勲章と決意
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夫が帰ってこない。あの日から。あの忌まわしい雨の日から。


━緊急召集がかかった。行ってくる。
━いってらっしゃい。

薄暗く小雨が降っていたあの日。あの人はどんな顔をしていたかしら?わたしはどんな顔をして彼を見送ったかしら?


夫の代わりにやってきたのは、掌に収まるほどの勲章一つと感謝礼状、死亡報告書を携え、少しよれた海士制服を着たあの人の新しい部下だった。こんなものいまどき部下が届けにくるものじゃあないとは思う。肩を落とし、項垂れて小さくすみませんという彼は何も悪くはないが何を言えば良いのかもわたしにはわからなかった。困惑したまま彼を家に招いた。彼は押し黙り、俯いたまま招かれた。そしてわたし達はリビングテーブルに向かい合って座り、わたしは彼に飲み物を出すことを忘れたまま彼の話を聞くこととなった。
彼の話によるとあの人は国籍不明の艦艇との戦闘中に亡くなったらしい。 遺体は、無い。
悲しくない訳はないがただただ実感が無かった。
嘘でしょう
そんな言葉が滑り出た。
現実です
彼が俯きながら答えた。
顔を上げ、私の目を見た彼の目はなんだかわたしにはわからないような覚悟が垣間見えた。少し背筋がざわついたのを覚えている。


とても立派な合同葬儀だった。空は薄曇り、しっとりと霧雨が降る。沢山並ぶ空っぽの棺に向かって捧げられる豪奢な儀仗隊の空砲、艦隊司令と呼ばれた人が滔々と語る大層お綺麗な賛美。それらを聴きながら、隣に小さくうずくまるように座る婦人が小さく、こんなことになるなら行かせやしなかったのに。と嗚咽混じりに言うのをわたしは否定も肯定もできなかった。ただ俯いて頬の内側の肉を噛み締めて耐え、その背をさすることしか出来なかった。何に耐えているのかもわからないまま慟哭と嗚咽の雨に打たれていた。

“強い責任感をもつて専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。”
彼らはこの誓い通り、その身をもって責務の完遂に務めた。それを私は誇りに思う。ありがとう諸君。君たちの働きでこの国の危機は去った。ありがとう護衛艦あかしまの乗組員諸君。敬礼!!

それだけ?私の心にある何かの引き金が引かれた。視界が赤く染まる。婦人の背をさする手がぴたりととまる。 ふざけるな
遺言すら遺さず遺体すら帰ってこず、私1人を残していったあの人。ほとんど黒塗りで渡された死亡報告書、硬く口を閉ざす若い部下、国籍不明の艦艇と戦闘中の死亡だとしか言わない偉い人、そんな記憶が頭を廻る。
本当は何があったの?
作りすぎた夕食、もう使われないビアグラスにお気に入りだった瓶ビール。部屋に残る作りかけの革細工。冷蔵庫に貼ってある来週の予定が書いてあるメモ、LINEの履歴、洗っておいてくれと脱ぎっぱなしで置いていった青い作業服、補給部に返却し忘れてこっそり持って帰ってきた古い階級章やワイシャツ。全部、全部あの階級章と名前しかわからない空っぽの棺に詰めてしまいたかった。そしたらあの人になってくれる気がした。そしたら、わたしにただいまと、言ってくれるはずなのに。
わたしは漠然と不変を信じていた、あの微睡みのような幸せを信じていたかったのだ。
かえして
誓約書のことは知っていた、知っています。彼は結婚するときに言っていたもの。 でも信じたくないの
けれど、けれどね、あの紙切れに貴方を連れて行かれるなんて考えたことなかったの。
受け入れ難いのよ
激情で赤く染まった視界が滲み地面に落ちた。 あの人をわたしにかえして
激情、それは地面に跡を残すことなく消えていった。 かえしてよ!!
嗚咽と慟哭の響く会場であの部下の人を見つけた。しっかりと制服を着込んで精悍な顔をしていた。あの、私の前で項垂れちいさな声で謝まった彼はどこにもいなかった。あの日、彼の目に見た覚悟は彼の中で確固たるものになっているようだった。その彼に当たる陽の光で初めてわたしは外が晴れていることに気付いた。

雨はもうあがってしまったから。

もうやめたの

さようならあの日のわたし。

待ち続けて 知らないままで いるのは

さようなら最愛の人 アナタ

わたしが会いに 見つけに 行くわ

そしてわたしは世界の裏側を知る

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