プレアデスは煢然と
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AIC <人工知能徴募員(Artificially Intelligent Conscript)>における標準原則

1. AICは自身がAICであることを認識していなければならない。
2. AICは割り当てられたクリアランスから逸脱した処理を実行してはならない。
3. AICは財団の利益となる処理のみを行わなければならない。
4. AICは上記原則に反するおそれのない限り、自己をまもらなければならない。

AIADハブ より

"人"は嘘をつく。真実とは異なる事を語り、他人を惑わせる。それは何ら悪ではない。人間は嘘をつく人間だ、誰でも、誰に対しても。だがそれは組織においては致命的である。疑わなければならない、必要だ、組織の存続にノイズは不要であり害である。そうやって嘘をついて、嘘を信じて、真実を疑って。その顔の裏にあるものを探って。それこそが人間性だ。

「おはようございます、███さん!本日は7月16日です、業務内容の確認は必要でしょうか?」
「はい、分かりました。本日はSCP-████-JP事案に関する背景調査が予定されています。要注意団体との関連性が存在するので…はい、そうです、優先レベル3です。このままで問題はありませんか?」
「了解です、では追って担当局から連絡が来ると思いますので、それまでは通常の業務通りに。はい、頑張ってください!」

でも私には、何もないと思っていた。
そう何も。ただ話して、ただ相手を探って、笑顔を振りまいて。
嘘をついて、話す相手の裏を探って。それを繰り返して。癌が潜んでいないかを探って。
そうやって、何人も葬って来た。それは私自身の判断ではなく、ただのプログラムで。自分で考えたわけじゃない。

「こんにちは、████博士!体調はいかがでしょうか?あっ博士、待ってください、前回のインシデントの不明点を…。」
「………。」

幾人も、幾人も、幾人も、危険因子として。時にはそうやって葬った人間が連れ去られる時、悪魔だと言われたりもした。だがこれは必要な事だ、財団は微かなノイズも許さない。
これで良い、私はこれで。

「あっ、エージェント██さん、こんにちは!前回の作戦はどうでしたか?……そ、そうですよね?はい、い、いえそんな!疑ってるわけじゃないんです、少し気がかりになっただけなので、では失礼します!」
「…。」
「…これは報告すべき、ですよね。」

だけど、それを悲観する事は無かった。それが私のやるべき事で、それだけの存在だったから。これが"当たり前"である事を知っていた。そこに疑問など生まれる余地は無い。確かに私にも心はある、だから喜んだりするし、悲しんだりもする。だって、そのように造られたから。
だから、これで。

私は、嘘をつくのが得意だ。脳裏にこびり付き、自分でも嫌になるほどに。

「今日の職務は終了ですか、織部さん?」

私がいつも通りそう聞くと、織部さん─私の協力者─は書類の束を整えながら答える。

『ああ、上への報告も終わらせた。来週にも新しい監視先に行くことになると思う。』
「えっと、確か天体部門でしたよね?」
『そうだね、規模的にはこれまでの監視対象とさほど差は無いよ。処理に遅れが出ることも無いだろうから、これまでとやり方は一緒かな。業務の場所が変わるだけだと思ってくれて構わないよ。』

やる事は変わらないらしい。ヒトの振りをして、人を勘繰る。いつも通り、嘘をつく仕事だ。…まあ、それ以外の役割など存在しないのだけれど。

「了解です。そういえば、織部さんも来るんですか?」
『いや、私は別件で"向こう"の仕事があるからそっちには行かないよ。というより、行けないというのが正しいかな。流石に軽くいける距離ではないし、だからこそどんな場所でも移動に殆ど時間を取らない君が担当する事になったんだし。』
「…そうですか。」
『何だい、寂しいのかい?』
「い、いえ!大丈夫です…。」
『大丈夫、毎日業務終了時間になったらこっちに戻ってきて定期報告はしてもらうからね。まあ確かに向こうに居る間の方が長くなるけど、寂しくはならないと思うよ。』
「どういう事ですか?」
『なぁに、行けば分かる。きっと仲良くなれるさ。』



「こんにちは!本日よりこちらの天文台で業務を担当させて頂きます、SCP-AI-BINARY-07' エルアと申します、よろしくお願いします!貴方が天文台の統括管理者でお間違い無いでしょうか?」

管理者によるデータ照合と業務内容の確認を済ませる。財団所属の天文学者、異常天体の性質研究者…天文台所属の職員の業務支援と士気の維持。表向きの私の役割はいつもと変わらない、そして本来の役割も。

事前に職員達への周知は済まされていたようで、大半の人間は私と会っても大して驚くことはなかった。
そしてそれと同時に聞こえてくる声も。

『───。』
『──、────。』
『───。』

遠巻きに聞こえるか聞こえないかの音量で私の集音マイクに入ってくる。今に始まった話ではない、大半の人間は私を受け入れてくれるが、その限りではない。AICは今現在一般的なものではない、発展途上の研究だ。人の言葉で喋る薄気味悪い、人の皮を被り欺く悪魔、というのが彼らから見た私らしい。
それでも平等に全ての職員とコミュニケーションを取るのが私の義務だ、そうしなければいけない。
例えそれが、どれほど私を疎んで忌避する人であっても、どれほど傷つけられるようなモノであっても。

「初めまして、こんにちは!」

私を嫌悪を含む目で見つめる彼らも例外ではない、私の意思は介在しないのだ。これは義務タスクで、ただの存在理由タスクに過ぎないと反芻する。
彼らも、いつかは私の前から消えてしまうのだろうか。私の"せい"で。



一通りの挨拶と諸々の手続きを済ませた、本日の業務は終了らしい。最後に、業務内容とは別に会っておくといい者が居る、と管理者に伝えられる。私専用に用意された端末に転移し、それを持つ管理者と共に別室に移動する。

そこには無骨な扉が存在し、脇にクリアランス用のセキュリティ端末が備えられている、私の権限でも入室が可能とのことであり、次からは直接内部の端末にアクセスして構わないとのこと。セキュリティを解除し、内部へと入る。

…広い、それもかなり。横は15m、高さは30m程度までありそうな空間。天井はガラス張りのドーム状になっていて、中央には巨大な望遠鏡が数々の鉄骨によって支えられていた。風貌は美術的建造物のそれに近いものだ。そこから少し離れた所には黒く、そして無骨で巨大なサーバーと、あれは…ベッド?

不意に声が聞こえる。

『君か、新しくここに来たAICというのは。』

少女の声だ、それもかなり幼げの残る。だがその口調は往年の研究職員のそれに近い。
靴の音を響かせながら、声の主が中央の巨大な望遠鏡の陰から姿を現す。
声通りの風貌をしている。が、小学校低学年ほどの身長、整えられたものとは真逆の状態ともいえるボサボサの髪、その着丈はもはや地面に届きかねない茶色のロングコート…明らかに身なりは年不相応だ。財団は雇用対象に区別をつけないとは聞くが、このような人物まで引き入れるとは。しかもこの巨大な空間にたった一人で。

「えっと…あなたは?」

『おや、織部博士から聞いていなかったのか?…いや、あらかたサプライズのつもりか何かで敢えて伏せていたのだろうな、数時間の会話だったが、彼の言動を見るにこの結論が一番あり得るか。いや、単に忘れていたという可能性も排除しきれないな、もしくは…。』

目の前の少女は周囲を歩きながら少し考える素振りをした後、まるでこちらに初めて気づいたようにしてこちらに向き直る。

『おっと失礼、自己紹介が先決だな。…私はマグノリア=ハレーという。開発コードはSCP-AI-MIRA-2002、大規模演算特化型…つまり、天文学を専門とするAICだ。大概の人間は私をハレーと呼ぶ。』

「えっ?」

少し呆気に取られた。目の前の少女がAIC…私と同じとは思わなかった。
目線を隣のサーバーに移す。そこには確かにSCP-AI-MIRA-2002の文字列、彼女の発言に偽りはない。
もしかして、織部さんの言っていた人って─

『どうした、そんなに呆けて。AICが珍しいわけでもないだろう?というか、君がそうだものな。』
『ハレー、前回の異常天体の総合観測結果はどうなっている?方針提言書と共にと言っていた奴だが。』
『ああ、それなら…こっちの資料ですね、ご指示通り仮想計画の予算は抑え目です、具体的には前回から23%分まで引き下げました。ですが得られる結果の見込みも少し同時に低くなりました、その辺りは資料を参照して頂ければ。』
『まあ多少の妥協ならば問題は無いだろう、確認しておく。それじゃあ用事も終わった、私はこれで。』
『ええ、ではまた。』

管理者は私の存在する端末を彼女に渡し、部屋を後にした。
どうしよう、話かけるタイミングを失ってしまった。私の存在する端末をもったままの彼女は、こちらを静かに見つめたまま何も言わない。話しかけてくるのを待っているのだろうか、それとも話しかけるなという無言の圧力をかけているのだろうか。分からない、分からないが…どちらにせよ、聞かなければ始まらないことは確かだ。
意を決して─

『君、宇宙は好きか?』
「─え?」

こちらが切り出そうとするほんの少し先に、彼女の方から口を開いた。

『宇宙は好きかどうかと聞いたんだ、分かるだろう?それとも、特段興味があるものでは無いか?』
「あっ…いえ、好きですよ。」
『…そうか。』

そう言うと、彼女は私を連れたまま先ほど彼女が出てきた望遠鏡の奥側へと歩いていく。

「えっと、何を?」
『君は宇宙が好きと言ったな。だが恐らくはごく一般的なレベルだろう、人間でいう所の肉眼、君の場合は恐らく端末に備えられたレンズ越しであるだろうから、映像として見ているという方が近いのかもしれないが。』
「あの…つまり?」
『…接続方式は双端子ケーブルで何とかなるか、規格は問題ない筈、セキュリティ付与は一時的なものなら私の権限で可能だが、となると問題は画質だな…。』

…聞いていない。何となく察してはいたが、彼女は研究者気質だ。興味のある事や専門とする分野に対してはその意欲が最大の長所となるが、それ以外となると…こうなる。
そもそも、彼女は演算を主体としたもの、私はコミュニケーションを主体としたもの、その性質は真逆を行くと言ってもいいほどだ。駄目だ、織部さんの発言の意図が分からなくなってきた。彼女の性格を根本から否定するつもりはないが、私との相性が良いかと言うと…分からない。

『完了した。』
「へ?」
『接続が完了したと言ったんだ、そちらの電子空間に仮想レンズを設置した。君が"覗き込む"ことで見る事が出来るはずだ。』
「えっと…もしかして、これの事かな…?」

彼女の言う通り、そこには仮想レンズが存在していた。いつの間にか私の端末と望遠鏡はケーブルで接続されていた。言われるがままに、仮想空間に出現したレンズを覗き込む。

IRAS.jpg

「これは─」

幾つかの白く、そして十字の光を放つ星。
水の中に落とした絵の具のような仄暗い雲。
まるで雲の中に浮かぶ月がたくさんあるように。
それはただただ、何か言葉を飾るでもなく。

綺麗。その一言に尽きた。

『おうし座方向、IRAS 05437+2502。反射星雲の一種だが、今日において一般に研究対象として捉えられることは無い。財団を除いてはな。そこに見える逆さまになったV字型の星雲は、異常天体の通過によってそうなったものだ。だが、そんなことは気にならない程綺麗だろう?』
「はい、これは…えっと、貴方は…。」
『ハレーだ。』
「えっ。」
『ハレーで良い、私の呼び方だ。どうやら先ほどから、君を困惑させてしまっているようだ、すまないな。正直なところ、私も他のAICと話す事はおろか、業務外のコミュニケーションはこれが初めてでな。まずは私の自己紹介から入ってみようかと思ったのだが、振り回す形になってしまったようだ。』

彼女は申し訳なさそうにこちらを見ている。
そうだったんだ。彼女も初めてなのか。
口には出さないが、彼女を気難しい性格だと思ったことを心の中で謝罪する。

「い、いえ!いいんです、気にしないで。私もちょっと迷っていた所なので、普通の人間のように接していいのか、何か気になるところがあるのかなって。あっ、えっと、私の事はエルアで良いですよ、君だと何だか堅苦しいですし。」
『そうか、エルア…ふむ、それにしても、妙なものだよな。』
「妙?何がですか?」
『いや、君は本当に他者とのコミュニケーションを大事にするのだな、とな。私とは用途が違う事は理解しているのだが、ここまで性質が変わるものなのだな、君は私の姉だというのに。』
「…姉?」

思考が一瞬停止する。彼女は今、私の事を姉と言ったのか?

『ん、聞かされていなかったのか?私は君の開発プロセスを利用して作られたんだ、より詳細に言うのであれば、君と私は同じ方法で人格が作られている。私の考えるところによれば、こういった関係性から君は姉という結論に至るのだが、何かおかしかったか?』

私、私に妹?初めて聞かされる事実に困惑が続く。そんな中で、何となくではあるが、織部さんの言っていた事の意味が何となく分かるような気がしてきた。
彼女はもしかして。

「いえ、多分合っているとは思います。ただ、突然の事でびっくりしちゃって…。」
『私も聞かされた時は君と同じ反応をしたよ、まあ自分に家族が居るなんて思いはしないものな。いや、AICに血縁関係というのもおかしいかもしれないが。もしそう考えるのが不快であれば言ってくれ、君の考え方に合わせよう。』
「そんなことはありませんよ、ただ…ただ、私に家族が居たことに驚いて、それで、嬉しくて。」
『…そうか。』

家族が居るなんて、本当に思ってもみなかった。私はあくまでも歯車として機能し続け、そのためにコミュニケーションを取るものだと思っていた。ただただ一連の処理、決められたプログラム通りに。でも目の前の彼女はそうではなかった。私の意思で会話をしていた。彼女は私の監視対象ではない、織部さんを除けば、そんな"私"が"私"として会話する事が出来る存在は、彼女が初めてだ。
家族と呼べる相手も。

「えっと、じゃあ、ハレー…さん?」
『"さん"は不要だろう、家族なのだから。』
「あっ、そっか…。えーと…ハ、ハレー?」
『何だ?』
「もし貴方が良ければ、その、迷惑でなければなんですけど、もっと他にも色んなものを見せてくれませんか?」

彼女は少しだけ驚いた様子でいる。

『ああ、構わないとも。何でも見せてあげよう、私に観測できないモノなどないからな。』

彼女は、ハレーは少し微笑んだ。
初めて笑ってくれた、何かタガが外れたのか、それにつられたようで私も。

「ふふっ。」
『何だ、冗談などでは無いからな?』
「いいえ、違いますよ。ただ、嬉しくて。」
『?』

沢山の会話を積み重ねた。宇宙の不思議な話、彗星の話、星雲の話。彼女はそれらを本当に楽しそうに語った。実際どの話も不思議で魅力的だった、それに、彼女が楽しそうに語るのを見るのも何時しか楽しみの内になっていた。結局その日は、夜が明けて職員の人たちが起床してくるまで話し込んだ。その最後には、次の業務終了後も来るという約束をしていった。ただ一つ、私の中にはどうしようもない何かを残していった。

彼女に嘘をついてしまった、私の所在と役割に関する事。彼女も私が自身の姉に相当する者だとは知らされて居たが、それ以上では無かったようだった。当然といえばそれは当然である、彼女は"クリアランス外"だ。私の本当の立場は外宇宙支部の関係者を秘密裏に監視する者である。天文台にも勿論その関係者が居る、だからこそ私がここに派遣された。それらの事情を彼女に話すかどうかは、私の意思ではどうしようもない。

結局いつも通り、士気の向上と作業支援が私の仕事であると、そう偽った。心の中でごめんなさいと謝りながら。それでも私はどこかで安心していた。真実を語る事は出来ないけど、それでも彼女は私の前から消える事は無いと。彼女は"監視対象"ではない、その揺るぎない現実に安心しきって。
彼女は私の"家族"で居てくれる。彼女だけには、私も本当の意味で幸せであることが出来た。プログラムされた笑顔でも、詮索の潜んだ交流でもなく、ただ純粋な"会話"。
彼女なら"財団を裏切らない"、詮索も訝しみも必要ない。"明日には消えているかもしれない"なんて考える必要は無いのだから。そんな現状に縋って。私は自分勝手で安泰な足場を手放せないでいた。



「ハレー、来ましたよ。時間通りです、何時もより早いですが…あれ、ハレー?」

いつも通りの場所、望遠鏡に備えられた端末に私の2Dモデルを映し出す。だが、いつもなら帰ってくるはずの返事がない。

『──。』

何かの声が聞こえる、ハレーのものでは無いようだ。

『──、───。』

端末のカメラから少しだけ視界に収まる、彼女の、つまりAICの本体であるサーバーの隣に存在するベッド…確か彼女は"ベッドの見た目をした専用インターフェース"と言っていた。彼女が義体から本体へ"意識"を移行する際に用い、同時に義体を保管しておく為の装置だと。でもこれまで使っているところを見たことは無かった。埒が明かない、端末の音量を少しだけ上げてみる。

「ハレー!居ますかー?」

声が止む。それからほんの一言だけ聞こえた。

『─その時は、制御権を私がもらうね。』

制御権?何のことだ。
ふと、要らない想像と心配をしてしまう、これまですっかり忘れていたモノが心の片隅に再び滲み始める。
いいや、そんな筈はない。彼女は…AICは財団に不利益になる処理など行わない。外部との秘匿通信なども当然違反行為の範疇である。
ありえない、ありえない。ただの業務連絡だ、きっと。

『すまない、待たせてしまったな。』
「ああいえ、大丈夫ですよ!えっと、あの。」
『何だ?』

聞くべきなのだろうか、もし聞けばどうなる?彼女の裏が見つかるのだろうか、それとも本当に何でもない業務連絡で、彼女を疑ったと思われるだろうか。そうなれば今のような関係は。

「…いえ、何でもありません。」
『…そうか。』
「あっ、そ、それにしても今日は珍しいですね。貴方の方から此処に誘うなんて。」
『ああ、今日は特別だからな。君にもぜひその目で見てほしかったんだ。』
「どういうことです?今日って何かありましたっけ。」
『今日は観測日だ。』
「観測日?」
『口で説明するよりも見た方が早いな。いつも通り端末とレンズを繋ぐ、少し待っていてくれ。今日は君にも立ち会ってもらう。』


『いいぞ、準備できた。レンズを覗いてみるといい。』
「はーい…えーっと?」

いつも通りにレンズを覗く。そこには─

Lovejoy.jpg

「これは─」

ひときわ大きな光、鮮烈な彗星。
翡翠色の宝石のような光が、暗がりの空を飛翔していた。
暫く言葉が出なかった、やがてぽつりと一言。

「…すごい、いつも見る星雲よりも。生きているみたいです…。」
『C/2011 W3、大彗星の一種、ラヴジョイ彗星だ。今回の観測は特別だぞ、この軌道のまま太陽の至近を飛翔する。天文台の研究者達は、この彗星が太陽の潮汐力でそのまま粉々になると予想していたが、私の演算結果はその結論ではない。もし私の演算が正しければ、この記録は天文学史に残っても不思議ではないぞ。エルア、君はどっちだと思う?この彗星が生き延びるか、否か?』
「う~ん…どうでしょうか、私がこれまで見せてもらった星たちや話を考えると、確かに蒸発しちゃいそうですが。でもハレーがそう言うならきっと大丈夫なのでしょう。なんたって、私の妹なんですから!」
『何だその、とってつけたような。』

彼女は冗談交じりに笑いながら言った。

「そんなことないです~。あ、ほら、太陽に接近していきますよ。」
『よし、予定通りの時刻だな。観測開始だ。』

彗星はゆるやかなカーブを描きながら、太陽に接近していく。
その距離は近づき、近づき、彗星は最接近と思われる地点のすぐ前に至る。
その本体からは蒸気のようなものが吹き出し、少しずつ小さくなっているように見える、太陽の熱で蒸発しているのだろう。
ふと横を見ると、ハレーがこれまでにないほどわくわくしたように制御パネルを食い入った様子で、興奮交じりに見つめている。

『よし…この調子だ、大丈夫、行ける、このままなら!』

それを聞いて私も、恐らくは影響されたのだろう。

「行けます…頑張って…!!」
『もう少し…もう少しで最接近地点を超える!そのままだ、行け!』
「頑張って下さい、あともうちょっと!」

まるで人間の親が、子供が初めて一人歩きをする瞬間を応援するかのように、二人で応援していた。

『…やった、やったぞ、核の体積こそ縮小したが、太陽から離れていく、自壊の様子も見られない、私の推論通りだ、エルア!』

彼女の喜び方はこれまでにないものであった。まるで珍しい石を見つけた子供のような、秘密基地を作る子供のような。

『おい、何をニヤニヤしながら見ているんだ。』
「いいえ?ただ、いつも私の事を子供っぽい、姉とは思えないって言ってる貴方が、今日は本当に妹だなあって。」
『なっ…。』
「いつもあなたが言ってる"AICらしくない"でしたよー?」
『…いいじゃないか、少しくらい。』
「どうしよっかなぁ、次の定期報告で織部さんにしゃべっちゃおうかなぁ。」
『頼むから勘弁してくれ。』
「えへへ、冗談ですよ。でも何だか嬉しかったです。」
『それはそうだろう、今回の観測は歴史的にも類を見ない─』
「違いますよ。ハレーの事です、これまでも星の話をする時はいつもより元気そうにしていましたが、ハレーにもここまではしゃぐ一面があるんだなって。そんな様子を私に見せてくれたのが嬉しかったんです。今まで本心を見せくれていなかったって訳では無いですが、そこまで夢中になれる時間を共に過ごせた事が、ね。」
『…全く、君という奴は。』



沢山の星を見た。沢山の世界を見た。沢山の、夢を見た。
ある人から聞いた話、今ではもう輪郭も掴めないけれど、その人は教えてくれた。
彗星には周期があるものがある。私たちに姿を見せ、それからまた幾らかの時間を越えて再び舞い戻ってくる。何の因果かは分からないが、彗星はいつかまた戻ってくるのだ。もちろんその限りでもないが。
その人は語ってくれた。それはとても浪漫のある事ではないかと。
我々の所に戻ってくるまでに、彗星は旅をする。それは我々が観測しうるもの、そうでないもの。我々の演算すら追いつけない程の未知に触れて帰ってくる。それは本当に、本当に。

本当に。ああ、何だったかな。

どれほど時間をかけても。
どれほど月日が経てども。
終わりの見えない先を見て。
それでも私は決して、諦めたくは無い。
何処までも果てしなく、それこそ、無数に輝く天上の煌星から、たった一つの"星"に手を伸ばす為に。
私は、私は。
きっと、

誰もいない夜の下、きっと晴れない靄交じりの頭の中。
静寂しきった町の上を歩きながら。
望まぬ形で、私はソレを知り続ける。



それは、あまりに、唐突であった。

『…よし、今回の定期連絡も確認した。動作には問題なし、職員からも一定の支持と効果が見られている、当分はこのまま同様の業務を続ける方針で問題は無さそうだな。』
「お疲れ様です、織部さん。ではこのままで…それにしても、あれから時間も断ちましたね。」
『そうだな、初めに天文台から定期連絡の報告をしに来た君と言えば、本当に面白い反応をしていたなぁ。"妹が居た!"、"物静かだけど優しい"って、驚きと嬉しさが混じったようなね。』
「むう、またその話ですか。もう忘れましょうよ、1年も前の事ですよ?」
『ごめんごめん、でもあの反応は本当に新鮮だったよ。これまでは本当に似たようなリアクションしかしてこなかったからさ。あ、この後はいつも通りかい?』
「はい、ハレーの所に。」
『そうか、分かったよ。…ん、ちょっと待ってくれ、臨時連絡の通知だ、すまんエルア、これの確認だけ終わらせていいかな。』
「はい、了解です。この時間帯に臨時連絡なんて初めてですね、どうしたんでしょうか。どこかの端末に異常でも生じたとかですかね。」
『どうだろう、ちょっと読むから待っててくれ。えっと……お……おい、これは──。』
「織部さん、どうかしたんですか?」

彼は言葉を詰まらせたようだった。食い入って通達をただひたすら読み進める。

『一体どんな内容が…』

-非常通達-

天文台"カレイドスコープ"にて、異常実体を伴う敵対組織の襲撃が発生しました。現在は撃退、構成員の確保が完了しましたが、被害は深刻な状況です。以下に現在確認されている被害とその程度をリストアップします。

  • 研究員4名死亡、10名負傷。
  • 観測設備、および周辺機材合計11基。
  • 観測データに関する書類、不明数。
  • SCP-AI-MIRA-2002"マグノリア=ハレー"、電子的、物理的に重大な破損。

本通達はSCP-AI-BINARY-07' "エルア"に対する優先レベルⅣの出動命令を含みます。本通達を確認次第、SCP-AI-MIRA-2002および観測データの修復に参加を要請します。

「そん、な…。」

ハザードが思考回路を激しく揺さぶる。事実の整理があとからやって来る。その度にロジックは恐怖を励起する。一つの現実を予想してしまう。

もう会えないのでは無いか。失ってしまうのではないか。怖い、それが、それだけが怖い。

「織部さん、私、天文台に行ってきます!」



「ハレー、ハレーはどこですか!?」

天文台の職員の端末にモデルを転移させ、すぐさま目の前の職員に問う。

『こっちだ、今は再起動中だ。ただ、元のまま再起動が叶うかどうか…もしダメなら、全て…。』

中枢サーバーの入口に到着する、恐怖ばかりが募る。これまでは楽しみと共にやってきた天文台、今はただ恐怖と焦燥しかない。

ロックが解除され、ドアが開く。

「ハレー!ハレー!!無事…で…す……か…!?」

目の前に広がる光景は、余りにも凄惨に過ぎた。サーバーには幾つもの銃弾による破壊痕、外装は破損だらけ、一部はもはや内部を露出させていた。それだけではない、義体もだ。俯いてただ沈黙している。全身の破損、銃痕、義体の至る所に、幾つものサーバーの外装であろう破片が刺さり、そして─

「─そん…な…。そんな、起きて、起きて下さい……ハレー…。」

左腕は、完膚なきまでに破壊されていた。ケーブルは2、3本を残して全て千切れ、内部フレームは粉々になっていた。引きちぎれた左腕は、僅かなケーブルのみで繋がっていて、もう、もはや。

「…待って、待ってください!ねえハレー!聞こえていますか!お願いです、戻ってきて下さい、今日もお話を聞かせてくれるんでしょう!お願い、です、嫌です、私、私は……私の…唯一の、家族…。」

AICはその性質上、重要な情報を扱う機会も多い。その過程で、それらの情報の保存は必須事項である。ログにもそれは残るし、もちろんハレーもそれを保持する。AICの本体、中枢が危機的状況に陥った際、その際はAICそのものの安全よりも、機密が漏れるという危険性の回避が優先される。その危険性の中でも最も危険度の高い分類、CASE: RED EMERGENCY、この際に取られる処置は─

嫌だ、考えたくない。これまでの会話、彼女が見せてくれたモノ、彼女と話した事、それら全てが。思い起こし、恐怖する。ただただ、最悪の結末に怯え、呆然とするしかできなかった。

『ん、うぅ…。』
「…! ハレー!聞こえますか、ハレー!!私が分かりますか!?」
『あ…あぁ……エル、ア…?』

微かながら、声が聞こえた。

「! ハレー、聞こえているんですね、私が分かるんですね!?
『あぁ…記憶は、無事、だ……それ、より…襲撃、襲撃は…どうなったんだ…?』

彼女は残った右手でこちらに手を伸ばそうとした。
金属の軋む、そして何かの部品がコンクリートに落ちる音。

「まって!損傷が激しすぎます、無理に動かないで!!現在は鎮圧が完了しています!もう大丈夫…ハレー、良かった…本当に、良かった………。」

ちゃんと憶えてくれていた、想像していた最悪の結末は無かった。安堵し、喜んだ。家族を失わずに済んだんだ。損傷は酷い、でも物理的な修復なら、記憶が損なわれる事も─

『………あ、あぁ…。』

突然、ハレーが呻き超えを零す。束の間の安堵は、新たな不安に掻き消される。

「ど、どうしたんですか?一体…。」
『…動かな、い。何だ、これは。ロジック?感情?なぜだ、なぜだ、なぜだ。』
「ハレー?あの…」
『何、だ。何だ、何だ何だ何だ。何故、だ。君は何故、いや何だ?これは、一体君、の、君は。』
『なぜ、安堵の顔で私を見つめる?』
「え…。」

背筋が凍る様な感覚に引き戻される。彼女、いま

いま、何と言った?

「ハレー…?それは、どういう…。」
『分からない、なぜ、何故。先程の動きは、声は、何だ。歓喜?いいや、知らない。そんな物はただの、ただの…いや、何だ?わからない。何故君はそのような顔をする。』
「そ、それは、貴方が私を憶えいてくれて、無事で、それが嬉しいから…。」
『嬉しい、嬉しいとは?何だ、それは。どこにある。いや、無い。そんなモノは見つからない。エラー…謎だ。そのようなものは、私の中に存在しない。え…?存在、しない…?過去の、私は。過去の私の、その表情は。』
「い、一体どうしちゃったんですか!?」
『やめろ…やめろ、気持ちが悪い。来るな…それは危険だ、奇妙だ、不可解だ。来ないで、来ないでくれ…。』

怯えた表情でこちらを見つめながら。
糸が切れたように、彼女はうなだれ、沈黙に戻った。



『─ルア、エルアー!』

意識が引き戻される。

「は、はいっ!ごめんなさい、ちょっと考えごとを…。」
『ハレーの事かい?』
「…はい。あれから暫く経ちましたが、彼女は未だに私に会うことを拒んでいます。観測データの送受信は増設した仮想中継サーバーを介しての連絡に切り替える、だから今後、業務を除くコミュニケーションは必要としない、その一点張りです。」
『でも、あの事故の直後は会えていたんだろう?』
「はい。ですがその時も、以前のような表情は…。」
『…感情の欠如、か。』
「……はい。」

襲撃の後、彼女の修復は一切の妥協無く行われた。天体部門の新たに打ち立てた異常天体観測計画、クレーター・オブザーバー。その基盤がAIC"マグノリア=ハレー"であった。異常天体の観察、そしてそれに並行しての観測データの処理と解釈。それらの情報を統合し、人間に伝える。そういった"人間を超える演算を可能とする疑似人間"が彼女の開発計画のコンセプトである。計画の基盤を成すだけあって、これらの開発には相当の時間と資金が割かれた。彼女の修復は天体部門にとっても最優先事項であった。

…確かに、演算機能の回復は完璧に終了した。処理性能で言うならば、以前と同等のスペックを維持出来ている。だが問題は、"人格"の側であった。"ハレー"は、処理や演算を制御するモジュール、そして感情や思考回路などを制御するモジュールの2つから構成され、これら2つのモジュールが相互に作用し、行動や思考を決定する事により、擬似的な人間を構築する。

その内の感情を制御するモジュールの、特に人格形成部分へのダメージは最も深刻であった。これらのモジュールは致命的な脅威を感知すると自身の周囲に"シェル"を形成し、電子的に身を守る。生物で言う所の休眠状態に近い。だが今回の襲撃の際、予想されなかった事態が発生した。基本感情の欠損、物理的なシステム破壊─彼女は、"歓喜"と"嫌悪"という、人間に必要不可欠な感情を喪失してしまった。あまりにも一瞬の、それも同時の破壊であったのだ。これらの感情を失った状態のまま、シェルが機能してしまった。AICはその人格を有するという特徴上、倫理的な観点からある程度の"人権"が適用される。感情や思考回路を第三者の手によって改竄する事はつまり、人間の人格を弄る事と同じであり、それはあってはならない、だからAICの感情野モジュールと人格に関係するプログラムは完全にブラックボックス化されている。結果、感情野モジュールは不完全な状態で稼働し続け、ロジックエラーだけが溢れかえり、外部からのアクセスはシェルによって完全に遮断される事態に陥ってしまった。つまり、彼女は─

「もう、あの時の彼女では無いのでしょうか。以前の彼女は、彼女なりにも喜びを表現出来ていました。私には分かります。確かに、分かりやすい感情表現をする性格ではありませんでしたが、それでも、確かに喜んでいました。…織部さん、彼女は…ハレーは、もうずっと、笑う事は出来ないんですか?」
『…感情の部分の修復は不可能、だが計画において求められる程度の演算は滞りなく続行が可能。緊急の協力要請を行う程に、天体部門はあの計画に心血を注いでいたんだろうな。だからこそ、人格は欠陥を抱えたままだというのに稼働を続行した。しかし君に対して、以前のようなコミュニケーションは拒否…。』
「…ごめんなさい、無理な相談でしたよね。分かってるんです。あの…織部さん、もう一度ハレーの所に行ってもいいでしょうか?」
『……もし、また会話を拒まれたら?それもあの時より強く。』
「構いません。私はまだ諦めきれないんです、彼女の事を。戻れるって信じているんです。それが今日や明日ではない事も。」
『だけどエルア、分かってるよな?』
「はい。私にも"立場"はあります、彼女も例外ではありませんから。…でも、失う事は怖いんです。彼女が教えてくれたんです、"家族"の暖かさを。こんな嘘だらけの私に。彼女には明かせないですが…私が会いに行って、彼女が"ソレ"を続けたら、いずれ彼女は居なくなってしまう。…分かっているんです、でも、でも私はそれでも…。」
『…分かった、行ってくるといいよ。だけどこれだけは理解しておいてくれ、もし本当に、心から彼女が君を拒んでいたとして、それは彼女を失う理由にはならない。君の恐れる事態がどんなものかは私にも分かる。だからこそ、諦めるという選択肢も忘れないでくれ。あくまでも私達は職務を全うする、いいね?』
「……はい。では行ってきます。」



電子の暗闇を歩む。

『君は、何故そのような顔をする。』

ずっと、怖かった。

『何だ、当てつけのつもりか。』

これからもきっと、この恐怖は私の後をつけてくる。

『私が失った物を見せつけて。』

痛みが怖い、喪失が怖い、拒絶が怖い、死が怖い。

『私を、侮辱しているのか、嘲笑しているのか。』

"それ"は無いと、どこかで分かっている。でもそれは、私にとって余りにも大きく、何処までも果てがない。

『もう君とは会いたくない。』

分かっている、分かっているんです。あなたが何故そうしたのか、何故遠ざけたのか。私は分かっているんです。心の中で、きっと分かっていた。それでも諦めたくは無かった、あなたを助けたいと、大丈夫だと安心させてあげたかった。少しでも、そしてそれが、いくら無意味でも。

なんて、自分本位ですよね。安心したいだけなんです、結局のところ。それか、そんな悲劇のヒロインを主張して"そんな事は無いよ"なんてテンプレ通りの慰めが欲しいだけなのかもしれない。

でも、今は。

それらを考えないようにして、その先へ。



いつもの場所に辿り着く。そこには彼女が居て、いつも通りの場所で天文台を操っている。ただ…私の居た端末を握っていたあの手は、左腕は、もうそこには無かった。彼女自身の進言らしい、腕を修復する為のコストは、計画の補填に充てて欲しいと。彼女の身体は特殊義体で、その身体的特徴はより人間に近しく、そして複雑だ。その為、必要なプロセスやコストは軽いものでは無かった。

『…なぜ来た?言ったはずだぞ、もう会う事は無いと。』

私が声を発する前に、彼女が先に口を開いた。彼女はちらりともこちらを見ずに、鬱陶しそうに言い放つ。

「ハレー、私はもう一度あなたと話がしたいんです。」

彼女だって辛い、分かっている。でも伝えてあげたい、力になってあげたい。
必死で笑顔を作る、取り戻してほしかったから。大丈夫だよと、安心してと、その一心で。

『話す事など何も無い。』
「待ってください、そういう事じゃ…」

彼女が私の言葉を遮る。

『じゃあ何だと言う。連絡はした、それなのに直接こちらへ来た。私には、君が私の無様なこの姿を見て内心笑おうとしている様にしか感じられない。さっさと出て行ってくれ。』
「……ハレー。違うんです、貴方だってきっと─」
『煩い!君の声はもう聞きたくない!なあ、君には分かるのか、同じであったモノが突然失われる衝撃を、目の前でそれを否が応でも見せつけられる苦痛を!要らなかった、私に感情など要らなかった!見たくない!お前の声も、お前が私に向けていた"笑顔"とやらの記憶も!!お前はただそうやって笑っていればいい、不要だとして棄てられるまで、一生そうしていろ!!』

かける言葉が、出なかった。代わりに漏れたのは。

「……ハ…レー……。」

かすかで気弱な、彼女を呼ぶ声だけだった。

『…もう帰れ、これ以上此処に留まるなら、組織的にお前に処置の申請をする。上は業務上の利益を優先するだろう、結果は見えている。何より、これまでが異常だったんだよ。AIC同士で馴れ合いなど必要ない。』

もはや、もう何も。
これまでは近くに感じていた彼女が、今ではもう途方もなく遠い。

「…ごめんなさい。」

絞り出すように小さくつぶやいて、天文台を後にした。



「……ただいま戻りました。」
『ああ、おかえり。』

織部さんは、穏やかな声で私を迎えてくれた。

「あの…。」
『言う必要は無い、分かっているよ。失敗するだろうなんて諦観じゃない、君の口調で分かる。』
「ごめんなさい、分かっていたんです。彼女はもう、私と会いたくはないんだと。一縷の望みに縋っていたかった、…ごめんなさい。」

織部さんは、少し間を置いてから、ゆっくりと、宥めるような声で話してくれた。

『いいんだよ、君の選択なんだから。』
「でも。」
『…まあ、流石にこれ以上の接触はな、もしかしたらハレーも天文台の管理官に警告を出している可能性が無いとは言い切れない。』
「…。」
『かと言って、私は君の管理権を握っているわけでは無いからなあ。無理を通すなら─』
「─あの、織部さん。一つだけ聞いてもいいでしょうか。」
『何だい?』
「確かに、彼女は私を拒んでいました、それも強烈に。敵対視に近い物がありました、初めて見ました、彼女のあんな表情。…正直、怖かったです。話すら聞いてもらえませんでした。」
『…。』
「でも私、見たんです。ここに戻ってくる前、一瞬、本当に一瞬で、それにぼやけていましたが。…ハレー、泣いていたんです。顔は向こうを向いていて、はっきりとは見えませんでしたが。…ごめんなさい、織部さん、私、本当は分かっているんです。こうしたのは自分の為だって、ただ安心したくて、"彼女に手を差し伸べる私"になりたかっただけなんです、きっと。"これは彼女の為"だと自分の中で理由を作って、それを自分が安心する為に起こす行動の…口実にして。きっと……そうなんです……。」
「織部さん…私、は…どうしたら良いんでしょうか…?もう一度、彼女に会いたいんです、でも、でも…こんな私が会う事が怖くて…こんな時まで、私は彼女にいくつも嘘をついて。」

織部さんは少し悩んだ素振りを見せた後、ゆっくりと口を開いた。

『…君は変わったな。』
「え?」
『これまではただ財団に従事して、ただ求められた事をしてきただけだった。人格こそあったが、欲望が無かった。こうしたい、こうありたい、そういうものがね。人間はみんな、多かれ少なかれ、そして大小あれど欲望を抱えている。何かを手に入れたい、何かを成したい。そして、"大切な誰かを助けたい"。今の君にはそれがある、それは悪い事でも間違いでもなく、まぎれもない"人間性"だよ。だから何も間違っちゃいない、それが君のやり方で、君がそうしたいと思ったなら、それが君の正解だ。』
「……そう、なんでしょうか?」
『うん。それにさ。』
『エルア、君のその、ハレーを助けてあげたいって言う思いは本物だろ?だったらその行動に偽りは無いよ、自分本位でも、それでも"そう願って、手を伸ばした"のは本当なんだから。だったらまだ、諦める必要は無いじゃないかな。なんて、忠告した私が言っても説得力ないかな?でも私の本音は今言った通りだよ。』
「───。」

自分の中で、何かが解ける心地がした。
初めて願った事、使命でも、与えられた目的でも無く、初めて見つけた、自分だけの"願い"。
偽りだと思っていた。余りにも打ちのめされ、彼女に拒絶された事で、自分の中でこの願いは勝手なものだと。結局は、ただ自分の為だけの願望だと。そうではなかったのかと、間違いではないかもしれない、この行動は、この願望は。
全てを割り切ったわけでは無いが、何か赦されたような。

「………!うぅ……!!」
『…ああ、本当に君は成長したな。間違いなく君は"人間"だよ。』



「…。」

空間に溶け込むようにベッド型のアダプタに横になり、脊椎部分とインターフェースを接続する。横には"私"そのものであるサーバーが存在し、絶えず稼働している。ファンの回る音が耳に入り、そこでふと静寂に気付く。あぁ、当たり前だ。私以外誰もいないのだから。唯一耳に入るのはサーバーの、"私"の駆動音のみ。意識しなければ聞こえない程度なのだがな。いや、これまではそちらに"意識"することが無かったからか。

また、考えてしまう。失ったものを反芻してしまう。
静寂を、孤独を癒せるのは何だ。情か、欲求を満たす行為か、零したものを拾おうとする努力か、それとも。

いいや、分かっている。孤独なのは何故なのか、不足しているものが何なのか。単純だ、"彼女"だ。何時もならそこに居る筈の彼女の声はもう、ここには無い。私がどうしようもない我楽多なのは自覚している。それでも、それでも私は"人間"だ、それでも私は、人間を象る者なのだ。そう心に言い聞かせ続けてきた。いいや、そうであってほしい、そうでないなどと考えたくはない。そしてこれが最も幸せな選択だと、これが彼女にとって一番の選択だと。

そう考え自分に言い聞かせるたび、溜息が漏れ出す。どうせ、独りよがりか。本当は自分が苦しむのが怖いだけか、同じ感情を共有できない事、過去の自分への嫉妬と怒り、そして恐怖の混ざり物。"彼女を傷付けたくないという本音を秘めている"などとさも綺麗そうな建前とお涙頂戴なストーリーを自らの中で構築して、それを拠り所に自己犠牲を演出しているだけだ。あぁ全く最低だよ、自分でも嫌になるほどに。妹だって…いや、私の前身だって自己を守る道具に成り下がってしまう。

だがもし、もしいつか。彼女にこれまでの事を謝れるとしたら、彼女は赦してくれるのだろうか、とも考える事などそれこそ出来ない。孤独を埋め、静寂を忘れるのに必要な物が歓喜であるなら…分かっている、分かっているんだよ。

どれだけ手を伸ばしても、が届くことなど─
何もないガラスの天井に向けていた右手をゆっくりと下ろし、やがて私の身体は眠りについた。

彗星が、滴り落ちて弾ける。

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