三年前、父が鬼籍に入った。彼は悪い人だったから、きっと地獄に行っただろう。
彼は私をよく打った。「愚図だから」「一度言ったことができないから」などと、口先の理由だけは毎度変わっていたけれど、本当のところは全て気まぐれだったと思う。
酒をあおると途端に機嫌が良くなって、私に気前よく絡んできた。うわはは、と笑って。彼のごわごわした手が肩の青痣に触れて痛かった。
彼は学習塾をやっていた。物を教える能は人よりあったのか、そこそこの生徒を世間で言われる難関校とやらに送り出し、金を稼いでいた。そんな父の元で励んでいた私は、良いとも悪いともつかないような成績を出し続け、それなりの高校、それなりの大学に進んだ。
ひょっとすると、父にとっての私は、沢山いる生徒のうちの一人、それも出来損ないに過ぎなかったのかもしれない。
彼は仕事帰りに駅の階段から転げ落ちた。 まあ疲れて足を踏み外したとか、そういう事故だろう。よくあることだ、と医者は溜息混じりに吐き捨てた。
フランスの小説家、ジャン・コクトーは戯曲の中でこう述べた。
“運命とは、地獄の機械である。”
まったくその通りだ。私は運命という残酷で、極めて人工的な渦の中に取り込まれていくらしい。
腰を悪くしがちな母とまだ高校一年の妹を食わせてやらねばならなくなった。父の遺した貯金や保険金はまだあるが、それではちっとも足らんのだ。
私は大学を辞め、寮から実家に飛んで帰り、物流に関する企業に就職した。父の古い友人がそこに勤めていて、私を良いように紹介してくれた、らしい。
大学でやりたいこともそんなに無かったし、むしろ丁度良いと思った。
私には恋人がいた。名を雪菜と言う。
その名前のように白くて瑞々しい女だった。大学一年で出会ったが、詳しくいつだったかは覚えていない。彼女は下らないことでよく凹む私の肩を抱いてくれた。その手は名前とは反対に暖かかった。
私は彼女と結婚するつもりでいた。きっとそうなるだろうと信じていたし、恐らく、彼女もまた、そう疑っていなかったはずだ。
しかし、父が死んだから、そうともいかなくなった。金が無いことには世の中何にもできやしない。
先のことを思っていると、社会というものはどこまでも暗くて、私を独りぼっちにしようとするのだと気がついた。雪菜は、そんな暗がりを掻き分けてこちらに手を差し伸べてくれるような女だ。
私には勿体なかった。
父が死んだことはメールで伝えた。電話だと、私の気持ちが沈んでいることはきっと筒抜けになってしまうから。
雪菜は「大丈夫?」といった意味合いの返信をよこしてきた。大丈夫かと訊かれたら、大丈夫だと応える他あるまい。
葬式には呼ばなかった。まだ身内じゃないから、なんて適当なことを言って。でも、彼女を呼べるほど私たちに余裕が無かったのは本当だ。
家族葬は安くて良い。
大金はたいて会いたくもない父の知人を寄せ集め、此の度は云々お悔やみ申し上げ閑雲と定型文を耳にたこができるほど聞かされるのはうんざりなのだ。
念仏を聞き流し、インターネットで検索した通りの手順で焼香を上げる。そのサイトには焼香の香りが部屋に広がる様は仏の慈悲が行き渡るかのようだと書かれていた。
焼かれてほろほろになった父には意志の欠片も宿っておらず、まったく怖いものではなかった。布についた染みを吸い出すように丹念に、それらを啄んで集めた。私はもはやその灰を投げ捨てたいとは思わなかった。
雪菜と会ったのはその三日後だ。
やはり彼女は私のことをひどく心配していた。私はわざと、葬儀は済んだよ、なんて的外れなことを言って、気分転換をと映画に誘った。
その時の気分は、ラブロマンスなんぞ糞喰らえであった。私は敢えて怪獣映画を選んだが、彼女は不満を言わなかった。ますます私には勿体ない女だと感じた。
核実験によって生み出された怪獣は大洋を渡り、東京に上陸する。東京タワーを真っ二つにし、足元のビルディングや塵芥を叩き潰して、捩じ切って、蹴り飛ばした。二十三区は火の海になり、怪獣の黒い岩肌に橙色の火炎が良く映えていた。
そんな破壊の限りを尽した怪獣も、最後には米軍の最新兵器とやらに殺される。
それでも喪った人々は戻らないと、民衆は泣いていた。
自分たちは生き残ったというに。
彼女は、はっきり言ってあまりその映画を楽しんでいなかった。しかしそれは私も同様だった。
私の人生は、父が死んだことで、怪獣に家族を奪われた人々のように劇的に変わった。喪失に泣く彼らは恐らく、あの日の業火の朱いのを生涯忘れないだろう。
脳裏に浮かんだのは、真っ白な灰。
……私は何を、どれくらい覚えていられるのだろう。
雪菜には、前から気になってた映画だったから、なんて適当な嘘をついた。それなりに面白かったと言った。気を遣わせないためだったとはいえ、それもまた嘘だ。
私は今日だけで何度彼女に嘘をつくのだろう。こちらに差し伸べられた手を、突慳貪にあしらい、一体何がしたいのだろう。視界の隅に一軒のカフェを捉えて、私は彼女に珈琲を提案した。
おしまいにしませんか。
私はにわかに話を切り出す。雪菜は一瞬、ほんの一瞬だけ目を丸くして、珈琲を啜った。どうして、と訊く声色は、私より遥かに冷静だった。
私に結婚はできません。
ぽつり呟く。彼女は、まだ他にも言うことがあるだろう、といった様子で、静かに私の瞳を見つめていた。
私はまだ、あんまり若いのです。母と妹を支えるのに精一杯で、貴方にはきっと何もしてやれない。私は父ほど強くはないのです。
嗚呼、可能ならばこんなこと、本当に言いたくなかった。
貴方には私よりもうんと良い男を捕まえて、其奴と結婚してほしい。それが一番幸せになれます。
私はまた無責任な出鱈目を言った。言っていて、目の窪んだ所から感情が染み出しそうになった。あんまり惨めで。
雪菜はぴくりともしなかった。カップに添えられて、斜めの陽がかかった右手は透き通って見える。それは死んだように美しかった。互いの珈琲からゆらゆらと白煙が延びて、好き放題にぼやけていく。
もはや私はこれ以上、一言たりとも喋れないといった雰囲気であった。喋り継ぐには間が空きすぎたし、何より珈琲が塩っぽくなりそうだった。耳障りなクラシックが私と彼女の間の空気を蕩けさせていく。
彼女は私の心の内をじっと見ているようだった。そして、それはもうほとんど済んだらしく、とうとう彼女は口を開いた。
……まだ、早いんじゃないかしら。貴方は今、平静じゃないわ。またじっくり考えておいて。それで、次会った時に話しましょう。
それにね……
彼女は付け加えた。
私はいつだって、貴方を支えられるのよ。
カフェを出た時、彼女はあまり私を心配しているように見えなかった。むしろ、私の気持ちを読み取ることができて幾分機嫌が良いようだった。
帰り際、雪菜は笑って言った。
あの映画、実はあんまり面白くなかったんじゃない?
どうしてそれが分かったのか、私は訊けなかった。なぜなら彼女はそれだけ言ってすぐに帰ってしまったし、その後私がほとんど誰にも言わずに連絡先を変えてしまったからだ。
大学を辞めて始めた仕事は微塵も楽しくなかった。こんな世の中では、愉快に飯を食っていける方が珍しいのだが。頭では分かっている。分かっているが、私にはひどく堪えた。
私に仕事を斡旋した齋藤というのは、相当話のつまらない男だった。私が上手くやっていけるようにと気配りをしていることは分かっていたが、それにしたってつまらない男だった。
彼には趣味が無いから、いつだってくだらない思い出話しかできない。今を語る何かしらを持ち得ていなかったのだ。
つまらない仕事をし、つまらない話を聞き、つまらない日々が浪費されていく。
しかし私にはそれ以外の道が無かった。妹にこれ以上の苦労はさせてやりたくない。父が死んで、彼女はバイトに加えて、今まで母がやっていた洗い物やアイロンがけなんかも率先してやるようになった。母は治りかけのあかぎれの手を擦りながら、ありがとうねと言っていた。
妹はそんな母を見て、いやいや母さんこそ、いつもありがとうねと笑った。彼女は優しく器量も良いので、きっと良い妻になるだろう。
たとえ私が地獄の機械に呑み込まれたとしても、妹だけは逃がしてやらねばと思った。
ローンが無くなったことは、父が死んで良かったことだっただろう。それでも、三人で住むには些か手広な一軒家、その部屋の隅にはだんだん埃が積もっていった。日を追う事に煩わしくなる駅から遠いその土地は、それ以上値段が下がる前に売っぱらって、母方の親族が持て余していた鰻の寝床に引っ越してしまった。
奴等は相当のけちだ。たまたま余っていた土地をこちらに丸投げして、それ以外は何の援助もしてくれなかった。
帰りの電車の中や駅のホームなんかで、私はふと辛くなる。これから向かう先が分からなくなって、萎んで消えてしまいそうになる。
私に差し伸べられた手は払い除けてしまったから、そういう時、私は本当にひとりきりになってしまった。しかし、人にはひとりきりで、部屋の隅で泣く時間が必要なのだ。私はその時、ひとりきりで泣くべきだった。そう思う。
全てが低水準の日々、その繰り返しは、私に低水準な日常を刷り込むのに充分な時間を過ごさせた。
大味で平べったい緑の歩道橋、その上から眺めるとこれまた単調な色彩の自動車が渺渺と行き交っている。まるで雨粒のような小さな車たちは、その中に一人か二人か三人かの人生を組み込んでいて、そいつとガソリンを燃やして走っているんだ。
ある人は車の中で笑っているし、またある人は泣いているし、またある人は怒っている。
でもどんな人だって、向かうべき場所、帰るべき場所があるから車を走らせているんだ。もしかしたら、千台に一台くらいは行くあてもなく彷徨っている車があるかもしれない。私は例えるならその一台で、他の車が羨ましくて羨ましくてしょうがなかった。
なに別に、本当に帰る所がない訳じゃない。一応は家だってあるし、そこに帰れば家族もいる。ただ、本当の私は常に重いものに抑えられていて、家での私は私らしく振舞おうとする何かに過ぎなかった。
真に私の居場所など、存在しなかった。
私がなぜ大学生になって一人暮らしを始めたか、理由が分かるか。盆、私が実家へ向かう新幹線に如何様な気持ちで乗り込んだか誰が知れるか。父が遂にいなくなった喜びを分かち合うことなど誰にできよう。
私が、私たちが分け合うことができた唯一のものは、父がいなくなった苦しみだけだ。
地獄の機械の嗤い声は、日に日に大きくなっていった。
低水準な日常は私を話のつまらない男にするには充分すぎた。私は齋藤と同じ途を辿る定めだったのかもしれない。かつての私は映画を観ることが趣味だっただろうか。映画など、あのつまらない怪獣映画の後、一本たりとも観ていない。
だが、私は話のつまらない私自身を受け入れつつあった。なぜなら、私にとって話すことはもはや楽しいことでも何でもなかったからだ。
父がいなくなった空洞をただ埋めるだけ。心とか、時間とか、そういう大切っぽい何かをシャベルで掘って、掘った土を父が空けてった穴に注いでやるのだ。あとどれくらい掘れるだろうか、ちゃんと埋め切れるだろうか、なんて考えて。
私は本当は山を作りたかった。私の持てる時間や魂のあれやこれやを使って、立派で、ごつごつとした尾根もあって、てっぺんはほんのり粉雪がかかっているような、そんな高い山を聳えることができたら、なんて思っていたはずなのに。
妹もだ。妹だって、山かどうかは知らないが、何かしら立派なものが作りたかったろう。でも、二人して穴を埋めているんだ。なかなか終わりが見えないね、私たちで何とかなるかしら、なんて言いながら。
その様子を見て母は泣いている。私の腰が悪くなければ、二人にこんな苦労をさせることも、って。でも、母が最初に腰を悪くしたのは、父が癇癪かなんかで母を突き飛ばした時だった。
私は行き帰りに通る緑の歩道橋が好きになりつつあった。この能天気な色彩が私を少しだけあの頃に戻してくれるからだ。
水族館の大水槽で悠々と泳ぐジンベエザメとか、遊園地の土産屋の棚に並ぶ、ふざけた値段のイヤーマフとか、真っ昼間の屋台で買ったベタベタのリンゴ飴とか。色んな景色と、雪菜の笑顔が順繰りに浮かんでくる。
……彼女は幸せにやっているだろうか。
そうあってほしいと願う。
彼女が愛するものを、私も等しく愛することができればどれほど良かっただろう。でも、それは無理で。私にとって愛は、傍若無人で乱暴な気持ちだった。
あの時の私は、彼女への愛を愛していなかった。雪菜へ向けた感情は、巡り巡って、いつしか責任感や罪悪感へと名前を変えて、私に重くのしかかってきた。
私が愛に責任や罪を感じていること、そして何よりそれが彼女に伝わってしまうことが恐ろしく、辛かった。限界だった。
だからせめて、私がかつて愛したあなたには、うんと幸せになってほしい。
私のことなどさっぱり忘れてしまってください、って、ちゃんと伝えれば良かった。
轟轟と鉄屑が平均時速四十五キロで流れる河から目線を上げる。ふ、と視線を感じて横を見ると、なんと女が立っていた。
この半年、ちゃんと、じっくり考えた?
彼女は笑って言った。私にはあまりにも勿体ない女だ。
雪菜は半年の間、ずっと私を探していたと言う。あんな状態で放っておいたらふらっと首を吊りそうなんだから、放っておけないでしょう、まさか連絡先を変えるだなんて、と、きつく説教された。
大学に行けば籍は無いし、家へ向かえば住人無し。彼女ははじめ、私が本当に首を括ってしまったものだと思ったらしい。それでも、授業やバイトの合間を縫って私の知人を一人ずつ当たったという。そして、半年。長かったろう。
私は無責任にも泣いた。
遅くなってごめんね、と彼女は謝った。
私にできることは、彼女よりも深く、地面にめり込む程深く、頭を下げることだけだった。
その日から、今日で二年半が経つ。
早いものだ。運命という赤黒く巨大な地獄の機械に一度巻き込まれてしまえば、抜け出ることは到底叶わない。宝くじで五億円を引く確率は実に一千万分の一らしい。地獄の歯車から脱却するというのは、そのようなものを言うのだ。
……独りの場合は。
運命を司る業火の歯車は、たったひとつの、ちっぽけなネジが絡まることでその動きを止めることもある。
あるいは、誰かと共に歩む地獄ならば、幾分怖くないことだってある。
私にとっての地獄の機械は、その慟哭を止めただろうか。私には分からない。しかし、この二年半でそれを恐れたことは一度もなかった。
雪菜が私と歩む地獄を愛そうと言うのなら、私も彼女と歩む地獄を愛してやろうと思えた。
一度、彼女に尋ねたことがある。
何故こんなにも私に良くしてくれるのだ、と。
それは私にとって、心からの疑問であった。雪菜が私を支えてくれたことは、一度や二度では無い。さて私は、彼女に何をしたのだ。一等高いマフラーを巻いてやったのだろうか。悪漢から身を呈して護ってやったのだろうか。
しかしそのような疑問は、雪菜の瑞々しい笑顔と比べると、至極どうでも良いことになってしまった。
雪菜は妹とも気が合うようで、それも手伝った。母と妹と私と雪菜、四人でひとつ屋根の下。存外楽しい日々だった。その時家が、真の意味で私の居場所になったのだ。
雪菜は妹に代わって家事をやるようになり、妹は週に一度しか行けていなかった部活動に、週に四日顔を出せるようになった。
雪菜は再び、暗がりにその救いの白い手を伸ばしてくれたのだ。
毎日のように会社に行く。この二年半で色々なことが変わったが、それだけは変わることがない。私はまだまだ話のつまらない男で、映画もあれきり見ていない。
しかし、そんな私を雪菜は愛そうと言うのだ。
雪菜はしばしば、愛を川に喩えた。愛は始め、湧き水のようにそっと溢れてくるものだと。明確な理由などなく、ただ一度、そこに水が流れたから、その後を追うようにして無償の愛は心に川を彫るのだと。
心の川は水が流れずとも確かにそこに路を残し、雨でも降れば再び川床は潤う。
私が如何に大きな愛を雪菜に抱えているのか。それを彼女は知っていた。
私は雪菜に愛を囁き、愛ゆえに別れを切り出した。そのことを知っていたのだ。私の目をじっと見つめ、私の心を見抜いていたのだ。
私が雪菜に注いだ愛は、雪菜の心に跡を残した。だから彼女は私を徹頭徹尾愛そうというのだ。
愛とは難儀なものである。
そして私も相応の覚悟を決めているのだ。私は、雪菜を大切にしたいというこの気持ちを本当に愛してやらねばならない。私ならば、いいや私こそが雪菜を世界でいちばん幸せにしてやるのだという自分勝手な気持ちこそが、何より肝心かなめなのだ。
会社帰りの鞄の中、そこに眠っている買ったばかりの婚約指輪は、眩い銀に光っていた。
緑の歩道橋を渡る。毎日、ここを通る度に雪菜と再開した二年半前のあの様子が浮かぶ。それは今や、一つの微笑ましい思い出となりつつあった。もう、この甘ったるいパステルグリーンも、眼下を疾走する車たちも、私に何らかの感動をもたらすことはない。それは寂しいようでいて、小さく喜ぶべきことでもあった。歩道橋を越えれば、家はもう近い。私の帰る場所。
私の背丈をおおよそ三倍に延ばした影が地面に貼り付けられている。夕暮れ。朱い光が辺りを充たす。
不意に、右目側にあった電柱を見る。
そこには張り紙があった。
「罪人の死亡が無事確認されました。ご協力ありがとうございました。」
知らない男の写真と、その男のものらしき名前。そして、階段から突き飛ばして殺したという旨の文章。
男は顎の周りに髭の剃り跡が残っていて、髪の毛はぼさぼさ、黒縁の眼鏡をかけている。
あまりにも突飛な張り紙に、私はしばらく目が離せなくなった。どうもこの男が父を殺したというのだ。そしてその男も今日、ついにくたばってしまったのだろう。
たちの悪い冗談にしか見えなかったが、冗談ではないだろうと感じた。私に迫り来る何かがあった。
“運命とは、地獄の機械である。”
地獄の機械が、久方振りに唸り声を上げた。
成程。これを運命と呼んでしまうのならば、確かにそれは疑いようも無く悪趣味な地獄のきゃつらの仕業であろう。鬼か妖か、いずれにせよ、手をこまねいているに違いあるまい。
もしもこの男が父を殺さなければ。三年前のあの時、一瞬の躊躇いがこの男にあったならば。今は大きく違っていたかもしれない。私は大学生を満喫していたかもしれないし、雪菜と既に結婚していたかもしれない。じきに一歳になるような子どもだっていたかもしれないのだ。
それが、こうなった。
私は鬼や妖の思うつぼ、暗がりに独りで篭ってしまい。どんどん心を病んでいった。
しかし、雪菜はそこに、そんな私に手を差し伸べてくれたのだ。
そうして得た今の愛にどうして何かが勝ると言えようか。無論ここで言う愛とは、自己愛のことである。
あなたが愛するすべてを愛する。
単純でいて、この上なく難しいこと。あなたが愛する私を愛そう。あなたが愛する居場所を愛そう。あなたが愛した過去さえ愛そう。あなたが愛する今をも愛そう。
そうすることができれば、もはや私にとって父は不要だ。
母は、親孝行な子どもを持った、とよく笑顔を見せるようになった。妹は部活動を全力で楽しみ、料理が楽しいと言うようになった。雪菜に料理を教わりながら、将来は料理人になりたいと言っていた。齋藤は甥っ子が産まれたと話し、その子が如何に可愛いか私に熱弁をふるうようになった。なんという、愛すべき今なのだろう。
機械とは、往々にして愛を知らないものである。愛すら知らない機械ごときに負けるつもりは毛頭ない。
私は運命を愛してやろうと思う。
そも、父は既に死んでいる。今さらそんなことを掘り起こしたとて、どうにもなるまい。ならばこれは私が墓まで持っていこう。
私は紙ペラを電柱から剥ぎ取ると、乱暴に丸めてズボンのポケットに押し込んだ。
閻魔は善行と悪行を見て、其の人の行く末を決めると言う。殺されることは悪行ではないが、まして善行でもあるまいし。
あんたは今頃地獄から、こっちを見上げて笑っているのか、はたまた泣いているのかもしれない。でも、安心してほしい。
あんたが撒いた苦しみの種は、こっちでちゃあんと育ててやっから、あんたはあんたを殺した人と、そっちで仲良くやればいい。
地獄の機械の耳鳴りは、既に何処ぞに消えている。
鞄の中の銀の指輪が、より一層強く輝いたように感じた。



