桑名博士が目を覚ますと、そこは薄暗い六畳間の和室だった。
軽い二日酔いに似た頭痛、緩慢な思考と不明瞭な記憶。身動きが取れないのは身体が縄で縛られているからだと気付くことさえ、冗長な時間を要した。
「おはようございます、桑名博士」
若い女性の声。
見れば、擦りガラスの引き戸を開いた向こう、一組の男女が立っていた。桑名博士の知らない顔。どちらの白衣も薄汚れた粗末なものに見える。
「気分はいかがでしょうか?」
「最高です。……いえ、失礼。嘘と皮肉は得意ではなかった」
「落ち着いて下さい、桑名博士。手荒な真似をして申し訳ありません。博士が協力して頂けるのであれば、すぐにでも縄を解きましょう」
その言葉を聞いた桑名博士は、自身が望まぬ状態に置かれていることにようやく気付いた。
博士は財団の研究者であり、デスクワーカーだ。実地調査に赴くことなんて一度も無かった。それが様々な経緯があって、まだ収容されていない異常なオブジェクトの調査班に加わることになった。
結果がこれだ。
「博士の貴重な装備は我々が預かっていますが、それも良い返事が聞ければすぐにお返し致します」
「ただのフィールドキットですがね。あと腕時計がない、財布も携帯電話も……それで、用件は?」
すると、男の方が前に出る。ぼさぼさに伸ばした黒い髪。顔色は蒼白。ひょろりとした長身が不快に揺れて体臭が酷い。
「それは僕から説明しましょう! お会いできて光栄です、桑名博士。僕は財団に所属する研究者でありドクター……そう、ドクター田村、です!」
「……聞き慣れない肩書きですね。それは一体どこの財団ですかな?」
「自分で仰った通り、あまり嘘がお得意じゃないようだ。SCPの財団のことについてはあなたもよく知っているでしょうに! ただし、僕とあなたの財団は少し異なりますがね」
とぼけるだけ無駄だった。胡散臭いが、少なくともこちらの身の上は把握しているようだ。
もちろん、相手が信用できるとは限らないことを念頭に置いておく。
「その異なるとは?」
「実に簡単なこと! あなたは"門"をくぐってこちらに来たはずです。あなたの財団と僕の財団は"門"を隔てて対応する同じ組織なのです!」
博士は思い出した。自分は奇妙な伝承が伝わるある土地の鳥居の調査に行っていたのだ。
その鳥居に近付き、突然視界が光に包まれ……気が付けばここにいた。
その鳥居こそがドクター田村の言う"門"なのだろう。どうやらその"門"をくぐってきてここにいるらしい。
まあ財団の中では、異世界へ通ずる道なんて有り触れたものだ。自分が通るとは思ってもみなかったが。
「僕はある事実を突き止めました。"門"の動かし方! さらにこの"門"はよく似た二つの世界を隔てるものだと! そして"門"を隔てた向こうに、我々と呼応する組織―SCPを収容する科学的な組織―財団が同じように存在するのだと!」
「はあ」
「わかりましたか? 今の説明で!」
「つまり私は今、一つの平行世界に訪れている。そしてその平行世界に存在する財団に保護されているということですね」
「その通りです! ですので、同じ志を持った者同士、そう警戒なさらず……と言っても、事態は逼迫しているのですが!」
ようやく本題か、と博士は内心呟く。
「我々は今、滅亡の危機に瀕しています! 言い換えるならCK-クラスの世界終焉シナリオ! 我々の財団はもはや明日も知れぬ身!」
「貴方を見ているとなんとなく同意できます」
「おや、信じられませんか? しかし一度外に出れば、すぐにわかることでしょう。我々の敵対組織が、おぞましい力を用いて世界を支配しようとしている様を見れば!」
「ふむ。もしや、相手は人間なのですか?」
「奴らは、ええ、そうです! 力を持った人間! 我々よりも強大な! 遅かれ早かれ貴方も対することでしょう……貴方のようなこちらの世界にとって異常な存在に、奴らは目聡い!」
まあ確かに。
私の所属する財団なら、異世界人をそのまま放っておくことはしないだろう。良くて人型収容セル送りだ。悪くて絶命するより酷い。
しかしそうすると、あまりにも悪い状況へ勝手に呼び出してくれたものだ。もちろん同意があればなどという仮定もないが!
桑名博士は少し絶望感を覚える。事態は目に見えているよりも酷いようだった。
生存するための選択肢は真っ当には一つしかなかった。あるいはそうするために嵌められたのかもしれないが、他に道はない。
「そうですね……私の方の財団の協力を仰ぐのであれば、喜んで遣いになりましょう。そのためにも、まずはこちらから向こうへ送り返してもらわないと」
「はい! だがしかし"門"を開くのは容易なことではない! "門"は連中が所持しているのです! だから連中の目をかいくぐった一番良い機会でさえ、貴方一人を呼び出すので精いっぱいだった!」
「ちょっと待ってください。帰れないのであれば、私にどうしろと言うのですか」
「我々に協力下さい! 今一度、貴方を送り返すまでの協力を! 科学的武装による援護を!」
「私には時間がない」
「大丈夫です! これからすぐ参るつもりですから。機動部隊が待機中です!」
無茶だ。馬鹿げた話だ。
今すぐに出発するというのも。危険な作戦に自分が参加させられようとしているというのも。
博士は自分が、いわゆる実力行使が得意でないことを知っている。そういうことは、武勇伝を語るような者たちに任せておけばいい。
「私は非力な人間です」
「だが貴方はSCPを扱う知識を持っている! 心強い装備を持っている!」
「そんなものは……いや、確かに拳銃が一丁ありましたが、下手に撃てば懲戒免職です。国内だから。いや、違う世界なら大丈夫かな?」
「とにかく! 貴方は協力する、してもらう、しなければならない!」
「そうしなければ帰れないから、ですか」
「平行世界の同胞を見捨てるなんて薄情な真似はできないでしょう?」
それは別に、と思った。自分の世界には関係ない話だ。
が、こちらの世界に危害を加えているその組織が自分の世界に来ないとも限らない。
とりあえずは真摯に対応するべきだろう、と博士は考え直す。
「……わかりました。協力しましょう」
「この上ない喜び! エージェント・スズカ、博士の装備をここに!」
呼ばれた若い女は退室する。
気味の悪い男は上機嫌だ。
そして桑名博士は頭を抱える。
「ああ、私に英雄願望なんてないのに……」
桑名博士を封じ込めていた縄が、ドクター田村の手によって解かれる。
続いてエージェント・スズカが博士の装備を全て持って戻ってきた。
私物、それに10リットルの小さなリュックサックがフィールドキット。
博士は財布の中身が抜き取られていないことを確認し、それからリュックサックに手を伸ばした。
「イタっ」
声が出た。
他の二人がぎょっとして博士を見る。
触れた手に、鋭い痛みが走ったのだ。強靭な顎を持つ虫に噛まれたような感覚だと思った。
見れば、そこに噛みついてくるような生物はいない。代わりに別の物が貼り付いていた。
御札だ。
「おっと失礼、桑名博士! 貴方が異なる世界から来た人間である以上、こういうことも想定しておくべきだった!」
……SCP-052-JP?
博士の脳裏に、目の前にあるそれによく似たものが想起される。
詳しく調べる前にエージェント・スズカが漆の鮮やかなペーパーナイフでそれを二つに破り、残りを指で摘まんで取った。
「あまりにも……そうあまりにも単純なことなので失念していた! 悪気はなかったのです! 痛みはありませんか? 赤くなっている!」
「もう大丈夫ですから手を離してください」
それからリュックの中身を確認する。
簡易フィールドキットの中身は文房具、試料回収容器、保存食糧及び水1日分、サバイバルナイフ、そして拳銃だ。
「大丈夫そうですね」
言って、桑名博士はリュックサックを背負った。それは異常なオブジェクトの調査時と同じだ。違う点は、右手には拳銃を握っていること。
……ああ、こんなことでもなければ絶対にあり得ないことだ。
思いながら、博士は携帯電話を見た。電源は入っているが、圏外の表示になっている。
次に腕時計を見た。アナログの針は問題なく動いている。デジタル表示の日付は、調査の日と変わっていない。
確か、研究室を出たのが午前8時。鳥居の周りを調べ始めたのが午前10時30分頃。
予定ではその日のうちに帰ることができるはずだったが……。
「今は午後10時ですか。それで、"門"までどのくらいかかりますか」
「ワンミニッツ! そう、たったのそれだけ!」
「すみません……他に話が通じる人は」
「ジョークではありません! 我々は独自の"抜け穴"を有しています! 異世界へ飛ぶには連中が保有している"門"……SCP-0063でしかできませんが、空間跳躍つまりワーピングくらいなら可能です。そう、このSCP-0285ならね!」
その番号には別の物が割り当てられているのでは。まあ、ナンバリングが我々の財団と同じとは限らない。
「実際のところ、連中に感づかれない位置に出るため、もう少し時間がかかりますがね!」
「ああ、はい。そうですか」
「"門"も"抜け穴"も、動かし方を知っているのは財団職員のみ! 連中は何も知らない! そして僕が開きます。その間、桑名博士はエージェント・スズカや機動部隊と共に僕を連中から守っていただければいい!」
「実にわかりやすい作戦です」
「それではゼンは急げという奴です。特別編成の機動部隊い-999"オープン・ザ・セサミ"をお呼びしましょう! どうぞ!」
田村の声に合わせて、和室にぞろぞろと黒服の男が入ってくる。
「左から甲、乙です!」
「甲ですイエッサ」
「乙ですイエッサ」
「ちょっといいですか」
「んーん!! ああ、あとエージェント・スズカもいますよ!?」
「スズカですイエッサ」
「これで3人ですね。ええ。……他の方は?」
「僕を入れて4イエッサ! そしてスペシャルパートナー……桑名博士! これで5イエッサです! スバラシイ!」
桑名博士は言葉を失った。自分を含めてたった5人だけで、一体何をできると言うのだろうか?
「ああ、田村さん。あなたには人望がないのですか? 財団からの信頼は? 支援は?」
「……僕たちにはもうこれだけの人材しか割けないのですよ」
「正気ですか」
「隠密作戦なのでこれだけでも十分でしょう。そしてこれまでの経験からいって、この中で3人は死亡します。高い確率であともう1人死にます」
ドクター田村の目は本気だった。
「命の順序の話をしましょう。機動部隊の2人を区別する余裕はありません。その次、"門"の動かし方を知る予備の人材でもあるエージェント・スズカ。3人の次が僕です。そして最後があなたです、桑名博士」
「ですが、田村さんが死ねばもう"門"は開かない」
「"門"を開けば用済みです。貴方が最後に"門"に飛び込むことにより、この作戦は成功する。だから貴方だけは生き延びねばならない」
「私が帰ったところで向こうから"門"を開くことはできません」
「いいえ、できるはずです。それが"門"であることを知ったあなた方ならできるはずです。我々にできたのですから」
「だがしかし……死んでしまって、それでどうやって助かったと言えるのです!?」
「個人の命に執着できる余裕などとっくにないことが、おわかりになりませんか?」
博士は改めて見る。
ドクター田村の貧相な見かけ、薄汚れところどころ穴の開いた白衣をなぜそのままにしているのか。
機動部隊の黒服がただの布で、素人目にも装備がなっていないのがなぜか。
それは出来の悪い冗談ではないというのだ。
「あなたは我々の希望なのです」
今度こそ、桑名博士は何も言えなかった。
ふと、右手の拳銃が重く感じた。
拳銃に弾は入っている。桑名博士も一応は使い方の講習を受けている。
しかし敵対する相手、人間に向けて撃ったことはなかった。その機会がなかったのはもちろんだが、自身がそのような行為をするのを想像するだけで身の毛がよだつ。
自分にできるのだろうか。
だが最悪の事態は想定されるものよりも、むしろもう現実に迫ってきているのだと、握った銃が宣告しているように思えた。
作戦についてフリーフィングが行われた。
別の部屋にSCP-0285"抜け穴"、つまりはこの財団が用いる空間跳躍装置がある。見た目は"抜け穴"というよりはただの木製の扉だが、開けば外につながっている。その出た場所が作戦開始地点だ。
地図では近くに民家もある田舎の林の中になっている。
SCP-0063"門"、つまり桑名博士が元いた世界に戻るためのそれは林で隠された仮設収容容器の中にあるらしい。
そこで"抜け穴"で直接容器の中に侵入する。財団と敵対する連中は主に収容容器の外を警備しているため、虚を突けるというわけだ。
実際のところは、侵入は即座にバレるため、田村さんが"門"開くまでと容器内に入ってきた連中と交戦し耐え忍ぶ時間との勝負になる。
「これで本当にうまく行くのですか? いえ、私は別に詳しくないのですが……」
桑名博士の不安に回答したのはエージェント・スズカだ。ドクター田村は侵入用の"抜け穴"の調整に入っている。
「これまでは外に別働隊がおり、侵入方法を誤魔化すことができていました。戦闘の混乱中に何らかの方法で収容容器に接近し入り込んだのだと。しかし、今回はそのような余裕はありません」
「とにかくもう形振り構ってられないということですか」
「そうとも言えますね」
エージェント・スズカは立ち上がり、彼女の後ろにある箪笥の中からいくつかの物を取り出した。
「本作戦で使用する装備です。桑名博士もお持ち下さい」
言って彼女が目の前に広げたのは、杖、丸い金属板、何かの結晶だ。
博士はエージェント・スズカの顔を見た。彼女は至って真面目という感じで、目が合って5秒後に首を捻った。
「……私は今非常に反応に困っています」
「そう言えば、使い方はご存知ではないのですね。御札もまともに触れないのであれば……持っていても仕方ありませんね」
装備が増えても使いこなせなければ意味がないだろうと、桑名博士は同意した。
そして腕時計の針が午後11時を指したころ、ようやくあらゆる準備が整った。
「作戦開始は5分後。私の合図と共にSCP-0285に入ります」
エージェント・スズカの言葉に、博士は息を呑んだ。行動を起こさねばならない瞬間がもう目前にまで迫ってきているのだ。
「そんなに緊張なさらないで下さい、桑名博士!」
「……はあ、はい」
「リラックスですよ! ほら深呼吸!」
「ええ、はあ……はあ……大丈夫です」
呼吸を整えると、心のそこで漂っていた暗いものが少し軽くなった気がした。
「そうだ僕の武器を見ますか? これはとっておきなんですよ! 見て下さいのこの黒光り!」
「黒色の……直刀? 刀ですか?」
「神剣です! 連中から奪ったもので、とんでもない御利益があるのですよ! これが我々を守ってくれます! 貴方はただ、元の世界へ帰るだけでいい!」
「ははは……そうですか」
「おや、信じていませんね?」
「いやいや、私は嬉しいです、気を遣ってもらえて。だから、大丈夫です」
「ええ!」
ドクター田村は笑顔で神剣を収めた。
逆境の中にあって、彼の屈託無い笑顔は一体どこから来るものなのだろう。彼は見た目は目を背けたくなるほど貧しいが、見事な心の爽やかさを持っている。
対する私はどうだろう。最悪の事態に対して未だに逃げる算段をしている。これは夢であり、決して非情な現実ではないのだと、心の奥底では信じているふざけた人間だ。
本当に信頼に足る人間とはどちらだろう……そのような考えが桑名博士の頭をぐるぐると巡った。
「時間です」
言われ、博士ははっとした。ここにいられる時間がもう残り僅かなのだと、そのことがとても惜しくなった。
けれども後悔する時間すらもない。
だから覚悟した。
「状況を開始します」
エージェント・スズカの言葉と同時、機動部隊-甲が"抜け穴"の扉を開け放った。
扉の先はほとんど暗闇だった。
数瞬後、甲、エージェント・スズカ、桑名博士、ドクター田村、乙の順番で"抜け穴"を通り抜ける。
そこから僅かに入り込む光が唯一の光源だったが、それすらも扉を閉めることによって失われた。
……ここから10歩直進すれば目標です。
作戦で打ち合わせたことだ。
博士には前も後ろもわからない状態だったが、暗闇の中の僅かな明かりがエージェント・スズカの背中をかろうじて判別できるようにしてくれていた。
靴の裏に土の感触を踏んで、10回。
「止まって、陣形」
5人がそれぞれの配置に着く。
"門"は唯一無二の貴重品だ。下手に傷を付けて動かなくさせてしまうわけにはいかない。
敵対組織にとってもそれは同じである。そこを利用する。
"門"を操作するための場所、ここにドクター田村が着く。その近くに桑名博士。その2人をカバーするように他の3人が"門"を背に壁を作る。そして時間を稼ぐだけでいい。
「"門"を起動します!」
連中が侵入に気付くのはこの瞬間からだとも、打ち合わせで予想されていた。
「3、2、1……!」
田村の手が動き、彼の目前の部位が四角に発光した。
まるで操作盤とモニタのようだと、桑名博士は思った。
『—!』
同時、空間の中に鈴に似た高い音が響く。
『—!!』
幾重にも重なり騒ぎ立てるそれは異物に対する危険信号だと、胸騒ぎが自ずと教えてくれる。
「侵入者だ!」
遠くから声が聞こえた。
「中にいるぞ」「財団の連中」「防衛形式一適用」「"門"に傷を付けるな」そういう言葉と雑踏が無数に続く。
明かりが点いた。決して明るいというわけじゃないが、周囲は見渡せる程度のぼんやりとした光だ。
桑名博士は見た。
周囲は木製の壁で囲まれていた。地面は剥き出しだが平たく硬く整えられている。
そして"門"を見る。
それは、博士が初めて見るもの。
「機械……!?」
金属製の巨大な扉があった。鼠色で、高さ10メートル幅5メートル以上の、巨大な両開きの扉だ。
扉や支える柱と梁の表面には無数の歯車が噛み合って並んでいた。また別にパイプが面を走っては不規則に直角に曲がり、いくつかの車輪には連結棒がくっついている。
その禍々しさだけでも桑名博士を驚かせただろう。しかしそれ以上に不気味なものを思わせる事実があった。
……私が見た"門"はただの鳥居だったはず!?
何が起きているのかわからない、しかし何かが起きているのは確実だった。だがそれが何か調べる時間など博士にはなかった。
「100秒です! 100秒で"門"を開きます! それまで皆さん、耐えて下さい!」
田村が言い終わるなり、正面に位置した外に通じる扉が開かれた。
現れたのは覆面をした者たちだ。黒装束の……布衣とでも言うのだろうか? 古式ゆかしい和風衣装をさも当然というように着こなした男たちだ。
そんな連中が宝石の付いた杖を携えていた。
桑名博士はそれがたちの悪いパロディだと信じたくなった。連中が杖を振る瞬間まで、博士は目の前の出来事が虚構であって欲しいと本気で願った。
だが現実。
振られた杖の先が鈍く光った。青く燃えた。火球が形成され、放たれた。
侵入者を焼き尽くさんと真っ直ぐ飛んだ。
「伏せて!」
桑名博士は咄嗟にその通りにした。
乙がブリーフィング時に見せられたあの丸い金属板を正面に構えて前に出て、火球を弾いた。そして叫ぶ。
「これは触れても燃えるだけだ! 死にやしない!」
甲が同じく杖を振った。こちらは白い光だ。それも直視するだけで目が焼けそうなほどの。
轟、という音を伴ってそれが光条を伸ばし、連中を貫く。
「ああ……ああ……!!」
光と音の応酬が無数に繰り返される。
博士はわからない。どういう理屈を持ってそれらが引き起こされているのか。どういう道理を持って敵も味方も動いているのか。
身体が震える。強烈な吐き気を催したかのようにわけもなく頭が左右に触れた。
わからない、わからないわからないわからない……。
どさ。
突然、隣に何かが倒れ込んできた。
博士はそれを見る。
そして見なければ良かったと後悔した。
頭がなかった。
人間だ。頭のない人間の身体が倒れてきたのだ。
よく見れば上半身がほとんど焼けていた。そのせいか、それが甲なのか乙なのか、博士はすぐにわからなかった。そのどちらかであることはわかったのだが。
「クソッ!」
「頭上から狙っています! "門"から離れ過ぎました! できるだけ下がってください!」
「大丈夫ですか、桑名博士!? もう少し、もう少しで開きますから……!」
今すぐにでも逃げ出したい……そんな考えが桑名博士の脳裏によぎった。
一刻も早く"門"が開いてくれれば。
田村の方を見れば、"門"に取り付けられた操作盤を覚束ない手つきで操っている。時折、何かを考え込んだり、迷った風に視線を泳がせている。
一体何をしているんだ!?
桑名博士は再三ながら嫌な予感があった。それが何か深く考えられる状況ではなかったが。
「できました!」
やがて田村が言った。
「本当ですか!」
「ええ! 合図と共に"門"を開きます! いいですか!? 5秒間だけ開きますから! 桑名博士、準備をお願いします!」
突然のことで、そしてようやくのことだった。
桑名博士はこの状況から逃れられるなら何でもいいとさえ思った。
深く考えず、ただ逃げられるのなら—博士は門に向き直った。
「3、2、1—っ!」
ばつん。
千切れる音がした。
「は」
桑名博士は見た。
操作盤に手を添えていた田村の右腕が、あり得ぬ方向へ跳ねたのを。
それは宙を舞って地面に落ちた。
「あ……?」
田村の後ろにはエージェント・スズカが立っていた。彼女の腕は振り下ろされており、その手の先には銀の直刀が握られていた。
「お疲れ様です、ドクター田村。貴方の仕事はこれで終わりです」
"門"は開かなかった。
田村が絶叫した。
桑名博士は何も言えず、ただ見ていることしかできなかった。
攻撃が止んでいた。だから、田村の叫び声だけが室内にこだました。
「貴様……!!」
動いたのは機動部隊員の甲だった。
その手に握った杖を振ろうとした。スズカの背にいた彼ならそれはすぐに成し遂げられるように思えた。
しかしそれよりも早くスズカが振り返り、杖を持つ彼の腕を切り飛ばした。返す刃で胴を袈裟切りにした。
彼が絶命したのは火を見るよりも明らかだった。
「これで生き残りは全て片付きました。あとは桑名博士、あなたにご同行願いたい」
ぼろの白衣を脱ぎ捨てながら彼女は言う。
桑名博士は、今度こそ、何が起こったのかわかった。
「裏切ったのですか、あなたは!?」
すると、鋭い眼が博士を見た。
「私は元より密偵です。"門"の使い方さえわかれば、連中にこれ以上取り入る必要がなかっただけのこと」
「何を言って……」
「ですが桑名博士は違いますよ。彼らのような"なりきり"ではなく、本物の科学を知っている。さらに本物の財団に属している。決して悪くない待遇を約束しましょう」
「あなたは、人を殺したのですよ!」
「それがどうしたと言うのですか?」
スズカが、ふ、と微笑みながら息を吐いた。
「あなたは人を傷つけることが苦手なんですね。安心して下さい。今すぐにでも武器を捨てて投降していただければ御身の安全を保証しましょう」
その言葉に博士の感情が昂ぶった。
周りに倒れ込む、財団のために戦った3人の男たち。それを冷やかな目線で見下ろす冷徹な1人の女の態度に、腹の底からこみ上げてくるものがあった。
身体に力が入る。そして博士は自身が右手にずっと握りしめていたものをようやく知る。
「動くな!」
博士は銃を突き出した。
スズカが、周りの者たちが、動きを止めた。
それを確認し、博士は言葉を続けた。
「不用意に動かないこと! あんたらの剣よりも杖よりも、こいつのがずっと速い!」
「……それで、あなたに何ができるというのですか?」
「あんたらこそ、そのガラクタで何ができる? 私はついさっきまではあんたらの武器に無知だった。しかし私は見ていたんだ。知ってしまえば対処できる」
連中は動けない。けれどもその意識がどこに向いているか、博士には感じられた。
第一に自分の持つ拳銃。そして第二が"門"だということを。
そうだ、連中は"門"と"門"の操作盤を死守せねばならない。何故なら、自分が"門"を起動させて元の世界へ戻ることを絶対に阻止したいからだ。
だからその裏を掻くために博士は動いた……"門"から離れる方向へ。
開きっぱなしの外の扉へと駈け出した。
「そこをどけえ!!」
扉の前はもちろん数人がカバーしていた。
けれども博士が拳銃を向けると、彼らは怯えた風に道を開けた。
「何をやっている! 早く止めろ!」
「しかし……!」
一瞬の混乱。
その中を博士は走った。
連中も訓練していないわけではないだろう。すぐに持ち直し、自分を捕えられるはずだ。
だから念押しに、頭上へ銃を向け、引き金を引く。
銃声。
博士以外の全員が、火薬の咆吼に怯む。
それが決め手だった。
誰にも捕えられることなく博士は扉を走り抜けた。
……田村さん、必ず助けますから。
一つ気がかりを残して。
「……」
残った者たちは、自身に何も異変が起こっていないことを確かめた。
何事もないことに安堵し、それから別な異常事態の発生を許してしまったことに気付いた。
連中のうち、隊長の男が叫ぶ。
「クソッ……周囲に結界を張れ! ヤツを林から出すな!」
「しかし、万が一にも"門"に作用しないように禁止されているはずでは……」
「キツネがいるだろ! 周囲の林にだけ張りゃあいいんだよ!」
男が吐き捨てた。うんざりしたように頭を抱える。
部下の喧騒をよそに、対象が逃げて行った扉の向こうをぼんやりと眺める。
ぶおん。
突然、風が鋭く吹いた。
彼の背中側から視界の先へ、黒い影が飛んでいったのだ。
「な……!?」
振り返る……視線の先には憎たらしい、財団とかいう世迷言を叫ぶ貧相な男が、残った片腕で何かを投げたように手を伸ばしている姿があった。
そうか生きていたか、と思うと同時、傍にいたエージェント・スズカ――その男の組織に潜り込んでいた仲間――が、男の首を跳ね飛ばした。
「おい、アンタ。そいつが何を投げたか見たか?」
「はい。蒐集院から持ち出された神剣です。神格で言えば私の剣と同等でしょう」
「……ああ? ……ってことは」
「今のここで張れる結界は一振りで無力化できる……さらに言えば、対象が使えるかはともかく、不用意に近付くのは危険かと」
「あー、クソッ。やっぱ面倒なことになったな」
「私が対象を追いますから、バックアップをお願いします」
桑名博士は林の中を走っていた。
外は夜だ。月明かりが少しあるのだろうか、間近にある木はわかるものの行く先は全く見えなかった。
こっちでいいのか?
不安に思いながらも走り続けるしかなかった。
ケン―。
声が聞こえた。
コン―。
鳴き声だ。何かの動物の。
それが何を意味するのか博士にはわからない。
ただずっと走り続けている。ブリーフィング時に見せてもらった地図からして、いつまでも林を抜けられないのはおかしい程にずっと。
どうなっているんだ? 方向を間違えたか?
疑問に思っているところへ。
ぶおん。
風切り音だ。
何かが飛んできて、自分を追い抜いて行った。
何だったのかはわからない。けれども急に、視界が開けた。
林を抜けたのだった。
「やった!」
少し走って、周囲を確認するために立ち止まった。走り疲れたからというのもある。
見れば、地面は堅い土だ。非常に平坦で整えられており、それが道を成している。踏み固められた道にしては整然としていて道路のようだと博士は思った。
田畑が見渡せる、田舎の光景。
道には一定間隔で柱が立っている。
……電柱なら、住所が書いてあるような……。
そう思い、柱の1つに近付く。
しかしそれは電柱ではなかった。
「は……?」
それは木の柱だ。円柱に削られた柱が立っているのだ。
よく見れば、柱には注連縄を思わせるような縄が巻かれている。上を見れば、柱の間に架かっている電線も、縄でできているように見えた。
「何なんですか、これは……。悪い冗談じゃないですか……?」
脱力感がある。
これまで感じていて、けれども遠ざけていた違和感の数々が、ここに来て実体を持って現れたようだった。
いや、違和感の正体こそ、この異世界に取って自分が異質であることに他ならないと悟ったのだ。
「くそう、なんだって言うんですか。何なんですか、これは!」
「私がお答えしましょうか」
突然の声に、博士は身構えた。
声の主は見なくてもわかった。すぐに銃を構える。
「エージェント・スズカ!」
「その通りです、桑名博士。私はエージェント・スズカ……ただし所属は財団ではなく蒐集院ですが」
「そうですか。それがなにか?」
「仲良くしましょう、桑名博士。悪足掻きをすると、あなたの今後の立場が悪くなるだけです」
「私は仲良くしたくなどありませんね」
「あなたは私たちのことを誤解しているようです。だからお話をしましょう」
それには興味があった。聞いておいた方がいいだろうと、博士は彼女の言葉を待つ。
「蒐集院とは日常からかけ離れた物体を集め、人々を保護する組織です。私たちはその物体のことを神異物と呼んでいます。あなたならSCPと呼ぶでしょう」
「はあ……それで?」
「私たちはある神異物を発見しました。神異物一〇一号、それがあの"門"です。しかしながら、私たちには"門"の動かし方がわかりません。それを知っているのは蒐集院と敵対する小さな組織……財団の僅かな者のみ」
「だからスパイとして侵入したというわけですか」
「彼らも馬鹿じゃないのでいつ気付かれるか危ない任務でしたが……あなたの呼び出しに浮き足立ち、功を急ぎましたね」
「そうですか」
つまらない話だ。博士は銃を示して見せる。
が、彼女は動じない。
「私たちとあなたの世界には決定的な違いがあります。そのことに気が付いていますか?」
「こちらの財団は非力ですね」
「いいえ、もっと根本的なことですよ。私たちとあなたの世界は観念が異なるのです。だからこそ蒐集院が世界的な組織であり、あなたの世界と違って財団が小さな組織なのだと推測します」
「何が言いたいのですか? もっとはっきり言ってください」
「科学なんて眉唾なものを信じている人間なんて、この世界にはほとんどいませんよ?」
……なんだって?
「世界が科学で説明付けられるなんて何に感化されたのやら。私たちの日常生活は神々の息吹がなければ成り立たないというのに」
「あなたこそどうかしてるんじゃないですか? あなたの身の回りには科学が無ければ成り立たないものがたくさんあるはずですよ?」
「例えば? 衣服は神の業によって生産されています。あなたの背にある神柱こそ、神通力を各家へ届けるためのライフライン。信仰なくして人間社会は成り立たない」
「ふざけるのも大概にしてください」
「それです。私たちが最も驚いたのは、"門"の向こうにある私たちの世界とよく似た世界が、科学を文明の基盤としていたことです!」
桑名博士はわかった。ようやく理解した。
何故武器に杖や円盤を使っていたのか。何故取り上げた博士の装備にSCP-052-JPが貼られていたのか。
何故彼らが拳銃に異常に怯えていたのか。何故"科学"という言葉を執拗に引き合いにだしていたのか。
……この世界は信仰を文明の基盤としているということか!
「ようやくおわかりになったようですね」
「……多少は。どうやって信仰が実用的に役立つのか想像できませんけどね」
「私たちも、科学がどうやって実用的に役立つのか教えてもらいたいものですよ。あなたをこの眼で見るまでは、存在すら信じられませんでしたよ」
さて、とエージェント・スズカは言った。
「私たちの蒐集院とあなたたちの財団こそ、2つの世界の対応する組織なのですよ。そしてお互いの知識を交換することで、神異物やSCPへの理解が深まるというもの。ですから、私たちは桑名博士にお願いしたいのです。是非とも協力を」
そういうことなら。
「絶対に嫌ですね」
「どうしてですか?」
「協力? そんなものできるわけありませんよ、理解できない相手となんてね。できることなら相手を侵略したいはずだ」
「そんなことは」
「いいえ、そうなりますよ。そこで重要になるのが"門"だ。しかしこちらは"門"の動かし方どころか、この信仰世界の存在すら知りません。この不利な状況は、全く好ましくないものだ。少なくとも協力すべきではありませんよ」
「なるほど、あなたは阿呆ですね」
正直に言うなあ、と博士は思う。
実際、馬鹿なことを言っているのはわかっていた。
「侵略は一つの方法です。そして相手が何も知らないというアドバンテージ……これを生かさない手はない。確かにその通りですが、あなた一人が抵抗したところで何の意味もありません。何の影響もありません! だからこそ、協力すればあなたにそれなりに良い待遇が得られるということがわかりませんか」
「自分の世界を売るような真似はできませんね」
「ここで死んでもですか?」
スズカの目つきが変わった。桑名博士を貫くような鋭いものにだ。
……田村さんを斬ったときと同じですね。
鞘に収まる腰の剣。その銀の柄が妖しく光る。
彼女は躊躇しない人間だ。エージェントとは言うものの、実態はただの殺し屋なんじゃないかと思う。
「しかし、あなたにできますかな? この拳銃の方が剣よりずっと速いと言いましたが」
「同じく、あなたにできますかね? 人を傷つけることにまだ躊躇いがあるあなたが。それに……」
一息。
「私の剣の方があなたの拳銃などよりもずっと速いです」
「まさか」
「私はついさっきまではあなたの武器に無知でした。しかし私は見ていました。知ってしまえば対処できる、そうではなくて?」
くそっ、ふざけやがって。
博士は銃を彼女に狙い定める。引き金に指をかける。
……撃てば、彼女はおおよそ死ぬ。
できるのか、自分に。誰かを傷つけることが。
問い、しかし思うのは、田村のことだ。
……彼は何故死なねばならなかったのだろう。彼のような忠実なる科学の輩が、このようなふざけた世界に生まれたばかりに、志半ばで息絶えた。
その事実がどうしても悔しかった。
撃つしかない。
彼女は剣の達人だろうか、銃弾くらい避けられるとでも思っているのだろうか?
いや、そんなことは無理だ。こちらが撃つよりも早く攻撃を仕掛ける方がよっぽど現実的だろう!
ならそれよりも早く撃つだけだ。躊躇っている時間が自分を不利にするだろう。
「……!」
彼女が腰の剣に手をかけた。
今しかない。
撃つ。
「っ!」
銃声が吠えた!
その決定的な瞬間が、桑名博士にはスローモーに見えた。
そのときスズカは……ああ……一体どうしてそのようなことができたのだろう!
彼女はその一瞬の間にある言葉を唱えた。何故かその言葉は桑名博士に聞き取ることができた。
オンバサラタラマキリクソワカ!
そしてスズカは抜刀する勢いそのままに、剣を博士に向かって投げ飛ばしたのだ。それが何らかの力が加わって回転、その間にあろうことかその刀身が銃弾を弾き飛ばした。
回転運動は半周したところで止まり、博士を刺そうという形になる。
博士には、その剣がまるで何か猛禽類に見えた。隼がまるで獲物を狙うかのごとくこちらに刃を向けて飛んでくるのだ!
「……がぁ!?」
実際には、スズカの投げた剣は博士の数cmほど肩を掠めただけだった。もちろん痛みがあり、そのせいで銃を落としてしまった。
「確保!」
男の声と同時に、周囲から5つの人影が飛び出してきた。
彼らは桑名博士を取り押さえる。わずかに揉み合いになったものの、人数差はどうしようもなく、博士はすぐに固められて身動きが取れなくなった。
「痛い痛い、暴れねえよくそっ、このぉっ!!」
「そこそこにしておいてあげてくださいね。博士は貴重な人員です。ああ、そこの銃とかいうものも回収して下さい。使い方は教えて頂けますよね?」
「誰がお前らなんかに手を貸すものか!」
「結構なことです。拷問はお得意ですか? もちろん受ける方ですが」
すぐに桑名博士は縄で縛り上げられた。
男たちによって運ばれ、車に投げ込まれた。車と言っても一般的な自動車ではなく、馬のない馬車のようなものだ。それこそ馬がないので動力が何なのかわからなかったが、それはちゃんと動いた。
「あー、絶対どこか打撲しましたよ。痣になってませんか?」
「協力していただけるのならその無駄口に付き合いますけど」
スズカが同乗している。他は男がもう1人、運転手と思われる男が前に1人だ。
「今何時かわかりますか?」
「あと少しで日付が変わるところですよ……そんなことを気にしてどうするんですか」
「ははっ、それは良かった、ははは!」
桑名博士は笑った。
笑い始めると止まらず、笑いはどんどん大袈裟なものになる。
「うるせえよ」
男に蹴られ、博士は咳き込む。
治まったところで、言う。
「私は諦めません。最後には絶対勝ってみせます」
「何をいまさら言っているんですか?」
「信仰が文明を支える? 何を世迷言を! 科学こそが世界の理であることは、たとえ世界を跨いでも変わることはありません!」
咳き込む。
「まさか私が何の策もなしにこんなところまでのこのこやってきたと思っているのですか!?」
桑名博士はある実験を兼ねて、実地調査に赴き"門"を通ることになった。
実験対象はSCP-010-JPだ。
一種の計算機だが、その特殊性は未来の情報を入力に取ることだ。そしてそれを実現するために、未来の情報と矛盾する未来に辿り着いた時は正しくなるまでその経過をやり直す、という現象が発生する。
望む未来が得られるまでループする。その性質を生かして、ある人間が生還するまで冒険を繰り返すことができるのでは……。
その実験を桑名博士は身を持って行っていた。
「時刻は午前0時! それまでに私が戻らなければ、この現実はなかったことになり、世界は今日をやり直す! 当事者である私だけがその経験を引き継いでね!」
それがSCP-010-JPだ。
ああ、いかにもインチキだ、と博士は思う。しかしそれが現実なのだ。
「今回は負けました。しかしここでリセットされる。私は何度だってやり直しましょう! だからあなたたちが勝利の結末を得ることはない……最後に勝つのは私たち財団、純然たる科学ですよ!!」
桑名博士は叫んだ。
同乗する人間たちは、何を言っているのかわからない風だった。しかしそれもどうでもいいことだろう。
桑名博士の腕時計の針が午前0時を指したのだから。
桑名博士はSCP-010-JPの実験室にいた。
腕時計を見れば、午前7時。出張のために早い時間に"仕込み"を行っていたのだ。
「そもそも何かが起こるかどうかなんてわからないじゃないか。一度くらいは帰らずにほっつき歩いてみたらどうかね」
今回の実験の監督官である白子博士が言った。彼は早い時間に付き合わされることにうんざりしているようだった。
……何もかも最初の通りですね。
桑名博士は笑みを抑えられなかった。そうだ、思惑通りにリセットされたのだ! しかも今度はエージェント・スズカが裏切ることを知っている。対処のしようがあるというものだ。
「……いやに気持ち悪い顔をしているな、桑名博士」
「いや、なんでもありませんよ」
ここまでのことを話すのは、躊躇われた。それよりも結果を持ってきたいという気持ちで一杯だった。
桑名博士は極力平静を装う。
この時点でSCP-010-JPのセットアップは済んでいる。あとはそれを金庫に入れるのみだ。
開錠の方法は桑名博士のみが知っている。そして、SCP-010-JPを正常終了させない限りループは繰り返される。そのようにして桑名博士が生還するまでのループが成立するのだ。
博士はSCP-010-JPを持ち上げた。すると。
「……あ」
手が滑って、落としてしまった。
「何をしているんだ」
「すみません」
「……おい、それ、明かりが点いてないぞ」
「はい?」
SCP-010-JPは起動していることがわかるように、点灯するようにしていた。それが消滅しているというのだ。
しかし、博士が見れば、きちんと点灯していた。
「なんだ、驚かさないでくださいよ」
「……いや、確かに消えていたはずなんだがな?」
「そんなことありませんってば。遅れますから、もう行きますね」
そして桑名博士は財団の施設を出た。
移動は電車を用いてのことだった。揺られながら、どのようにしてエージェント・スズカの鼻を明かせてやろうかと、策を練った。
こちらの"門"がどのようにすれば動かせるのかも調べたいとも思った。
現地に着き、案内の職員を追い抜かす勢いで"門"まで向かった。
そこで博士は見た。
「……何」
何もなかった。
「ない」
"門"があるべき場所は、ただの空き地になっていた。
「どういう……ことですか」
呟く。
「それが昨日まではあったんです。今朝来てみたら、無くなってて……」
「おかしいじゃないですか!!」
桑名博士は走った。
"門"があった場所まで行き、天を仰いだ。
「どうしてですか!? 私は向こうに行かなくちゃいけない! あの女の裏切りを暴き、田村さんを助け出さねばならない!!」
「博士!」
「田村さん!! 私を呼んでください!! 私は助けると誓った! そのためなら何度だってやり直す覚悟があります!!」
「どうしたんですか、桑名博士!」
「あなたは死ぬべき人間じゃない!! 私は助けるんだ! だからこそ、あそこで逃げれたんだ! あなたを助けられないじゃあ、まるで……!」
「桑名博士!!」
「まるであなたを見捨てたようなもんじゃないですか……!!」
博士はその場で頽れた。
喉の奥からこみ上げてくるものを留めることなどできなかった。
「おおうおおうおおうおおうおおうおおう……!」
周りの者たちにはわからない。
ただ、博士を止めるのを躊躇わせるには十分なほど、悲しい響きがあった。
桑名博士は当然のことながら、すぐにオフィスに帰ることになった。
SCP-010-JPの実験室。博士は金庫からそれを取り出した。
SCP-010-JPは起動状態にあった。確かめた後、正常終了させる。
……結局のところ、物事をやり直すなんてことを世界は許してくれなかったのですね。
あるいは、解明されていないSCPなんかを使って"科学の勝利"などを謳った己への罰かもしれない。
ああ、田村さんはどうなったのだろうな。こちらの"門"が消失していたのだ。向こうの"門"も消失しているのだろうか。向こうのよくわからない連中がこっちの世界に来ることはあるのだろうか。
とにかく報告書を書かないといけない。
しかしあり得なかったことを報告するのだし、どのように書けばいいのだろうか……。
それは寝ているときに見る夢のようだと思う。
なかったこと。ただ夢想したこと。現実にはないこと。
……あれは本当にあったことなのだろうか。それすらもわかりませんね。
"門"すら無くなっていたのだから、それもあるかもしれない。
考えながら自分のオフィスに戻ると、それまでなかったはずの物がそこにあった。
博士の机に刺さっていたのは黒の直剣。
「……田村さんの」
彼が持っていた神剣というものだ。
どうしてそれがここにあるのかわからない。どういう経緯で、いつ頃からあったのか、疑問は尽きないが。
ただ、思うのは。
「あれは夢じゃなかった」
博士は剣を握り、引き抜いた。
「確かにあったことなのですね。あの出来事も、田村さんとの出会いも……信じていいんですよね」
それを抱き締め、誓う。
いつか必ず、自分の力であなたを救ってみせると。
説明:黒色の直剣。製作された年代及び製作方法は不明。破壊方法不明
回収日:████-██-██
回収場所:桑名博士のオフィス。
現状:危険性が見られないため桑名博士のオフィスに保存、研究中。