私の最後の休日
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妙に明度の高い部屋にポツンとブラウン管テレビが置かれている。
縦長のRGB三色の素子が織り成す荒い動画を表層に映し出している。音声は無い。

蜘蛛の骸の腹から蜘蛛の子らしき粒子が無数にわらわらと這い出る動画。
土気色の顔をした子供が泣き続ける表情が画面いっぱいに撮影された動画。
吐瀉物と思しき水たまりの静止画。

それぞれ数秒おきに切り替わる見たくないものたち。
不思議と目が離せないが観るべきでない、忘れた方が良い景色。
不意にテレビから音楽が流れ始める。
想起される吐き気と倦怠感の混合比が3:2といったところの、その楽曲が携帯端末の起床アラームだと思うと同時に、テレビを眺める景色の上へカーテン越しの陽光のビジョンがオーバレイしてきて初めて、これが夢なのだとモレノ博士は気が付くことが出来た。

*

スヌーズ機能に移行してしまった携帯端末の起床アラームをキャンセルしつつモレノはベッドの中で寝返りを打ち、うつ伏せの体勢で停止する。部屋の備品たるベッドの弾力と質感は合格点と及第点の中ほどにあり、入眠と同じくらいの速さで起床を促してくれることに彼女は感謝した。

洗面所の壁に張り付いたB4版ほどの大きさの鏡の前に立つ。生物学的には女性に分類される無駄に細長い体躯に乗った、ショートヘアの癖っ毛に包まれた頭部が、瓶底眼鏡を支えていた。顎の先端のほくろの位置を確かめ、自身の名前を唱えつつ光彩の模様パターンに昨日の記憶と齟齬が無いか確かめる。

先日まで行われていた「反ミーム部門」なる荒唐無稽なディヴィジョンへの出向を命ぜられてから受けた3か月ほどの教育期間ですっかり身に付いたルーティンを、教育終了後も彼女は欠かさずに行っていた。

教育終了に伴う休暇期間。教育期間中に摂取した「ある程度の反ミーム戦闘に耐えうる弱毒性薬剤」を抜くためのちょっとしたバカンス。あるいは最後の穏やかな日々。そんな煉獄のような仮初めの安寧を、彼女はここ数日味わっていた。

休暇のため彼女にあてがわれた部屋もサイト内にある居住区画の一般職員居室の一角ではあるが、カフェテリアに出れば口には合わないが十分温かいコーヒーが何時でも飲めたし、外出も自由だった。何より部屋が東向きなのが良い。朝明るく、夕には暗くなる。とても健やかだ。

モレノはそのまま口だけ濯いで、最低限の身だしなみの体裁を整え、カフェテリアに向かった。持参したマグに黒々としたコーヒーを注ぎ、それに口をつけながらタンブラーにもコーヒーの補充を行う。こなれたものだ。すっかり休暇が板についてしまった。

一人掛けするには広すぎるテーブルに着き、ベーグルを齧る。携帯端末の連絡用フォーラムにアクセスし、反ミーム部門からの連絡が無いか確かめる。今日も新着のメールは無し。

「次の連絡あるまで待機」そう最後の講義で告げられていた。

カフェテリアはここ数日ずっと貸し切りに近い。食事の時間になれば質素なビュッフェが展開されるが、その時すら他者と会った覚えがなかった。そういうものなのだろうか。

ベーグルを一つ胃の中に収容し、さらに一つのベーグルを山積みのそれの中から獲得し、かじりながらモレノは居室のある寮へと戻る。確かめたいことがあった。

*

自室へと帰り、ベーグルの最後の一口を頬張りながら月めくり式のカレンダーを見やる。反ミーム部門初等講座で受けたもっとも最近の講義は何時だったか。そもそれをすぐに想起できないことに違和感を覚える。

今日の日付は5月6日。月めくりカレンダーに初等講座実施期間の記述は無い。先月分の紙面は廃棄してしまったのか、見当たらない。しかし少なくとも一週間以上前には最後の講座が行われたことになる。

高々3ヵ月の座学中心の教育後に財団が1週間以上も休暇を寄越すだろうか? そして何より、私という人間が月めくりカレンダーの先月分の紙面、すなわちログを残さず捨てるだろうか?

コレが財団、ないし反ミーム部門とやらの試験や教育の一環ならまだ良い。しかし件の部門で多少なりとも教育を受け、抗反ミーム薬剤の処方を受けた以上、反ミーム的実体からの攻撃がありうるということは、まさに教育期間中に習っていた。そしてその兆候は揃いつつある。

携帯端末のログを漁る。ここ数か月の連絡用フォーラムから不自然に教育課程の連絡が欠落していた。レポートの提出、講義の連絡、何一つ残っていない。

情報と記憶の喪失。典型的な反ミーム的攻撃に思えた。

カレンダーに近づき、凝視する。壁から剥がして観察したかったが、あまり攻撃を察知しつつあると勘付かれたくない。気休めに過ぎないが一芝居打っておきたかった。先月のカレンダーに教育期間を一日ごとにチェックしたであろう筆跡が、一枚下の今月分のカレンダー紙面にも残っていた。チェックされている最終日は4月29日のようだった。やはり最後の講義から一週間以上経っている。

状況はシンプルだった。「指示があるまで待機」の命令を下された最後の講義から実質的な休暇に入り、一週間以上経っている。その事に何の疑念も持たず、私は茫洋と「休暇」を過ごした。そして今日に至るまでその状況に違和感を覚えなかった。

教官ないし反ミーム部門へ通報する、というアイデアがまずは手が伸びそうになる。

却下。

今私が受けている反ミーム的攻撃が「感染性」であることを考慮すべきだ。

反ミーム部門職員は一人で闘う。
仲間から忘れられ、財団に忘れられ、人類から忘れられた中で。

最後の週に講義を受けた反ミーム部門長を名乗る女性教官の講義の一節を思い出した。

しかし、ならばどうするか。あてがわれたセキュリティカードは最低限の権限しか与えられていない。
出入りできるのは、自室とカフェテリア、そして教育の際使った実習室と講堂のみだ。

「次の指示があるまで待機」

命ぜられた最後の講義が行われたのは講堂であることを思い出した。

引き出しを開け、私物の拳銃を取り出す。大学時代に父親から護身用にと貰った45口径。グロック30。フィンガーレストに人差し指を入れない様に気を配りつつ薬室を確認する。こんなものが実態を持たぬ忘却の権化に通ずるとは思わなかったが、それでもソレが彼女の用意しうる最大の火力だった。

「アイデアは、死なない。私は闘うんだから。」

*

講堂の扉はキーカードを使うまでもなく開いていた。記憶にある大学の講義室とほぼ同じ構造の、黒板を扇状地のような下り坂で並んだ机と椅子の同心円。その中心、黒板の前に置かれたパイプ椅子に、短くなった煙草をくわえた小柄な女性が座っていた。

白髪交じりの若干癖のある髪を、後頭部で雑に結わえているのがわずかに見えた。

「正直驚いたわ。」

言いつつ立ち上がった反ミーム部門長は続けた。

「10日以内にこの通過儀礼を突破した人間を、私は一人しか知らない。」

「差し出がましいようですが、構内は禁煙だった筈です。」

念のため構えていたグロック拳銃を握る掌から若干力が抜けていくのを感じつつ、モレノは口にした。
反ミーム部門の番人――マリオン・ホイーラーが僅かに首を垂れる。
失笑を隠したとも思案をしているとも取れるジェスチャの後、マリオンは続けた。

「気付いたのは今日? それとももっと前? 」

「確信したのは今日ですが、恐らく昨日以前の私も何らかの兆候に気付いていたんだと思います。私は何らかの所用が無ければ起床アラームは設定しません。しかしここ数日、私はアラームで目覚めた記憶があります。それから――」

「結構。」

最早吸いしろのない煙草をつまんだ右手を挙げてマリオンが制する。

「合格よ。休暇は終わり。貴方は私の疑似的な反ミーム攻撃を薬剤による支援なしに打破した。
カフェテリアの食事に微量混入したクラスAと精神安定剤による、軽微な記憶処理と現状維持願望、及びハードソフト面両方の外部記憶の意図的な破棄による『忘却攻撃』を凌いだわ。
全ての反ミーム部門職員はコレに近似した通過儀礼を突破している。……それでも貴方は随分早くあがりに至ったわね。」

階段を上って近づいてくるマリオンをぼんやり眺める。
顔の皴からは加齢と苦心と歴戦を見出せるも、顔立ちには幾ばくかの少女性を感ぜられる今後の上司の人生を想像するにはその十秒弱は短すぎたが、

「重畳よ、モレノ。良くやったわ。期待している。」

何時の間にか煙草を手放した指の長い右手の爪に手入れが行き届いていたのが見えたから、

「光栄です、ホイーラーさん。良く学び、技能を身に着け、きっと役に立ちます。」

モレノは、この初老に差し掛かった小柄で儚げな、しかし背筋のしっかりと伸びた部門長について行けばいいのだと思った。

2015年 5月

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