公開実験
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バタン、とドアの閉まる音が灰色の面談室に響く。
四方から灰色の壁が迫って来るような圧力を感じる小さな部屋に入ってきたのは、その部屋よりも少し薄い灰色のスーツを身に着けた一人の男。
用箋鋏を二枚重ねて抱えている彼は部屋の鍵を閉めて懐に入れると、部屋の中央で腕を組んで待ち構えていた白衣の女性に笑顔を投げかけた。
 
「『ヴォルール』、お待たせして申し訳ありません諸知博士」
 
白衣の女性はじっくりと咀嚼するように瞼を数秒閉じ、それを開いた時に表情を柔らかく崩した。
 
「まあ、いいでしょう。実際そんなに待ちはしませんでしたから。あなたが神山博士?」
 
灰色スーツの男は用箋鋏を体の前で抱え直すと、笑みを崩さずに一礼し自己紹介する。「はい、神山です」と。白衣の女性もそれには会釈を返し、「諸知です」と簡潔に名乗った。
 
「さて、それでは早速始めましょうかね」
 
神山はそう言うと、部屋中央に据えられた椅子に座った。
椅子には向かい合う形でもう一つの椅子があり、その間にはデスクが置かれている。デスクの上にあるのは小さな電気スタンドと、神山が適当に置いた二つの用箋鋏。
座した神山の視線の先にあるのは、自分がこの部屋に入って来るのに使用したドア。
空気は冷たく、静かで澄んでいる。換気装置の音すらない静寂に、声だけが響く部屋。
ここは面談室というよりも、取調室、あるいは尋問室に近い風情であった。
 
諸知は、用箋鋏の一枚を改めて手に取る神山の後方やや右側へ下がる。
用箋鋏に挟まれた印刷紙を指が擦り、捲り上げる音が響くのと同時に『公開実験』は始まった。
 
「まずはD-662291」
 
手元にある用紙を覗き込みながら、神山は言葉を並べた。
 
「男性、日本人、37歳、身長171cm、体重83.4kg、座高103.1cm、肥満体型かつ胃下垂のため服のサイズはLL、短気、暴力的傾向は無し、恐喝と強姦殺人により死刑判決を受ける、髭は豊かですが頭髪はまるで落武者ですね。好物はビーフジャーキー、ヘビースモーカー、独身、恋人も無し、精神病歴無し、雇用後2ヶ月で脱走を試みたため再発防止も兼ねて本実験へ割り当てられる。氏名は遠井 満吉」
 
そこまで述べた所で、彼はデスクの隅にあるスタンドマイクのスイッチを入れ「どうぞ」と短く告げる。
その数秒後に、入口のドアがゆっくりと開かれ、オレンジ色のツナギが袖を覗かせた。
ドアの向こうから現れたのは、でっぷりと腹が突き出た短足の男。頭は一本の太いラインを引いたかのように額から後頭部にかけてまでが禿げ上がっており、下唇は腫れぼったく膨らみ、突き出た瞼が目を押し細めていた。
顔色は土気色ながらも汗脂で照っており、そのためか饐えたような臭いを首元から漂わせている。鼻は潰れ、口は常に半開きのままヤニのこびりついた前歯を曝す。
男は神山の笑顔と「そちらにどうぞ」という言葉を受け取ると、ヨロヨロと神山と対面する椅子に近付き、乱暴に体を椅子の上へと押し込んだ。
安普請のパイプ椅子が軋みを上げ、僅かに歪みながらも体重を支え切る。
 
「タバコ、ねえのか?」
 
男の虚ろな目は諸知も神山も面談室の壁すらも捉えてはいないようだった。
ただ体が前を向いているから、目もぼうっと同じ方向を向いている。ただそれだけの事であったように感じられた。
 
「タバコはありません。あなたは懲罰期間中です。しかしこれに協力して頂ければ、私の方で更正監察期間見直しの意見状を後ほどしたためておきましょう。そうすれば、あなたへの懲罰期間は大幅に短縮されます」
 
神山の言葉に男は舌打ちで返した。諸知が一瞬眉をひそめる。
 
「いくつかの質問に答えてもらうだけです、あなたは何も失いません。これからも、ずっとですよ。どうです?」
「何でもいいからさっさと終わらせてくれよ」
「よろしい」
 
用箋鋏を手元に引き寄せ、ドアをノックするようにコンコンと叩く。それから一切、神山は一つの笑顔を一分も変化させなかった。
 
「あなたの名前は?」
「トオイ マンキチ」
「好物は?」
「牛肉だな。なんでもウマい」
「服のサイズは?」
「さあ・・・Lとかじゃねぇの?」
「自分を気が長い方だと思いますか?」
「さあ。長くは無いんじゃないのか?」
「年齢は?」
「37だ」
 
そこまで言った所で、神山は笑顔を崩さぬまま力強く拳を机に叩き付けた。
突如として発生した大音量と衝撃が空気を揺らし、振動を空間に伝える。
一切の予兆もなく放たれた衝撃に諸知だけが体をぴくりと震わせた。
 
「続けましょう。あなたの名前は?」
「トオイ マンキチ」
「好物は?」
「牛肉だな。なんでもウマい」
「服のサイズは?」
「さあ・・・Lとかじゃねぇの?」
「自分を気が長い方だと思いますか?」
「さあ。長くは無いんじゃないのか?」
「年齢は?」
「37だ」
「結構」
 
あくまで表情を変える事なく、神山は身を僅かに乗り出した。
男の顔を見下ろし、脅し迫るように体を傾ける。
 
「4名の女性を強姦し、殺害した際の心境は?」
 
この問いに対してのみ、初めて男の視線は明確に神山を捉えた。
張り付いた仮面のような笑顔を見上げ、男も口元を歪める。
 
「すごく、よかった」
 
その様をしっかと見届けると、神山は元通り椅子の上に座し、乱れた襟を整えた。
 
「以上です。ご協力に感謝します。お帰りはあちらから」
 
神山の言葉に男は立ち上がり、狭い歩幅ながらも、入室時よりははっきりとした足取りで退室していった。
再び静寂の戻った面談室内では、神山が手元に引き寄せていた用箋鋏を隅に寄せ、もう一枚を手元に引き寄せていた。
そして、先程と同様に用紙を覗き込む。
 
「次、D-672883、男性、日本人、26歳、身長167.9cm、体重61kg、座高86.8cm、中肉中背と言った所ですか。やや鬱傾向が認められるものの判断能力は有。殺人、死体遺棄、死体損壊等、未成年略取・誘拐により死刑判決を受ける。犯行時に被害者が抵抗した事により顎部に傷痕。好物は目玉焼きで、喫煙、飲酒、薬物依存等は無し、現在チック症を発症中、配偶者有り、定例解雇間近のため本実験へ割り当てられる。氏名は赤田 守安」
 
そこまで述べた所で、彼はデスクの隅にあるスタンドマイクのスイッチを入れ「どうぞ」と短く告げる。
その数秒後に、入口のドアがゆっくりと開かれ、オレンジ色のツナギが袖を覗かせた。
ドアの向こうから現れたのは、虚ろな目をした、少し頬骨の浮き出ている青年であった。
肌は白く乾燥しており、細長い指先にはいくつものささくれと、それらを毟った痕が残っている。
唇は絶えずピクピクと痙攣するように動き、その度に不自然な程頭部から突き出た耳が微かに震える。
男は神山の笑顔と「そちらにどうぞ」という言葉を受け取ると、ヨロヨロと神山と対面する椅子に近付き、乱暴に体を椅子の上へと押し込んだ。
安普請のパイプ椅子が軋みを上げ、僅かに歪みながらも体重を支え切る。
 
「これからあなたにはいくつかの質問に答えていただきます。任期満了にあたっての精神鑑定のようなものですが、ほぼ形式だけの手続きとなっておりますので、ご心配なさらぬように」
 
神山の言葉に青年は反応しない。頷き一つ、うめき一つ返しはしない。
だが一切それを気にかける様子もなく、神山は手元の用箋鋏を今度は3回ノックした。
 
「あなたの名前は?」
 
最初の問い。だが、青年は答えない。
それでも神山は表情を崩す事も、呆れたり狼狽するような動作すら見せずに、全く同じ質問を全く同じ調子で繰り返した。
胸の下で組まれていた諸知の腕の片方が外れ、眼鏡の位置を正す。
動揺のためではない。ただ、眼鏡の位置がズレたのを元に戻しただけだ。
少なくとも諸知自身はそう思っていた。
 
「アカダ モリヤス」
 
同じ問いを4度繰り返した時、ようやく青年は正しく答えた。
そして、やや俯いている顔から、じろりと神山の笑みを睨み上げると、ぼそりと呟いた。
 
「あんた、こわい」
 
神山の笑みに変化はない。ただ、青年は数秒の後ふっと力なく笑うと「分かった、ちゃんと答える」と告げた。
 
「助かります。では改めて、好物は?」
「鶏、焼いたのがいい」
「服のサイズは?」
「M」
「自分の事をどう思いますか?」
「人殺し」
「奥さんの事をどう思いますか?」
「可愛い。すごく」
「被害者の事をどう思いますか?」
「可哀想。すごく、可哀想だった」
「可哀想とは?」
「死んで、可哀想だった。僕は、気持ちよかったよ。ひんやりして、可愛くて、狭くて、でも緩くて。だけど死んじゃったのは、可哀想なんだ」
「死についてどう思いますか?」
「痛くて、きっと辛いんだと思う。怖いだろうし、きっと、何も無くなるんだろうね。それって、なんだか、すごい事だと思うよ」
「これまでの業務についてどう思いますか?」
「すごい事だったと思うよ。なんていうか、こう、ラベンダーがぎっしり詰まった浴槽に飛び込むみたいな感じだった。全ての感覚が支配されて、一つに染まるんだ。色も臭いも手触りも音も、全部が一つだった」
「犯行の動機についてはどう思いますか?」
「分からない」
「以後の質問は全て『はい』か『いいえ』でお答え下さい。あなたは男性ですか?」
「はい」
「あなたは自分を善人だと思いますか?」
「いいえ」
「トラウマ等を抱えていると感じていますか?」
「いいえ」
「自分が異常だと思っていますか?」
「いいえ」
「では最後に、もう一度あなたの名前を教えてください」
「アカタ モリヤス」
「結構」
 
手元の用箋鋏が、押しのけるようにしてデスクの隅まで滑らせられる。
 
「以上です。ご協力に感謝します。お帰りはあちらから」
 
神山の言葉に青年は立ち上がり、静々とした足取りで退室していった。
再々度静寂に覆われた面談室内に取り残された神山、そして諸知。笑顔をほどきながら鼻でため息をつく神山の傍へと、彼女は身を寄せる。
 
「どうでした?」
 
猫撫で声は、誘惑するような、もしくは何かを期待するような意思を孕んで響いた。
彼女はデスクに片手をついて上体を大きく傾け、神山の表情を伺った。
そうして伺い知った彼の表情は、神山がおよそとり得る表情の中では「固い」部類のものであった。
 
「実用レベルには達していますが、実践レベルには程遠いですね」
 
この一言でまず、諸知はがっくりと項垂れた。
 
「一例目、人格の形成に於いては及第点。情動反応の制御や反射の制御も最低限のレベルには達していますが、急激に強いショックを与える事でコミュニケーション上の選択回路がリセットされてしまうのは致命的です。これの解消には大変な労力と研究が必要になって来るでしょうが、技術的には十分可能なはずです。先だっての外部事例5599SGの例から開発したものが有効でしょう。後は、そうですねえ、情報の書き換えが不十分です。ミツヨシをマンキチに変えるだけでは、厳しいと言わざるを得ません」
「漢字は視覚による図形的な記憶が絡むせいで難しくって・・・」
「名前等の非常に再現性の高い記憶を短時間で完全に改竄する事は確かに困難でしょうが、不可能ではありません。まあ、今後の課題としていきましょうか」
「はーい・・・」
 
少し不貞腐れたようにデスクから離れる諸知。神山もそれに拠ってか拠らずか、椅子から立ち上がる。
 
「二例目、深層心理の作り込みが甘いですね。概ね問題無い程度ではありますが、海千山千の要注意団体と渡り合うには精彩を欠くでしょう。僅かな疑念を大きな確信に膨らませていく程度の事など、彼らにとっては掌を返すが如しでしょうね。『はい』か『いいえ』で返す質問に答える際に左目の端が2度痙攣する点、短時間中に、印象の強い複数の記憶に言及する場合同様の描写を使い回してしまう点、深層心理へ複数回の接触を試みた後に、短時間自身の名前を間違える等の記憶混乱が発生してしまう点。どれも、疑いを一度向けられれば命取りとなりうる部分です」
 
語る神山に背中を向け、大きくため息をつく諸知。
 
「『全領域洗脳』が困難である事は重々承知です。本人にすら気付かせずに、人間の精神を意識無意識の隔てなく丸ごと入れ替える。既存の意識を抹消し、新たな意識を構築し注入する。全くの別人になったのに、その別人は以前から自分がそのようであったと感じなくてはならない。これは大変な矛盾ですが、その理不尽を破ってこその我々でしょう?」
 
神山は語る言葉を途切れさせない。
 
「例えば、私のこの手の中にリンゴがあったとしましょう。しかし諸知博士、あなたにはそれが見えない。しかし貴方はそのことを不思議にすら思わないでしょう。このリンゴは貴方の意識領域下には最初から存在しないからです。触れようが嗅ごうが噛み付こうとしようが何も感じない。あるのに、触れているのに、嗅いでいるのに、食べているのに、何も無いかのように感じる。あらゆる脳の働きが、その結果を生み出すために一つの点に収斂する。そしてその焦点は自在に、そして自然に制御されなくてはなりません」
 
もう一度大きなため息をつく。諸知が、である。
 
「言うのは簡単だけどねぇ」
 
自嘲気味な笑みが彼女の顔と喉から零れた。
しかし彼女がそうして振り向いた先にあったのは、明確に「険しい」と呼べる神山の顔だった。
 
「諸知博士、あなたは非常に優秀な記憶のプロです。だからこそ記憶というものがどのように恐ろしい武器足り得るのか知っていなくてはなりません」
「わ、分かってるよ・・・」
 
ほんの僅かにたじろぐ諸知。その諸知に迫るようにして、神山は少しずつ歩を進め始めた。
 
「あるテロ組織の首領──彼は他の要注意団体のために異常オブジェクトを収集する要員だったのですが──彼は活動の中で、一つの異常アイテムを自身の切り札として常に持ち歩いていました。幾つもの異常アイテムを集めた大立者が、その中から一つだけ選び出した武器は何だと思いますか? 太陽光を2乗にして反射させる鏡でも、放射性物質を水に変える石英でもなく、人間の記憶を操作するスクロールだったんです」
 
どんどんと迫って来る神山に、諸知は壁際まで追い詰められる。
普段とは異なる彼の様子を目の当たりにして、混乱はしていなかったが、頭が上手く働かないようには感じていた。
 
「それは何の殺傷力も無い異常アイテムでしたが、結果、彼は我々財団から最後まで逃げ続け、その最後も、彼が上位組織を裏切って自ら身を曝しただけの事。彼は捕えられ、スクロールは破壊されています。しかし、記憶というものがどれ程不確かで、重要で、恐ろしい武器となり得るかは如実に物語っています。では我々に出来る事は? 来るべき日に備え、武器を研ぐ事です」
 
壁に後頭部がぶつかる。
特に何事も感じはしなかったが、弱い電流のような微かな痛痒が脳の奥に走った。
 
「ど、どうしろと?」
 
一気に捲し立てた神山へぶつけたその言葉は、反撃でもあり、純粋な問いかけでもあった。
そしてその言葉に弾かれたように、神山は諸知から離れ、笑顔を取り戻した。
あたかも、全て思惑した通りであったとでも言わんばかりに。
 
「簡単です、進歩ですよ。研究を続けてください。このまま行けば完成・・・いや、ひょっとしたら、もう答えは見つけているのかもしれませんよ」
 
あれだけ言ったものの、結論は簡単な一つのもの、『続行』である。
少し拍子抜けしたようなものの、取りあえず査定への口利きはしてもらえそうな論調であった。
心の中で、ほっと胸を撫で下ろす。
 
「全くもう・・・それじゃあ、私は失礼しますよ。早速、進歩を続けないといけませんから」
 
やや拗ねた様子を見せながらも、安心して神山の笑顔の前を横切る諸知。
早速に研究室へと戻り、成果と意見をまとめて次なる技術の開発に急がねばならない。
あらゆる業は日進月歩。時間は善悪両方に平等である。
自分が進む時、敵もまた進むのだ。弛みは決して許されない。
確保、収容、保護、その理念を自らの組織が有しそれを以て切っ先を鋭くするのと同様に、相対する者らもそれぞれの理念を以て穂先を研ぐのだ。
 
止まってはならない。ドアノブへ伸ばす手はどこまでも長く。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・?
 
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何かがおかしい。諸知はドアノブへ伸ばす手を止め、振り向こうとした。
 
「あの、そういえば──」
「『アレテ』」
 
神山の言葉と同時に、諸知は一切の動作を停止した。
四肢も瞼も思考も意識も、命を繋ぎ止めるための器官を残し、他の機能はまさしく諸知を石の如くに硬直させた。
意識も感覚も意思も停止し、生きている像と化した諸知。神山は白紙の用紙のみが挟まれた用箋鋏2枚を抱え直すと、それに歩み寄る。
滑らかなデスクの上には何も置かれておらず、指紋すら残ってはいない。強いて言えば、諸知と神山のものだけであるだろう。
 
神山は諸知の眼鏡のフレームを3度程軽く叩いて、仕込まれた小型カメラを取り出す。
懐から取り出したピンマイクには「以上で終了します」とだけ告げ、天井隅に仕掛けられた監視カメラには一礼をつつが無く済ませた。
 
「申し訳ありません、諸知博士。あなた程非常に優秀な記憶のプロであった方が、プレゼンの効果も高いのです」
 
小声でそう呟きながら、彼は諸知博士の横で、懐から取り出したる鍵によって面談室の扉の鍵を開けた。
隣室では、疎らな拍手が起こり始めていた。
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