虚現葬想







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願いは叶わず。祈りは届かず。望んだものは手に入らないと知っている。あの日、約束のあの場所に彼女はやって来なかったから。ただそれだけでと笑われるかもしれないけれど、ただそれだけで十分だった。

余計な事は知るべきじゃない。そう思ったのを覚えている。

「見えるようになったのはいつからですか」

二人っきりの診察室。壁掛け時計の秒針が規則的に時を刻む中で、医者はそう言いながらPCのモニターに目をやった。彼は短く切り揃えた短髪に黒縁の眼鏡を引っ掛け、裸眼で目を皿のようにして文字を読もうとしてから今気づいたように頭の上の眼鏡をかけた。その仕草を見られているのに気づくと罰が悪そうな顔をして、彼は誤魔化すようにお答え願いますと告げた。

言われ、私は二人っきりの診察室で長々と悩む羽目になった。正確な日付など覚えていようはずもないし、幻覚とまでは言わないまでも、想像で作り出した色くらいなら自分の意思で目に映せる。それが本物の幻覚にすり替わったタイミングがわかる時期などとっくの昔に過ぎていた。

「……多分、四年前の6月から11月の間くらいです。高校の学園祭よりは後で、雪は降っていなかったと思うので」

少し申し訳ないような気持ちで絞り出した言葉に、医者は特に何かを思う様子もなく手元でペンを動かした。

「なるほど。それで、問診票にも書いていただきましたけども、具体的にはどのように見えているんでしょう」

医師は私と目を合わせずに言った。私が怯えないようにだ。問診票には今問われた見え方以外に『目を見るのが怖い』とも書いた。少しだけその配慮に勇気づけられた。

「えっと、黒髪黒目で身長は私より少し小さいです。髪型はショートボブ。服装はまちまちなんですが、いつもは学生服を。でもブレザーはあまり着ていませんし、リボンも着けてません。つまりクールビズ期間のスタイルで、下はスカートでブラウスを着てカーディガンを羽織った彼女の姿です。高三の時の。でも」

言い淀む私に医者は告げる。

「言いたくなければ構いませんよ。無理する事じゃありませんから」

無理をしているのではなかった。言いたくない訳でさえなかった。ただ、よく分からないけど言いづらくて、言葉が自然と詰まってしまった。だから少しだけ頑張って、途切れぬように喉から空気を押し出した。

「左手の、手首から先が無いんです」

知能検査の結果はそうおかしなものではなかった。動作性IQと言語性IQの不均等は見られたもののどちらも一般的と言える範疇にあり、それだけで何かの病名を示すことができるものではないそうだ。ただ『傾向がある』と言われる程度で、しかし通院する事は決められた。

それが少し残念で、同じくらい嬉しくて。自分の立ち位置すら決められない自分に苛立ちが募った。

「それはなぜ?」

帰り道の電車の中、話しかけてきた彼女の方を見る事なく私は答えた。声は出さなかったので答えなかったとも言えるかもしれない。聞こえなくてもいいからと心の中だけでじっと念じた。病名が付いたなら治療の方法や付き合い方がもっとはっきり見えてきたはずで、そうならなかったのが残念だった。そして嬉しかったのは、今見えている彼女が私の頭の中で生み出された都合の良い偽物だと証明されなかったからだ。

「違うよ。苛立ったのはどうして?自分の立つ場所を決められないのは別に変な事じゃないでしょ」

「えっ」

答えが返ってきたのに驚いて咄嗟に口から言葉が漏れた。ハッとして、それで初めて自分が踏切の前にいる事に気づいた。降り始めた踏切の中で彼女が笑って手を振っている。先っぽが千切れてぐしゃぐしゃに潰れた、前腕部までの左腕を。

答えを脳裏に思い浮かべる。今度こそ言葉にしないように。彼女は変わらぬ笑みを浮かべたまま、通過する快速列車にかき消された。踏切が上がればもうその痕跡はどこにも無かった。私はそれを横目で確かめ帰路を急いだ。

動揺はある。仮にも好きだった人にこんな消え方をされて平気ではいられるほど図太くはない。どこにも見えない痕跡が、踏切の中で立ち止まって彼女を探す絵面の酷さが私に首輪を着けただけだ。脈打つ心臓を掻きむしりたくなるのを耐えながら家に帰ってパソコンを開き、もう日常になった言葉で検索をかける。病院、セラピー、カウンセリング。増えるばかりの検索ワード。けれど地図上に表示されたポイントに知らない場所はもう無かった。

「何を伝えたいの」

「もう伝えた事」

「じゃあなんでいるの」

「伝わってないみたいだから」

「じゃあもっかい教えて」

「同じ事は何度も言わない。私ちょっとだけ怒ってるんだ」

「そればっかり」

自分の行動を確かめてみるのも良いだろう。そう言われて部屋に置いた決して安くないビデオカメラは、ただ私の一人芝居だけを何度も映していたらしい。虚空を見てブツブツと何やら呟いたり、かと思えばいきなり抑揚たっぷりの声で彼女を真似て喋り出す女を見せられるのは少し心に良くないものがある。それが自分であっては尚の事。角度や立ち位置によって喋っている最中に目元が見えたり見えなかったり、頭が急にガクついたり、荒れっぱなしの肌や枝毛の増えた金髪も合わさって狂った女の展覧会のようだった。こう見えているならやっぱり声に出すのはやめようと、そう思った事が一歩前進なのだろうと思うように努めた。

映っていたのは───その会話内容は───彼女が見えるようになってから幾度となく繰り返した場面だった。彼女が見え始めてからこの類の会話は本当に飽きるほど繰り返し、いつも答えを得られないまま終えていた。ルーティーンにまでなりかけて今更何を思う事も無いはずの会話。それでも客観的に見せられると悲しみと困惑が溢れ出す。

なんで、なんでと泣きじゃくって、その様をどこか冷めた心で眺める自分自身がいて、彼女が見える理由も、何も話してくれない理由も、どれも分からないことばかりで、叫び出そうとしながら他の住人に迷惑だからと咄嗟に声を落とそうとして。

「分かんないよ……」

その一瞬で本格的に落ち着いてしまって結局掠れた鳴き声しか出せずに、愚かしさが姿を変えた嗚咽をそこに繋いだ。彼女の飄々とした声はそんな私の気も知らぬ様子でいつも通りに投げかけられた。

「大丈夫?お薬飲む?」

飲まない。夕食後って決まってるから。そう返すと、すぐに彼女は左の肩越しに私の顔を覗き込んだ。

「それがいいよ。でも夕食後も飲まない方がいいと思うな」

何を勝手な、と私は思った。頼んでもいないのに勝手にでしゃばってくるただの幻覚が一体何を言うのかと。怒りに突き動かされ、どうせすり抜けるのだろうと思いつつ彼女の側の手を振り払った。果たしてその通り腕はすり抜け、しかし彼女はショックを受けたような顔で一歩、二歩と後ずさった。そして胸のところ───多分私の腕が通り抜けたところだ───を見下ろしながら左手で確かめるように触ろうとし、そして途中でその先端が無い事を思い出したかのように顔を歪めて、結局右手で何も変わらない胸を確かめて顔を上げた。

怯えたような顔をしていた。あるいは、今にも泣き出しそうな顔を。彼女の真っ黒な瞳の中に息を切らした私がいた。乱暴に左手を振り抜いたままの、あたかも親の仇でも射殺さんとも言わんばかりの形相で睨め付ける私が。

見ていられなかった。本物ではないと分かっても彼女にこんな顔をさせた自分が。鏡写しの醜い顔が。何よりも周りに馴染まない金髪と澄んだ青い瞳が。そのせいで私は何度も嫌な目にあって、彼女と出会うまではずっと、だから、何もかも、全部、嫌で。嫌で。

歪む視界。冷たい汗が目に入ったのを良いことに目を閉じた。呼吸が落ち着いて再び瞼を開けた時、彼女の姿はそこには無かった。

『そんなつもりじゃなかったんだ』

声が、微かに聞こえたような気がした。いつもそうだ。どんなに謝りたくたって彼女はそれを絶対に許してくれなかった。

何件も通っていたカウンセリングは初めの方こそ様々な違いがあったものの、回数を重ねるごとにどこも似たような内容になった。彼らの仕事はやはり患者の心を解きほぐすことで、目的が同じならば最終的には同じ道を通る事になるのだろう。そんな当たり前と言っても良さそうな事に私は今更気がついた。だから結局一番カウンセラーが親切なところ一つに絞って他はバッサリやめてしまうことにしたのだ。それで通うところは病院一つとカウンセリング一つに収まった。カウンセリングの次回の受診は丁度三ヶ月後。

どうせ予約するのも大変だしと自分を納得させながらも、様々なところを取っ替え引っ替えしてどうにか月一回を保っていたカウンセリングが一気に三ヶ月に一回のペースに変わった事に対する不安はやはり抑えきれなかった。改善を願って通っていたのに、いつの間にかそれが無ければ現状維持すらできないような気にさせられている。行動の習慣を付けようと買った壁掛けのカレンダーにはもう丸印をつけていない。捲ることさえやめてしまった。

何も変わっていないのだろうか。私はずっと。いつまでもこのままなのだろうか。あるいは坂道をずり落ちるように少しずつ悪い方向に向かうのだろうか。

「……君は立派になったとも。何かが良くなかったのなら、それは、きっと私の方だよ」

どこか間が取れていない、選び取りながら出したような声がタオルケットに包まった私の後ろから聞こえた。

幻覚に、自分で作り出した偽物にさえ慰められる自分が惨めだった。想像にすら責任を転嫁して、剰えそれを自分から言わせて。それで少し楽になっている自分が余計に惨めで、だからただ決められた通りに大人しくしている事もできずに目の前のカレンダーを引っ掴んだ。敗れた過去のページから覗く次の通院日に丸印を付け、その勢いで飲み忘れていた薬を適当に口の中に放り込んだ。

その日はもう彼女の姿を見る事はなかった。

病院で促されて参加を決めた行動療法の集まりでは、効果が実感できないまま様々な人に囲まれている。スピーチの途中でこんな事に意味なんか無いと泣き出す人や他人が話している時でさえ妙に大きな声でハキハキと相槌を打ってわざとらしく感情を表す彼らの間で座り続けて、周りの子供じみた振る舞いが少しずつストレスになり始めていた。それに、彼らと私を同じように扱うセラピストにも怒りに近い感情が湧いてきている。

「それはなぜ?」

彼女が帰りの電車の中で問うた。人目のある場所では声に出さないようにしようと決めてから、彼女は私という個人が認識されるタイミング───診療室や先述の集まりなど───では姿こそ見せても声は出さないようになった。出かける時には左腕が隠れるようにサイズの合わない長袖を着て現れるようにさえなってきている。一方で電車の中や道端で話しかけてくる頻度は寧ろ上がっていて、私の事を思っているのかいないのか見当もつかない。

どっちなのさ、と窓ガラスの中に問いかければ、写りこんだ向こう側で彼女は隣の男の膝の上で足を組んで、何か意味ありげに笑みを浮かべてこてんと小さく首を傾げた。

私はそれきり臍を曲げ、その日の問いには答えなかった。彼女も別に重ねて何かを問うでもなく、ただ私の隣で楽しそうに笑っていた。

こんな日常も悪くないと思った。ほんの少しだけだけど。

「大分落ち着いてますね」

医者がそう言って顔を上げたので、私は目線が合わないようにすぐに逸らした。あっすみません、なんて焦ったような声がして彼の顔は再び手元に下ろされた。心臓が少しだけ早鐘を打っていた。目線が合うのはまだ怖い。医者はこちらが落ち着くのを待ってから改めて口を開いた。

「行動療法の中でも少しずつ快方に向かっているように見えます」

「そうなんですか」

答えつつも私は訝しんだ。あまりにしょうもない課題に馬鹿にするなと思わされるばかりで、何かが変わったような気はこれっぽっちもしなかったのだ。目の前の医者はええ、と鷹揚に頷く。聞けばセラピストさんや助手さんも含めてそのような印象であるらしい。あまり実感が湧かなかった。

「症状の方はそうでもないと思いますけど」

医者はただ静かに頷き、手元のルーズリーフを一枚取って机の私側の端に置いた。取りに来いという事らしい。四歩ほどの距離を歩いて紙を取る。その時に見えた医者の手元には思っていたような落書きやスカスカの紙っぺらは存在せず、代わりに何か筋道だった矢印やフリーハンドの楕円、様々に整理された文章などがあった。

「最初にも申し上げたのですが、幻覚症状の方は私たちにノウハウが無いので他の病院を紹介する形になります」

覚えていますか、と問う医者に私は驚きを禁じ得なかった。聞いてないと言いかけたのをグッと堪えて「いいえ」とだけ言い直した後、頭の中は流れ込んでくる新たな不安でいっぱいになった。なるほどと呟いた医者の声が辛うじて聞こえた。

「これも何度かお伝えしましたが、数度の問診から当初仰られたような幻覚症状だけではなく、記憶障害を初めとした様々な症状がありそうだという事が分かっていました。なのでまずは精神的なアプローチからその全体的な改善を試みたんです。それで幻覚も改善するようならそれで終わりだったのですが」

「でも、そうじゃなかった」

殆ど上の空で復唱するように唱えた言葉に医者は答えを返さなかった。いつの間にか地面に落ちていた目をそちらに移すと、彼は頷いて確かな声で先を続けた。

「これからはもう少し治療の成果が見えやすい形になると思います。尤も来月また同じ状態に戻っているようでしたらまだそちらに進む訳にはいきませんが」

お渡しした紙を見てください、と医者は言った。そこには馬鹿でかいゴシック体で三つの文が書かれていた。

「次回の診察までにやっていただきたい事です。紹介先から頼まれまして。読み上げて貰えますか。その方が記憶に残りやすいですから」

言われて紙をきちんと見下ろし、初めから順番に読み上げる。

「……一、卒業アルバムを見る、二、高校時代の思い出の場所を訪ねる。三」

最後の一つで言葉が詰まった。鼓動が聞こえる。指が震える。心の中に何かおかしな引っ掛かりがあるような、それに躓いて転んだような奇妙な感覚。

目が泳ぎ始めた時、姿を見せないままの彼女が耳元で私の名前を囁いた。そして怖がらないでと。促すように、いつもよりずっと優しい声で。それで全てが戻り始めた。

「彼女の名前を、思い出す」

思い出せない。この前まで知っていたはずの彼女の名前が。その事実がなぜか怖くなかった。

卒業アルバムに彼女はちゃんと写っていた。左腕の欠損の無い五体満足な彼女の姿が何枚も。

私と共に写っている写真もあれば、そうでないものもあった。修学旅行や校外実習で違う班になった事もあるし、彼女と仲良くなる前の写真もある訳だから当然だった。と言ってもなるたけ彼女の側にいようとしたのも確かで、金髪碧眼の私は目印として丁度良い事もあって途中からは彼女を探すというより自分の方をよく探していた。

彼女と一緒に写っている私はやはり他よりも良い顔をしているように見えた。もしかしたら写真屋さんもそう思って一緒の写真を増やしたのかもしれない。彼女と出会うまでは殆ど笑い顔は無かっただろうしきっと苦労させたはずだ。

クラス毎の写真を捲ってみれば名前もちゃんと書いてあった。佐々木樹里。それが彼女の名前だった。残念ながら心の内に引っ掛かるものは無く、何かを思い出すような事もなかった。あたかも知らない名前を初めて目にした時のように。あるいはそれは失っていたものがごく自然にあるべき場所に収まった証左なのかもしれない。かつて彼女が言った事の受け売りだが。

隣にちらりと目をやって、自慢げに頷く幻覚を見て私はため息を吐いた。

「あなたの事これからなんて呼ぼうかしらね」

「樹里でいいんじゃない?」

「偽物なのに?」

「うん。いいじゃん。誰も文句は言わないって」

「……やめとく」

えーなんでー、と食い下がるのを適当にあしらって席を立つ。あんたみたいのを本人と重ねたくない、なんて。自分でそう作った幻覚に言ってやれるはずもなかった。

幻覚は私の知っている事しか言わない。私の知る彼女の朧げな投影でしかない。だからあれは私の願望。そう、全部私が作り出した偽物なのだ。だから、縋ってはいけない。願ってはいけない。それは実在する人間への侮辱だ。私が壊れてしまわないように両思いのふりをしていた彼女の優しさに甘え、傷をつける行為。

私は窓に向かって伸びをする彼女を見た。どうせおさらばするのだから何かを思わなくたっていいのだ。私の思い出は私のもの。だからあんなものの名前を呼んだって意味はない。何の意味もないのだ。本当に、何の意味も。

そう決めつけて外行きの服に袖を通した。今日は二つ目の課題、高校時代の思い出の場所を訪ねるつもりでアポイントを取っている。

行くのかい、と呑気に声をかけて幻覚は私の隣に並んだ。律儀にと言うべきなのか制服を着ている。ご丁寧にブラウスの第一ボタンを留めてしっかり緑色のリボンまで整えて見せてきた。何とは言い難いが妙に嫌な感じがした。

少しばかり不機嫌になった私に彼女は気づく様子もなく、私たちは少しだけ会話を減らしたまま電車に揺られて母校へと向かった。

電話した時にも言われたけれど、当時の先生は殆どが退職したり転勤したりでもういなかった。けれど幸運にも当時の数学の先生が丁度時間が空いていると言って案内を買って出てくれた。話してみてびっくりしたのだが、彼は四年の間に教頭にまでなったらしい。少しばかり仲の良い方だったし、私の金髪碧眼がよく目立つのも手伝って彼は覚えていてくれて、当時の後輩がどの大学に進んだとかどの学年が一番賑やかだったとか、色々な話で盛り上がった。ひとしきり話して落ち着いたようだったので、こちらからも少し話題を振った。

「外から見てびっくりしたんですけど、本当に全部改築したんですね」

校舎は私たちの通っていた頃とはすっかり様変わりしていた。誇張なしで、外から見れば同じ建物には見えなかった。中を歩いてみるとかつての様子が残っていて驚いてしまうほどに。リノリウムの床板を同じ高さで継ぎ合わせている廊下だって、その継ぎ目には消しきれない黒ずんだ黄ばみがはっきりと見てとれた。

「ええ、世間では少子化が進んでいますがここは一応進学校ですから。都市開発があったのも重なって受け入れられる範囲も増えました。新しく寮もできたんですよ」

「そうなんですか?どの辺りに?」

「校庭の端です。幸いここはバスの便が多いですからね。校庭の向こう側に大木が立っていたでしょう。あそこに」

「それって切り倒して……?」

先生は苦笑して先を続けた。

「あなたの代だと皆さん似たような反応をされるんですが、中が腐っていたようでしてね。安全のために切らざるを得なかったんです。空きスペースの真ん中に生えていましたから結構な場所ができて、持て余していたところに遠方からの入学希望が相次いだので」

「ああ……そうだったんですね」

思わず目が泳ぐ。その大木が今回の目的地の一つだったのだ。三年生の夏の終わり、私が彼女を呼び出して、しかし彼女が現れなかったあの日の、私にとって最も印象深い思い出の場所。まさか無くなっているとは思わなかった。先生も残念そうな様子を見てとったのだろう。

「切り株で良ければ残っていますよ」

見ていきますか?と問う彼に、私はとりあえず頷くしかなかった。

寮は三階建てで少し小さめの建物だった。と言っても校舎と比べれば当然で、実際には学年毎に階を分けてそれぞれにラウンジがあり、それとは別に台所と厨房がある。具体的には本校舎の教室棟くらいの大きさはあるし、そもそも中庭まであるのだから十分大きい建物だ。

無人の寮内は酷く静かで、廊下は薄暗く冷たかった。

「やはり古くから我が校を見守ってくれていた木でしたからね。根っこまで掘り返してというのはどうも」

「でもそうすると大変だったのでは?ほら、地盤とか建築法とか」

「そうですね。枯れ木の根に依存する基礎は危険だからと徹底的に調査が行われました。校長も理事会も金に糸目は付けないと言っていたので、ボーリングだとか測量に加えて3Dスキャンだとか、試験も兼ねて新しい調査が綿密に行われたんですよ。その時に作られた木の根の模型が校長室には飾られているんです。スキャンデータからソリッドに起こした世界で一つだけの模型です」

見て行かれますか、と問う先生に私は頭を横に振って答えた。

「校長先生のお邪魔をしてまで見せてくださいとは言えません。それに───」

噛み締めるように言葉を紡ぐ。

「───思い出は思い出のままの方が綺麗ですから」

出かけたのは午後だったので、写真を撮って帰る頃にはもう授業終わりのチャイムが鳴ってから暫く時間が経っていた。青いネクタイを着けた女子にすれ違いざまに挨拶され、咄嗟にこんにちはと返す。先生もにこやかに挨拶を返した。ちらりと目で追うと、彼女は階段を通り過ぎて一階の個室の方へ消えて行った。

「ちょうどテスト期間でして、部活も委員会も免除されています。三年生は先週から、一年二年は来週からです。年々少しずつ時期が早まってますね」

先生はそう言ってすぐ、ああそれと、と付け加えた。

「ネクタイ、女子でも着けられるようになったんですよ」

「あ、やっぱり。私たちの時はダメでしたよね」

先生は頷いた。

「やはりこういう時代ですから。元は申請が必要でしたが昨年度から撤廃しました。今はもう制服は誰でも、どちらでも選べるようになっているんです」

「そっか。変わってるんですね」

本心だった。それだけしか言うことはできなかったが、紛れもない本心だった。

「ええ。思い返せば、苦しんでいた生徒は決していなかった訳ではありませんでした。容姿や国籍を理由に排斥される子も……近頃は減ってきましたが。もっと早ければ。今になってそう考える事は正直多い」

時の流れに背中に押されて今があるという事なのでしょうか。そう言ってしみじみと寮の方を見つめる先生の横顔は確かな喜びが宿っていた。

帰って自室のドアを開けるとそこには彼女が寝転んでいた。だらしなく脱ぎ散らかされた制服をほっぽり出してベッドに座っていた彼女は、私が入ってきたのに気づくと勢いよく跳ね起きて問いかけてきた。

「どうだった?」

「どうもこうも、知ってるんでしょ」

結局一緒にいるんだから。そう言いながら彼女に背を向けて鞄を下ろす。久々に肩にかけたまま歩いたからか少しばかり強めの違和感が残っていた。何度か肩を回し、ゴリゴリと音が鳴るのを聞いてから上着を脱ぐ。そうして外着をハンガーにかけて、ふと気になった。返事が無いのだ。

振り返ってみると彼女はベッドに腰掛けたままぐったりと上体を伏せていた。両膝の上に乗せた腕の先、左腕の傷口から勢い良く血が流れていた。

この頃いつも隠していて私すら忘れかけていた欠損。初めて目にした大量出血に思わず悲鳴を上げそうになって、どうにか我慢して駆け寄った。

「ちょっとあんた、血!」

駆け寄ったはいいけどこいつ幻覚だったなと思い出し、どうしようもなくてオロオロしていると彼女が苦しそうに顔を上げた。

「見えてる?」

「見えてる!見えてるから、手!」

大丈夫だよ、と笑って彼女が左手を差し出すと出血はもう収まっていた。血溜まりは消え、血痕は残らず、立ち上がったその時には既に彼女は真新しいワンピースに身を包んでいた。

「ほら、大丈夫。そもそも私って幻覚だし。違う?」

そう言って彼女は見せびらかすようにくるりと一回転してみせた。私は曖昧な答えを返す事しかできなかった。じゃあなんであんな顔したんだとか、紛らわしい事をするなとか、多すぎて選び取れない文句の数々が形になるより早く彼女がそういえば、と声を上げた。

「明日。忘れてるでしょ。カウンセリングの日だよ」

「え」

慌てて振り向き、彼女が指差したカレンダーを捲る。数ヶ月前から捲っていないカレンダーの五枚先の今月。乱暴に破り捨てられたページの陰から確かに丸印が見えていた。

「うわ忘れてた」

「そうでしょそうでしょ。急に減らしたからそうなるんだよ」

「もう!」

威張る彼女に格好だけの憤慨をぶつけて、明日の外出の用意を始めた。気付けば疑問や違和感などどこかに飛んで行ってしまって、思い出したのは電気を消してからだった。

「───って事があって」

そうなのね、と言ってカウンセラーは顎を撫でた。
そうすべきだと思われているのか、単に癖になっているのか、彼女はいつも大袈裟なジェスチャーでもって言葉と感情を繋げていた。この動きは関心にも見えたがそれにしては時間が長い。思案のサインだ。話しかけられるのを待っている。

「あの、何か」

ああいや、と両手をパッと振りながら、カウンセラーはそれでもしばし言い淀んだ。辛抱強く待っていると、少しだけ困り顔で彼女は固い口を開いた。

「幻覚の子、樹里さんでいいかしら。前と比べて随分饒舌に喋るようになったんだなって思って」

「あー……確かに」

言われて首を傾げた。思い返せば確かにこの頃はどうも会話がしっかりできているし、行動もどこか地に足ついたところがある。少なくとも、電車の中で他の人の上に座るような事はしなくなった。

「病院の先生の話だと治療はここからって事なのよね。ならその効果って訳でもない。何か変わるきっかけがあったんだとは思うのだけど……」

そう言ってカウンセラーは目を閉じた。心当たりと呼べそうなものは多くない。

「さっきも言いましたけど、母校に行ってみたくらいしか。それじゃ弱いって事ですよね?」

「まあそうね」

しばし考え込み、彼女は天井の方を見て薄目を開けた。

「あるいは、何か大事な事を忘れてる、とか」

まとまる途中の考えが漏れ出たかのようなその呟きは、しかし静かな部屋に思いの外大きな残響を残した。

「どういう事です?」

「つまりね、あなたにとって大きなきっかけとなる事はあったんだけど、それが大事だって事をあなた自身が忘れてるんじゃないかと思うの」

考え込む私にカウンセラーは慌てて謝り、気を取り直してどう思ったとか、悩みの種はないかとか、いつも通りの話を続けた。

色々聞いてもらったし、話す中でカケラを掴んだ、気づいていなかった気持ちもあった。とても充実した、得られるものの多い時間だった。ただ、ずっと違和感が尾を引いている。それを目敏く見て取ったのか、カウンセラーは別れ際に提案してきた。

「どうしても気になるなら誰かしら、催眠術師とかになるけど紹介する事はできるわよ」

「催眠術師ぃ?」

あからさまに訝しむ私にカウンセラーは苦笑した。

「病院の方も治療先を紹介してくれるって事だし無理に勧めようとは思わないわ。ただ、私の方はそういうオカルトじみた民間療法くらいしかツテがないだけ」

探偵を雇ったりして変な事してないのは調べてあるわ、とカウンセラーは書類入れから一枚のチラシを取り出した。

『お悩み解決率驚きの84%!喜びの声多数!秘めたる気持ちとご対面!』

怪しい。体裁こそ整っているけど文言があまりにも怪しすぎる。精一杯嫌そうな顔で見つめてやるとカウンセラーは気まずそうに目を泳がせた。

結局催眠術師には会ってみようということになった。押し切られたと言う訳ではないが、教えてもらった予約の空きが近かったから。病院に通うのは一ヶ月に一回、カウンセリングは三ヶ月に一回。どちらも行ったばかりでしばらく先になる訳だし、全部が一足飛びに解決するなら悪くないような気がしたのだ。

彼女は次に出てきた時には膨れっ面で、それからも何度かやめる気は無いかと訊いてきた。予約の日が近づいてくるにつれ焦りの色が濃くなる声が私が忘れた何かの実在を確かにして、予約の日の朝ともなればこの日何かが変わるという確信が私を包み込んでいた。

「行ってきます」

出かけ際、彼女が行かないと言っていたのを思い出して部屋の中へと呼びかけた。期待していた返事は無かった。

催眠術師は決まった店舗を持たないそうで、待ち合わせ場所には近くのカフェが指定された。午後の暖かな日差しが差し込む雰囲気の良いカフェだった。そこで中折れ帽を顔の上に乗せて寝ていた彼は、私が近づくとすぐに起き上がってにこやかに挨拶をしてくれた。少し芝居がかった所作が着崩し気味のすらっとしたスーツスタイルによく似合っていた。

「じゃ、問診の後に軽く様子を確かめて、放課後に高校に行きましょう。アポはこちらの方で取れてます」

世間話が一区切りついたところで催眠術師はそう言った。

「様子を確かめるというのは?」

彼は財布を取り出し、コインを二枚机に置いた。一枚には太陽のシンボルが、もう一枚には人の胸像のシンボルが描かれている。

「人の方をあなた、太陽を何かの記憶としましょう。普通はこの二枚のコインは見えている。見えているからあなたはそこまで辿り着けます」

彼は言い、コインが隠れるように書類の束をその上に重ねた。隠れているのはたった今記憶と呼んだ太陽のコインだ。

「忘れてしまうというのは、こうやって記憶がある場所が見えなくなってしまう事です。何か別の記憶が上から被さって目的地が分からなくなる事。ひょっとしたら元々たどり着くために辿っていた道も使えなくなってしまったかもしれません。でも思い出す事はまだできます。その手助けをするのが医者やカウンセラー、ちょっと変わったところだと僕のような催眠術師という訳です」

彼はそう言って被さった書類を少しずらした。隠れていたコインが顔を見せる。

「記憶を隠す別の記憶を別の場所にずらしてやる。あるいは新たな道を作ってあげる。少しずつ、邪魔なものをどかしてあげて記憶が見える場所に出てくるのを待つ。医者の仕事はこれです。使う手段は薬であったり聞き取りであったり色々ですが。限られた手段故に効果が両極端になりがちなのが特徴です。出ないか、出過ぎるくらいに出るかのどちらか」

そしてカウンセラーは、と言いながら彼はもう一度紙でコインを隠し、懐からスマホを取り出した。カメラを起動した画面を見せて、彼はそれを紙と紙の間に滑り込ませる。スマホの画面には薄暗い中に微かに太陽の意匠が映った。

「こうやってあなたの代わりに、あるいはあなたと一緒に行きたい場所を探してくれます。先導してくれると言ってもいい。彼らは経験から大まかに場所のアタリをつけて記憶の海を掻き分けていく。時には医者のようにどかし、時にはあなたと共に悩む。極めて優しい、丁寧な仕事をする人たちです。予後に重点を置くならば彼らの仕事が最適でしょう」

そう言ってから、彼はふうと一息ついてコーヒーを啜った。ふーんと思いつつ聞いていた私は続きが無いのを訝しんだ。

「では催眠術師の仕事というのは?」

「穴を開けます」

彼は端的に言ってのけた。それからカッターナイフを取り出し、片手の親指で被さった紙を押さえ、綺麗な丸をくり抜いた。極めて器用に、下の紙を傷つける事なく。彼が開けた穴の中心に記憶という名のコインがあった。

「実際にはここまで乱暴ではないですけどね。とは言え傷はつきますし、目指す記憶までまとめてくり抜いてしまうかもしれない。下手を踏めば見当違いな場所に大穴を開けてしまうやも。先の質問にお答えします。今、指で紙を押さえた時に、私は紙の下のコインもまとめて押さえました。様子を見るというのはそのように目指すものを触って確かめ、くり抜く場所にアタリをつけておく事です」

「なんだか妙に不安になる言い方をされますね。具体的な事も仰らないし。わざとですか?」

私としては冗談のつもりだったのだが、彼は至って真面目な顔で頷いた。

「怪しいと思って取り止めてくださるようならその方がいいんです。安全に優るものはありませんから。それに」

彼は言い、ラミネート加工されたA4のチラシを取り出した。

「危険の大きさがよく目立ってこそ実績が輝くというものでしょう?」

『お悩み解決率驚きの84%!喜びの声多数!秘めたる気持ちとご対面!』

いや、だからってこれはないでしょ。朗らかに笑いかける彼にそう言いたいのを我慢した私を誰か褒めてはくれまいか。

これは確認なんですが、と彼は言った。

「あなたの母校ですけど、あなたの在学中に一回焼けてるって事で合ってますか?」

「え、いつですか?そんな事なかったですよ」

「なるほど」

ちょっと待ってくださいね、と言って彼は鞄の中を漁り始めた。明らかに不要な物も沢山入っていそうな鞄をあれでもない、これでもないと漁りながら彼は聞いてもいない事を喋り始めた。

「友人連中の何人かが奇妙な事を調べるのが趣味でしてね。あるはずのない何か、誰も覚えていない出来事。そんな都市伝説一歩手前のぼやけた何かを『霧』って呼んで探してるんです。ドブさらいして拾ったゴミを片っ端から分類したり、墓碑銘の筆跡から彫り師を特定して会いに行ったり。そういう変な事を平気な顔でできるくらい『霧』に焦がれているんですよ。仲間内で一緒に色々やってたら私にも調べ癖がついちゃいましてね」

あった、と男は手元の資料からラミネート加工された一枚の紙を取り出した。綴じられているのは小さな新聞記事の切り抜きコピーで、日付ともう一つ、学校の名前に蛍光ペンのハイライトがあった。確かにそれは母校だった。

「2014年の6月18日。学園祭の火の不始末で花火の最中に燃えて三年生が一人亡くなったとか。学年で言うと二年の頃になるのではないかと」

「いやいや、高二でも高三でも学園祭でそんな事なかったですって。これどこの飛ばしです?結構な風評被害じゃないですか」

「どこに耳があるか分かりませんから名前を言うのは差し控えますが、そこそこ大手の新聞の試し刷り原稿のコピーです。一度は刷られ、にもかかわらず世に出る前に刷り直された。当然この記事も正式に発行される事はありませんでした」

「飛ばしじゃなくて捏造や誤報の類って訳で?」

「そうですね。これだけではとても信憑性があるとは言えません」

ホッとする私に彼は頷き、鞄から紙の包みを取り出した。

「その時に焼けたというリボンがこれです」

黄色のリボン。あるいはかつてそうだったものがそこにあった。熱で縮み、一部は燃え尽きて触れば崩れ落ちてしまいそうな焦げ跡を残した、辛うじて真ん中だけに面影を残した無残なボロ屑の塊が。

「こんな……一体どこで。流石に冗談じゃ済まないですよ」

「冗談を言ってる訳じゃありません」

それまで通りに淡々と告げる催眠術師。その真っ直ぐな瞳が妙に不快だ。その目が、瞳が、真っ直ぐに私の顔を映す。間違っているのが私の方である事を疑ってすらいない純粋な目が癇に障る。苛つく。自分の妄想をひけらかして、そのくせ他人の声は聞こえない都合の良い脳みそがその奥ですくすくと肥えている。

「どこで手に入れたかって訊いてるんです!」

衝撃音が響く。気づけばテーブルに拳を叩きつけていた。動悸がする。荒い息が段々と熱を奪っていく。いつの間にか浮き上がっていた腰をすとんと落とし、もはや残るのは自己嫌悪だけだ。

「……すみません。悪意があると決まった訳でもないのに」

「いえ、こちらこそ軽率でした。デマや誤情報の当事者への配慮に欠けていました。申し訳ない。……そろそろ時間ですし学校の方に向かいましょう」

そう言うと催眠術師はテーブルの上に広げた品をバッグにしまって立ち上がった。気遣いつつ、非を認めつつ、しかし考えを曲げるでもなく。その振る舞いから確かな誠実さが見えて、その分私の方の短慮さが際立っているように感じられた。疑問には答えてもらっていないがもう一度訊ける空気では既になかった。

退店後、店の前で私が財布を出そうとするのを彼は笑って制止した。

「支払いは不要です。あの席は僕が貸し切ってますからその席料まではタダなんですよ」

「あ、そう、ですか」

財布をしまうという体で俯く。言い出せない言葉を抱えた顔の醜さをこれ以上他人に見せたくなかった。財布を畳んで、バッグのファスナーを開けて財布をしまって。そんな動きを無意味に引き伸ばしながら表情を整えようとする私に、催眠術師は声をかけた。

「仏壇です」

「……へ?」

いきなりそんな事を言われたものだから手が止まった。

「リボンを見つけた場所です。火事の新聞、お見せしたやつの他のも見つけてまして。それで亡くなった方のお名前が分かったのでご実家に伺いました」

「ご両親はお子さんについて何と。その、死因は」

「交通事故だったそうです。遺品も少しだけ見せてくれました。制服のリボン二つも。無論炎の痕跡など無い物です」

ただ、と彼は続けた。

「隙を見て仏壇を漁ると空洞があり、そこに焼け焦げた三つ目のリボンが」

「何をしてるんですか何を!」

思わず叫んだ私を見て彼は吹き出し、大声を上げて笑った。面食らってしまい、ハッとして抗議しようとしたが、それより先に彼の方が口を開いた。

「元気になったじゃないですか。さっきの顔よりよほどいい」

「え」

一杯担がれた。そう気づくと顔が赤くなるのが分かった。

「あんな顔で母校を訪問する訳にはいかないでしょう。この前行ったばかりなら尚更心配されちゃいますよ。さ、出発しましょう」

悶える私を尻目に彼はニヤリと笑って身を翻した。みるみる小さくなっていく後ろ姿をしばし眺め、そして気づいて声を上げた。

「あの、方向逆ですけど!」

学校に着くとやはり教頭先生が出迎えてくれた。事情は把握しているらしく、簡単な挨拶を済ませるとひとまず応接室に通してくれた。私たちが荷物を置いたのを見届けると、先生はどこかに行くとか何かあった時には呼んでいただければと言い残して職員室に戻って行った。

「それで、来たはいいですけどどこで何をするんです?」

ソファーに座りながらそう言う私に催眠術師は目をぱちくりさせ、言ってませんでしたっけ、なんてのたまった。

「催眠術です。催眠術師ですよ、僕。今回は失った記憶を取り戻したいというお話でしたので、その中でも記憶回復術という種類のものを行います。その名の通り失った記憶を呼び覚ますものです」

「本当に忘れているのかも分からないのに?さっきのお話で分かったんですか?」

「忘れていますよ」

確信を持った即答が返ってきた。彼は懐から長い首紐の付いた水晶を取り出し、絡まった紐を解き始めた。

「どうしてそう言えるんですか?」

「出会うんですよ。こういう仕事をしてるとたまに。知らないうちに何かを忘れさせられて生きてきた人って実は私たちが思うよりずっと多いようでして。あなたの状態はそういう人たちとよく似ています」

「忘れさせられてって誰に……」

「『霧』を探す友人の話はしましたよね。実は結構大掛かりに探してまして。霧の探求者って名乗ってちょっとは組織的に動いてるんですが、そうすると霧を隠そうという動きが見えてくるんです。何か様々な企業や団体の皮を被って活動し、徹底的に霧を隠そうとする者たちが。彼らは一般人は霧の存在を知るべきでないと決めつけて知った人間の記憶を弄び、時には誘拐し、果ては殺害する事もある」

彼は固い結び目に苦戦しつつそう答える。なんでもない事のように発せられる言葉にはまるで現実味というものが無かった。

「そんな……荒唐無稽な」

「そう思われても構いません。しかし僕らは本気で探してます。さっきの新聞記事やリボンみたいに、一応ですが成果もある。それに」

彼は水晶の首紐を解き終え、鞄からチラシを取り出した。

「数字は嘘をつかない。違いますか?」

『お悩み解決率驚きの84%!喜びの声多数!秘めたる気持ちとご対面!』

馬鹿馬鹿しい。そう笑い飛ばすのは簡単だ。数字がどうでも彼が嘘をつかない保証は無い。そう指摘するのも簡単だ。しかしそれだけの事がなぜかやけに難しかった。

何か、何か否定の材料がないかと思考を巡らせ、そして唐突に気づく。私は記憶の欠落を否定しようとしている。

なぜ。記憶に欠落が無いと思っているのか?違う。既に欠落の存在は確信している。

なぜ。催眠術を信用できないからか?違う。そもそもやって損が無いから来ただけだ。信用なんて最初から無い。

なぜ。答えを求めて男を見る。彼は何も言わずただ私をじっと見つめている。黒い瞳。その中に写る私が見える。表情までは分からない。瞳は黒く、透き通り、その先にいる私へとこの意識すらも吸い込まれ───

ゴーン、ゴーンと鐘の音が続いている。西洋にある真鍮の大鐘の音だそうだ。十分ほどの施術の間、ずっと規則的に鳴り続けていた鐘の音は、催眠術師がテーブルの上のスマホを操作した事で跡形もなく消え失せた。

「施術は以上になります」

「えっ」

「え?」

困惑の声を上げる私を催眠術師は訝しんだ。

「あ、いや、何でもないです。ありがとうございました」

慌てて取り繕う。いつの間にか始まって終わっていたような気がしたが、そうだ、特段何事も無く記憶回復術なるものは終わった。水晶を振って色々見たり見せられたり、鐘の音を延々と聴かされたりしただけだった。

何事も無く終わった事に拍子抜けしたのだと解釈したのか、催眠術師は困ったように笑った。

「一応聞きますけど、何か思い出したりとか」

「いえ、全然」

「ですよね」

じゃあお暇しますか、なんて言って立ち上がる彼に少々面食らったが、よくよく考えてみればここにはそのために来たのだった。私も立ち上がって彼に続く。

一度だけ振り返る。初めて入った応接室にはわずかに赤みがかった光が差している。夕方四時でも夏の太陽はまだ高い。

「行きでも気になってたんですが、ここを境に色味が変わってるのってどうしてなんです?」

職員室に顔を出し、教頭先生に連れられて出入り口まで帰る途中、通り過ぎたリノリウムの床を振り返って催眠術師は言った。

「建て増し工事の跡ですよ。昔は廊下はここで終わりだったんです。古い方の床を張り替えた方が見栄えが良いですが、中々都合が合わず」

「へえ、そうなんですね」

催眠術師は教頭先生にそう答えて、再び後ろを振り返った。私もそちらに目を向ける。真新しい床との境目の黒ずみが進むに連れて薄まっていく。そのグラデーションが建物の積み重ねた年月を感じさせた。しかしそこまで注目すべき場所だろうか。

「……」

催眠術師は目に焼き付けるように境目の近くを見つめている。視線の先にリノリウム。ただし今度は少し遠くの、黄ばみが少ない所だ。私も見つめ、そして気づく。

何かおかしい。リノリウムというものは経年劣化でこうなるのか?こんな、片一方は一面真っ黒で離れれば黒くなくなるような染みがあるのだろうか。なるかもしれない。いや、多分だけどなるのだろう。でも、けれど、それはまるで。

『一回焼けてるって事で合ってますか?』

まるで火の手が回ったような。

『三年生が一人亡くなったとか』

焼け焦げたリボン。まさか。火事が本当なら。

「こんにちは!」

突然かけられた声にハッとする。

「え、ああ、こんにちは」

催眠術師が今気づいたという様子で挨拶を返す。見れば少し先で女子生徒が頭を上げる所だった。彼女は続けて私に、そして教頭先生にも挨拶し、少しばかり早足で出入り口へと歩いていく。参考書でも入っているのか少しばかり膨らんだサブバッグを肩にかけて。前を開いたブレザーから除く青いネクタイが風を受けて靡いていた。

「……先生、その、青って何年生でしたっけ」

「三年生ですよ。あなたの頃から変わらず」

じゃあ、と被せる。そうだ。青は三年生だ。だとしたら。

「黄色は」

教頭先生は少し不思議そうにしながらも答えてくれた。

「二年生です。一年生は緑ですよ。その辺りは何も変わっていません」

振り返る。リノリウムの床の継ぎ目は黒い。焼けたから。そうだ。思い出してきた。もっと改築前の廊下は長かった。もっとこちら側まで廊下が続いていたはずなんだ。継ぎ目が黒いんじゃない。もっと広かった焼け焦げた部分を改築で誤魔化せる限界ギリギリの場所まで取り去って、その上に新しく作り直しているんだ。

「───さ─、どうしま───?」

鐘の音が聞こえる。周囲から音が遠ざかる。冷や汗が垂れた。そうだ。そうに決まっているのだ。だって、そこで、今はもう無い焼け跡は。そこで起きたのは。

「────さん?────!」

鐘の音が響く。何か言われているような気がする。でも少し待って。何か、もう少しで何か。焼けた校舎、二年生の焦げたリボン。繋がる。全てが噛み合いつつあるのを感じる。彼女のリボンは、混乱の中で、千切れて。

「────────────」

左腕が引っ張られる。痛い。目の前に黒い床が見える。声が聞こえない。

「──────」

鐘の音がうるさいほどに響いている。

こんなはずじゃなかった。学園祭を一緒に回って、最後に打ち上がる花火を見て、ちょっと子供っぽいかもしれないけれど校庭の大樹の下で私からちゃんと告白して。最高の一日になるはずだった。私たちは全部これからのはずだったんだ。

花火は横向きに打ち上がった。校舎に直撃して炎上し、学園祭は最後の最後で火災現場へと姿を変えた。どこか浮かない顔をする彼女を元気付けながら避難の列に並んだ。理由も何も分からなかったが、とにかく一緒に逃げようとばかり考えていた。私たちにはこれからがあると。だけど彼女はもしかしたら、そうではないと最初から知っていたのかもしれない。

燃える校舎からそれでも冷静に逃げようとする人が並ぶ中、一人が窓を突き破って現れた得体の知れない触手に巻き付かれ、そして状況が分からず沈黙した人々の目の前で悲鳴を上げながら潰された瞬間、燃える校舎は阿鼻叫喚の地獄となった。我先にと逃げようとする人々で廊下はパンクし、恐怖に耐えかねて三階から飛び降りた人が落ちていくのが窓の外に見え、そして私たちはもみくちゃにされて一度逸れた。踏まれ、掴まれ、引っ張られ、服も体も傷つきながら立てなくなっている私を誰かが抱えて立ち上がらせた。目を開くと彼女がいた。私よりも多くの血を流し、ブレザーもリボンもどこかにやってしまって、ボタンの取れたブラウスがはだけるのも気にせずに彼女は私の手を引いた。そうして二階の奥まった廊下の方へ歩きながら、彼女は聞き分けの無い子供に言い含めるように捲し立てた。

「大丈夫。必ず生きて帰れるからね。できるだけあの根から離れて、見えないように反対側を通って玄関に向かって。でも校舎から出るまで絶対に一階を通っちゃダメ。煙は酷いけど二階の廊下から玄関の屋根に乗り移って───」

「待って。樹里は」

私が、記憶の中で私が言った。どうしてそんな事を言うんだろうと思うほど私は夢見がちでも鈍くもなかった。私もすぐ行く、なんて。一瞬言い淀んでそう言った彼女が今生の別れを覚悟している事は明らかで、だから一歩前に出て、彼女が逃げ出さないように両手で肩を掴んだ。目を合わせようとして逸らされる。

「……止めに行かなきゃいけないの」

そう言って押し黙る彼女を黙って見つめる。火の手が回り、少しずつ煙たくなってくる。やがて校舎のどこかが崩れる音が聞こえた時、彼女は観念して口を開いた。

『人を連れ去ってる触手。見たでしょ。あれ、木の根なんだ。校庭の大木の。だから大人しくさせに行く』

なぜ知っているのか、どうして止められるのか。分からなかった。でも彼女の尋ねてほしくなさそうな様子が私の猜疑心を抑え込んだ。

「……他に知ってる人は?」

「……」

沈黙が何よりの答えだった。

「私も行くから」

「ダメ!」

「なら樹里も一緒に逃げて」

彼女は今にも泣き出しそうな顔になって俯いた。掴んだ肩が震えている。

「……」

「どうするの」

彼女は私の両手を振り払い、後ろを向いて歩き出した。数歩進んで立ち止まる。

「……来て。多分、私から頼む形なら、悪いようにはならないはず。急ぐよ」

駆け出す彼女を追いかけた。いつまで経っても追いつけず、かと言って遠ざかる訳でもない彼女の背中がどこか遥か遠くに見えた。

「根っこは逃げようとすれば襲ってくるけど近づく分には何もしない!絶対に後ろに下がらないで!」

「分かった!」

突き出した木の根でボコボコになった道を走りながらそう叫び返した。地形は歪み、崩れ、元がどの辺りだったのかすら判然としない。遠くに見える校庭の大樹を目印に走る私たちの横合いから時折木の根が突き出し、校舎の方へと伸びていく。私たちを面白いように素通りして、校舎の誰かを掴むのだろう。目的地は分かっていた。だがもう一つが分からない。

「ねえ、結局これ、どうやって止めるの」

大樹のほとんど足下に新しくできた窪地の底で彼女は突然立ち止まった。同じく立ち止まり、膝に手をついて肩で息をしながら問いかけた私を彼女は無視した。知っていた。こういう時は痛いところを突かれた時だ。

息を整えながら見上げると、彼女はこちらを振り返っていた。恐ろしいほどに冷たい瞳、飲み込まれそうなほどの黒が私をじっと見つめている。何か様子がおかしいように感じた。

「……樹里?」

「この木、人喰いのくせに人を食えないの。力が強すぎて掴んだ人を潰しちゃうから近くまで持って来られない」

「うん……うん。それで?」

嫌な予感がした。何か取り返しのつかない事が起きようとしているかのような。見上げた彼女に縋りたかった。彼女の目が微かに揺れる。それは瞳に映り込んだ校舎を燃やす炎の揺らめきだったろうか。

「……ごめん」

呟き、彼女は駆け出した。私を通り過ぎたところで正面、大樹の方から細い木の根が勢いよくこちらに向かって突き出し、その場所を中心に地面が崩れていくのが見えた。

「本当は、初めて会った時の事だけど。嬉しくなっちゃったんだ。君の涙に濡れた碧い目があんまり綺麗だったから。だから、もうちょっと見ていたくて。それだけなんだよ。こんな、私みたいに酷い目に遭う人がいるんだって。おそろいだって。きっと分かってくれるって。でも」

違ったね、と言って見上げる彼女が何を考えているのか分からなくて。私が掴んだ左腕の手首はまだ穴の縁を掴んでいる。引き摺り込まれた穴の中で、彼女は私が離さないばかりに踏ん張る事を強いられていた。

「違った。私と君は……私だけが!なんで、なのに……君は。私、ずっと私は!私は……佐々木樹里で───」

それきり彼女の声は立ち消えて意味を成さない音となった。穴の壁にかけようともがいた足が空を切るのが見える。何度も、何度も。そしてやがてそれは下から伸びてきた触手に絡め取られて動かなくなった。呻く。左手がずり落ちる。必死の思いで手のひらを掴む。握り返された手に渾身の力を込めて引き上げる。途端に嫌な音がした。ごきりと、くぐもった低い音が。まるで関節でもはずれたかのように軽い衝撃を伴って。

伸ばされた彼女の左手にたんぽぽの根のような細い触手が何本も巻き付いて、ぐしゃぐしゃに潰して引き裂いていく。悲鳴は無かった。見れば触手は彼女の体にも巻き付いていた。彼女は酸欠で顔を真っ赤にしながら、いつの間にか自由になっていた右手で胸を締め付ける触手を掴んでベリベリと引き剥がしている。一本ずつの力はそこまで強くないらしく触手は次々と剥がれていき、しかし私が掴む左手は既に力が入らなくなっているようだった。次第にずり落ちていく。骨を折る音が次々と聞こえ、彼女の左腕は潰れてジュースの搾り滓のようになっていく。彼女は声を上げない。もう感覚が無いのかもしれない。嫌な予感が頭によぎった。諸共に引き摺り込まれて穴の底で怪物に貪られる想像が。

「離して。それで終わる、から。君は、君は幸せに」

彼女は息も絶え絶えにそう言った。もう分かっている。遠ざかれば捕まる。彼女はそう言いながら自ら勢い良く遠ざかった。最初からこうするつもりで、私に何かをさせるつもりなんて最初から無かった。私は彼女にとって守るべき対象ではあっても頼る相手ではなかったのだ。おまけに身勝手にも彼女の思う幸せとやらを押し付けて私を置いて行こうとしている。ふざけるな。どうして分からないんだ。沸き上がった怒りに身を任せて叫ぶ。

「このバカ!あんたがいなくて、ここで手を離して、どうやって幸せになるって言うの!?」

視界が滲む。忘れていた涙が流れ始めた。堰を切ったように漏れる嗚咽が私からも力を奪っていく。彼女はまるでたった今何かに気付いたかのような顔でじっと私の鳴き声を聞いていた。

「ほら、ね……やっぱり、違った」

彼女の手が私の手の中からすり抜け始める。代わりに声がした。さっきと同じく絞り出すような、しかしさっきとは打って変わって芯の通った、力強い声が。

「名前。私の、本当の名前。ごめんね。憶えておいてほしい」

離したくない。どうすればいい。どうすれば。彼女の手はもう少しも力が篭っていない。引っ張られていく。無理にでもと潰すような勢いで握りしめた彼女の手からブチブチと何かが切れる音が聞こえる。手に届く感触が軽く、頼りなく変わっていく。

「でもそっか。忘れちゃうよね。██ ██って言うんだけど」

途端、握った手から重みが消えた。勢いのままに尻もちをつき、慌てて穴の淵に這い寄る。穴の底の暗闇の中で黒々とした木の根が蠢いている。その隙間にローファーの爪先だけが静かに呑み込まれて行った。潰れる音すら聞こえないのは果たして幸運だったのか。

後ろ向きにへたり込んで、まだ握りしめていた左手を見る。千切れた彼女の左手、その潰れかけた残骸があった。それだけになった彼女をかき抱こうとしたけれど、彼女はもう、そうできるほど大きくなかった。

鐘の音は止んでいる。

「ぅ……?」

ぐったりと肢体を投げ出したその場所がソファーの上である事に気づくには若干の時間を要した。先ほどと同じ、応接室のソファーの上に寝かされている、はず。先ほどの記憶よりもずっと暗いし、視界が霞んでよく見えない。ぼやけたテーブルを挟んだ向かい側にやはり薄ぼんやりとした影。そこから声が発せられた。

「起きました?」

視界と同様耳もおかしくなっているらしく、ぼわんぼわんと妙にくぐもった声が反響する。先ほどの光景がどこから夢だったのかさえ曖昧だ。だが目の前の影が催眠術師なのは分かった。起き上がってなんとか言葉を紡ぐ。

「あ、はい、ええ。私、どうして」

催眠術師の顔は見えない。しかしそれでも雰囲気が少しばかり硬くなるのが分かった。

「混乱しているようですね。落ち着くまで軽くご説明します。無理にご返事されなくても結構です」

と言っても無駄でしょうから返事があっても無視します、と付け加えて催眠術師は語り始めた。

「あなたは倒れました。リノリウムの継ぎ目の所で。覚えていますか?保健室は遠いのでこちらに運ばせていただいたんです」

そうだ。多分覚えている。頷くと、催眠術師は声のトーンを落として言った。

「救急車は呼んでいません。実はこうなるかもしれないのは分かっていたんです。その、実は記憶回復術には効果が出るまで多少の個人差がありまして。完全に施術が終わってから効果が出る例は非常に稀なので説明をサボりました。申し訳ない。私が横着したばかりに」

彼が頭を下げるのが見える。その横にさっきまで無かった人影。なぜかそれだけが、彼女だけがくっきりと見える。表情が無い。ただ頭を下げる彼を真っすぐ見据えている。一見すれば怒っているような、非難しているような顔。けれどその目は揺れている。その原因は後悔なのか、動揺か。それとも恐怖なのだろうか。

『罰か何かなのかな。最後の最後で余計な欲をかいたから』

彼女が呟く。彼女が私を見ていない事に気づいた。もっと遠くの、あるいは近くの何かを見ている。

『何も私が落ちることはなかったんだ。生贄は一人でいいんだから誰か突き飛ばせばそれで良かった。そうすれば誰もこんな思いはしなくて済んだのに』

分かっている。これは幻覚だ。私が作り出した都合のいい願望の姿。けれど忘れていた事を思い出した今、その願望もあながち的外れではないんじゃないかと思う。二つの眼が焦点を結ぶ。景色が戻る。ぼやけた反響が収まっていく。声が意味を取り戻す。反対に彼女の姿がぼやけていく。ブレていく。色が薄れ、形を失い、次第に宙に溶けていく。なんとなく分かった。これで最後だ。思い出したからもう、彼女は。

『できなかった。おかしいよなあ。そのためだけに過去まで消して来たくせにさ。ワガママだ、ほんと。よりにもよってずっと覚えててほしいだなんて』

立ち上がる。立ち上がれる。そうでなくてはならない。これでさよならなんて許されない。だって彼女が泣いているから。彼女じゃないのは分かっているけど、でも同じ事だ。偽物だって、願望だって、私の前であなたにそんな顔はしてほしくない。

「どうして?」

びくりと幻覚が震える。ぼやけた薄ら笑いが形を潜め、彼女は見られてはならないものを見られたみたいにこちらを見た。目の奥に私の顔が見える。まだどこかぼんやりとした俯きがちの顔から金髪が生え、碧い瞳が覗いている。嫌いなんだ。この髪が、目が。他とは違う、悪目立ちするだけのこの色が。でも、だから。だからこそ。

「どうして、私を落とさなかったの」

重ねて問う。彼女の引き攣った無表情が歪む。泣き笑いのような顔が形作られる。もう顔は見えなくなってしまったけど、そんな顔なのが分かる。だってそうじゃないか。私はあなたが綺麗だと言ったこの髪。好きだと言ってくれたこの瞳が。そう言ってくれたあなたの事が。

『……君が、君の目があんまり綺麗だったから』

どうしようもなく好きだったんだ。

「頭を上げてください。すみません。もう大丈夫です」

彼女が消えるのを見届けた後、恐る恐るといった様子でこちらを伺う催眠術師に告げる。できる限り力強く。

「行きましょう」

「……どこにですか」

立ち上がり、そう問う彼は一体何に気づいたのか、目に確信めいたものを宿している。それがとても心強い。

「『霧』ってやつ、探しているんでしたよね」

歩きながら軽く催眠術師に説明をする。何をするにもまずは案内をしてくれた教頭先生に会わなければならない。奇妙な作りだが、改築と建て増しのせいなのか二階の職員室とその隣にある校長室は一階の応接室からは少し遠い。長々と廊下を歩く時間は説明を終えるのに十分だろうと思ったのだ。だが、説明の途中、私は廊下の真ん中で足を止める事になった。そこには彼女がいた。そして、向こう側に這いつくばる女子生徒が。金髪が目についた。私だ。高校一年生の、引き倒されて足蹴にされた後の私。

『……』

彼女はそれを遠目に見て、逃げるように引き返した。今ここに立つ私の方からは彼女の強張った顔がよく見えた。その向こうには這いつくばったままこちらを見据える碧い眼が一つ。あの日見た光景の裏側を私はたった今目にしていた。

「どうしました?……もしやまだ施術の影響が?」

催眠術師が問う。それに平気だと返しながら私は再び歩き出した。現実と重なる記憶の光景。それを確かめるように進んでいく。

『その、ごめん、ごめんなさい。助けられなくて。怖くて。ごめんなさい』

通り過ぎた教室の中から震えながら精一杯の言葉を吐き出す彼女の声が聞こえた。もう足は止めない。そうしなくても何が見えるのかは分かっていた。叩かれる側に人を叩く趣味が無いなんて楽観を持たない彼女が下げた頭が何事も無く上がった時の、これから何をされるのかとただ怯えるばかりの揺れる瞳が忘れられない。その中には私の碧い瞳があった。

『ねえ、お洒落なカフェに行こうよ。他にどっか行きたいところある?』

調理室から聞こえた声は、親友と呼べるほど仲良くなってから何度目かのお誘い。デートスポットど真ん中のカフェを指差す彼女が何を考えているのか分からなくてスマホを見る横顔を覗き込んだ。瞳は黒く、透き通り、水に溶けた墨が沈澱するように美しかった。

通り過ぎてすぐのところの階段を上る。踊り場には窓を見上げる彼女と、それを後ろから見る私の姿。

『怖いんだってさ。真っ黒だから、見られてると見てるのか見てないのか分からなくて怖いって。だから、這いつくばるあなたの伏し目がちの表情があんなにも綺麗だったから、だから、私は』

たった一度の喧嘩の後で、ふらふらとどこかに行った彼女を探してたどり着いた夕暮れ時の階段。顔を隠すように窓を見上げた彼女の震える声。いまさら嫌いになれるはずもなく背後から抱きしめたその体は、見た目よりずっと頼りなかった。

敵わないな、と彼女はおずおずと手を上げ、回された腕に触れる。そうして静かに流した涙が私たちの手を濡らした。

その光景を背に階段を上る。取り戻した記憶が風変わりな追体験を通して私のものに戻っていくのが分かった。為すべきことを為せと、彼女を迎えに行く私の背中を押すように。

目的地はもう目の前だ。

教頭先生は最後には許可を取ってくれたが、終始大いに困惑していた。当たり前だ。やってきた卒業生が倒れたと思ったら起き上がってやってきて、それで真っ先に言う事が『校長室の木の根の模型を見せてくれ』なのだ。私だって困惑する。

「その模型に幻覚の彼女が?」

そう問う彼に首を横に振って答える。

「模型の元となった大木の根っこに、です。そこに彼女がいるんです」

「なるほど。しかしそこにとは言いますが、これでは人一人の居場所を見つけるなどとても……」

言い淀む彼に答えず見下ろす。木の根の模型は校長室の床の下で、ガラスの中に固めて保管されていた。切り株を中心として放射状に伸びていく恐ろしく長い大量の根。一本一本の途中から枝分かれするように伸びる根から、更に枝分かれする細い根っこ。ガラスはそれなりの大きさがあるが、ガラスが置かれた本当の床が影も形も見えない。

埋め尽くすのは根。びっしりと生えた茶色い根っこの模型と、根が作る広い影。

「そう深くない場所におかしな所があるはずです。当時の校舎から大木までの間だけ……東の方のこの辺りだけ探せばいいなら十分可能な範囲かと」

歩き回る。ガラス張りの床がコツコツと音を立てる。少なくとも東西南北方向から見て生え方に差は無い。広範囲がすり替えられているような感じではない。

「それっぽいデータを漁った方が楽だと思いますけどね……」

そう言いながらも催眠術師は地面に手を突き、懐から取り出したハンディライトでガラスの中の根を照らし始めた。

私もスマホのライトでもって根を照らす。手分けしてしらみ潰しに違和感を探す。何を探すのかも分からないまま。時間が過ぎ、校舎から人の声が少しずつ消えていく。五時、五時半、六時。生徒たちが帰っていく。私たちは這いつくばって木の根を見る。

「ここだ」

催眠術師がそう呟いた時には日が落ちかけて、もう陽光は真っ赤に染まっていた。七時直前。声を聞きつけて寄って行けば、彼は上着を脱いで陰を作り、ライトをその中の一点に照らしていた。

「これです。この一点だけ、どの根も避けるように曲がっている。下から上に伸びる根も、ねじ曲がって切り株に向かうような捻くれた根も全部。他の根によって隠されていますが間違いない。他の場所には無い特徴です」

その通りだった。本当にそう深くない場所にそんな球状の空間があった。這いつくばってほとんど真横から覗き込まないと見えないような根っこの隙間からはっきり見えた。

「で、どうします。もうそろそろいい時間ですよ。準備も無いし」

少し考える。一刻も早くとは思う。しかし思い出した記憶の光景を思うと危険が大きい。もう少し人手がいるだろう。

「そうですね。では次の日取りを決めて解散と───!?」

地面が揺れた。たたらを踏む事も許されず転倒する。催眠術師はどうにか壁に手を着いて耐えたようだ。こういう時は確か無理に立ち上がらず何かの下に入るんだったか。

うつ伏せになって隠れられそうな場所を探す。途中目が合った催眠術師が酷く驚いた顔をしている。何だろう。何か言ってる。揺れがうるさい。片膝立ちで身を屈め、ずっとこちらを指さしている。何だ。後ろ?

足に何かが巻き付いた。振り返る間も無く私は地面を引き摺られた。何だ。持ち上げられる。壁、窓枠?見えないところで頭を打つ。

視界が黒く染まっていく。

目を覚ました時、そこが真っ暗闇でなかった事に私は感謝すべきだろうか。それとも目の前を見て自分に何が起こったか想像できてしまった事を呪うべきだろうか。

土の壁に張り巡らされ、沈んだり浮き出たりを繰り返している木の根。それらは絶えず動き続け、時折パラパラと落ちてくる土塊を抑え込むように形を変える。私はそれらが作る空間のちょうど底にいた。と言ってもそう広くない、一軒家のリビングほどの隙間だ。それに私は一人ではなかった。

そこには人、あるいはそうであったものがあった。半分以上艶やかな黒い木の根に埋まり、木の表皮のような質感の皮膚に剥がれかけの樹皮のように服がくっついているような姿。ほとんど境目も分からないほどに癒着した体は中まで似たような状態のようだ。顔は分からない。埋まっているから。この様子だとほとんど折れたようにくの字になった体からは元々の体型も分からない。それでも分かった。分かってしまった。ぐしゃぐしゃになった左腕の先端が、千切れて年輪を覗かせていたから。

それは彼女の成れの果てだった。

「……」

死んでいるのは分かっていた。三年も四年も生きていられる状態ではないのは思い出した時から分かっていた。皮ばかり残って頬がこけているとか、腐って一部の骨だけになっているとか、そのくらいなら想像していた。白状するとそれでも良いと思っていた。彼女を見つけ出して、亡骸や持ち物の一つでも抱きしめてやれればそれで良かった。潰れた骨の欠片くらいで私は十分だったのだ。それが、現実はどうだ。

骨も、肉も、服も、髪の毛の一本でさえも残らず木の根に食われている。彼女をここから出してやれたとして、残るのはただの木材だ。そんなもの無いのと何が違う?チョークをヤスリで削ってホタテですって言い張るようなものじゃないか。彼女が生きた痕跡、彼女が彼女であった証はどうしようもなく損なわれてしまった。

まだ続く揺れの中、倒れないように壁に手を着いて立ち上がる。そこで私の足首が何かが引きずっている事に気がついた。左足首に樹皮の色をしたリングがピッタリとはまり、そこからあたかもロープのように根が壁の中へと続いている。どうやらこの根に引き摺られてこんな地中まで引き摺り込まれてしまったらしい。足首を掴んで私を引っ張ってきた根っこは今や皮膚に沈んで取れそうにないが、そこまで固いものではなく、動くのにさほど支障は無かった。

引きずられてついたはずの擦り傷や打撲の感覚も薄い。強かに打ったはずの後頭部を触ると硬いものが指に触れた。今さっき触った木の根と近い、木の樹皮のような手触り。乾いた笑いが漏れる。明かりが無いはずのこの場所で目が見えているのもその証なのかもしれないが、どうやら私も彼女のようにこの木の一部になり始めているらしい。あるいは彼女の言を借りて『食われている』と言うべきか。

揺れは酷くなるばかりだ。木が飢えているのか、逆に私を取り込んで元気になったのかは分からないが、活発に活動しているのは確からしい。土の壁が、天井から落ちる土塊が少しずつ大きくなっている。もしかしたら私が思うより残された時間は少ないのかもしれない。急がなければ再会の挨拶すらできなくなるかも。

歩み寄って彼女に触れる。体くらいしか見えていないのでどこに触れるべきか迷い、結局潰れた左腕の先に。

「██。久しぶり」

手がない彼女はもう握り返してはくれない。それでも良かった。

「ごめんね。あなたの言った通りだった。思い出せたけど、それまでずっと忘れてた」

手を絡める。樹皮は滑らかで、棘は無い。捻れて細くなった彼女の腕は私の手のひらで包めてしまった。

「あなたの事、あなたが私にしてくれた事……最後の最後に本当の名前を教えてくれた事。全部」

壁の根っこが埋まり始めた。いや、土壁を抑えきれなくなって空間が崩れ始めているのか。

「実を言うと、あの日、あなたの様子がおかしいのは分かってたんだ。何か焦ってて、思い詰めてるみたいで。ちょっと分かりにくかったけど、まるであなたじゃないみたいな……今思い返してみれば分かる。あの日のあなただけが本当の……」

壁の根が蠢く。この場所を維持する気がもう無いのか、どこか別の場所に行くらしい。天井から私の体ほどの土が落ち始めた。

「でもさ、あなたも自分が本当は自分じゃないって知らなかったんじゃないかなって思うんだ。ずっと、本当に楽しそうだった。私もそんなあなたを見ていられて幸せだった。それがどうでも良かったなんて、そんな訳ない」

「あなたもきっと、本当はずっと、あなたでないあなたでいたかったんでしょ?」

落ちてくるのは大きな塊ばかり。横目で見ると少し色味が変わってきている。木の根は学校の基礎を崩し始めたのだろうか。もう関係ない話だけど。

「ねえ、忘れててごめん。許してくれなくていい。でも、代わりじゃないけど、佐々木樹里じゃない方のあなたにも私と友達になってほしいんだ」

言い終えて彼女から手を離す。手のひらはあっさりと剥がれた。名残惜しく思う。もしかすると彼女の方から私を取り込んでくれるかも、なんて少しだけ、ほんの少しだけ期待していたのだが。

「連れ出すのは無理っぽいけど……私もすぐにそっちに行くから。今度こそ私たち、お揃いだね」

それにしてもあまりにもうるさい。もうほとんど何も聞こえない。何だろうこれは。揺れているにしたって近くにこんな騒音を鳴らすような物があっただろうか?

そう思って上を見上げる。土の天井が落ちてくるのはそれとほとんど同時だった。

咄嗟に何かをしようと思う事もできず、反射的に彼女に抱きつくように身を屈めた。

轟音と共に吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられる。痛い。土煙で何も見えない。

「な、何が……」

ゴホゴホと咳き込みながら目に入ろうとする砂塵を払って辺りを見回す。横は全然視界が無い。見上げればそこには一面の星灯り

星空はすぐに眩しい光にかき消された。機械のビープ音に、大型のファンのような音が聞こえる。それとたくさんの人の叫び声。穴の縁から巨大なライトで照らされている。

「いた!暴露者発見!暴露者発見!」

「掘削止めろ!ストップ!ストップーッ!」

「意識ある!防備確認しろ!再活性化する前に引き上げるぞ!」

呆然としている内にいつかテレビで見た放射線防護服のようなものに身を包んだ人が降りてきて背負子に私を乗せてベルトでもって固定した。私をくくりつけた背負子を背負って彼らは縄梯子を登っていく。振り返って見た地表は遠い。模型は小さいから分からなかったが、実際のあの場所には二階建ての建物以上の深さがあった。

縄梯子の中程に差し掛かった所で再び揺れが起きた。

「早く上がれ!活性化する!崩れるぞ!」

私を背負う人の通信機から声がした。土が目に入るからと言われて上の方を見るのはやめた。

背負われたまま下を見れば、通信機の先の人が言う通り壁が少しずつパラパラと崩れ始めている。

「あ……」

底に彼女がいた。二人。ただの木材になった彼女がへし折れていた。そして、その隣に私が見ていた幻覚の方も。

真っ二つの彼女をじっと見ていた幻覚は今気付いたかのようにこちらを見上げ、穏やかに笑って手を振った。先の無い左手首からはもう血は流れていなかった。見ていると彼女の動きは次第に鈍り、色を失い、木の根のようになっていく。手が動かなくなって、それでも口は動いていた。何かを繰り返し言っている。目を凝らして唇を読む。う、そ、つ、き。

叫び返そうとして、そうするより前に耳元で声がした。

『ちゃんと幸せにならないと許さないから』

声がした方を振り返ったが誰もいない。一際大きな揺れに目を閉じ、穴の底に目を戻した時、そこにはもう崩れた土塊しか見えなかった。

「心残り、だったんじゃないかしら」

「はあ」

診察室で私は気の無い返事を医者に返した。赤縁の眼鏡をかけて後ろで結んだ団子に短い簪を刺した彼女は私が通っていたところの医者よりもずっと気さくで、一見すればどこか適当な感じだった。それでも病み上がりの私を気遣って座るのを手伝おうとしたり、ナースコールを私の手元に置いていたり、そう言った細かな気遣いが医者としての誠実さを感じさせた。

「忘れたけれどそれでもどこかで覚えていた。私たちが消し損ねたのか、あるいは不自然な空白からあなたが記憶の欠落を無意識下で認識し、その輪郭を再現してみせたのか。ともかく罪悪感や恐怖といった多量のストレスに押し潰された脳が異常を起こし、あなたが最後に見た彼女の姿を幻覚として見せたんでしょうね」

あ、この異常っていうのは一般的な意味だからね、と慌てたように付け加える医者を私はいつものように冷ややかな目で見る事はなかった。催眠術師の言うところの霧を隠そうとする動き、その大元の一つたる財団に穴の底から引き上げられた私は、ひとまず彼ら直轄の病院に運び込まれ、まずはそこで治療を受けた。そして体が全快した後転院し、これまた彼ら直轄の病院へ。

連れ出された時はまた忘れさせられるのかとも思ったが、彼らも少しは事情を把握していたようだ。まずは今回巻き込まれた事態の影響を治療し、次に私が彼女の幻覚を見る理由を解明し、全部の治療が終わるまで待ってそれから記憶を消すらしい。結局消すのかとは思う。けれどそれがすぐにではないという事実が逃げ道となって私を大人しくさせていた。

「変に痛がったり思わせぶりに血が出たりしてたのは?」

そう問うと医者は困ったように肩を竦めた。

「何でも分かるわけじゃないよ。多少の想像はできるけど」

「それでもいいので」

「あなたの中での制限時間か何かだったんじゃないかしらね?病院とかカウンセリングとか、明らかに過剰に通ってたでしょ。信じ難い事だけどそれでちょっとは記憶が戻り始めてて、無意識レベルで彼女の危機的な状況……つまり死体がそろそろ形すら分からなくなるだろうって事が分かってた、とか」

釈然としない顔をする私に、医者はもっとロマンチックな想像もできるけどね、と笑った。

「例えば、体を失いかけた彼女が大好きなあなたと最後の時を過ごしたいって遊びに来てた、みたいな。どう?」

「流石に都合良すぎじゃないですか?」

小首を傾げてみせた医者に苦笑する。医者は満面の笑みで両手を大きく広げた。

「そんな事!もう確かめようもないし好きに思っときゃいいのよ。ま、そういう訳であなたは完治!こういうのはちょっとしたきっかけで簡単に再発するものだけど、とりあえずしばらくは大丈夫でしょう。それでだけど」

そう言って彼女は一枚の紙とペンを差し出した。

「記憶処理の申請書。クラスがどうとかいうのは薬や方法、強さの種類ね。分からないでしょうからとりあえず今回の事と彼女の事を綺麗さっぱり消し去る程度で済むものにチェックを入れてあります。必要事項を書いてくれれば後の手続きは私の方で代行するわ」

目を落とすと、ご丁寧にサインすべき場所に鉛筆書きの丸印が付けられ、隣に記入すべき事が記された付箋まで貼ってある。ああ、ついにこの時が来た。

手が震える。これに必要事項を書き込めば全部忘れる。忘れてしまう。だけど書き込まなければならない。手を動かす。なんだかやけに多い記入欄に名前を記入し、性別を記入し、年齢を記入し、ひたすら空欄を埋めていく。

埋まっていく。空欄が無くなっていく。着実に別れが近づいてくる。震える手で文字を書き込み、空欄は最後の一つになった。

最後。私の名前を書く欄。残ったそこを埋めるには一抹の勇気が必要だった。時間稼ぎに文面を眺める。これから埋める欄をじっくりと。その欄はCODE NAMEと題されている。

「コードネーム?」

顔を上げて医者を見ると、彼女はああ、と今思い至ったかのような声を上げた。

「私たち財団に所属する職員は本名じゃなくてコードネームを使っているの。仕事場でも、下手をすれば普段の生活でも。顔や体格を変えた人も少なくないわ。いつ何が私たちと財団を結びつけるのか、何が私たちやその家族を危険に晒すのか分かったものじゃないっていうのがその理由ね。一人やられたら財団丸ごと共倒れ、なんて事にならないように徹底的に分けているのよ。あなたは本名を書けばいいわ」

「彼女にもコードネームが?」

「ええ、夕凪若菜。普段はエージェント・夕凪と呼ばれていたわ」

「なるほど」

そう答えつつ再び書類に目を落とし、違和感に気付いた。恐る恐る尋ねてみる。

「これ、職員の人が書く書類ですよね」

「そうね」

医者は微笑んでいる。

「職員の人はこれを記憶を消したい時に書くって事ですか?」

「そうね」

「じゃあ私、これを書く必要ありませんよね」

しばしの沈黙の後、微笑みを崩さずに医者は言った。

「どうしてそう思うの?」

「今黙ったのが答えだとは思いますけど……だって本当に記憶を消さなきゃいけない時って、受けたいとかじゃなくて決定事項なんでしょう?」

一度書類に目を落として確認し、見上げると医者は立ち上がっていた。いつの間にか。音一つ立てる事なく。

彼女は微笑んだまま私の手からあっという間に申請書類を奪い取り、そのままビリビリに引き裂いた。半分に、重ねて半分に、また重ねて更に半分に。私の前で書類が微塵切りの玉ねぎのようにどんどん小さくなっていく。

「あはははははっはっははははははははははははは!」

そして彼女は狂ったように笑いながら千切った書類を思いっきりばら撒いた。何だ。何が起こっているんだ。

紙吹雪がすっかり舞い落ちてからたっぷり3秒は笑った後、急な奇行に怯えている私に彼女は告げた。

「よくできました」

「は、はぁ?」

思わず失礼な声を出した私に医者は気分を害する事も無く、私の手を引いて立ち上がらせた。

「ちょっとしたテスト。気づけなければそれまでだったんだけど、それじゃ改めてお伝えしましょう。あなたは二つの選択肢を選べます。一つは記憶処理を受け、綺麗さっぱり全部忘れて生きて行く選択肢。今度は記憶が戻ると思わないでね。居合わせた催眠術師?の人、あの人は問答無用で記憶消しちゃったからもう催眠術はしてくれません」

「そこは戻せないようにしっかり消しますとかじゃないんですね」

「……もう一つは財団職員として生きるという選択肢。この場合あなたが望まない限り記憶処理を受ける必要は無いわ。教えられないって言ってたけど、あの切り株や根が何であの後どうなったとか、どうして彼女があなたと会う事になったかとか、そういう疑問にも答えてあげられるようになる。ただ、元の生活には戻れない。給料は出るけどそれこそ死ぬまで財団のために働く事になるわ。知りたくもない事を否応なく知る事になるでしょう。命の危険も普通に生きていくのと比べ物にはなりません。やりたくもない事をやらされるし、したくもない選択を強制される事も少なくない。下手を打てば死刑になったり、死ぬより辛い目にあったり、頭も体も弄られてまるっきり別人にされちゃうかも。それでもいいならの話になるけど、どう?」

「全く、酷い目に遭ったもんだ。催眠術師やめよっかな俺。演技も地味に疲れるしよ」

部屋に入ってすぐさまどっかりと床に腰を下ろした一人の男に、PCの画面から目を逸らさないままもう一人が上機嫌に声をかけた。

「人当たりの良い演技はリヒトが好きでやってるんじゃん。まあ、いつも言うけどそんなに悲観的になる事ないよ。こうしてちゃんと帰ってこれた訳だし、それに重要な記憶には蓋をしてあるから霧の探求者の事はバレないって言ってたじゃん。消されたところも大体思い出したんでしょ?」

リヒトと呼ばれた男は鼻で笑った。

「肝心のところは蓋する暇も無かったしこれっぽっちも覚えてないが?」

「通りでやさぐれてる訳だ。でもほら、これは喜んでいいんじゃないかな。君が会った子、財団に入ったみたいだよ」

手招きされてリヒトはPCの画面を覗き込んだ。目を見開く。そこに映った金髪碧眼の女の顔を、タグ付けされた三本矢印の奇妙なロゴを彼は十分に知っていた。

「うわマジかよ」

「マジマジの大マジ。新しい名前は夕凪若菜ちゃんだってさ。今度会ったらちょっとは助けてくれるかも」

「よせよ縁起でもねえ……しまったな。こうなるんなら決め台詞の一つや二つ言っとくんだった」

「『旅人よ、霧の中を行け……なんて、柄でもないんですけどね』とか?僕もう大体覚えちゃったよ。今度から自分の家で練習してくれない?」

「言ってろ」

笑い、リヒトは立ち上がる。

「ケーキ買ってくるわ。記憶消されなかった祝い。ヴィントも食うよな」

「そりゃまあ食うけど。ねえ、消されなかった祝いって君の?それとも彼女の?」

「決まってんだろ」

訳知り顔で笑うヴィントにカッコつけの笑みを返し、リヒトは颯爽と部屋を出た。

願いは叶わず。祈りは届かず。望んだものは手に入らないと知っている。あの日、約束のあの場所に彼女はやって来なかったから。ただそれだけでと笑われるかもしれないけれど、ただそれだけで十分だった。余計な事は知るべきじゃない。そう思ったのを覚えている。だが、本当にそうだろうか?

やってくるはずがなかったのだ。とっくに彼女はいなかったから。千切れた腕だけになっていたから。だから、最初からその場所に彼女が来るなんてあり得なかった。

知らなかった。知らなかったから彼女を恨んだ。好きだったから。来てくれなかったから。裏切られたから。理由は色々あったけどそれらは全部虚空に溶けて消える思いで、私はずっとありもしないものを憎んでいた。

財団という組織が全てを隠そうとするのも分かる。危険なもの。知るべきでないもの。知らない方が幸せでいられるもの。そういうものを人から遠ざけようという考え方は理解できないものではない。それが有効で、最良である場合が多いという意見にも特に異を唱えようというつもりは無い。

けれどそれでも、私は彼らが、彼女が遠ざけてくれた濃霧の中に自ら足を踏み入れる。私と彼女が失った彼女の左腕以外の全て。その犠牲を、私たちが過ごした日々を忘れる事が正しいなんてとてもじゃないが信じられない。

少なくともそれだけは、そう考える事だけは間違った事ではないはずだ。

「ねえ、そうでしょ?」

割り当てられた真新しい自室で問いかけた。染み付いた癖はすぐには抜けない。ふらっと現れる幻覚がまだそこにいるような気がしてつい誰にともなく呼びかけてしまう。

『そうだね』

声はもう聞こえないけれど彼女は頷いてくれたと思う。そう考えるのが間違いだと、私は思わない。

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