エージェントくん、座ってくれたまえ。怯むことは無い。私は戒めに縛られた身だ、立場は君の方が上なのだ。
どうか、驚く事無く、静かに私の話を聞いてくれ。私達の夢と希望、そして罪の話を。
世の中は、実に多くの危険に満ちている。それは君たちとて承知のはずだ。
未知という暗黒から伸びる不可視の手は、人々のか細い肩を地獄へと引きずり込まんと常に蠢いている。
それは人智を越えた恐怖であり、科学を超えた神秘である。
可能性に満ちた希望でありながら、また人類の存続を脅かす諸刃の剣である。
そして、君たちがその剣から人類を守ろうとある日決心したのと同様に、我々も使命に燃えて立ち上がったのだ。
科学による未知の究明、探求、不安と脅威の除去。それは科学が万象を解明する真理の長であることを証明したい、と願う我々の矜持であり、人類の存続と新たな可能性を見出す試みの先頭に立つという自負であった。
我々は、より強い人類の創造を目指した。それが我々の目的を達成する最大の近道であるように思えたのだ。分かるかねエージェントくん、科学とはズルをして近道を探すことに似るのだ。
そこでまず、我々は我々の力でどれだけの事が可能なのかを調べる事から始めた。我々の目指すものは「完璧」だ。病も飢えも怪我も無く、死や感情すら生態系維持のために自在に調整可能な生物。それが目標だった。
我々はまず、人間と他の生物を掛け合わせる事から始めた。それは遺伝子的な適合の試み、精神作用による動物へのミーム効果実験、ヒトによる非人間的な生態の再現、模倣が含まれていた。
それらの多くは失敗し、不完全なもの、人間としても非人間としても脆弱な失敗作が多く生まれた。
だが我々は一顧だにしなかった。使命と情熱が我々を衝き動かしていた。
問題は、間も無く起きた。資金の事だ。今思えばそれが全ての始まりだったのか・・・いや、馬鹿げた夢想を抱いた時から罪は始まっていたのか。
とにかく我々は資金調達の必要に迫られた。我々は時代の変化に伴って、多くの背景を既に失っていたのだ。我々は既に孤立していたのだ。
必要となったのは、商品だった。我々は研究の成果、あるいは失敗作を商品として取り扱わなければならなかった。
失敗作の出来損ないも、壊れたぬいぐるみのような素材たちも、それはそれで買い手はあった。我々は仲介業者のような連中にそれらを渡したが、それらがどのように使われたのかは、想像したくもなかった。
我々は、より資金を調達する必要があった。それは買い手のニーズに応えるための商品を創造する必要性と同義だった。
そのために、我々は新たに人材を入れなければならなかった。人類の可能性を探求し、救済を目指すためのものを作れる者ではなく、買い手の喜ぶものを作れる者たちだ。
始め、我々は異なる使命を持つもの同士で棲み分けが出来ると考えた。科学者はストイックなものだ。君も分かってくれるはずだ。
しかし、彼らは己の欲望のままに、その浅ましき嗜好と欲に従い研究を行った。どれも実に見るに堪えないものばかりだった。陰惨な欲望そのままの姿形、性質、彼らは我々の失敗作を狙って作り出しているようだった。
彼らの作ったものは、不思議とよく売れた。それに伴い彼らは我々の中で発言力を強め、全体の活動がより犯罪活動に深く関係するに従い我々は地下化せざるを得なかった。
収入があり、満足に研究が出来、施設の数や規模も広がった。だが既に、純粋な動機から始まった我々の旅は終着を迎えていた。
結局の所、我々も彼らとそう変わりはしなかった。世界を守りたいという独りよがりな願いから犠牲を強いること、それは彼ら同様に欲望を剥き出した姿だ。
我々とて、自分の力をただ誇示したかっただけだったのだ。故に、彼らに迎合し、歪んだ人類の可能性の探求に明け暮れることを渋々ながらも良しとしていた。
我々は、なあなあであっても、自らの目的は達成出来る、と根拠の無い楽観を貫いていた。
そしていつしか、我々は彼らそのものとなった。
対象に薄汚れた欲望をぶつけ、マッドサイエンティストの如き実験に耽溺し、これが最先端の探求であると嘯いた。
私も、自らが病に侵されたことを知った時、エゴの海へと沈んでしまった。死への恐怖、拒否、「まだ終わりではない。これで全てではない」という想い。
その時に、遂に私の意思からも人類という枠組みが消えてしまったのだ。
我々は、歪み、腐った欲望を実現するための利己的集団と化した。あたかも元からそうであったように。
エージェントくん、君たちから目をつけられた事を、我々は早々に理解していたよ。
だがもう遅過ぎたのだ。我々は水槽の前から離れられなくなっていた。科学という名の快楽を麻薬のように貪る事を、やめられなくなっていたのだ。
自らの見つめる水槽の中にこそ、我々自身が閉じ込められていた事に気付かずに。
ただひたすらに、作り、調べ、そして童子の如く飽きた玩具を打ち捨てた。新しき人類の創造という当初の目的すら、我々にとっては娯楽の一つだった。
発見の恍惚。欲望実現の快感。それは、科学者が科学から得られるほぼ全てのものだ。故に、我々は止めなかったのだ。
そして、遂に起きてしまったのだ。
我々が犯した罪とは何なのだろう? 使命を忘れ去った事だろうか。それらから人類を守りたかった、そのそれらを生み出す側に回ってしまった事だろうか。
自我に凝り固まり、分別なく欲望を発露した事だろうか。自らの創造物を無責任にも他者に譲り渡すに飽き足らず、打ち捨てた事だろうか。
あるいは、それらを止めるどころか、いつしかずるずると同調した事だろうか。
・・・あの件については、私とて詳細は分からない。
何かを見つけた研究班があり、いつも通りにそれを研究していた、との事だ。ありふれた事だった。
しかし、何かが起きたのだ。施設は破壊され、施設職員の殆どが殺し合ったか自殺した。
ごく僅かな生き残り達も精神を病み、意味不明な妄言を繰り返した挙句機密保持のため薬殺された。
データも記録もその多くが破壊されていたが、生き残り達が大急ぎで何とか持ち帰った断片的情報から様々な推測が立てられた。
そして、彼らは・・・あろうことか、それを再研究し始めたのだ。同じ事を繰り返そうというのだ。それが未知であるから、解明されていないから、だから再研究しようと言うのだ。
「科学に犠牲はつきもの」 その言葉だけで全てを片付けて。
これこそが、罰なのだ。我々が犯した罪に対する罰なのだ。狂気の代償は狂気なのだ。
我々は全てを失うまで研究を続けるだろう。それは恐らく、世界全てを巻き添えにして。
そして最期の瞬間に満足するのだ。「出来た!」と声高に叫びながら。
だから、エージェントくん、君たちが止めて欲しい。
私は意識と思考があれば、それが人間を人間たらしめてくれると思っていた。それこそが人間を定義付けると思っていた。
それは間違いだったのだ。肉の体が無くては、人間は人間では無いのだ。
ビーカーに浮かぶ一つのちっぽけな脳が私の全存在である事を、私はもう直視したくないのだ。
だから、エージェントくん、もう終わらせて欲しい。
我々はまだ代償を払い終えていない。自らがかつて犯し、今犯し、これから犯す過ちを清算出来ていない。
罪には罰が支払われる故に、まだ終わってはいない。終わってしまってはもう手遅れなのだ。そうなる前に止めなければならないのだ。
我々は、日本生類創研は、もう代償を払えないのだろう。しかし虫の良い話ではあるが、どうか、どうかお願いする。
止めてくれ。狂気によって砕かれるには、世界はあまりにも美しい。