鍵の掛かった遺影

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marblecat 2023/04/30 (日) 23:58:23 #64217936


昨年、姉が亡くなりました。

休日の出掛けに横断歩道を渡っている途中、信号無視のトラックに衝突されての事故死でした。お医者さんの話によれば、姉はアスファルトに頭を強く打ち付けていた為、殆ど即死だったそうです。それほど苦しまずに逝けたのなら、不幸中の幸いでしょうか。

僕と姉は、実家のマンションで2人暮らしをしていました。両親は既に他界しています。僕が高校3年生の時に、同じくトラックとの交通事故で。ちなみに僕たちは3人兄妹であり、以前は1番上の長男も居ましたが、現在は自分の家庭を持っているので別々に暮らしています。僕の知る限りでは、姉と兄は昔から馬が合わなかったので、兄の方もさっさと出ていきたかったのだと思います。

そんな訳で、四十九日の法要が終わった後に姉の遺品整理を任されたのは僕でした。初めは断ったのですが、兄に「頼む」と頭を下げられたので、渋々ながら引き受けることにしたんです。今にして振り返ると、あの時の自分の選択には後悔しかありません。

生前の姉は、訪問介護のホームヘルパーをしていました。

身寄りの無いお年寄りや、病気で寝た切りの方々のお世話をする仕事ですね。姉は子供の頃から心の優しい性格で、両親が亡くなった影響もあってか「人に寄り添う仕事に就きたい」と話していました。なので、一応は将来の夢を叶えたということになります。

ですが、現実はそう甘くはありません。御存知の通り、介護職は押し並べて激務であり、利用者さんから理不尽な暴言や暴力を受けたり、セクハラ紛いの被害に遭うのは日常茶飯事です。時が経つにつれ、姉の生活は荒んでいきました。帰りが夜遅くなることもあって、ちょっとした擦れ違いも多くなりました。実際に手の出る喧嘩もしましたし、その度に何度も泣かれました。最近では、姉弟の会話すら殆どありませんでした。

そんな有り様ですから、もっぱら家事を担当するのは僕の役目でした。当然、風呂場やキッチン、リビングの掃除なんかは当たり前の日課となっていました。それでも流石に、姉の部屋にまでは手出しが出来ていませんでした。もちろん、部屋の扉には鍵も掛かっていましたしね。

そういった事情もあり、こうして姉が亡くなって初めて、いくらか緊張しながら立ち入った部屋の中は、テレビのワイドショーで取り上げられているようなゴミ屋敷でした。床を埋め尽くす雑貨の包装やペットボトル、使用済みの化粧品などなど…それらを袋詰めにして片付けるだけでも2時間程は掛かりました。

さて、次は衣類の整理をしようか。そう思いながら、僕はベッドの近くに置かれたクローゼットをおもむろに開きました。そして、そこには姉の私服や小物なんて何処にも見当たりませんでした。

クローゼットから出てきたのは、底に置かれた何台ものスマートフォンでした。

細かくは数えていませんが、ざっと30台ぐらいはあったでしょうか。機種はバラバラでしたが、高齢者向けの、所謂「らくらくホン」と呼ばれるものが多かったと思います。どういう訳で、クローゼットに大量のスマホが仕舞ってあったのか? 正直なところ、得体の知れない気味の悪さよりも、インターネットの都市伝説的な体験を目の前にした興奮の方が勝っていました。僕はその内の1つを手に取って、電源ボタンを押してみました。クローゼットに放置されていたものなので充電切れを予想していましたが、それは正常に動作しました。

表示されたロック画面の壁紙には、笑顔でこちらを見つめる、鼻の穴に管を通した老婆の姿がありました。

全く知らない顔でしたが、多分、姉の仕事に関係する人物だろうなとは思いました。その老婆は明らかに他者の介助を必要としており、背後に写り込んだ家具類から察するに撮影されたのは病院や福祉施設のような場所ではなく、彼女の自宅の寝室だと分かったからです。十中八九、姉の担当するホームヘルパーの利用者さんでしょう。とすると、このスマホは壁紙の老婆の所有物だと考えるのが自然です。そんなものが何故か、姉のクローゼットに仕舞われていた。

他のスマホも片っ端から電源を付けてみましたが、殆どが同じパターンでした。パスワード式のロックが掛けられていて、満面の笑顔の人物が壁紙に設定されている。大体が年老いていて、今にもぽっくり死んでしまいそうなぐらい顔色が悪い。さながら、故人の葬式で使われる遺影のようです。

ただ、その中でも1台だけ例外がありました。それはピンク色のiPhone13で、他と同じようにロックこそ掛かっていましたが、肝心の壁紙には他のスマホと違って誰も写っていませんでした。恐らくは、辺りが真っ暗闇の野外で撮られたものだと思います。赤黒い染みと、灰色がかったマーブル模様がうっすらと透けているだけです。更に、このスマホを手に取ってすぐに気付いたことがありました。僕には確かに、見覚えがあったんです。

それは、姉のスマホで間違いありませんでした。

もしくは、奇跡的に機種やカバーや画面の割れ具合が姉のスマホと完全に一致していただけかもしれません。その時はただ、姉が亡くなった事故現場からスマホは見付かっていなかったことを思い出したんです。そうか、姉は出掛ける時にスマホを部屋に忘れて行ったんだなと、心の中で1人勝手に納得していました。姉の遺品整理に手を付けるまで、少しもそれに気付かなかった不自然さには、自分でも無意識に目を瞑っていたんだと思います。

どちらにせよ、僕はこのスマホに興味を持ち、どうにかしてパスワードを解除できないものかと考えました。他のスマホのロックは解けそうもありませんが、これが姉のものならば突破できる可能性はあります。取り敢えずは、姉に関係する記念日を手当たり次第に入力していこうと決めました。まだ姉弟の仲が良かった頃、たまたま姉に借りたスマホのパスワードが『20150409』という数字で、これは両親の亡くなった日付でした。まずはこのパスワードを試してみようと、フリック入力で指を動かします。

『20150409』

予想はしていましたが、やっぱり外れでした。

『19971012』

これは姉の生年月日です、違いました。

『19930425』
 
次は姉の元カレの生年月日、これも違います。

『20170921』

『19940312』

『20110726』

『20101019』

『20170405』

『20210109』

・ ・ ・

『20221127』

あれから、どれ程の時間が経ったのか。何度目かも分からなくなった挑戦の末に、カチリと小さな音を立てながら、とうとうロックは解除されました。

正解のパスワードは、姉の命日でした。

どうして?

僕は堪らず、息を呑みました。一体、僕は何を思ってスマホのパスワードに姉の命日を打ち込んだんでしょうか? もっと言えば、これは姉のものかも疑わしいスマホに設定されたパスワードです。そもそも桁数や英数字の組み合わせが膨大過ぎるし、まともな人間なら手打ちで解こうとは思わないでしょう。「数打ちゃ当たる」でロックを突破できる可能性なんて、元から無いに決まってる。不意に後頭部を内側から押し込まれるような鈍い痛みが走り、忽ち思考が鈍りました。あやうく意識が遠のきそうになったので、逃げ場を探して自分の手元に視線を落としました。

ロックの解かれたスマホに映し出されていたのはホーム画面ではなく、スケジュール帳か何かのアプリを開いたものでした。何故か、去年の11月のカレンダーが表示されていて、各日付ごとにびっしりと予定が打ち込まれていました。仕事、休み、買い出し、友人との待ち合わせ。そして、2022年11月27日の項目に入力された「終わり」の文字。それ以降は空白で、何も書かれていない。

僕は突然、凄まじい吐き気と目眩に襲われて、手に持ったままのスマホをクローゼットに投げ戻すと、急いで部屋を後にしました。それからトイレに駆け込んで、食べたばかりの昼食を全て戻しました。その後はあまり覚えていませんが、いつの間にかリビングのソファで眠っていたようです。

以来、姉の部屋には1度も入っていません。あのスマホは本当に姉が利用者さんから集めてきたものだったのか、そこに写った人々は果して何者だったのか。僕には今更知る由もなく、わざわざ自分で調べてみようとも思いません。

後日、行きつけの携帯ショップに赴いて、姉のスマホの契約は解除しました。トラックに踏み潰されてしまったから、壊れた本体は捨ててしまったと適当な嘘を吐いて。あらかじめ必要な書類と印鑑は揃えていたので、特に問題はありませんでした。

それと、僕にはもう1つだけ、姉のスマホの解約とは別件で店員さんに相談したいことがあったのですが。最後まで悩んだ挙げ句、結局は何も言えずに帰ってきてしまいました。

まあ、僕たち姉弟のいざこざに赤の他人を巻き込むのはちょっと気が引けるし、申し訳ないとは思いますから、仕方のないことでしょうね。

なので、僕は未だに、首から血を流した自分が笑顔で映るスマホのロック画面を解除できずにいます。

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