幽霊死す
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 サイトが燃えていた。
 その頭上、灼々と燃える夜空にそれが浮かんでいる。
 正八面体の結晶。
 光を集めるそれが満ちた時、何かが起こるのだろうということは、それを見た誰もが直感したことだ。
 夜闇の中に鋭い白の光条を差し伸べる光景は、およそ普通に生きていて見られるものではない。
 美しい――そんな陳腐な言葉が出てくるほどの余裕は桑名博士にはなかった。

「はーっ、はーっ!」

 桑名博士は走っている。
 収容違反などという段階はとうに過ぎていた。機動部隊は壊滅し、サイトはもう機能していない。
 この異常存在がどこから来たのか何なのかはわからない。桑名博士が知る限り、まだ研究の初期にあったにもかかわらず、まず間違いなく世界を焼き尽くすほどのものだろうとは言われていた。Kクラスを引き起こすものだと。
 前触れもなくそれが始まったのが三時間前。
 ここだけではない。他にも世界各地で、同じかこれに近い状況が発生しているという連絡があった。それが二時間前。この時点で他サイトとの連絡が途切れてしまった。

「ぜはーっ、はーっ、はーっ!!」

 状況がすでに手に負えないものになっていることに気付いた時、桑名博士はいくつかの有用そうな物だけを手に持って走り出していた。遠くに見える人影が光に当たって蒸発しても、誰かが助けを求める声が聞こえても、桑名博士はひたすらに走った。
 ただ頭に中にあった考えは一つ。

「死にたくない、私はまだ、死にたくない……っ!」


 


 地平線まで続く砂漠の中にぽつり、一台のバギーカーが走っていた。
 四人乗り。左ハンドルの運転席には黒い外套の人型が、助手席には着ぐるみが座っている。
 人型の方が、着ぐるみをちらと見る。

『桑名博士、本当にこちらでよろしいのですか? この前の集落を出てから52時間は走っていますが、何かが見つかるどころか、不毛の地にどんどん深入りしていくだけのように思えます』

 人型はフードの中から黒の仮面を覗かせ、機械的な抑揚の、高い声を発した。頭の前面を覆い尽くして穴の無い仮面は、頬に当たる部分に白い翼の意匠が描かれている。
 対する着ぐるみ――桑名博士は掌サイズの箱を持ち、ただ進行方向を見つめている。

「問題ありません。生体反応は依然としてこちらの方向から出続けています。そしてそのポイントはもうすぐです」
『本当に信頼に足るものなのですか、それは?』
「もちろんです。ああ、少し進路を左に取ってください。ええそのくらいで大丈夫です」

 博士は今度は懐の中を覗いてから言った。それから、言葉を続ける。

「これは、財団がまだ正常に機能していた頃に生物系機械系の研究者たちと共同研究で作った機械です。この箱の中身は私が設計しました。性能は当時の財団のお墨付きですよ」
『それは知っています』
「自然界にある振動の中から人間の生体振動だけを抜き出し、その場所を特定することができるんです」
『それも知っています』
「ええ、私が喋ったことですね、シャノン?」

 シャノンは人型外装に取り付けられたスピーカーから、むっとしたような声を発する。

『私が言いたいのは、当時と今では状況が異なるということです。状況が異なれば結果が異なります。三日前も誤作動を起こしていたではありませんか』
「誤作動が起こらないなんてことはありませんよ。それにアレは誤作動ではありません。ただの調整ミスです」
『機械虫の巣群に飛び込んでしまい、危うくバギーが損壊するところでした』
「物事に失敗は付き物です。大目的さえ見誤らなければ良いのです」
『桑名博士、あなたはどうしてそのように変わって――』

 その時、突き上げるような振動が来た。
 バギーは宙に浮き、一秒後の着地で車体が激しく上下。
 爆発にも似た空気の振動が二人の身体を震わせる。
 両者はその震源である右手方向を見る。砂埃で霞むほど向こうに、天を貫くほど巨大なサンドワームが顔を出していた。その遥か手前、バギーからせいぜい数十メートルの距離の砂の上に、それの吹き飛ばした岩盤の数メートルサイズの破片が突き刺さった。
 桑名博士はひとつ溜め息を吐く。

「危ないところでしたね」

 一方、シャノンはまた怒り気味に言う。

『まさか、アレの生体振動を感知したのでは?』
「そんなことはありませんよ。もうすぐです」
『どうだか』

 バギーが丘を一つ越えると、またも砂漠が続いていたが、その中に一点、黒い物が見えた。

「何か見えますね。シャノン、向かってください」
『また異常存在かもしれません』
「気にしているだけ時間の無駄ですよ。ほら、早く」

 近付いてみる。それは箱の角が丸く取れたような形状で、砂の中から生えていた。
 桑名博士はバギーから降りて、それに触れた。何も起こらない。
 上面にはハッチが付いている。明らかに人工物だった。

「……開けてみましょうか」
『桑名博士は下がっていてください』

 す、とシャノンは右手を胸の前に構える。外套の裾が捲れ落ちると、腕に巻き付いた細長い金属板が露わになった。端が薄く鋭くなっている。
 次いでそれが自ずと立ち上がり、ピンと姿勢を整える。
 ブレードだ。
 シャノンは構えたまま、じりじりとハッチに近付く。

『中に誰かいるなら、大人しく出てくることです』

 数秒を数え。
 ハッチのハンドルが回り、のそのそと持ち上がった。
 そこから恐る恐るといった様子で、年の頃は十台後半だろうか、一人の少年が頭を出した。

「……アンタら、人間か?」


 日が落ちた砂漠はよく冷えた。
 岩場の陰に止められたバギー。そのすぐ傍に、火を取り囲む三人の姿がある。
 桑名博士、シャノン、そして一人の少年だ。
 少年は成型肉をかっ食らい、水を喉に流し込む。

「助かった。避難壕の中の食料はあらかた食いつくしちゃっててさ」
「それは良かったです。おかわりもありますよ」

 桑名博士はバギーの荷台を指差した。そこに取り付けられた箱型の機械から成型肉と水を取り出した。三人が取り囲む火も、荷台に載っていた機械を展開し、その上で燃えていた。

「不思議な機械だ。何でもできるのか」
「できることしかできませんよ。他にも、こういうのがありますよ」

 博士は荷台から、赤紫の魚が数匹泳ぐ水の入った球を取り出して見せた。

「すげぇ」
「手慰みではありますけどね」
「最初は変なヤツらだと思ったが……まあ今もそう思えるところはあるが、いいヤツらで助かったぜ」
「この恰好ですから、よく言われます」
「ははは」

 会話の合間合間に成型肉を口に運ぶ中、少年は気付く。

「ん、アンタらは食わないのか」
「私たちには必要ありませんから」
「……これ、何の肉なんだ?」
「豚ですよ。間違いなく」

 桑名博士は頷きながら言う。一方で、シャノンは何も喋らない。

「キミ、名前は?」
「アダムだ。アンタは?」
「私は桑名」
「なるほど、桑名さんね。そっちのアンタは」
『……シャノン』
「そっか。よろしく」

 アダムが右手を出した。桑名が握手し、シャノンも応じた。
 アダムは食事を終え、その場に寝転がる。空気が澄んでいて夜空の星がよく見えた。月は深い緑色に輝いていて、空はじんわりと緑がかっている。

「アンタらは何でこんなところに来たんだ。移動するよりも、集落に留まっていた方が安全だろうに」
「私はある場所を目指しているんです。行かなければならない場所へ」
「そこは楽園か?」
「そんなものじゃありませんよ。私がやらなければならないことがあるんです。世界が終わったあの日に――」
「終わってねえよ」

 彼は身体を起こし、桑名博士を睨む。シャノンが身構え、桑名博士は何も言わない。

「まだ何も、終わってない。俺はまだ生きているし、アンタらもそうだろ」
「――確かにそうですね。失礼しました」

 少年のギラつく瞳が見る中、博士は一つ咳払い。

「言い換えましょう……世界が焼かれたあの日に、私はやり残したことがあるんです。それをやり遂げに行くのです」
「どういう意味だ?」
「12年前……世界を焼いた存在は一体何だと思います、アダムは」
「シェルターにいた大人は、核爆弾だとか言っていた」
「違いますよ。よくわからない異常な存在が世界を焼いたんです」
『桑名博士』

 叫びにも近い呼びかけは、話を止めるために相違ない。
 博士もそれをわかっていたが、敢えて無視する。

「いくつもの異常な存在を収容し、12年前のあの日に失敗した組織……財団。その話をさせてください」

 桑名博士は一時間と少しの間、語った。
 この世には異常存在が存在しており、財団と呼ばれる組織がSCPを規定して収容していたこと。
 桑名博士はその財団で働いていたこと。
 12年前、正八面体の結晶が収容違反を起こしたこと。
 結果として財団は壊滅し、世界は衰退しまったこと。
 その決定的瞬間に……博士自身は逃げ出してしまったこと。
 博士の知る多くのことをかいつまんで話した。
 アダムは鼻を鳴らす。

「俄かには信じられないな」
「でしょうね。他の誰に言っても信じてもらえることではないでしょう」

 財団や他の有力な団体はほとんど潰れてしまった。それらの組織が保有していた異常存在は同様に光に焼かれてしまい、幾つかは野に放たれた。僅かだが人類が生存できる場所が残っただけでも十分良い結果と言えた。

「で、オレにこんな話をしてどうするんだ。オレなら信じるとでも勘違いしたか」
「信じる信じないではなく、一つの事実です。私も今はこんな見た目をしていますが、昔は普通の人間の姿でした。私が持っている機械は、12年前の公表されていた科学では実現できるものばかりではありません」
「だからどうして、オレに?」
「あなたがこれから生きていく中で助けになると思いまして」

 ふうん、とアダムが言う。よくわかっていない表情だ。

「ま、オレにしてみればちゃんと近くの安全な場所まで連れて行ってくれるかが大事なことだ」
「もちろん、キミを近くの集落までお届けしましょう。ただその前に、私の責務を果たす方が先になるようです。まずはそちらに寄り道をさせてください」


 日が昇り、バギーは砂漠を走った。
 何時間と走ったか。砂漠の中にドーム屋根のようなものが突き出しているのを見つけた。

「これです。止めてください」

 桑名博士はバギーから降り、ドームへと駆け寄った。その表面を探る。窪みを見つけ、引き出すとコンソールが現れた。緑の光が点灯する。

「電源は生きているみたいですね……私のカードキーなら開くはず」

 言葉の通りになった。
 ドームに矩形の線が描かれたかと思うと、その内側が押し込まれてぽっかりと穴が開き、こう、と空気を吸い込んだ。

「……開いた」
「やったじゃんか、桑名さん。で、これから何をするんだ」
「私は中に入り、仕事をしてきます。何が起こるかわからないので、お二人は外で待っていてください」
「ちぇっ、面白くない」
「終わればすぐ出てきますよ」

 それだけを告げ、桑名博士はつかつかと中に入っていった。扉が閉められる。

「なあ、あの中には何があるんだ?」

 アダムはシャノンを見た。目線の先、顔のない顔は逡巡し。

『私も多くは知りません。桑名博士が言うには財団のサイトの一つだったとか』
「どういうことだよ」
『ここにはかつて財団が収容していた異常存在――異常存在が眠っているということです。そして桑名博士の目的は恐らくそれかと』
「ふうん」

 言って、ふ、とアダムが笑う。

『どうかしましたか』
「アンタ、ずっとオレと喋らないつもりかと思った」
『財団の仕事は秘密でなければならないというのに、桑名博士が話してしまいましたから』
「シャノンも財団とかいうところで働いていたのか?」
『いいえ、違います。私はそうではありません。シャノンという名前も、この旅が始まってから博士に頂いたもの。博士と共にある私を示すもの。それは財団にいた頃の私を定義付けるものではありません』
「よくわからん。じゃあ、その頃の名前は何だっていうんだよ」
『かつての私はSCP-210-JP。財団に収容されていた存在です』

 SCP? そう言って、アダムはぎょっとした表情で見た。

「は? SCPってのは異常存在……危険なものじゃないのか?」
『そうであれば、そうでないものもあります。人類にとって収容されるべきものが異常存在であって、扱いさえ間違えなければ有用なものもあるのです。恐らく桑名博士も、後者の異常存在で何かを為そうとしているのでしょう』
「へえ。それは人類のためになることなのか?」
『わかりません』
「わからないってどういうことだよ」
『桑名博士の目的が人類再生だったのは収容違反が起きてからの二年間だけ。その設備が失われたことを知った時、博士の目的は悔いを晴らすことにすり替わったようなのです』
「悔いってのは、つまり……」

 シャノンは一息。

『桑名博士だけが生き残ってしまったことです』


 桑名博士はサイトの中を歩いていた。
 灯りは生きているが、人っ子一人見当たらない。財団の設備はあの事件を経ても機能を生存させているほどに堅牢だったが、人間がそれに見合わなかった。そういう末路の一つがこれだ。
 博士は、財団こそ世界が崩壊した後も生き残る組織だと考えていた。が、今回ばかりはそうではなかったらしい。
 まるで異常に関わる者を根絶やしにしたかのようだ、と埃の積もる白い廊下を歩きながら考える。異常を御せると勘違いしたことに対する罰なのかもしれない……迷信に縋りたくなる心があればきっとそう感じていた。それほどまでに、あまりにも呆気なさすぎた。
 ここは財団の体制が役目を為さなくなってしまい、打ち捨てられてしまった場所。いや、そうせざるを得なかったのだろう。埃の積もった通路にはそこかしこに赤色の溶けたロウ状のものがこびりついている。それは固まって動かないものだ。
 しかし、博士が凝然と見つめると――それはどろりとしたまま起き上がり、博士に手を伸ばした。
 まるで乞い求めるように。

 ――どうしてオマエだけ――。

「くっ」

 幻覚だ。もう一度目を遣ると、それは固まったただのロウ状物質でしかない。
 博士は深呼吸し、再び歩き出す。極力彼らと目を合わせないように。

「くそっ」

 思わず毒づいてしまう。ここ12年……いや、まだ財団が生きていて、己が同僚の何倍も長く生きるようになった最後の何十年もの間、得ていなかった感情だったと自覚する。

「……いえ、急ぎましょう」

 独言が床に零れ、響いた。応える者はいない。
 桑名博士はマップを確かめながら、確実に目的地へ進む。
 財団のデータベースを調べ、ここには役立つものが眠っていることを博士は知っている。例えばSCP-914。例えばSCP-212。他にも、たくさん。
 財団はそれらを使いこなす間もなく滅びてしまった。けれども……桑名博士は思う。

「私ならできる。そして私の責務を果たしましょう」

 博士は着ぐるみの身体を開腹。機械構造の中から、一つのUSBメモリの姿をしたモジュールを取り外す。

「私に時間をください、SCP-010-JP。一瞬でいいから、永遠の時間を」


 サイトの外扉が再び開かれた時、アダムもシャノンもすぐに気が付かなかった。
 それと分かったのは、前を歩く着ぐるみの背を支えるように一人の人間が付いていたのが見えた時だった。

『博士?』

 日の下に現れた着ぐるみは、肌のあちこちが剥げ、ボロの姿になっていた。動きはぎこちなく、身体は絶えず震えている。対する二人は状況が飲み込めない。サイトに入ってから10分程度しか時間が過ぎていなかったのだから。

「お待たせしました、二人とも」

 掠れた声でそれだけ言って、桑名博士は前のめりに倒れた。

『桑名博士!』

 シャノンが駆け寄り、遅れてアダムも近付いた。
 シャノンが身体を起こそうとして、アダムが加わる。アダムは人間よりもずっと重いことに気が付く。剥げた身体の一部には、鉄の装甲が覗いて見えた。
 それでも何とかひっくり返して、顔を見られるようにした。

『貴様、一体何を……』

 シャノンがブレードを成形し、博士の後ろにいた男に飛びかかる。
 白い髪に髭を蓄えた老人。彼は腰に付けた銀の直剣で受け止めた。

「俺は敵じゃあない」

 老いた風に見えるが、若者のようにはっきりとした声。それから彼は、博士に目を落とす。

「桑名博士の言葉を聞くんだ。最期になるんだからな」
『最期って……』

 すると、桑名博士が呻き声を上げた。
 シャノンと老男の間に手を伸ばす様は、力無かったが、二人を制止しているようだった。

「良かった……私は間に合ったようです」
『どうしてこんな』
「そうだ。一体何があったんだよ、博士」

 簡単なことです、と言う。

「私が彼を作りました。彼を作るのには永遠に近い時間が必要で……だから私の残り時間はもう僅かなのです」

 外にいた二人にはわからないでしょうが、と付け足した。

「彼――"銀"と名付けましたが――彼にはこれから過去に行ってもらい、12年前、世界を焼いた全ての元凶を破壊してもらいます」
『そんなことをしてどうなるって言うんですか』
「財団の実験でわかっている限りでは、今は何も変わりません。変わるのは別の過去だけです」
『だから、そんなことに意味がありません!』
「でも、私にはそれだけで十分なんですよ!」

 わかりますか、と問う。

「私はあの時逃げ出してしまった、ただそれだけが心残りだったんです。私はただ、死ぬのが恐ろしくて、こんな姿になってまで長生きして、同僚を見送って……私にはもう財団しか残っていなかった。だと言うのに逃げ出した私には、もう何も残っていないんだ。こんな乾き切った世界で、私が一人だけ生き残ったって何の意味も……!」
『……』
「くそう……私は、ただただ恐ろしくて……何もできなかった! こんなものがあっても、結局何の役にも立たなかった!」

 博士は身体から取り出したカード入れをしばらく眺め、投げた。散らばったカードの中には財団の職員カードの他に、免許証や他にも様々なものが見えた。

「逃げ出した時、あの一歩一歩のうちに、私のなけなしの人生は私自身から剥がれていきました。私がしがみついてまで生きたいと願ってきた道は、世界が終わったあの瞬間に途絶えてしまった。だから今の私はこの場所に取り残されてしまったただの幽霊なんです」

 真に迫った言葉だった。シャノンもアダムも何も言えなかった。"銀"と呼ばれた男も何も言わず、ただ横たわる桑名博士を凝然と見ているだけだった。
 沈黙の中、言葉を作ったのは桑名博士だ。

「アダム、私が持っていたものをあなたに託します。うまく使えば、あなたは人々を救えるでしょう。特に010-JP……これには失敗をやり直す力があります。私が今日まで生き残れてきたのもこれのおかげ。使い方はバギーの資料の中にあります」
「そんなこと急に言われたって……できねえよ」
「あなたならやれますよ。あなたにはその熱意がありますから。私にはないものが。それと、シャノン」
『……はい』
「あなたはアダムの助けになってあげてください。これが私の最期のお願いです」
『そうですか。わかりました』

 答える口調は冷やかだ。
 諦めのような色を持っていた。失望の空気を含んでいた。
 けれど。

『……けれど、これだけは言わせてください』

 シャノンは桑名博士の肩を掴む。

『どうして私を置いていくんですか!?』
「……っ」

 着ぐるみの肩が変形してしまうほどに、掴む手に力が入っていた。

『あの時、あなたに連れ出されて、名前を貰って! 私はあなたと共に往くと決めていたのに、なのにどうして何も言わず、私を置いて行こうとするのですか!? 幽霊だって何だっていい! 私はあなたと一緒なら何だって良かったんです!』
「シャ、ノン……」
『どうしてあなたはそうやって、勝手に決めてしまうのですか……!』

 わあわあ、とシャノンは声を上げた。
 博士に身を寄せ、ただ声を上げ続けた。
 着ぐるみの、表情の作られない顔は、何も言うことなく空を見上げる。

「すみません……最後まで気が利かない人間で……」

 緩慢な動きで、博士の手がシャノンの肩に添えられる。

「……ありがとうございます、シャノン……ああ、私は結局のところは一人ではなかったのですね……」
『博士……』
「願います……お二人の行く先が幸いであることを」

 ゆっくりと、手が落ち――。
 そして、桑名博士は機能停止した。


 静かな時間だった。
 一つの人間の抜け殻。それを囲む三者三様の姿。
 お互いに何も言わず、ただそれぞれが今を消費することだけを許した。
 どれくらいの時間が過ぎただろうか。"銀"は静かに、けれども確かな気配を感じさせながら、懐中時計を懐から取り出した。

「俺ぁそろそろ行くよ。達者でな。ああ、そうだ。過去の博士に伝えたいことがあったら、承るぜ」
「オレは、ないよ。その頃の桑名さんとはまだ出会ってもないし。シャノンは?」
『私は――』

 シャノンはすっくと立ち上がった。もう、さっきまでのような取り乱した影はない。
 ただ、一息。

『意気地なし、とお伝えください』
「了解した」

 彼は短く答えた。
 ゆっくりと歩き出すかのように、しかし十メートルと跳躍したかと思うと、ふっと姿を消してしまった。

『行きましょうか、アダム。世界を救うつもりがあるのなら』
「オレは……ああもう。こうなったらやってやるよ」

 シャノンは、ふ、と声を作る。

『その意気です』


 


 桑名博士は走っていた。
 サイトは炎の中にあり、夜は結晶の光が支配している。
 焼ける世界の中、桑名博士は逃げ出そうとしていた。

「はーっ、は! ――ぐぅっ」

 逃走する博士の首根っこを、後ろから掴む者がいる。

「誰だ、何の用だ!? 離せ!!」
「まあそう言うなよ、桑名博士。ここで逃げたらアンタ、一生後悔するぜ?」

 地面に真っ直ぐに立つ老人。
 彼の腕がぐいと博士身体を引き寄せる。

「俺は"銀"」
「ぐ……変わった名前ですね」
「俺自身を表す名だ」

 両者は向かい合う。
 桑名博士は疑問の表情を浮かべていて、対する"銀"はにやりと笑った。

「用向きは二つある。逃げるかどうか考える前に聞いておけ」
「はい、わかりました」
「一つは伝言。アンタのこと、"意気地なし"だってよ」
「誰が言ったんですか。確かに、今の私は……」
「もう一つが本命。俺がアレをぶっ壊すってことだ。アンタはただ見ているだけでいい」

 博士は咄嗟に反論しようとした。馬鹿なことを言うな、あるいは、無理だ、そういう言葉が喉まで出ていたところで、しかし"銀"はそれを待たずして、博士に背を向けた。

「最期の時間だ」

 "銀"はその銀の直剣を構える。
 そして、跳躍。続く動きで夜空の中を駆け抜ける。比喩ではなく実際に空中を走っているのだ。
 空中疾走。
 彼はそれが当然であるかのように成した。
 向かう先は光の結晶。
 それはまるで自らの危険を察したかのように、光条を彼に向かって集める。
 光の薙ぎ払い。
 対し、"銀"の身体は宙を滑った。間一髪のところで、彼は光をかわしたように見えた。だがその涼やかな顔を見ると、それもまた当然のことのようだった。
 気が付けば、ほとんど距離は詰められていた。近付けば近付くほどに光条の動きは読めず、回避しづらくなる。接近は難しく、無傷でいることは不可能だ。
 だから"銀"は避けなかった。

「っ!」

 身が焼けても構わない。
 走った。
 跳んだ。
 最短距離を踏破する。

「おお……!」

 銀の直剣が、結晶に突き刺さった。
 ガラスを引き裂くような怪音! そして、光が夜の闇を塗り潰す。
 引き戻されるのは静寂。
 空中、"銀"の身体が力を失い落ち始める。
 彼は自分が来た方向――桑名博士がいる方に視線を遣った。

「見ていてくれたか、桑名博士。約束は果たしたよ。アンタと共に死を得られなかったのは口惜しいが……約束のためだから、まあ仕方がないよな」

 肉体は実体を失っていく。

「ああ、楽しかった……アンタに作られて、共に過ごした永遠の時間は本当に楽しかった……」

 影は形を失くし、空が割れた。


 サイトが燃え尽きた後、桑名博士は一人、瓦礫の山を探していた。あの老人のいた証があれば拾っておかなければならない。何が起こったのか……いや、起こらなかったのか。世界はどうなっているのか……わからない空白をただ埋めたいだけなのかもしれないが。
 そうしているうちに、瓦礫の中に光るものを見つけた。
 銀色の直剣だ。
 あの"銀"が持っていたものと同じだ。しかし、本人はどこにもいない。一体どこへ行ったのか、桑名博士にはわからない。
 博士は手を伸ばし。

「熱っ」

 少しの時間だけ後悔した後に、博士は考える。
 ……きっと私の知らぬところで何かが起きたのだろう。
 知らぬうちに誰かが考え、動き、世界は一方的なある種の流れから変化した。誰かがそうしたい、そうありたいと願ったのだ。
 結果的に、私は救われたのだろう。010-JPを使ってやり直すこともなかった。
 けれどもと、さらに博士は考える。
 ……何も知らない私は、彼らの想いに応えることはできるのだろうか。

『桑名博士』

 博士の懐からくぐもった声が響き、思考を遮った。その声の主は博士はよく知っている。

「どうかしましたか、SCP-210-JP」
『私を助け出してくれてありがとうございます。あのロッカーの中にいては、どんな目に遭っていたかわかりませんでした』
「私と一緒に来ても、どうなっていたかなんてわかりませんよ」
『それでも、自ら動けないよりは良いと言えるでしょう。ただ一言、お礼を言いたかったのです』
「ええ、それは……どういたしまして」

 それからしばらく、桑名博士は生存者を探したり他のサイトと連絡を取る手段を探していた。
 救助が来たのは2時間後。その時博士は、世界の危機は全て去ったのだと聞かされた。

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