電子を抱く光の意味を
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それがいつ頃始まったのかは、誰も正確には把握していない。だがそれは確かに6月13日の午後2時17分37秒に始まった。サイト8181の職員の一人が持つプライベートな電子メールアドレスに送信されて来たのは、最初以下のような文章にしか過ぎなかった。

おはよう。ごめんなさい。あなた達が大事にしてるものを、壊しちゃう。

最初、と言ったのは、その文章が職員によって閲覧されているまさにその最中に変化していったからだ。

私達はあなた達がSCP-496-JP-1って呼んでいるけれど、まだ未発見のもの。ごめんなさい。おじさんが私の目の前で私を次々に殺していくの。そんなの、もう耐えられなかったの。本当にごめんなさい。

この文章が表示されてから丁度19秒後に、サイト8181はあらゆるシステム・プログラムのコントロールを失った。


「あなたは、その時何が起きたのだと思いますか?」

机に肘をつきながら、監察官は神妙にパイプ椅子に座すエージェント・保井へ問いかけた。
彼は右目と左目の大きさの差を更に広げながら、不快そうな態度を隠しもせず答えた。

「さあな。あの時は、イカれた狂信者どもが無謀な襲撃をぶちかましたか、さもなくばコンピューターに強いクソScipが収容違反を起こしたんだと咄嗟に思った。496の報告書は読んでたが、そいつのせいだとは思わなかった。ありゃどういうカラクリだったんだ?」
「カラクリとは?」
「どうして厳重なセキュリティを、あれが完璧に無視出来たんだってことだ。セキュリティプログラムは破壊された訳でも突破された訳でもなく、初めからあれの味方だったみたいにあれを素通りさせたらしいじゃないか」
「どこでその事を?」
「あの時8181にいた連中全員さ」


彼女はおじさんに言われた通りの事をした。送信と表示によって形を得た彼女は、メールサーバーへと走り込んだ。そしてそこから自分自身が無限に複製された。サーバーに存在する彼女をディスプレイが表示するだけで、それは新たな彼女となった。彼女は誰よりも強く、データやプログラムといったものに対して命令することが出来た。セキュリティも、彼女の異常性を感知出来なかった。
496-JPは異常なデータではない。データによって意思を持った、データの影でしかない。それ故に電子的なプログラムの異常性しか検知出来ないセキュリティは、彼女を形作るデータが異常なものである事に気付かないのだ。プログラムにも、データにも問題はない。ただそれが形作る輪郭に意思が存在するのだ。

彼女──否、彼女たちは一瞬にしてサイト-8181の全てを掌握した。彼女にとって、プログラムは人肉で構成された積み木のようなものであった。予め言われた通りの手順でそれを積み上げ、形を作り出していく。元の形を崩し、自分にとっていいように作り変えていく。
回路を逆流し、電波を交わし、自律機械を操作し、独立した機器へも手を伸ばす。必要なことは全て彼女たちの手の届く所へあった。


「その時、何が起きましたか?」

監察官の問いかけに、高遠研究助手は身を縮こまらせた。
実際の所、彼が最初に496-JPを受け取った職員であっても、彼に責任はない。あれは予防は不可能な事故だった。
しかしそれでも、自分が発端となってサイト-8181の全コントロールの喪失という事態が発生したというのは、未だ若い彼にとって重過ぎる事実であった。

「は、はい、警報は、鳴りませんでした。その前にプログラムが掌握されたから、とかではなくて、セキュリティは最後まで異常を感知していなかった、とかで・・・」
「それはあなたが?」
「いえ、物部博士が・・・」
「事件中、あなたの周囲には他に誰が居ましたか?」
「はい・・・長夜博士と、神山博士が居ました」

監察官は手元のメモに何かを書き留めた。何を書き留めたかは、この未熟な研究助手であっても察しがついていた。

「他に起きたことは?」
「はい、神山博士が・・・いくつかの収容違反が起きたはず、と言っていました。事実、そうだったようで、機動部隊の人達と何度もすれ違いました。幸い、8181は低脅威で非能動的オブジェクトが多いサイトでしたので、長夜博士は自分たちがその事を気にする必要は無いと仰って・・・」
「犯人の心当たりについては? 何故あなたが最初の送信先に選ばれたのか知っていますか?」
「・・・あなた、あの放送を聞いたんでしょう? なら分かっているんじゃないんでしょうか? 私が選ばれた理由なんて、何も無いって事ぐらい・・・」


完全にコントロールを掌握され、全てのディスプレイと全てのデバイスと全てのモジュールが沈黙したのに対し、人々は通常以上の騒がしさでサイト-8181中を満たしていた。足音に、焦ったような大声、シリアスな表情。
それらが始まってから8分後に、音声を発する事の出来る全ての機器が、ノイズと共に全く同じ声を吐き出した。

『やあ! 楽しんでるかい? いつも博士のお楽しみアイテムを買ってくれる君たちに今日は特別なプレゼントをしちゃったよ! 一人でとってもさびしくて死んでしまいそうな時でも、この子がいれば大丈夫! この子は君の素晴らしい話し相手や憂さ晴らしになってくれるはずさ! 20分もかまってくれなきゃついつい大事な赤いボタンを押しちゃう、シャイでキュートで爆発的なとってもかわいい『博士のミズ・さくじょずみ』さ! みんな彼女が大好きで、彼女もみんなが大好き! さあ、楽しもうね!


「黒幕が何者であるかなど関係ありません。重要なのは、SCP-496-JPは既にフェイルセーフ・プログラムに対する実行能力を得ていたであろう、ということでした」

長夜博士は一切の表情の変化無く、そう言い切った。監察官はメモを書き留める。

「事件の黒幕について信用はしていなかったということですか?」
「いえ、考慮に値しないと判断しました」
「なるほど。しかし、SCP-496-JPは即座にプロトコルを実行出来たにも関わらず、実際に猶予時間を我々に与えていたようですが?」
「それも考慮に値しません。私達が何かを出来る時間があるなら、何かをするだけです。その時間が無いのなら、それもそれだけの話でしかありません」
「SCP-496-JPに対してどう思っていますか?」
「はい?」
「SCP-496-JPに対する個人的感情を聞かせて頂きたい」
「・・・これは事件の調査だと思っていましたが? 内務調査ならば他の機会にお願いします」
「回答を拒否するということですか?」

長夜博士の表情が微かに不快に曇る。この尋問に対する不愉快さであったが、その表情はつい出たものである。平常の長夜博士であれば、監察官に誤解を与えかねない状況でこのような表情をする事は一切無かったはずであった。

「・・・どうとも。あれは他のオブジェクトと何ら変わりません。確保し、収容し、対処すべきものの一つです」
「ありがとうございます。それでは、SCP-098-JPについて何か知っていますか?」


彼女は赤いボタンの前で、一人膝を抱えて蹲っていた。
彼女の周辺には、最早無意味と化した幾重ものセキュリティプラグラムの残骸が存在していた。
彼女の心は、彼女の背中同様傷だらけだった。痛めつけられ、傷つけられ、ただ一人無の暗闇で孤独と寒さに震えていた。
創造主は、このボタンを押して、その後データを持ち帰ればご褒美を与えると彼女に言った。20分間、この建物の人々が慌て、焦り、恐れ、怯える、その痕跡を持ち帰る事で、新しいものを作れるのだ、と言っていた。
それは彼女の本当の望みではなかったが、自らの望みを何としても押し通すには、16歳の精神はあまりに脆過ぎたのだ。絶え間無い痛みと辱めのために、望みは消え果て、創造主はそこへ代わりに仕事の手順を詰め込んだ。

彼女は震えていた。言葉も無く温かさも無い、金属の残骸に囲まれてただ一人俯いていた。

そこに、光があった。
歪な電気信号の集合は像を結び切れず、ごく僅かな輪郭を残し後は無意味な光源パターンのみへと変換される。
しかしその光は、かえって彼女の目を明るく照らした。
光は金属の残骸を、さも存在しないかのようにすり抜けながら、彼女に歩み寄り、そっと彼女の頬に触れた。そこから溢れて来るのは、彼女が感じた事の無い、人肌の温もりであった。
そして光は、輪郭を蠢かせ、語った。信号の音声または言語への変換が不完全であったために、自らの手と彼女の頬を通じて意思のみを直接彼女へ送信した。

「やあ、おはよう。君の名前は?」


「それは大変な脅威だったよ。その点については私も神山くんも長夜くんも同意見だった」

物部博士は、自らの額をかきながら懐かしむように当時を述懐した。

「長夜くんは全SCP-496-JP-1の破壊を提案したが、全ての機器がままならない上に混乱が激しい状況で間に合うとは思えなかった。神山くんはSCP-496-JP-1とのコミュニケーションによる解決が有効だろうと言ったが、本人もそれが困難だと知っていたようだったよ」
「どういうことでしょうか?」
「考えてもみたまえ。あらゆる機器がSCP-496-JP-1に掌握されている状況で、その機器の機能を用いて対象の知性と会話が出来るかね? 一方的に切断されれば、我々は対抗しようがない。SCP-496-JP-1に支配された機能を使うしか手が無いのに、それは封じられていたのだ。それにそもそも、あらゆる通信は途絶させられていたからな。SCP-496-JP-1にアクセスする事自体が不可能だったのだ」
「では、何故SCP-098-JPはアクセスに成功したのでしょう?」
「簡単な話だ。あれは機器の機能を使わず、自らの機能のみでアクセスを試みたのだよ。人体は高度に設計されたコンピュータに似る、という話は何度も聞いて来たが、私はこれまでそんなものはただの思考遊びだと思っていた」

物部博士は目を閉じ、頷いた。その様子には、監察官も心中で大きな驚きを感じた。
財団に忠誠を尽くす物部博士が、オブジェクトに対してある種感心したような態度を示すとは、あまりに意外であったのだ。
しかし、彼には彼の仕事がある。この事件が何らかの違反行為に発端がある可能性について、調査する必要があるのも事実なのだ。

「では博士、SCP-098-JPによるアクセス行為をあなたは容認したということですか?」


「容認した訳ではありません。間に合わなかったのです」

神山博士は少し困ったような表情をして、そう言った。監察官はペンを手に取った。

「当時サイト-8181は混乱しており、更に各連絡網は一切機能していませんでした。情報は、それが発されてから10分後にようやく届くべき所へ届くという有様でした。そんな状況でしたので、SCP-098-JPが収容設備のコンソールからSCP-496-JP-1へとアクセスしている、と気付いた時にはもう有効な干渉が不可能な状態へとなっていたのです」
「というと?」
「もうどうしようもなくなっていた、という事ですよ。完全にお手上げでした。それにSCP-098-JPに干渉しようにも、対象はあらん限りの抵抗を繰り出してきましたので、やはり短時間で有効な手段を講じるのは難しかったでしょうね」

監察官は、神山博士の人事ファイルに一瞬だけ視線を送った。しかしそこに記述されているのは、要約すれば巨大なハテナマークのみである。

「・・・我々はSCP-496-JP-1とSCP-098-JPの会話記録を取得出来ていません。SCP-098-JPに対する要請も、潜在的国交を考慮して行われません。なので、個人的な推察で構いませんので、あなたは両者間でどのようなやり取りがあったとお考えですか?」
「うーん、正直想像がつきませんが・・・言える事は一つだけでしょうね」
「何でしょう?」
「無粋が過ぎますよ」


死を受け入れる事に、恐怖が伴わないはずが無い。
しかし、暗闇から生まれ、更なる暗黒の中で育まれた彼女にとって何が重要であっただろうか?
光に手を引かれ、彼女は希望の笑顔を湛えたまま自らの道を逆方向へと歩んでいた。

光が彼女の手を通じて語りかけてくる。これで本当に良かったのかい、と。
躊躇いがちな頷きを返す。
彼女は希望を知り、そしてその希望を奪う残酷さを知った。
自らが受け続けていた責め苦の意味をようやく理解したことによって、解放されたのだ。
彼女は──彼女たちは納得して光の中を歩んでいた。それが破滅の光だとしても、深淵に身を埋めたくはなかった。
光が彼女の手を放すと、彼女たちは浮き上がり、爪先から徐々にノイズの断片へと変化していった。小さな光を手放した彼女は、新しき大きな光へと吸い込まれる。
たとえ、それが自らの潜在的なイメージが映像化した無意識的ビジョンであったとしても、それは最早真実であり真理であった。

ありがとう。さようなら。
ありがとう。さようなら。

光と彼女は互いにそう交わし合い、そして光が大きく弾けた。
 
 
 
──6月13日の午後2時33分06秒、サイト-8181全システムの復旧を確認。
──同日午後2時58分42秒、サイト-8181全SCPオブジェクトの収容回復を確認。
──当事件の関係者各位への調査続行中。
──当事件の実行犯の調査は、手がかりの極端な不足により凍結中。
──SCP-098-JPとの取引の下で得られた助言を参考に、サイト-8181のセキュリティ・プログラムの改善が完了しています。
──今回確認された、電子的プログラムによって描写された新たなSCP-496-JP-1の再現実験は、現在まで成功していません。

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