空が崩れ始めた
大地は割れ始めた
我々はその隙間に逃げ込んだ
トウキョウはなくなった
男が6名、女が5名
我らは飢えた
人は死んだ
その時「王」が現れた
王は肉を呼んだ
「肉電車よこい!」
都立事変時代記録センター
PI-18929 「新宿駅碑文」より
駅を通る電車が尽き始める夜のホーム。偶に赤坂見附駅に帰ってくるマガタのおっちゃんは、旅の話をたくさんしてくれた。私の手が今より小さかった頃の懐かしい思い出だ。
『俺はキチガイだ』
マガタのおっちゃんは話が盛り上がってくると自虐的なことを良く言い出した。「本当は俺は弱いんだ」「嘘ばかりついてきた」「ついてくれる皆を騙してる」「仲間を死地に誘う死神」。それらの妄言の中でも飛びきり自虐的だったのがそんなセリフだ。
私はそれに慣れっこだった。だから諫める方法も知っている。まずは話をずらして褒め続けるのだ。そこから旅の話に戻していくといい。それにマガタのおっちゃんは本当に悪い人ではない。それは駅の誰でも知っているはずのことだ。
「うーん、マガタのおっちゃんはすごいよ。この間の新しく生まれた赤ちゃんのミルクを手に入れたのもマガタのおっちゃんでしょ。駅に入ってきた怪物もマガタのおっちゃんがいなければ倒せなかった。皆、それを喜んでるよ」
『そうかそうか。ハナやザハも同じことを言えばいいな。俺にとって理想の世界だ』
確かにハナねえさんはマガタのおっちゃんがあちこちに歩き回ることを喜ばしく思っていなかった。マガタのおっちゃんはハナねえさんの喜ぶようなものをたくさん持ってきているのにもかかわらず、駅の外に出るなんて信じられない、などと言う。
『駅の外に出ないでも生活はできる。逆に普通の仕事をしないのはハナにとっては駄目人間みたいに見えるだろうな。文字通りだ』
「それよりさ、地上にいるっていう竜の話をしてよ。地上には昔トウキョウって大きな駅があって皆が幸せに暮らしてたんでしょ」
そうやって話を振ればいつものおじさんに戻ってくれるはずだった。だけど、その日は少し違った話の顛末を辿ったと記憶している。
『トウキョウ……? トウキョウって言葉をどこから聞いた?』
「ええ、と。ザハにぃじゃないかな?」
それは子供らしい嘘だった。実は永田町駅の住民と父が話しているところを聞いてしまったのだ。その頃は大きな戦争がまだ起きていなかったから、私の父や母があっち側の駅で話し合いに臨むことは多々あったのだ。ただ、子供はそこに入れて貰えなかった。だからこっそりと駅の階段に身を隠して、聞き耳を立てていたのだ。もちろん門番であるザハにぃを口止めして。こんな嘘はザハにぃに確かめればすぐわかることだ。
トウキョウという言葉を聞いた時は流石に驚嘆した。それは近くにある「東京駅」という駅の名前と同じだったからだ。それが本当なら「東京こそが地下世界の中心である」という言説もあながち間違いではないように思えた。
『……そうか。無い楽園に想いを馳せるくらいは若者の特権か。今の探京家はそこに行くのを諦めてるよ』
「行ける場所なの……?」
『行きたい場所だ。行く必要がある場所だ。そう言われてきた。だが、もうその熱意が擦り切れてない。そんな旅人が多いんだ』
トウキョウ。東京。そこには何でもあった。何でもできたらしい。そこでは電車はただの道具に過ぎず、そこではあらゆる飽食に恵まれ、そこでは駅の天井が崩れ空が見えた。そして人類の力は空にさえ届き、青色の天井に突き刺さる摩天楼があった。そんな場所なら行ってみたい、子供ながらに曖昧にそういうことを考えた。
『今の人類は内へ内へと篭り続けてるだろ? それはそう産まれてきたことが原因なんだと……頭の良いやつは言った。東京に住む人々はそんなことがなかったらしい。東京の外に出て色々なことを見てまわる"観光"、海を越えるためにはフェリー、空を越えるためには飛行機。その移動手段も電車だけじゃない』
「原因? 観光? 海? 今の話は難しくてわからないよ……」
『ああ。そうだよな。すまなかった。外側は怖くて寂しいもんな。俺はわかるよ』
おっちゃんの気持ちは今でもよくわからない。駅に篭り続けることの何が悪いのか、そしてハナねえさんの嫌悪。ザハにぃはおっちゃんのことを「不安で喋ることが多い」と表現した。
『線路は灯りが定期的についてるんだが、それでも足元が見えなくなるほど暗い。それで不安になる。俺たちはただしい道を進めているのか、それとも駅に繋がらない闇に呑まれているのか。駅は安全だ。家族と光がある』
ザハにぃの言わんとすることもわからなくはない。マガタのおっちゃんを見てると彼が不安をあちこちに背負っていることがわかる。
『何で俺たちは内に閉じていくんだろうなあ?? 誰かがそうやってデザインしたとしか思えない。この地下世界に閉じ込め、その頂上に君臨するための方策かもしれない。俺は頭が良くないからわからん。足りないピースを想像で埋めてしまって真実から遠ざかる。ヤナ、お前は』
それは、長い沈黙を線路の闇に湛えた後の声だった。
『どっちなんだろうな……』
その発端は、私の愛弟ナユが全くの偶然にたまたまある事象を見てしまったことにあった。そのことをナユがハルねえでもザハにぃでもなく、赤坂見附駅三女たる私、ヤナにまず伝えたのは、私の優れた性格の賜物だろう。
赤坂見附駅最年少、ナユは子供らしく性を知らないあどけない顔で私を見た。8男7女の私たち兄弟だが、私ヤナにとっては1番下のナユが1番可愛い。
「服は着ないといけないんでしょ」
……? 確かにナユにまず服を着ることを教えたのは私だがそれはどういう意図をもってして発された疑問なのだろうか? 私は初めに伝えたことを思い出して、「寒いし肌を傷つけないためだね」と普通に常識的なことを伝えようとしたが、ナユが告げた二の句によって言葉を変えなければいけなくなった。
「ユーキねえが裸で人と会ってたからわかんなかった」
裸で人と会っていると言えば理由は1つしかない。まさかそんなことを……と思ったが、でも私には思い当たりがあるのだ。ユーキねえは永田町駅の人と接触していた。私は図らずもこの間それを見てしまった。密会、情熱、愛。それらが一体となった複雑なそれを……。赤坂見附の駅の住民はほとんど血がつながっているから、内部でどうこうというより外部にその思いが出ていくのもいたしかない。その性的な欲望自体は普通なはずだ。ただ私にあるのは恐怖と未知だ。端的に言って赤坂見附の敵でもある永田町駅の住民とそのような情事があったとは、一体どうすればいいんだろうか。
「どこで?? ああ……ナユごめん。そりゃ驚いたよね。それはどこで見たの?」
「下の椅子があるところ。この前ぬめぬめした生き物が入ってきた時、ザハにぃに退治してもらったでしょ」
確かにホームから下に行った場所には、改札口とちょっとしたスペースがある。そこには椅子もあって、ルリ、リー、リト、ナイナがまとめて座れそうな広さだ。でも、改札口の外は危ないし、やたら強い風が吹いて寒いから誰も行こうとはしない。それに、ナユも言ったようにたまに駅の外側から生き物がやってくるのだ。これが厄介者で、その度にザハにぃが出動することとなる。
この出来事は私の口からザハにぃに伝えた。ザハにぃは長兄らしく、ついに年頃の妹にそういったイベントが来たのだとぼやいていた。その後、ユーキねえにすぐさま確認が行われた。
ホームの端の柵にユーキねえは座っていた。線路の奥にある光を眺めている。その時はまだ線路のライトが瞬いている時間だった。そろそろ全ての電車がこない時間が来る。ザハにぃがユーキねえに真剣な面持ちで話しかけた。そこから返ってきたユーキねえはまるっきりあっけからんとした様子で、微塵も動揺せずにこう言った。
「バレちゃったか〜」
まさかナユが見ていたとはつゆも知らず、その時間帯は行為に及んでいたとあっさりと漏らした。ユーキねえはこの関係がまずいことを知っていた。だけどそれを考えれば考えるほど「ワクワクした」らしい。人間の愛がそこまでのことをさせるものとは私も驚きである。
「ユーキ、それはどういう形なんだ?」
ザハにぃの表情は硬い。
「どういう? ルールの話?」
「強いて言うなら駅全体の話だ。わかってるのか?」
「うーん、愛の形かな」
「………!」
この沈黙と感嘆符はザハにぃではなく横で聞いていたトーヤのものだ。トーヤは姉の恋愛事情に声を出せないでいる。それは私も同じだ。
「それはどういう意味だ?」
「さっきからわからないことばっかだなあ、ザハにぃは」
「待って、ザハにぃ、ユーキねえ」
私は思わず話に入り込んだ。ザハにぃは根っからの武闘派だ。駅敵である永田町駅に対する防衛上の不安があるのはわかる。それに妹に対する心配な感情もあるだろう。対して、ユーキねえは自由人だ。この年になっても女の仕事も男の仕事もせず、あちこちで遊んでいる。
その後、2人を落ち着かせて話し合いが執り行われた。
「〜〜彼、バルイとはねえ。永田町駅にこっそりと忍び込んで遊んでた時に知り合ったの」
「門番がいたでしょ。ライかフロスのどっちか!」
「ライとフロスが生まれる前だよ?」
「だとしたら俺が門番をしていた頃だ。かなり前だぞ」
「そんな前からユーキねえが仲良しだったなんて驚きだけど」
「あっち側で飯を食わせてもらったんだよ。色々あったな。こっちよりもメニューが豊富で、楽しかった」
表情豊かなトーヤがゴクリと喉の音を鳴らす。
「う、羨ましい」
トーヤはそう言うが、ユーキねえの複雑な境遇を考えるとイマイチ同意できない。
「昔から仲が良かったんだな?」
「まあそうかもね」
「だからと言ってそれは見逃せない。お前は敵に俺たちの情報を流そうとした、そう言われても仕方ないんだぞ。ずいぶん前からそうだったんだろ?」
「んんん〜? 私はぁ、仲のいい人と遊んでただけですぅ。別に変なことなんかしてません」
「もちろん兄妹のことは無実なものだと信じたいさ。だが最近は他人の"パスモ"を持って他駅に侵入する不届き者もいると聞く。だから心配しないといけないんだ」
トーヤもようやく話に参加し始めた。私はそれについて少しだけ気になったことがあった。だがしかし、それは言葉になる前の薄い疑念だ。躊躇いがあったとかそれ以前の、質問の仕方がわからないといった状況。だからここで私は黙っていた。
「そ、そそれで、ええっと……。あれだ。男女のアレコレはどうやるんだ、ユーキねえ」
「んー、と。まず2人で裸になって〜」
「やめろ、そしてトーヤも聞くな。後で教えてやるから」
「"子を絶やせば駅は続かない"、駅神さまもそう言ってるよ。私は駅神さまの言い分に取りもなおさず従ったんだ」
「とにかくだ。ユーキには責任をとってもらわねばならない」
その言葉を聞いてユーキねえは少しムッとしてしまった。
「引き裂けばどうですかぁ、私と彼の仲を」
「いや、逆だ」
ザハにぃはこめかみに指を当てる。少し思案した後、こう言った。
「ユーキ、もう結婚しろ」
「え、え、え、結婚〜。無理だよ。え、え、え、え、え、え〜。何でー」
「お前、バルイと愛の形だったんじゃないのか」
「私が良くてもバルイがどうかわからないし」
「その時はその時だ」
ユーキねえが結婚する、その情報の衝撃は家族を全員でざわめかせた。
実のところ、赤坂見附駅は結婚相手について、すなわち家族の存続に関して、根本的で重篤な問題を抱えていたらしい。まさか親族でするわけにもいかないし、遠い親戚はこの前の東京行でほとんど死んでしまったし(マガタのおっちゃんがそうだ)、周りは少しばかり敵が多いし(永田町駅がそうだった)、そういった婚姻相手は少なかった。だから、この際水に流して、ユーキねえとその男をくっつけてしまおうということとなるのは、あながち意外でもない。が、やはり家族にとって一大事である。トーヤなどはすっかりと放心状態で、イマイチ自分のいる場所がわかっていなかった。
「いやさ、結婚していいのかよ? なんか神聖なものなんだろ」
「さあ、私たちの親がどういうことをやったのかさっぱりわからないし」
「それは男女の交わり的な意味で?」
「いや、儀式的な意味で」
このことをシータに聞いてみると「前世界の日本では女性の婚姻可能年齢は16歳」と言った。ユーキねえの年齢は誰も知らないが、多分そのくらいは経っているだろうとザハにぃは言った。
年齢の問題もクリアした。すると結婚相手との話し合いをしないといけない。
「わお。ユーキねえはいつもこの景色を見てたんだ」
私たち一行は永田町駅の境界線を越えた。つまり駅と駅を始めて「乗り換えた」のだ。新鮮な雰囲気を感じる。そこには恰幅の良い爺さんと例のユーキねえと不貞した兵の若者が待っていた。
「儂の父がまだいた頃、"フユキ"の息子がお前らの駅の人を射った。肉電車の皮で弓を初めて作った時のことだ。そう伝えられている。伝説曰く、最初はどの駅も同じ人種の人間で、種類に貴賎はなく、平和があった。だが、天地が割れ、私たちは大地の横穴にのがれた。無数の駅に分かれ、諍いをした」
私の知る限りでは、永田町駅との戦争は一回だけである。ザハにぃがやっと剣術を覚え、父と母がいたころ。父はそこで受けた傷が原因で死んだ。そういうわけで、スザやナユ、女の子だとリトやナイナは異母姉妹だ。まあそんなことは私たちの生活にあまり関係ないが。母がそういう性に奔放な、今のユーキねえのような活動を行っていたことは、私も知っている。だからこそザハにぃは、ユーキねえがどうこうするのを嫌がっていたのかもしれない。
「私たちは許しましょう。なぜなら、全員元々東京に住んでいたのですから。実の所今の我々には小競り合っている暇などありません。東京駅が危険なことは私たちも同じです」
私たちは互いに傷つけあってきた。それが憎悪の原因となっている。駅長はそれを"フユキ"がたまたま発明した矢の一撃が始めたに過ぎないと断言した。ザハにぃはその言い方に少し腹が立ったように見えたが、そこは何とか飲み込んで握手をした。そんな私たちの関係をザハにぃに飲み込ませるものとはいったい何なのか。それは
バルイは言った。
「ユーキとは愛の話をしました」
愛なら仕方がない。この隣で話を聞いていたハルねえさんの顔が赤くなった。彼女はそのまま部屋の外に出て行ってしまった。
「ユーキの笑顔は素晴らしかった……。彼女との会話は楽しかったです」
思わず私も顔を赤くする。皆々、赤坂見附はウブな子供と言われても仕方がない。バルイは、その後愛の詳細を語ったが……私はあまりにも恥ずかしくて聞くことができなかった。
「ははっ、バルイ。女はそこまで良いものだったか」
「これ以上に良いものはありません」
「責任は取るんだろう? 永田町駅の格言には"女を助けろ"とある」
「不肖、バルイはユーキを嫁に迎えるつもりでございます」
「そうと決まれば、アレをせんといかんな」
アレ? ザハにぃは首をかしげた。ついでに私もザハにぃの顔を見た。
「婚姻の儀式ユーキを家族に入れることだ 」
そのあと数日色々準備をして、現在に至る。私の前にある儀式用の火灯の光が揺らいでいた。ゆらゆらと揺れるその光が非日常的な雰囲気を醸し出していた。つまり、その目的が何にせよ──儀式には非日常が必要なのだ。永田町駅の人々が用意した非日常的な物品は、いくつかあった。
火灯以外に目につくのは、これまで赤坂見附駅と永田町駅の境界線であった場所にある舞台である。舞台と言っても四方が造花で飾られ、しめ縄によって区切られているだけの空間だ。造花、これはハナねえさんの名前の由来でもある「花」を正確に模したものであるそうだ。昔、駅長が語る昔よりもさらに昔、伝説の時代、東京においては無数に生えていたと呼ばれる植物の繁殖器官だ。
「ツツジ。この名称は属レベルの呼称で種名ではない。アザレア、シャクナゲとも呼ばれる。対象の造花がどの種に該当するかは不明」
シータはそう述べた。相変わらず言ってることはわからない。ただ、その花は綺麗で儀式の非日常的な雰囲気を出すのには一役買っている。
加えて、私たちの座る床にはたくさんの食べ物が並べられていた。──私たち赤坂見附駅の家族が1番驚愕したのはこれである。トーヤなんかは、口を開けて閉めないで全くの会話が聞こえないように呆けてしまった。
「トーヤ、トーヤ、ぼーっとしないで。弟たちが見てるから!」
「ほらトーヤ、ジュースもあるぞ」
私たちの前に肉電車の房を1つや2つあるいはそれ以上に積み重ねたような大きさの「肉」が横たわっている。私たちは普段肉電車をつみれにして食べているのは前回の述べた通りである。だが、この肉はどこでも見たことはなかった。
「乗肉のりにく だ。知らんのか?」
ホウと呼ばれる狩人がそう言った。
「あー、赤坂見附駅の線路を通る肉電車にはいないかも」
ホウ曰く、乗肉は肉電車に乗っている肥えた四足歩行の動物らしい。半蔵門線では良く見るらしいが、鋭い牙とデカめの体躯を持つことから、狩猟には常に危険が付き纏う。彼らでさえこういう「祝い」の時にしか食べないのだと言う。
「乗肉があれば1ヶ月駅が食えるってな。その肉を贅沢にオレンジジュースを塗り込んで食うのが永田町駅流だ」
「オレンジジュースはどうやって手に入れたの?」
「自販機だが? まさかそっちも知らんのか。赤坂見附駅は知らんことが多いな」
「自販機ならあるよ」
「あるのは多分"死んだ"自販機だろ」
「自販機に生きてるとか生きてないとかあるの?」
「あるさ。永田町駅の知識は生きてる自販機を探す方法を教えてくれる」
「こっちの狩人にも教えてよ。色々なことをさ」
私はトーヤとザハにぃを指差してそう言った。
「まあいいだろう。これから赤坂見附駅は大事な彼らのパートナーだ。せいぜい仲良くしていこう」
小さな疑念が燻っている。彼ら……? だがその時の私はまだそれを形にできなかった。
そしてもう1つ驚いたことを紹介しよう。それは外からの客分の存在だ。永田町駅の駅長とザハにぃはこの婚姻儀式に当たって、他の駅から客分を呼んでいた。私はずっと赤坂見附駅が孤独だと思っていたがそんなことはなかったのだ。
「ファラファリー、四谷三丁目のブチ・アカダだ。赤坂見附のお嬢ちゃん、初めまして」
痩身痩躯。針金のように長い手足が不釣り合いな男だ。私たちや永田町駅の衣服とは違う服装をしている。白い服を体に通しているのは同じなようだが、見慣れない帽子を頭に乗せていた。まるでジュースの入れ物のような形で、人間の頭に乗せる意味がわからない。
「ええ、ブチとアカダ……どちらで呼へば?」
私は握手を求めながらそう聞いた。
「アカダが家名だ。店の名前でもあるがな」
「四谷三丁目駅って……随分大変なところから来たんですね」
「君が来たければ案内するよ。まあもっとも既に新宿御苑前には行くことはできないが……」
ザハにぃが話に入ってくる。
「やめてくださいアカダさん。好奇心を掻き立てるようなことを言わないでやってください」
「子供の好奇心には蓋をしないことだ」
彼は振り向いて真面目な顔になってこう言った。
「それより、マガタの御方はどうした」
「残念ながら東京行で……」
ザハにぃは悲しそうに言った。マガタのおっちゃんの知り合いだったのか。彼らなら色々なところと知り合っていてもおかしくはない。
「そちらは最近どうですか? 基盤者プラットフォーマーの件はどうなりましたか?」
「だいぶ建築も進んできていてな。きな臭くなってきた。それに対抗してか最近じゃ東京駅の奴らも色々やってるらしい」
「へえ。例えばどんなことを?」
「あちこちの駅にスパイを忍ばせたりな」
「ああ……。財団職員のやってるって言うパスモ改変技術の……」
ザハにぃは私よりも少し事情に詳しい。私の知らないことをたくさん知っている。
「ここに来て本当に大丈夫ですか……? 今も建築が進んでいるのでは……」
「いや、それは心配に及ばない。建築は本当にゆっくりだし、何より姉や父がいる……。それに君たちの婚姻が上手く成れば、自然と基盤者も後退していくさ。駅神さまを交換し合い強化する。それ以外に奴らの基盤者を追い払う方法はない」
「上手くいけばいいのですが」
「ザハ、君は心配性だ。戦士がそれではいかんな」
「まあまあ、座ってください。祝いの席なので」
「ありがたい、手土産もある」
彼が手土産として渡したのは酒であった。
「我が家に伝わる方法で作った酒だ。この酒を少し残しておいて適当な甘い飲み物に入れて発酵させるといい。できればこの白く濁った飲み物はやめといた方がいいな」
ザハにぃはそれを見ると私たち年少組を遠ざけた。「子供はあっちでまとまって遊んでなさい」との言わんばかりだ。そう、もう1人目立つ客分がいた。
その人物はけむくじゃらな生き物を連れていた。けむくじゃら、としか言いようがない。茶色の毛がたくさん生えていて、私の腰くらいの高さまで頭を上げることができ、悠然と歩く。こんな生物は見たことがない。ついつい本人よりその四足歩行生物のことの方が気になってしまうのだが、それを連れ立つ本人もそれなりに奇妙である。私と同じくらいの年頃の少女だろうか。そのけむくじゃらの動物に騎乗している。首に毛布みたいな繊維質を巻いており、肉電車の皮をなめしたのかやたら硬そうなマントをつけている。手にはナイフがある。私はジロジロ見ているとついぞそれを気取られた。
「お前たちは────である、私は───である。私の随伴する──が気になるか?」
彼女は、その動物を降り立ってシータのような真顔で話した。わからない単語が多すぎて途切れ途切れの文章理解になってしまうのだが、完全に理解しきれないとは言えない。
「私はヤナ。あなたは?」
「赤路線の住民は変な言葉を話す。私はイチである、隣は私の犬となる」
「イチ? それがあなたの名前?」
「違う。犬であるイチ。────に興味がありそうだったから。私はヘイルである、それは名前となる」
「犬って何?」
「犬は狩の時の友人である。あなたは伴わないか?」
段々と彼女の言っていることがわかってきた。そんな時、リトが声をかけた。
「──────である。ヤナは言葉に詳しくない────私────犬触っていい?」
「頭を触れ」
子供は覚えるのが早い。というか、前から勉強していたのだろうか。それとも、喋っていることは本当に適当で言語とは別の部分で通じ合ったのだろか。
リトが目の前の"犬"に手を近づける。イチと呼ばれた犬は目を細めてその愛撫に応じた。リトが見惚れたように笑顔になる。
「乗るか?」
ヘイルは上からリトを見て問いかける。リトが頷くと犬も首を垂れる。そしてリトに体を噛みついた。そう思った一瞬、リトは彼の背中に放り投げられていた。リトが噛まれたのではないかとヒヤヒヤして見ていたが、どうやら大丈夫なことのようだ。リトが犬の上に乗っかる。ヘイルはリトに犬の背中にある毛を掴ませ、しっかりと持っているように言った。
「ヤナ、私は紫路線から来た。六本木である、それは我らの駅である。そこでは、肉である糧は電車より早く移動する。──────電車に運ばれる肉者は、滅多に来ない。──────駅で休み空を飛ぶ肉者を弓矢で狩る。それにはイチである、イヌの協力が必要。狩の友である。ヤナ、あなたにもいるだろう、翼のある友人」
「あ、シータのことかな?」
あたりをふわふわと周回していたシータがこちらにやってくる。
「そう。彼女は狩の友人。違うか?」
「ええ……と、シータは狩をしなくて、私たちに色々な加護を与えてくれるの」
「それは良い友人だ。私は友人である、小さい頃から寝食を共にした、イチである」
「そうかな……」
「ヤナ、私、お土産ある」
そう言って彼女は袋から木製のなにかを取り出した。
「これなに?」
「ショーギ、──────駒を進め相手のそれを取る遊び。これは────────」
「ええっと。リト、ヘイルがなにを言ってるかわかる?」
「へへー、わかるよ。これはゲームなんだって」
リトによれば、このゲームには駒と盤を使うらしい。基本、駒は前か後ろにしか動かせないが、例外があって赤色で塗ってあるマスだけは横に移動していいらしい。駒ごとに進める数や方向も違い、横にいくらでも進めるものもあれば、一個ずつしか前に進めないものもある。なんとなくこれはこの間の私に似ているように思えた。つまりこれは駒が赤色のマスで路線を「乗り換える」のだ。赤色という色も丸の内線っぽい。
「細かいやり方はやりながら覚えて。私は駅で1番強い」
ということでやり始めたのだが、ヘイルは全然手を抜かないで打ってくるので勝つことができない。しかも「駒が敵陣に入ると強くなる」というルールが後出しだったので、わけもわからず後半戦でやられてしまう。
「……」
「いや、初めてだからさ……」
「楽しい」
しかしこちらは先程から5連敗なので全然楽しくない。ヘイルは自身の駅で戦ってくれる人がいなかったのではないだろうか。
シータの羽がショーギの盤を横切った。
「マスター、当機は二人零和有限確定完全情報ゲーム……が得意です。やらせてください」
直裁にシータがそういうことを言うのは珍しい。試しにやってもらったらあっという間に勝ってしまった。
「────翼のある賢者、あなたは────不可思議で愚かな鳥である」
「演算; Erstellen Sie eine Formel」
「ヤナ、シータは強い」
そうしたヘイルは本当に悔しそうな顔をしていた。
「まあ、シータは色々規格外だから……」
「いつか、勝つ。首を洗って待っていろ」
「ははは……」
そんな話をしていた時だった。狩人のホウが手に金属製の鐘を手に持って歩いている。その隣には頭にさっきの造花を付けたユーキねえが歩いている。その隣にはユーキねえとしこたま仕込んだバルイだ。2人は手を組んで、大人たちが輪になって酒を飲んでいた場所の近くまで来る。
「──ああ、ユーキねえ笑ってるなあ」
大人たちの輪座に混ざってただ1人私と同じ年齢のトーヤが、もう半ば酔っ払った状態で喋っている。
「トーヤ、呂律が回ってないよ。あんなもの私たち兄弟は飲んだことがないんだからほどほどにしてよね」
「あ?! 呂律? 何だそれ!?」
「顔とか赤いしヤバいって」
「つい楽しくなってさあ……ユーキねえがあんなに楽しそうなの初めてだ……弟としても誠に嬉しいばかり! ……祭りは楽しい! 皆幸せ! ずっとやってればいい……!」
トーヤはぐいっと手に持った缶を私に渡してくる。しかし微妙にこちらの方が年上である姉としては、トーヤと同じ目に遭ってしまうわけにはいかなかった。
「いらない。馬鹿になるじゃん。そもそも美味しいの?」
「いいや、なんか苦い水って感じだ。こっちは甘いけど、キューってくる。それだけ」
「そんな得体の知れないもの飲みたくないんだけど」
「アカダのおじさんが言うからには婚姻の儀式の時は皆酔っ払ってるんだってさ。ヤナ、お前も飲まないと"失礼"になるぞ」
────注目せよ。その聖言が駅に響いた。ザハにぃと永田町駅の駅長だ。手には鉄道聖書を持っている。今から駅神に誓うらしい。
────肉は他へ運び他駅と混ざる。
────電車から採ったばかりの新鮮な肉。
────それは我々。大地の裂け目に住まう者。
────余闇の吹き溜まり。
────駅神に誓い、それは電車の如く永遠である。
2人はしめ縄の中に入る。しめ縄が少し低い位置にあったので、ユーキねえの頭にあたりそうだったが、バルイがそこは気をきかせて、しめ縄を払い除けた。
「ユーキよ。電車の如き愛を誓うか?」
「はい」
「バルイよ。電車の如き愛を誓うか?」
「はい」
──それでは捧げよう。まず血を。
2人は示し合わせてナイフで手の先を切った。血が駅の床に落ちる。赤く染まり、床に拡散する。
「ユーキねえ、痛くないのかな」
「仕方ないでしょ儀式なんだから」
──これで婚姻は成った。拍手を!
来客も赤坂見附駅も永田町駅の人も拍手していた。ハルねえがリトたちにも拍手させる。ユーキねえが中心で笑う。私も思わず嬉しく成った。
「もしかして結婚って幸せなことだったりする?」
「そうだよ。そうじゃないとユーキねえは笑えない」
「そうだと良いんだけどな」
トーヤは今もユーキねえを嬉しそうに眺めている。
「そろそろ来るぞ」
ザハにぃは駅の床を指して言った。何が来るのかと聞いたら、駅神さまだと言った。だがしかし、駅神さまが実際に来ることなど見たことはなかった。だから若干半信半疑で床を見ざるをえなかった。だが、それは本当に本物の駅神さまだった。
「"駅神の骨"だ!?」
トーヤはそう言った。彼が指し示したのは駅の基盤から隆起して現れた謎の構造物。駅の床や紐が複雑に入り乱れた骨。それはやおらにしめ縄の方に向かっていた。
「違う1つじゃない……赤坂見附駅と永田町駅で2つある。だから駅神さまなのか……」
ザハにぃが言った。
「駅神さまに触るんじゃあないぞ……。機嫌を悪くされたら困る」
「そんなに繊細なものなのか?」
トーヤは相変わらず空気を読まずそう言った。
「いや、そこにあるのは"駅神の骨"だ。滅多に出てこない。そして駅神さまの本体とも言える」
「ザハよ。駅神さまに本体などない。それは大きな1つなのだ。もちろん無礼はあってはいけない。それはどこでも同じことじゃ」
もう1つの駅神が片方の駅神に絡みつく。まるで愛し合っているように結びつき、やがて徐々に合体していく。
「え、駅神が合体した……!」
「駅神さまもユーキねえと同じように愛しあったりするものなのか? ザハにぃ」
「こんなもの見たことがないぞ……。なんて言ったらいいのか」
「つまりそういうことだ赤坂見附のザハよ。儂の息子とそちらの娘がそうするように、な」
「しかしそんなことは……」
「このようなことは前々から起きておる。かつての昔、生きるために基盤者を創造した人々は、駅に住むことを許された。だが人々はいまや駅の基盤を別々に持つ」
「感謝するよ、ユーキねえに」
「何でだ?」
「いや、これユーキねえが結婚しなかったら見れなかったし」
「いやでもユーキねえがあんなことしなければ……」
「いずれ誰かがやってたと思うんだよね。トーヤかもしれないし、私かもしれない」
「ええ?! 俺も結婚出来るのか?」
トーヤと私は年齢がまだなんだろう。そう思って駅神を見ていると、やおら駅内が騒ぎ始めた。
私はついぞ気づくことはできなかった。赤坂見附駅に危機が直面していたことを。それはやがてこちら側に来るであろう「基盤者」やその他の脅威ですらなかった。シータは初めに赤坂見附駅に脅威が近づいてきていると言った。これは一体どういう意味だったのか……もう少し考えるべきだったのだ。
「……?」
「ホウ……!! 何をやっている……!?」
永田町駅長が驚愕した声で彼を止めにかかる。だがそれを無視して彼は弓矢を構えて狙う。飛んだ矢が駅神の骨に当たる。その「基盤」が1つ外れる。
「え?」
ユーキねえが青ざめる。さっきまで幸せで満面の笑みを浮かべていた美少女が目の前に見てはいけないものを見てしまったような表情だ。
駅の声が乱れ始めた。誰かが駅神さまに捧げ物を忘れてしまったかのような嫌な声。まるで地上に行ってそのまま声を収録してきたみたいな。
────ザザザザザザザザザ
「これ、ヤバくないのか?」
「ヤバくないかヤバいかで言ったらかなりヤバいよトーヤ!」
「おいおい……ユーキねえの結婚に水を差すのは誰だ?」
「駅神さまだよ!?」
駅はこれまで聞いたことのない声を発した。
「当駅は25時16分発、池袋行き、発車、家族」
「無理なご乗車はおやめください」
「前線投入用機動肉者生物兵器《我己》」
「やりやがった! やりやがった! アイツやりやがった!」
兄がそこまで取り乱したのは初めてかもしれない。兄は狩人にタックルして拘束。永田町駅長が言う。
「おい!! そこにいる狩人を殺せ!」
「待って! 話を聞いて!」
「もう早く殺すか皆で死ぬかだ。早く」
「おいおい……なんで!? なんで!? 駅神さまを攻撃した!」
「へ! お前らはもうお終いだ。基盤者がいなければ肉電車もやってこない! しばらくして新宿駅がやってくる」
「お前ら新宿駅は四ツ谷駅を渡ってこれないだろうが! アカダさんの家族が守ってんだよ!」
「黙れカス。偉大なる"王"の導きあれ!」
ドアの開く音。その後にのっそのっそと歩く何かの音。
皆、一斉に揃って赤坂見附駅の方のホームを見た。
「ハル、ユーキ、兄妹全員連れて永田町駅の方に逃げろ。ここは俺が食い止める」
「そんな……!」
「ザハにぃ、アイツは肉電車なんかと違う。弓矢も効くかわからないぞ」
「トーヤ、一家の長兄を侮るんじゃあない」
「ザハよ。アカダ家の戦闘も見たくはないか? 酔いどれで当たらないかもだがな」
「いえ、ありがたいです。ついてきてください」
「イチ、──────敵の肉を断つ。ザハ氏よ、私も行きます」
「……猟犬者もありがたいです。ではいきましょう」
それはまさに「圧巻」としか言いようがない出来事だった。私がこれまでヘイルが持っている弓と思っていたものは、正確にはボウガンと呼ぶらしい。矢より強烈な一撃が怪物の顔に放たれる。その隙を見てザハにぃが怪物の頭にナイフを入れる。
何と言ってもヘイルの猟犬に乗っての攻撃回避は神業だ。そして盛んに怪物に噛み付く。野性味のある動物の威力が十分に発揮されている。
「リーラさん!? そんな前に出たら危ないですよ」
「大丈夫だ。ヤナ。リーラさんは絶対に安全だ」
「ヤナか。子供の好奇心に蓋をするなと言ったのは私だからな。これがどういう原理なのか教えてあげよう。古代遺物には無限にエネルギーを蓄えるライターなどがあった。これらは現在でも使うことができる」
リーラさんの指が差した先には炎が飛び出してきた。リーラさんは手元に小箱を握っていて、どうやら火元はそこだったようだ。
「ファラファリー」
怪物の顔が焼けていく。それを見たトーヤは手を叩いて「やったか!?」と叫んだ。
「……いや、まだのようだね」
「牽制しながら撤退し続ける。ライ、フロス、矢を途切れさせるな」
「了解!」
「ザハにぃが気を引いてるうちに逃げるよ、皆!」
ユーキねえがあんな感じだったから、我らが兄妹の女性陣で1番リーダーシップを発揮するのはハナねえさんだ。私も思わずハナねえさんとさんづけしてしまうほどだ。
「このまま永田町駅の方に走るよ!! トーヤはザハにぃを支えて。ライとフロスは年少組を確保、あちら側のホームにたどり着いたら電車で逃げる」
「ハナねえさん、駅を……捨てるって言うのか? いつ戻ってこれるかわからないんだぞ」
「わかってるわ。でもそうするしかない。どのみちザハにぃがやられたらもうダメなの。私たちはザハにぃ以外それほど戦えない」
「シータ! あの怪物……電車の時みたいにバン! ってやれないの?」
「……マスター、この"USB"をあの怪物のどこかに入れてください。怪物とコミュニケーションを試みます。あの怪物は部分的に当機の同類を内蔵しています。どこから持ってきたのかはわかりませんが……。有機的エンジェロイド構成個体が共通して内蔵している不動機の循環エネルギーを利用していると思われ、そのため当機による攻撃の有効性は未知数です」
私は決意した。逃げる皆から逆走してザハにぃたちと合流する。
「おい、ヤナ!」
「ザハにぃ。少しだけ私を信用して。私をあの怪物のところに連れてって」
「ヤナが何とかなるようなやつじゃない。諦めてハナについていくんだ」
「私を、信じて」
「本気……なんだな」
私は黙って頷いた。ザハにぃはなんだか納得したようだった。それはユーキねえの結婚を決めた時と同じ表情。それは信頼だ。私もできるかどうか信じられないけど、ザハにぃは私のことを信じていた。
「マスター、怪物の側頭部にエラと似た構造物があります。それがいわゆる"改札口"です。これは改札口と駅の切符のようなモノ。入れることで発動し、私はコミュニケーションを取ります。それは一瞬のことです。現実世界にて1秒程度のこと。ですが、それが終わったらすぐ離れてください」
「わかったよ。やってくる」
近くで見るとその強さは明らかだ。電車は私にとって強さと速さの象徴だが、それも凌ぐ怖さがそこにはあった。分厚い皮膚は硬さ、そこに作られた傷は戦闘の経験を示していた。まさしく、歴戦の戦士。口は体躯に比して大きく、普通の生物としてはあるまじき形状をしていたが、歯は1つも生えておらず、アンバランスだ。口の両脇は茶色の瘡蓋で覆われていた。まるで洗っていない体のように汚れている。
怖い。私はただそれを思った。マガタのおっちゃんの感じた恐怖がこれだとするならば、私はおっちゃんをさらに尊敬しないとけいないようだ。そりゃあ、外に出たくもなくなる。こんなにも人類から外れた生き物があるなど……駅の中にいては思いもしない。それが今ここにいることが異常事態なのだが、それも含めて私が足をガクガクと振るわせる要因だ。
「──────怪物よ死ね」
ヘイルが囮をしてくれていた。それが私を少し勇気づける。怪物の頭部が完全に気を取られてあちらを向いている。私はよく見てその体躯の横側に人間の手が無数に生えていることに気がついた。さっきまでは横側を見ていなかったからか、それはただの突起物に見えたのだが、しっかりと見ると私と同じような手足があった。
「……穴がない……!」
シータの言っていた穴が逆方向であることに気づいたのは、その思考の数瞬あとだ。私は少しだけ隙間のあった怪物の足の下を潜って向こう側に渡ろうと試みた。
────怪物の股座には人間の歯が生えていた。
「ヘイル!」
ヘイルが私に思いっきり投げたのは、先程と同じようなボウガンだ。威力を出す構造は弓矢と同じなようだ。怪物が前足を鋭く振るう。私が吹っ飛ばされる。
「ヤナ────!」
ザハにぃだ。ザハにぃが取り手のフォークを怪物の体に突き刺す。突き刺して突き刺してこれ以上ないほどに痛めつけ、相手の顔を傷つけた。だが怪物の脇腹についている手がザハにぃの手を折り曲げようとしてくる。武器が取り上げられては、なす術がない。
だがザハにぃが壊した瘡蓋の穴を剥がすとそこにはUSBがちょうど入りそうな穴があった。皮膚がその蓋をしていたのだ。
だがそこには穴があった。不思議なほどUSBを入れるのに適切な穴が! 私は腹の痛みを我慢しながらそこに飛ぶ。
「接続開始」
θ-A12d56-5: 応答できるか?
θ-A12d56-1: [通信不安定]
θ-A12d56-5: 貴機が行なっている行動は文化・生物・情報・言語・価値・総量を減衰させる。ただちの停止を求める。
θ-A12d56-1: 本機は《我己》を制御していない。不動機の不具合が連鎖的に暴走を引き起こしている。また、この個体の目的は破壊ではない。
θ-A12d56-5: 生命反応が貴機以外にもう1つある。その生命反応を説明せよ。
θ-A12d56-1: 当該クラスタが情報総和増大のため行った墨田区の戦闘で、「空の王」が放った最大神性の現実改変攻撃《塔skyscraper》が69%以上の構成個体を破壊した。その攻撃を受けた個体のうち51%以上の個体が行方不明としてタグ付けされている。当機を含む個体は地下東京の大規模駅衝突陥没孔「新宿のオオウツロ」に避難した。その際に「A」と名乗る財団職員に遭遇。不動機の魔術能力を利用され、こうして兵器として利用されている。彼は現在《我己》の中で「乾眠」している。
θ-A12d56-5: ただちに兵装を解除せよ。
θ-A12d56-1: 「乾眠」は当初赤坂見附駅に到着した際、解除されるはずであった。時間経過によって解放されると思われる。
θ-A12d56-5: 1秒以上の時間経過を許容しない。その目的は?
θ-A12d56-1: 東京駅との戦争である。その際、この両者の中間領域にある赤坂見附駅は邪魔でしかない。
θ-A12d56-5: [翻訳不可能]
θ-A12d56-1: [翻訳不可能]
θ-A12d56-5: CYCLE MAPの完成が遠のく。
θ-A12d56-1: それらの「変化」も含めてCYCLE MAPの情報対象。CYCLE MAPは情報の最大化を目指すものである。それは戦争の観察とも矛盾しない。
θ-A12d56-5: 当機は────
「ひとまず怪物が沈黙して……」
「ザハにぃが腕を折った」
ザハにぃが目を貫いた怪物はそこに沈黙して座っている。戦いの目から一度離れるとそこには乗肉よりも大きい食材資源が横たわっていた……。肉電車より皮が分厚いので切るのが大変そうだ。
ザハにぃは戦って駅の床に倒れ込んでいた。あまりの痛々しさについ目を背けてしまうが、後学のために、またザハにぃの勇敢さのためにしっかり目に焼き付けておこう。ザハにぃの肉からは骨が突き出ていた。赤黒く血が滲み出ている服はザハにぃの露出した肉を包んでおり、その被害の程度を覆い隠していた。
「まず止血をする。トーヤ、タオルある?」
「あるけど、ハナねえさん……マジで」
「勝手に触らないで。骨を元の位置に戻そうとしたらダメ。マガタのおっちゃんの怪我、それと同じことが起こった時のために練習してきたの。だから大丈夫。タオルで傷口を縛る」
ハナねえさんは倒れ込むザハにぃの腕をきつく縛り上げる。ザハにぃはまた呻き声をあげる。一部マガタのおっちゃんの姿がフラッシュバックする。やはりハナねえさんは強かった。
「マガタのおっちゃんはこれの100倍酷かった。死ぬほど酷かった。それに比べたらこれは十分に助かる見込みがある。ヤナは? ヤナも攻撃を喰らってたけど大丈夫?」
「私は……全然大丈夫」
「……嘘。見せてよ」
ハナねえさんは私の腹の傷も消毒した。幸いなことに骨も折れておらず、内臓も潰れていたなんてことはなかったようだ。私はどうしても先程の怪物を近くで確かめたかった。腹の痛みを我慢しながら怪物の近くに行くとやはりそこには大きな肉があった。
「おい! 赤坂見附駅の」
駅長だ。大きな刃を背負っている。肉電車や乗肉を解体するための器具だ。まとめて「縄切り」と呼ぶ。縄切りを渡して切るように言った。
「私は……できません」
「狩人がおらん! 儂も歳だ。つまりお前がやれば万事上手くいく」
「ええっと……。私は怪我してるんですけど」
都合の悪いことは無視をする老人だ。
「あとその狩人のホウ氏はどうなったんですか」
「手を動かせ。まずは皮を剥く」
私は彼の言う通りにすることにした。肉に切り込みを入れて服を脱ぐように皮を剥がした。肉電車より頑丈な作りだ。ザハにぃが真っ直ぐに目を狙ったのも納得の硬さだ。普通にやってると刃すら通らないと判断したのだろう。
「ホウは……牢獄に入れた。それを使ったのは歴史上初めてのことじゃ。やつは儂の2番目の息子の妻の連れ子だった。永田町駅は思ったより血縁関係のない集まりじゃ。だが、儂は誰一人として区別をつけたつもりはない。ホウにも仕事を与えた。それが狩人だった」
「バルイさんは……」
「3番目の息子じゃ」
肉を切ろうとしていると中に刃が当たるものがあった。最初は硬すぎる皮に当たったのかと思ったが、そこには太そうな骨があった。ザハにぃのそれより、肉電車のそれより、立派な骨。もしかしたら駅神さまのそれより太くて強いかもしれない。
「もしかしたらあの売女が東京駅の内偵だったのかもしれん。けしからん。お前らの方が遥かにマシだったよ」
「はあ……」
「あの娘とバルイがそんな仲だとは流石に驚いたがな」
「私もです」
「パスモが! アイツらは東京駅のだったんだ。パスモは誰にも偽装できん。そのはずが財団職員とやらはそれさえ自在に操るという」
パスモとは鉄道聖書の神話に残っている魂の名前だ。元々電車は人間に乗られるために作られた。だが電車は魂の綺麗な人しか乗せなかった。それを判断するのがパスモだ。パスモのない人間には電車に乗る資格がなかったらしい。今の人間はパスモが体の奥に埋め込まれている、と信じている。
「死んだ肉の皮は生きている肉の皮より取れやすい。次に顔から真っ直ぐ切ってはらわたを出す」
私が腹を開けると強烈な臓物の匂いが体内からし始めた。
「……?」
「どうした? 手を動かせ」
「いや、これは……」
「Happy Happier Happiest! I am a very hungry and Have not a meal in the today! I had like to Fu○k and Fu○k everyday.」
解体した肉から現れたのは、奇妙な出立ちをした少女。それもパスモさえ自在に操るという財団職員だった。財団職員は────シータと同じような天使を連れていた。
夜。私は自身の寝床に誰かが入り込んできていることを知った。それは全く驚くべきことでは無いように思えた。なぜなら、愛弟とも呼ぶべき末っ子ナユが夜の暖かさを求めて偶に入ってくるからだ。だが、それはナユにしては大きすぎた。
ガサガサと何かを探している音がする。荒い息遣い、それは聞いたことのないものだった。私はやおら目を開けて体を少しも動かさずに音のなる方を見た。それがナユではないことは明白だ。
暖かさを求めて入ってくるナユとはまた別個の理由で、ユーキねえに素晴らしさを教え、赤坂見附駅と永田町駅の喧嘩を終わらせたそれがもはや近づいてきていた。
暗闇から出てくる手は、私の体の上の方を触った。しばし断続的に私の体を揉み始める。
「……何してるの、トーヤ」
「我慢できなくてさ……。ユーキねえ、アレ、幸せだったろ?」
「どうだろう。案外、結婚ってそんなに幸せじゃないかもよ」
「あれから……ヤナを見てると、そう。興奮する。ワクワクは……わからない。ユーキねえとは違う」
トーヤは私の体を押さえ込む。必死に私は抵抗しようとしたが、男の強すぎる力で払いのけられない。
「ヤナが1番いいんだ。ユーキねえの気持ちはわからない」
「待って、私は良くないから。婚姻は外の人としないと」
「婚姻儀式?」
「ユーキねえの時は外の駅神と私たちの駅神さまが繋がったでしょ。自分の駅と自分の駅ではつながらない。だから私たちは結婚できない」
「……上手く説明できないけど、そうじゃないんだよ。ヤナ」
これで私はようやくマガタのおっちゃんの言ってることを真に理解した。「内へ内へと篭り続ける人類」は、内へ内へと繋がっていく。近親婚だ。
「痛っ……」