サイト-81██のアイドル、アイちゃんを偲んで。
インタビュー_動物飼育部門 前原 みなぎさん
アイちゃん
アイドル、あるいは女帝と呼ばれた一頭のゴリラがいた。名前はアイちゃん。サイト-81██において約50年前、実験動物として搬入されたそのゴリラは、いくつかの実験、何度かの収容違反を経てなお生き残り、約1年前、皆に惜しまれながらその天寿を全うした。日々、正常性のために活動する我々職員にとって、飼育房に佇むその姿は単なる動物ではなく、我々の使命を思い起こさせる象徴とすらなっている。今回はそのアイちゃんを担当していた飼育員、前原みなぎさんにインタビューを行い、再度その魅力をお伝えしよう。
──── 前原さんはいつごろからアイちゃんの担当を?
ここに就職してすぐですから、だいたい20年前でしょうか。そのころからいくつかの伝説を聞いていて、最初はおっかなびっくりでしたよ。でも、アイちゃんはそんな不安を察したのか、一切暴れることなく、非常に冷静な態度でしたね。こっちの方が諭されているような印象を受けました。
──── アイちゃんはどのようなゴリラだったのでしょう
よく言われていますが、まさしく女帝、でしたね。ゴリラの群れというのは多くの場合、1頭の雄と複数頭の雌からなり、雄をリーダーとして行動します。そのため、群れの決定権は雄にあり、雌はそれに従する立場なのですが、アイちゃんは違いました。おそらく若いころから1人で飼育房にいたということもあるのでしょうが、泰然としていて、自分は自分だと胸を張っているようでしたね。面白い話でいえば、今は同じ類人猿であるチンパンジーのハリトくんやボノボのヨコザワを割と近い場所で飼育しているんですが、何と言えばいいのか……、律していましたね。2人が興奮しているとき、アイちゃんを近くに連れてくるとシュンと大人しくなるんです。まるで教師と生徒のようでした。
──── アイちゃんは頭も良かったとお聞きしますが、印象的なことはありますか?
猿酒をご存知ですか? ……はい、アイちゃんは猿酒を密造するんですよ。私が入って3年目くらいでしょうか、アイちゃんの檻を掃除しているとなんだか甘い匂いがする。どこかに食べ残しでも隠しているのかなと思って見てみると、監視カメラの後ろに食べかけの果物が残って発酵していたんです。何でこんなところに、と思って一旦こっそりその場所が映る位置に隠しカメラを仕掛けたんですね。そしたらアイちゃん、食べ物の中から特に糖度の高いものを選んで隠した後、こっそりその裏に入れて発酵したものを舐めてたんです。そこで、あ、これはアルコールを醸成してるな! と気づいて。バナナにも酵母があったりしますからね。
流石にそのままにできませんから、ちゃんと掃除して片付けたんですけど、気づいた後しばらく私のこと無視してましたよ。まったく、何処で覚えたのかも分かりませんし、いつからやってたんでしょうね。しかも監視カメラの後ろですから、後ろめたいことだって気づいてるんですよ。本当に頭のいい子だと思いました。
──── 他に印象的なエピソードなどありますか?
一度、アイちゃんはお見合いして子どもができたことがあるんです。今は別のサイトで飼育されてるんですけど、その子をとても大事にしていました。ゴリラは元々子どもに対し愛情深い生き物ではあるんですけど、アイちゃんのそれは惜しみなく全部を与えるって感じで。全身全霊をもって可愛がっているのが私達にも分かるんです。ずっと抱きしめてるとかそういうこともなくて、むしろ放任っぽいようなんですけど、何をしてても目の端に子どもを捉えていて、明らかに危険なことをするとすぐに駆け付けて。
そんな状況でしたから、別れるときは私達も暴れるんじゃないかと思ってたんです。だから、ゴリラ相手ですけど私達はしっかり説明して、アイちゃんもしっかり聞いてくれて、その日が来た時も一切暴れませんでした。そして、子どもがいなくなって1人に戻ってもアイちゃんは私達の前ではいつものアイちゃんでした。でも、1人になったらじっと動かなくなるんです、ご飯もあんまり食べなかったし。完全に復調するまで1年くらいかかったかな。とても強くて優しい子でした。
──── 前原さんは一度アイちゃんに助けられたことがあるとか
……はい。アレは10年ほど前だったでしょうか、大規模な収容違反が起こってサイト全体が封鎖されたんですね。私も早く逃げられれば良かったんですけど間に合わず、サイトの中に閉じ込められたんです。……ええ、非常時のマニュアルにもあるのでそれは仕方がありません。だからせめて機動部隊が来るまで生き残らなくちゃいけないと思って、ありったけの武器を持って飼育室の一画で震えてました。でもすぐにオブジェクトに気づかれて、襲われたんです。なんとか退けたんですけど出血もあったし、ああ、私此処で死ぬんだ、って思って、せめて死体を食われないようにって、自分の権限でロックのかけられるアイちゃんの飼育房に転がり込んで、ロックをかけて。記憶してるのはそこまでです。
次に目を覚ました時、私はアイちゃんに抱きかかえられていました。アイちゃんは出血している私の傷を必死で舐めて、体温が下がらないように抱きしめてくれていました。勿論勘違いかもしれません。でも、血と火薬の匂い、動物が嫌うそんな臭いをプンプンさせている私を抱きしめてくれていたんですよ? そこで思ったんです。絶対アイちゃんより早く死んじゃダメだって。だからなんとか止血をして、アイちゃんと一緒に数日飼育房に立て籠りました。……あのとき、サイト内で生き残ってたのはほんの数人だったそうです。私はアイちゃんのおかげで生きています。
──── アイちゃんに伝えたいことなどありますか
まず、お疲れ様、ですね。ゴリラの寿命は野生下では40年ほどです。それがここまで長生きして、大きな病気で苦しむことなく眠るように逝けた。それも多くの職員から愛されて。とても羨ましい生き方だったと思います。だから、お疲れ様、そしてどうかみんなを見守ってください。アイちゃん、大好きでした。
インタビューの終了を告げると、前原みなぎは緊張を解き、固まっていた頬をふうと弛緩させた。
「おつかれさまでした。また改めて清書したものをお送りしますのでチェックをお願いしてもいいですか?」
「ええ、もちろんです。あ、連絡先をお伝えしておいた方がいいですね。研究室宛になると他のものに紛れてしまうかもしれませんし」
そう言って開いた前原の端末、そこに映った幼児の笑顔に一瞬目を引かれた。前原とよく似た目元、おそらく彼女の子どもだろう。視線に気づいたのか前原は照れくさそうに頬を掻く。
「あ、すいません、うちの娘なんです」
「そうなんですね、おいくつになったんですか?」
「まだ3か月ほどです。実はアイちゃんが死んだ直後に妊娠が分かりまして、まさか生まれ変わりでは! なんて話をしたくらいですよ」
クスクスと笑う前原の声には隠しようのない母性が滲み出ている。その穏やかな雰囲気に思わず素が漏れた。
「名前は何?」
「……お恥ずかしいんですが、アイ、と名付けました。人を愛するの愛で"愛"」
前原愛。一瞬言葉を失い、すぐに何という冗談かと腹の底からの笑いを誤魔化した。
「……いい名前ね」
「はい。誰に何と言われようと、いい名前だと思います。アイちゃんのように強く、優しい子になってほしいと思います」
「そうね。……そういえば、アイちゃん、ゴリラの方だけど、何でアイちゃんと呼ばれているかは知ってる?」
突然の質問に前原は驚いたようだったが、笑みを絶やさず頷いた。
「ええ、なんでも以前財団で非常に優秀だった博士の名前を貰ったとか。その博士は早くに亡くなられたそうですが、そう考えると賢いのも必然に思えてきますね。でも何故その質問を?」
「老婆というのは若者に謎かけをするのが楽しいものよ、ミス・マープルのようにね」
「そんな、老婆なんて。足腰もしっかりされてますし、お話も分かりやすくって」
「お褒めいただきありがと、でも案外老人であることを楽しんでいる人間もいるってことは知っておきなさいな」
例えば、アイの死を受け止める場で新しい前原愛の誕生を見届けることができたように。前原に別れの挨拶をして部屋を出る。そのままの歩調でいくつかの秘匿ロックと高クリアランスセキュリティを抜ける。しばらく歩くと影のような黒服が機械のような無表情で背中へ貼り付いた。
「理事、気は済まれましたか?」
「はいはい、ちゃんと仕事はするわよ」
50年以上前、その功績によって日本支部の中枢に踏み込み、名を捨てた女。そんな女が一介のインタビュアーの仕事をこなしたのは、かつての同僚によって自分と同じ名をつけられたゴリラが死んだと風の噂で聞いたのが始まりだった。
気まぐれに、と身分を偽ってその話を聞きに行った場所でとても愉快な話を聞いた。偶然にも、そう、偶然にも女帝の名は受け継がれた。それは単純に優れているからではない、多くの人に愛されたからだ。自分がそれを受けることはない、自分には必要ないと切り捨てたもの。でも、新たな命が愛されてほしいと願わずにはいられない。そうやって何か、形のないものは受け継がれていくのだから。
かつて前原愛と呼ばれていた女は、軽やかに廊下を進んでいった。









