███と豪雨の木曜日
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「"鏃"、血が目立つ。清掃の要請もしてもらってもいい?」

自分の胸のあたりから聞こえる物騒な言葉に、"鏃"と呼ばれた男は周囲のスキャンを終了したうえで頷いた。

「事後処理班に言い含めておく。帰還の準備を整えておけ。隊長が合流しだい帰還する」
「了解。財団その他の勢力介入は」
「ない。おそらくまだ嗅ぎ付けてもいないだろうからな」

長身の"鏃"からすれば小人のようにも見える女は曖昧に頷くと、ブラックスーツに散った血痕に触れないよう濡れた裾を整える。
まるで"同僚"とも思えないその仕草に"鏃"は顎の横を掻いた。

「"貝塚"、俺はたまにお前がどこにでもいる人間に見える」
「どこにでもいる人間でしょう。此処に所属してるからって特別な人間じゃない」
「それはそうだ、俺もそうだ」
「そんな事より外に出よう。こういう場所は息苦しい」
「賛成だが、出られるか?」

"鏃"が発した疑問の通り、"貝塚"が引き開けようとしたドアは音すら立てず不動のまま。
隙間から流れ出る泥水とまだ勢いを弱めない雨音が外の状況を"貝塚"に納得させる。

「思ったより水が出てるね」
「仕方がない、古来より癇癪を起こした神様のやることってのは洪水か旱魃だ」
「ホントにね、土砂災害には警戒しなくていい?」
「ここは危険地域から離れている。ハザードマップからも床上浸水くらいで済むはずだ」
「そう」

短く答えた"貝塚"に"鏃"はしばらく躊躇い、そして遠慮しながらも今日一日続いた違和感の正体を訪ねた。

「何かあったか」

今回の粛清作戦に参加してから、いや、正確には朝の豪雨を見てからどこか"貝塚"の行動に違和感を覚えていた。あくまでも些細なことに過ぎない。しかし、普段は取らない行動を取る、どこか動きが固い。普段の彼女、怜悧で静かな凪の海面を思わせるその姿は漣に揺れている。"鏃"にはそんな詩的な表現が浮かぶ。

「今日のお前は何処かがおかしい。体調が悪いのか、それとも」
「…"健全でいろ"」

工作員マニュアルの一節を"貝塚"が諳んじる。雨音に乗せたそれは自らに言い聞かせているように"鏃"には思える。

「"心こそもっとも重要な武器だ。心が健康であるか確認しろ"。…大丈夫、事実、大きな障害ではなかった」
「確かにそうだが」
「分かってる。終わったら改めて心理鑑定を受ける。もっとも、こんな事は今日だけだと思うけど」

言い切る"貝塚"を"鏃"が静かに見つめた。
沈黙。答えを無言で要求する"鏃"に"貝塚"は丁寧に掃除されているフローリングの床へ目を逸らす。
床には泥水と違う色の液体が広がる。
しばらく無言が続き、無理に聞く必要もないかと"鏃"が諦めかけたとき、"貝塚"の幼さを残した声が。

「私はね、土石流で両親を亡くしているの。それから後に大切な宝物も流されて、海の底に沈んだ」
「…! そうか、それはすまないことを」

"鏃"は思わず、といったように掌を額に。もちろん、"同僚"間で互いの氏素性を話すことは禁じられてはいない。しかし、暗黙のルールとでもいうような空気から、互いに問うことはなく仕事上の関係は無機質なデータの群れのみに留まっていた。踏み込み過ぎたと"鏃"は話を切り上げる術を探す。だが、一方の"貝塚"は話すタイミングを探していたのか、流れるように言葉が続く。

「気にしなくていいよ、カウンセラーにも担当の医師にも話してることだし」
「いや、だとしても俺は土足で踏み入ったわけだ。謝る必要がある」
「いいって。…だから、なんというか、ちょっと気が逸ったね。ミスだ」

今回の目的、KTE-3398-Green "ノア"は小規模ながら気象条件を改変することができるアノマリーだった。発見初期こそレスポンスレベルは低脅威度だったものの、自身が家から出ないという目的の為だけに極地的豪雨を引き起こし、街を沈みさせかねないその行動はレスポンスレベルを引き上げ、ついに排撃班の出動を招いた。
やんぬるかな、そのお子様神は願った通りこの浸水した家の中から出てくることはないだろう。アノマリーの粛清には問題が一切発生していない。SSBは遵守され、私怨や復讐心による指令の無視なども存在しない。"貝塚"の言うとおり"ちょっと気が逸った"程度だ。

「分かった、たしかに今回の任務には実際支障が出なかった。ただし、俺としては聞いた以上」
「うん、隊長には私から言う。しばらく仕事からは離れるかもしれないけど」
「了解した」

それだけのやり取りを終え、"鏃"は意識を外の雨音に向ける。アノマリーの影響が消えた空からの雨音は徐々に勢いを弱めていく。この調子であれば被害は最低限で済むだろう。弱い雨音に交じり、"貝塚"の言葉を"鏃"の耳が捉えた。

「わたし、大人になったよ、───さん」

"鏃"はあえて耳を逸らす。静かな雨音だけがその名前と血の匂いを隠していた。





""Shell Mound (貝塚)""

シリアル番号: 81772FE/0820

本名: Airi
国籍: [機密]
性別: 女性
生年月日: [機密]

経歴

[機密]

所属歴

  • ████/██/██ [機密]
  • 2009/09/16 ケース-██████に遭遇。██よりGOG特殊工作員育成コースに亡命
  • 20██/██/██ GOC極東部門PHYSICS部門1113排撃班試験配属
  • 20██/██/██ GOC極東部門PHYSICS部門███評価班配属
  • [現在] 同部門0820排撃班配属
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