結成前夜
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凶事を告げる獣『くだん』、新たに出没す

件現る

 もし未来に起こる出来事の予見が可能なら、諸君らは何を考えるだろうか。それも、不幸の観測だとしたら。

 ██月██日、それは██県██村の牛舎に現れた。連日、蔵には牛の呻きが木霊していた。種を植えた牛の出産が近かったのだ。緊張は牛舎の持ち主家族を包み込み、飯を不味くさせた。
 いよいよ出産の時。主人が横たわる雌牛に寄り添い、産道に腕を入れた。慎重に力を加えながら引くと、脚—―子牛が露見した。嫁、子、爺婆が息を飲む。荒くなる雌牛の息。大部分が産道の外に出て、やがて抜ける。一瞬の安堵の後、主人の頭を畏怖が食らった。ふらつきながら、雌牛も子へと向く。母親ですら我が子の顔を舐めようとはせず、本能に従って後退するばかりだった。
 その顔は、牛ではなかった。餅のように丸い頭、縮れ毛が取り囲む中央で、白目と黒目が牛舎の屋根板を見る。脚を突き出して倒れているそれに、一族も動物も近寄ろうとはしない。左右に視線を揺らして、獣はただただ情景を認識している。
 突然、ばっと黒目が主人を凝視した。口を開き、不揃いな歯が覗く。唾と一緒に、怪物は発した。
「大地が割れ、山々は崩落す。屋敷傾けば泥に沈む。これ、必然の理かな」
 言い終えると、人の顔をゆったりと敷き藁に落とし、目を瞑った。そして、瞼が開かれることは二度としてなかった。

 賢しい読者諸君は知っているだろうが、██県を含む大規模地震が起きたのはつい先日だった。我々██編集部としてはこの怪異を今後も追求する。事件後に保存された『件』の写真は本誌の███頁に……

「下らん」
 俺は拾い上げた雑誌を元あった場所へ打ち捨てた。電灯が照らす表から外れ、こちらでは飲み屋の赤提灯が朧に通りを染めている。日が暮れたのも数時間前のこと、今は夜が浅草を総ている。
 妙な胸騒ぎがするとここまでやってきたが、この程度だったか。背広が包む背を掻き、前進する。去り際に、三流雑誌を蹴り飛ばした。
 無理やり、俺と結びつけた話を作られてもう十二回目。毎度ながら、人間の噂の種にされても良い気分にはならない。胴を蟲が這うような、途絶えることのないこそばゆさが襲う。
 こんな近況を、予見していただろうか。いいや、と心で断じた。
 歩いているうちに、表通りへ続く道が横に伸びていた。
 光輝が街を覆っている。江戸が東京へと名を変えた頃でも、こうまで明るくはなかった。ガス灯の炎ですら、皓々とし過ぎていたのだ。人間は闇を恐れず、夜を闊歩するようになった。単に生活圏だけではなく、こちらの領域に易々と侵入してきたという話も聞いている。
 別に神仏様方がいくら穢されようと関係はない。いい気味とすら思える。ただしかし、後頭が痒いのは確かだった。

 横顔が提灯の色に何度か塗られた後、立ち止まる。
 かさり、草履と床の擦れる音。同時に背後に気配を覚える。既知の感覚に呆れ果て、掠れ声が出た。
「今晩は勘弁してくれ、たぐい
「何でですか、いいじゃないですか。付き合ってくださいよ、ちょっとくらい」
 愉楽そうな、関西訛りの声へ振り向いた。
 草履を履いた脚。毛の無い、雪雫のようなのっぺりした艶肌。若草色の着物に腕を通している彼の頭部に、眼球は備わっていない。
 顔全体に渡る口を波の形に開けて、楕円が出来上がる。筒を切ったような頭では、体の一部が髪の代わりに蝋みたく垂れていた。
「俺じゃなくてもいいだろうが。他の奴を当たってくれ」
「ところが、難しくて。他は、生き遅れには構えないと断ってしまうんです」
 口を固定したまま、伉は虫の羽音に近い響きを飛ばす。笑い声のつもりだろう。
「それにしても、いきなり後ろに出ても怒らんのは件さんくらいですよ、ホント……もしかして、視えてるんですか?」
「んな細かいこと視えるわけねぇだろ、阿呆が」
「で、どこに潜みますか。この辺の店、割とざるそうですけど」
「話を進めるな」
 しかし、断る理由もない。配管と電線が埋める空を仰いでから、息を吐く。
「まあ、景気良く銀座でもいいだろう。人混みなら、今のお前でも上手く潜らせてくれるだろう」
「あら、銀座ですか。いやぁ、ちょっと」
 ひらひらと袖を振られた。誤魔化す時の仕草だった。
「あそこはもう、近寄りがたくって。ちょっと前なら、潜めたんですがね」
 場を繋ごうとしてか、伉は笑みを保ち続ける。その欠けた頭を眺めていると、自然に目が逸れ、暗路を見つめていた。
「悪かった。なら、近場で探すか」
「いえいえ。早う最近がどんな具合か、聞きたいんですわ」
 再び、夜を歩き始める。鼠の鳴く声に近い甲高い声を聞きながら。

赤提灯街


「件さん、昔っからそんな人っぽい姿でしたっけ?」
「山歩くときは古い姿に戻してる。都市を往くとなると、牛だと酷くやりづらい」
「はぁ、工夫の結果なんですねぇ」
「それが化けるってことだろう」
 言葉の直後、横から雑話が奔流となって圧迫する。睨むと、隣の人間がジョッキを振り回していた。その前で皿に盛られた牛串に手を伸ばし、肉を引き抜く。焦げと油の臭いが喉奥へと流れ込む。
「旨いですか」
「不味くは無い。露骨な塩に手を出せない以上、肉ならタレが無難だな」
 何も刺さっていない串を、指の腹を擦らせるようにして転がす。三秒も待たぬうちに、伉は皿に手を突っ込んだ。
 座した人間たちは、堂々と料理を摘まむ此方に気付いてすらいない。安い畳と鈍い色をした瓶の山、見向きもされていないのに鳴るテレビジョンという立方体の装置。やんややんやと話し続け、店に詰まった人間の集は知らずと喚きの渦中に没している。
 宴会席に潜り込むのは此方の常套手段。だとしても、近頃は随分とやり易くなったように思えた。
 机を挟んで座る伉が、あぁと声を張った。向き直ると、奴は手を合わせていた。
「そういや思い出しましたわ、件さんの最近の具合」
 自らの着物に腕を入れた。がさりごそり、風に煽られる硝子の音が立つ。ひょいと現れたのは、無駄に派手な何かの冊子。凝視して、辟易した。俺が拾い捨てたオカルト雑誌と表紙が同じだった。
「いやー、今度は██ですか。またえらいこと出ましたね。農家一家がぶるぶる震えとったんも流石としか」
「本当、何故この文の記者は当時をここまで鮮明に書けたんだろうな」
「ホンマ、そうですわな。何でしょうね……あ、思念眼持ちとか——」
「作り話だからだよ」
 俺が茶をすする向かいで伉は大口を開け、そのせいで頬張った肉が机へ落ちた。
「えぇ、作り話なんですか? じゃあ最近、どないしとるんですか?」
「生憎、視えてない」
 事実として、そうだった。ばったりと、情景は頭に映らなくなった。原因は不明だ。考えようにも手掛かりが無い。そもそも、先の凶事を視るとやらも由来の分からぬ力ではある。
 件。人に牛と書く。後ろ頭を摩ろうとして、頭頂に生やした角と牛耳に手が当たる。人間に化けても、平時ならこの部位と尾だけは露出させていた。いや、消そうとしても消えなかったのだ。
 生まれて以来、判別のとんと着かない事柄が多すぎる。人間からあやかしと呼ばれる此方にも、疑念は積もり積もっている。生まれ、力の仕組み。いつまで立っても疑念の山が崩れぬのは、それを割って得する者が誰も居なかったからだ。無論、本当に此方側に居ないとは、俺も言い切れないが。
 でも。そう発したのは伉だった。顔を見ると、雑誌を掲げていて、屋根裏を覗くみたく文字を読んでいる。
「作り話でも羨ましいですよ。嬉しいでしょう、噂されるのは」
「馬鹿野郎。お陰で俺はこのところずっと体が痒い」
「いやぁ、羨ましい、羨ましい。最近は寂しいですから、私も噂されたいですわぁ」
「一生そうやってろ」
 目は湯飲みの内側へと落ちていた。茶粉が混濁し、淡い緑を成す。口許へ運び、残りを一呑み。喉が鳴る。

「そういやお前、何を聞きたかったんだ。さっきまで忘れていたにしちゃ、しっかり雑誌まで持ちやがって。本当に忘れてたのか?」
「いやいやいや、これは本当、本当なんですよ。さっきのさっきまで忘れてたんですよ」
 太い首から上と袖をぶんぶん振り、しばらくしてから落ち着いた。
「このところ、物忘れが酷いんですわ」
「大丈夫か。潜みの力はどうなってる?」
「それは、ちょーっと」
「また潜めなくなったのか」
 無言で俯く姿勢に弱々しさを感じ取って、伸ばした意味は尋ね損ねた。
 真っ直ぐな首を示す亢に人を合わせ、伉。棒状の人型を取る此奴は、人間の隣に紛れ込むのが得意という、空気のような奴だった。どこからともなく湧いて出て、気付けばそこで笑っている。知り合いの中でも、あからさまにそんな真似をしでかす奴はこいつ以外いなかった。昔から悪戯を好むものの、実のあることには使おうとしなかった。おそらく、その間の抜けた性格が要因だろう。
「だが、それでも急に弱まるなんてことがあるのか? 心当たりは」
「ありませんよ。こうやって人前に湧いて出るのも場末酒屋しか駄目になっちゃって」
「ちょっと前なら表通りもうろつけたじゃないか」
「四十年は昔ですよ」
「とにかくだ、原因を見つけろ。潜めるようにならんといろいろ不都合だ」
「不都合って、どこがどう不都合なんです?」
「お前から潜みを取ったら何も残らんだろうが。また早いとこ銀座の飯を食わせてくれ」
 返して知覚する。確かに、不都合は皆無だった。俺にしたってこのところ何も視えはしないが、飯の味に異変は起こっていない。凶事が起こるとて、その対象は人間であり俺ではない。この力を与え、奪ったのは誰か。誰だっていい。
 いつの間にか、そこらを動く妖どももあまり見なくなった。けれど、些細な愉楽を添えた日々が在るならば、世界には流されておけばいい。そのために祈る神が居る。
 思索に浸っていると、伉の笑い声が聞こえた。快活に、風が揺らす硝子戸にも似た奇声は響く。顔の向きからして、テレビジョンに映される物事を注視してのものらしい。二人組の背広を着込んだ男が、棒状機器を挟んで掛け合いをしている。現代漫才だと、伉は以前そう紹介した。世間を茶化して笑い飛ばす芸事だそうで、あの立方体が普及してからは頻繁に目にする。
 現代とわざわざつけるからには、かつても同様の風習があったのだろう。俺はその辺り詳しくないが、やはり時とは進み続けるばかりである。
 俺にはどうせ、何も変えられやしない。向かいで拍打つ音と、伉の笑い声が俺の耳に飛び込んだ。

都市狭路

 店を出て、軒下へ出た。背面では性懲りもなく、人間が喧噪に身を沈ませている。ずっとそうしているといい。心で毒が暗がりに落ちた。きっと声にしたって届きはしない。
「では件さん。私はこれで」
 人間の卓に置かれていた麦酒を一気に傾けた伉が、片手を上げた。少々酔っているのか、踏み出した一歩がぐらつき、また一歩、また一歩と情けない悲鳴と一緒に暗闇に消えていく。大きな口と揃った歯が提灯の赤に示され、俺はそれに手を振った。
 前を向けば、闇と冷気が俺を迎える。既に夜は深い。だというのに、星や月はまるで見えない。泥のような雲が塗り潰してしまったか、地上の光が隠してしまったのか。この季節にしては痛いほどの外気が峡路に吹いていた。
 歩き出す。飲み屋街の喧しさが次第に離れ、深山に潜ったように音は無くなった。静穏は嫌いではないが、俺は好んでもいない。散々と毒は吐くが、まだ雑音を振り掛けられる方が心地よい性だ。人恋しさ、感覚として分類するならそうとも呼称できる。伉にこれを話した時は、珍しいですね、などと言われた。仲間は夜闇をやたらと好き好むのを思えば、奴の言うことも間違ってはいなかった。こうしてわざわざ悪路を踏むのもその証拠かもしれない。
 空き瓶らしい硬い響き、諸々が擦れ流れた合奏。そういえば何処に向かうかを決めていなかった、それは普段から同じではあるのだが。曖昧な思考に音が差し込む。

 そのうち一つが、俺の前で起こった。
 足を止める。いくつかのゴミを蹴りながら、何かが此方へと迫る。犬や猫の類いにしては、低い唸りも一切聞こえない。次第に黒い影が道を塞いだ。俺より少し小さい程度。目を凝らせば、形状は人間と変わらない。
 人間であるなら存在を悟られることはあるまい。道の脇へ体を滑り込ませる。影はそのまま、脚を突き出した。天辺まで灰の布に身を包み、猫背気味に横を歩き過ぎようとしている。全身が黒に見えたのは纏った布のためだったか。
 安堵した矢先、それは顔を此方に向けた。顔面は白く、酷く頬痩けている。糸屑みたく束になった髪の隙間から、赤い目が覗く。単なる赤目でなく、瞳の上で血管が煩雑なまでに絡まり合っているのだった。その目は、緩慢と身体に肉薄する。相手は、俺に寄りかかろうとしていた。
 指の先から硬直が俺を飲み込む。容姿への畏怖ではない。確実に、俺を捉えている。新手の妖だとしても、別の何かであっても。もし奴が俺に害を与えるなら――いや、どう抵抗するのが正しいんだ?
 緊張が全身を巡る最中、奴の手が胴部に触れた。背広の余りを力一杯掴み、俺にしがみついた。腕は弱々しく、若干ながら震えている。焦燥に駆られ、引き剥がそうとその肩に手を掛けた。
 突如、啜り泣きが辺りに渡る。視線を一巡させるが、他に気配は感じられない。水滴が伸ばした腕に落ち、跡が生まれる。紛うことなく、落涙したのは目の前の奴で間違いなかった。奇怪を通り越して、一瞬感情が抜け落ちた。
 即座に奴を振り払う。水滴の付いた腕を摘まんで捻るが、身体に異常はないらしい。払われた相手は路上に崩れ、独りで身体を抱えている。しくしくと、泣く声だけが流れ込んだ。見つめ続けていると、悲哀ばかりが心に溜まっていく。けれど、騙されるわけにはいかない。泣き技を得意とする手合いは世上にごまんといる。
「何なんだ、お前」
 返答はない。ただただ啜り泣きが続く。突き刺さる肌寒さが怒気を拭い、震えを収める。不審感のみ残留し、後退りしながら待つ。
 奴は俺を見上げ、薄く口を開いた。その面から女なのだとは辛うじて分かる。しかし、ぶつぶつと発する言葉の一遍すら理解できない。滑るような発声は揺れ、片耳から零れ落ちる。異国の言語だろうか。見れば見るほど、その肌の白さがこの国の者ではないように思わせた。
 正体の判別が着かないまま、刻々と時が過ぎる。奴は何者か。なぜ俺を認識しているのか。なぜ咽ぶのか。根本として、一体何が悲しくてそんなにも涙を零すのか。事象は一向に明かされそうにない。息苦しさが晴れぬまま、幾重にも積もっていく。
 とうとう、俺は逃げ出した。女の来た方とは真逆、自分の歩んだ道を戻る。遠く離れても、未だに女の涙声が頭に刺さって抜けない。
 きっと奴には目的か何かがあるのだろう。そこは明確に俺たちと違う、凍てる中で考えた。

雪の灯

 足元に雪が散っている。アスファルトは濡れ、べたりと墨色が張り付いていた。対照的な彩は鮮烈に輝く。
 奴から離れることに必死になっていたようだ。ふと見渡せば、伉と別れた場所の近くまで戻ってきていた。人工灯は消えず、飲み屋は閉まっていない。人間の談笑が漏れ出て、呆れより心が休まるのを覚えた。そこから移動を再開し、路を進む。下がればあの女がいる。伉を追うみたく、薄暗がりを往く。
 肩で風を切るうちに、だんだんと灯りは消え失せていった。囲う声も途絶え、電灯が点々と、等距離を置いて設置されている。家屋の煤けた板の上、洋風の灯が取り付けられ、頼ってくれとばかりに光る。どこかあざとさを感じ、視界から外した。
 浅草は、歩き果たしたつもりでいた。このような落ち着き払った区画など、訪れたことがない。
 伉の活動圏もこの近辺なのだろうか。だが、まだまだ夜は長く、遊び回るにはいい時間帯。程々の付き合いがあるから、奴は朝まで彷徨う質だと知っている。私はここでと去って行ったが、寄る辺でもあるのだろうか。俺くらいしか誘う宛てがないと言ったのに?
 懐疑心に包み込まれる最中、目に飛び込んできたのが雪の路だった。建物の隙間、何者かに割られて生まれたかのような細い通路。電灯が照らし、白が瞬く。
 この通りからは妙な気配を感じる。異質には違いないが、同時に親近も受け取っていた。
 誘引されているのには気付いている。どうせ、明日の予定も行く先もないのが性質だ。
 俺はふらり、路へと突っ込んだのだった。
 不可解にも、伸びた路の内部でも電灯は点在している。木造住居に取り囲まれた空間に、仄かに明るい円を落とす。案内人めいた光に晒されつつ、先を急ぐ。
 やがて、雪が積もる程に、降雪は勢いを持ち始めた。一時俯くと、そこに足跡が残っているのを目に留めた。新しい粒が降りかかっているにも関わらず、踏み締められた型はまるで埋まらない。常識を忘れて呆けてしまったかのようだった。
 その足跡には既視感があった。一本の糸を辿るみたく、俺は追い掛ける。
 道幅は拡張されていき、終いには電灯を除く物体が見えなくなった。吹雪の波も強まり、風が顔を殴りつける。猛吹雪に取り残された遭難者のようで、後悔が込み上げてくる。それでも、進むしかなかった。悪感情と一緒に湧く嫌な予感が杞憂でないと確かめねば、気が済まなかった。

 銀幕と電灯と足跡。無限回廊めいた情景に、ぽつんと像が浮かぶ。霞んだそれに近づこうとして、鼻が異臭を嗅ぎ取った。酒臭い。樽をぶちまけた、それほどのアルコールの臭いが漂う。像に迫ろうとすればするほど、臭気は濃密になっていった。
 ぶれた影が定まって数秒、知人の声がした。跡はその地点までだった。
「ああ、どちらさんですか?」
 降りしきる雪に囲まれて、伉は笑っていた。普段通りだらしない口を顔に広げ、歯を曝け出す。まだ酔いが抜けていないのかと思ったが、奴は直立していた。
「冗談はやめろ。凍え死ぬぞ」
「凍える? こんなにも温もりに満ちているのに?」
 けたけたとせせら笑い、伉は俺から顔を背けて前を向いた。
「すみませんが、急いているので。私には、行くべきところがあります」
 言い捨て、振り返らないまま急ぎ足で進む。像が遠ざかっていく。
 何が奴をそうさせているのか、俺には皆目見当がつかない。確固として認識しているのは、やけに淡泊な奴への腹立たしさだった。
 地を蹴り、肉薄する。だらんと垂れた着物の袖を引っ掴み、此方に回転させる。にやけた笑みが目の前で開く。噛み千切られそうな距離であれ、表情を改めるつもりはないらしい。
「おい、俺が分からんのか?」
「知りません。私の邪魔をせんでください」
 固定された笑顔で、四肢をぐちゃぐちゃかき回し始めた。足掻きが様々な部位を打ち、その度にじんと疼きが染みる。手放すわけにはいかなかった。ぐっと伉の腕を掴む手に力が入る。
 最後に指を解いたのは、降りしきる雪と冷風のせいだった。堪え続けるうちに芯まで固まった身を寒気が凜々と叩き、拘束が緩む。そこを突いて飛び退き、舞みたく旋回して新たに足跡を残した。
 ぜえぜえ吐く息が雪と同化し、空気に混ざっていった。
 もしや、他人の空似ではないか。少し思案して、首を振る。喋りの調子といい笑い方の癖といい、奴は伉と同一だ。何も覚えていないはずがない。
 またしても、伉は前へ前へと歩む。駆け出して追おうとしたが、凄まじい臭気に妨げられた。濃い酒の成分に対し、前進の意思が末端から遮断される。
 俺を電灯の内に置いて、姿は小さくなっていった。何度も叫ぶ。声を荒げたのは久々だった。
 誰かの隣に潜んでいるのが、あいつの性のはずなのに。
 欠け、つるりとした頭が半分ほどぐるりと回る。かぱりと口が開いて、僅かに空洞が見えた。
「そういや、あなたの顔を見て一つ思い出しました」
 伸びた声はぽーんと投げられ、雪上に落ちる。
「羨ましい」
 それが耳に届いたとき、口角の一端は歪んでいた。
 その真意を尋ね返そうとし目を見張って、束の間。
 さらに一歩奥へ踏み込んだ伉は、欠片になって崩れた。分かれた欠片が宙で砕け、極小の塊に解ける。それまで奴を包んでいた若草の布と帯が風を受けて舞い上がって裂け、草履はぱらぱら飛んだ。落下した塊は、雪を浴びながらも蠢いていた。
 口を失って物も発せぬようになった粒の群と布の切れ端。危険を察知してはいたが、静観していられるはずもない。先の途切れた足跡に沿って前進しようと、身体を傾ける。
 今度は背面から突風が吹いた。追い風とは呼べない。風に捲られ、伉の残骸は螺旋を描いて奥へと飛散した。追い討ちだった。意図を保持した空間は、最後に奴を完全に飲み込んだ。
 俺は地面に膝を付けた。脱力の要因は、喪失だけではないような気がした。混乱の中で、引っ掛かりに従って思考が動く。
 羨ましい。飲みの席でも発していたそれを、俺の名前よりも伉は零した。つまりはその感情は元より抱えていたもので、笑顔の奥だか裏だかに深く根を張っていたらしい。愉楽を遙かに上回って。
 なぜ、俺なんかを羨ましいと思ったのか。どうして俺を忘却しながらも、それを思い出したのか。
 自然と笑いが吹き出た。なぜ、どうして、如何に。今日は果てのないことを考えてばかりだ。力が抜けたのも、膝が塔みたく積み上がった懐疑に耐えられなくなったためかもしれなかった。この世とはかくも不可思議で不条理で、懐疑の対象は理由も無く事実で押し掛かってくる。
 妖というものは、その一切合切を無視してきた。俺もそうした。ただ、もう見過ごせはしなかった。
 手を持ち上げ、化けて作った人間の手を眺める。小刻みに震えていた。
 俺は怖くて仕方がないらしい。
 これまで妖の死を直視したことがなかった。早くこの雪から解放されたかった。そこらを動かなくなった妖たちも、あのように殺されていったのではないか。そう考えてから自分が砕ける想像をして、目をひたと瞑る。それでも暗闇の渦で、ばらばらになっていく自分を浮かべた。与えられた力が弱まりを見せたのは、俺も伉も同じだ。そこに違いはない。なら、なぜ奴は羨ましいなどと――。

 堂々巡りに陥った頭を、啜り泣きが揺さぶった。
 立ち上がり、振り返る。真後ろに灰の布を被った長髪の女が立っている。手で目許を押さえており、赤目は僅かしか覗いていない。
 後を付いてきたのかと思ったが、とっくの前に振り払っている。とすれば、奴も元々此処を目指していたのだろう。首肯を返すかのように、奴は俺を横切ろうとしていた。
 咄嗟に身体を進路上へ挟み、歩みを阻む。相手は戸惑ったように何歩か後退し、それでも足先の向きを変えた。さっきは泣き縋ったというのに、こいつも無視して奥へ行こうとしているようだ。
「どうして向こうに行きたがるんだ?」
 声を投げる。奴は止まり、俺の方に目をくれた。やはり返答はない。
 防がねばならない。眼前であの現象を捉えるのは御免だ。どのみちこいつと言語が異なるのなら。
 数秒が経ってそっぽを向いた。背を曲げて突っ込み、間合いに入って両腕で女の胴を掴む。勢いを保って担ぎ上げると、伉の残した足跡に逆らって走り出す。途中、女の作ったらしい足跡が視界の隅に映ったが、降る雪は徐々にそれらを消していった。


 雪の狭路を脱し、硬い地面の触感に懐旧の情を得る。履物で打ち鳴らして、女を下ろしてから自分も腰を下ろした。激しい呼吸が密やかなただの黒い夜に吸われては無音に還る。隣を一瞥した。突然拉致され、女は甚だしく動揺しているようだった。そこは、急に泣きついてきた分とお相子だ。
 朦朧とした電灯の煌めきを見上げ、意識を切り替える。放置してきた山ほどの疑念を晴らすにも、手掛かりが何もない。心の整理も必要そうだ。口許を手で覆い、背を地に着けた。
 光には容赦というものがない。ぼうっと、瞳は眩しさを取り込み続ける。その光の深部に、汚れた膜を掛けたような一点が映る。目を凝らす。一点に置かれていたのは映像で、それは瞬間に俺の視界を奪った。
 破砕される建造物と沸き起こる火炎。見知らぬ自動機械の躍動と病人で占められた寝台列。煙を吐いて道路を暴走する重量車が突進するや否や、次は都市が浸水。惨事惨劇、凶事に塗られた世界が矢継ぎ早に流動する。焦点の合わぬまま映像の転換が猛加速し、直後に一つの場面で停止した。淡々と、悲劇は俺に伝導する。
 以前に凶事を視た記憶は古い。新鮮さを味わいながら、俺は憐憫を胸に刻んだ。
「……戻った」
 呟いたときには、光は眩しいだけのものに帰していた。腰を起こし、頭を振るう。疲労も困惑も何処かに吹き飛ばされていた。
 これを、俺は伝えなくてはならない。人間のためではない、俺自身のためだ。自分の有する使命を果たさねばならない。正体不明の何者かに使命を植え付けられてしまったのが伉なのだとしたら、俺は二の舞になるわけにはいかなかった。あいつの隣にいて、生きたあいつを俺は明瞭に覚えている。俺が朽ちないためにも、奴が本当に抹消されてしまわないためにも、かつての異能を衆目に曝露させる必要がある。
 そういった確信を、俺は宿した。今まで与えられた力の意味なんかお構いなしだったのに。
 膝を立て、暗い路に向き直る。直ぐに鳴る自分の足音に遅れ、後方で音が立った。顧みると、色白の女が後を付いてきている。手で顔を隠すのはやめて、俺を凝視している。顔付きは若いのだと、手が外れて初めて知った。
「一緒に来たいか?」
 相変わらず、返事も表徴も示さない。ずっと黙りこくったままだ。
 きっとこいつも妖の類いに違いない。なら、連れを求めても拒む気はない。自ら誘うこともしないが。
 まずは凶事の地域まで移らねばならない。夜が続く限りはいくらか楽に話が済むので、先を急ぐ。背後の擦れる音は案の定、継続していた。
 
 窮屈な街がひっそりと繁華を放っている。近づいてくる浅草下町と不変性を見据えた。
 俺は浮世の影にいて、異変には慣れている部類だと思っていた。しかし、俺にも今日まで把握できなかった大きな変化が確実に起こっている。発端は同類か、人間か、あの女のような別の勢力か、あるいはその全てか。
 それでも、このままでいられるほど、俺は堕落してはいなかった。


 今にして振り返るなら、随分と奇妙な出会い。
 そして、俺が――僕らが自分たちの非力を目の当たりにするのは、これより少し後の話。

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