体に気付いているのは、確かに雛倉だけなのだろう。それでも、自分が財団に騙されていたことに変わりはない──祖父の目を塞ぎ、ヴェールの維持に加担させ続けたように。
戸神はグラスのシャンパンを一気に飲み干し、挑むように窓の外を睨む。ショパンゼミが暴れ回ろうと、マンハッタンが異次元に落ちかけようと、何事もなかったかのように穏やかな顔をしている世界を。
「しかし、奴らにとっても想定外だったろう。利用した駒が、ここまで有名になってしまうとはな──二度と思い通りにはならないぞ。今までのツケを払ってもらう」
「──だからと言って、騙す側にはなりたくない。あなたにもなって欲しくない」
雛倉は少女のように己の肩を抱いて震えている。きっと思い出しているのだろう。家族だと信じていた者たちの嘲笑を。ドッキリ大成功──いやあ、楽しかったよ──その顔が見たかったんだ──あはは、くけけ、うひゃひゃひゃひゃ──。
戸神は少年のように散々迷ってから、そっと彼女を抱いた。おそらく、師はパートナーにそうしてやれなかったのだろうから。
「僕はいいんだよ。君の前でだけ、正直でいられれば」
(蒼井先輩)
自分は再会を果たした師に対しても、全てを告白するのだろうか。そんなことをしたら。
(破門されるな、きっと)
戸神は寂しげに笑って──若者だった時代に別れを告げた。