邪魔な前髪をかきあげながらした舌打ちで一日が始まった。
まったく、なんでこんな非番の朝っぱらから呼び出されることになったのか。
あの事務のやろう、と昨日のやつの笑顔を見て悪態をつく。
仕事から帰ってきたと思ったら
「あ、明日面談ですよ。朝早いので忘れないでくださいね。」
とかぬかす。
そんなこと初めて聞いたといえば
「ええ、昨日決まって今言いましたから。」
なんて悪びれる様子もない。
文句のひとつ言うのも億劫になったから時間だけ聞いて、さっさと部屋に戻ったのが好くなかった。
非番の日に朝寝ていられないのは拷問と同じだろう。
こんなことになるならもう少し時間の交渉でもするべきだった。
いまではもう全てが後の祭りだ。
二日酔い──いつものことだが──で重い頭をゆすりながらカウンセリングルームのドアを開ける。
とにかくさっさと終わらせて二度寝しよう。
「あ、きましたね~。どうぞ~。」
ドアを開けたとたんそんな腑抜けた声が聞こえてさらに頭痛がひどくなった。
聞いたことのない声、そのほうを見るとフードをかぶった面接官?がいた。
おかしい、前の定期面談は禿げ上がったジジイだったはずだが。
「あ、今私のこと怪しんだでしょう~。ね、そうでしょう?」
フードから薄笑いを浮かべて見知らぬ面接官は、こっちの思考をずばり当ててきた。
考えたのは一瞬だぞ、表情に出てたのか?
「そしていまは何で当てられたのか不思議に思っている。まぁこれは皆さんおんなじ反応ですけどね~。」
またフードの下で唇が三日月を作る。
なんだこいつは。不気味だ。
第一印象は警戒しなければならない相手、に落ち着いた。
こういった相手と話すのには慣れていない。どうしたものかと考えをめぐらせていると
「座らないんですか~?そのまま面談でも別にいいのですけど、ちゃんと面談ができたほうがいいので座ってほしいです~。別にあなたのこと取って食べたりしませんよ~。」
また腑抜けた声でこっちの行動を促してくる。
ああもう、面倒くさい。
寝癖の付いた髪の毛を何度かなでつけて椅子に座る。こういうやつには従っておいたほうがいい。
経験則から判断しても、この得体の知れない相手にはそうするのが最善だと思った。
向こうの全体像がまったくつかめないのがまた面倒くさい。どう対応したものか。
「あらら、寝不足に二日酔いですね~。今日面談だったのに昨日深酒しましたね?だめですよ~生活習慣はきちんとしないと。それに今日も朝寝坊しかけたんでしょう。身だしなみは大切ですよ~。」
そうこうしていたら今度は生活リズムまで当てやがった。なんなんだ、千里眼かこいつは。身だしなみから寝不足や寝坊を当てるのは出来るだろうがなんで二日酔いまで。
「ふふ、不思議でしょう?私こういうのが特技なんですよ~。だからカウンセリングや面談もしてるんです~。外見だけ取り繕う人も多いですからね~。」
いやそれはそうだがなんにしても鋭すぎ
「でも~、あなたは分かり易過ぎます~。あなた自分が想像してるより結構ひどい顔してますよ~、夜久ルシアさん。元がいいのにもったいないですよう。」
「…余計なお世話。」
というか会話のペースを握られ続けてやっと一回喋れたのがコレだ。
ああ、さっさと終わらせなくては。
「それで、あなたが心理学者並なのは分かったから早く面談をしてくれない?私も忙しいんだけど。」
「はあい分かってますよ~。あ、挨拶が遅れましたね。私は今回から新しく配属されたカウンセラーの彼岸です~。よろしくお願いしますね~。」
そういえばここまで名前も聞かずに喋ってたのか。やっぱりこいつは不気味だ。
意趣返しのつもりで少し文句を言ってみる。
「あんた人の思考を覗き見るのは得意みたいだけど、人に見られるのは苦手だとか?私フードをしてるやつはいまいち信用できないんだけど?そのフード取ってみてよ。」
すると分かりやすく彼岸とか言う面接官は下唇をかんだ。やりかえしてやったと内心ほくそ笑んでいたら
「エージェント・夜久ルシア 態度ばつっと。」
分かりやすく脅してきやがった。
そんなこんなで面倒くさい面談が終わった。まったく、眠気も頭痛もどこかに行ってしまった。せっかくの非番の楽しみが奪われたのがやけに悔しい。
今日の朝からなんど面倒くさいと考えただろう。それだけ変なやつだった。
もう二度と会いたくはないタイプだった。だけど、物事はそううまくは運んでくれないようだ。
昼になったので転がっていたビール缶と、脱ぎ捨ててあった服の片づけを中断して食堂へ向かう。自炊は面倒。
そんな訳で部屋のシンクは新品同様、台所で役目を果たしているのは冷蔵庫だけ。
そうだ、ビールを買い足さねば、とか考えているうちに部屋の掃除などはすべて忘れてしまった。
あとで自室に戻って片づけをするのと、無視して寝るのはフィフティフィフティ。
食堂で今日の昼食を選ぶ。
どうしようか、今日の日替わりは揚げ物だったのでそれにする。
デザートはどうしようかと、トレーを持ってスイーツの前で悩んでいたら
「どれもおいしそうですよね。どれにするんですか~?」
横から今日一番聞きたくない声が聞こえてきた。
なっ、さっきまで隣にいたのは男子職員でこいつでは。
辺りを見回すとその男子職員はさっさと席に向かっていた。というかデザートで悩んでいるのは私とこいつの二人だけらしい。
今朝あったときよりも大きな三日月を作っているこいつの質問に応えてやるのも癪だったのでそのまま立ち去ろうとも思った。
が、それはそれでこいつのためにスイーツを我慢しなければならないのも癪だったので無視してスイーツを吟味する作業に戻ることにした。
「何で無視するんですか~、ルシアさん。」
もっと面倒くさくなった。
「気安く名前を呼ばれる仲でもないと思うんだけど。あなたと私。」
とりあえず冷たくあしらっておけば向こうも諦めるだろう。少し迷ったが普通のプリンを選んで席に向かうことにした。
席に座るときに横目で見るとまだスイーツを選んでいるらしい。
まったく、昼食まで彼女に出会うとは。
今日はとことんついてないらし──
「前失礼しますね~。あれ、ぜんぜんご飯進んでないですね。何か考え事してましたか?」
なぜ、こんなに、席が、空いているのにこいつは私の前に──
「何でこんなに席が空いているのに私の前に座るんだ、そう思ったでしょう?」
「…」
まただ、こっちが考えきるより先に答えが出てくる。
「何でかというとですね~、さっきルシアさんがそんな仲じゃない、っておっしゃたので仲良くなろうかと思いまして~。」
「…私はあなたとお近づくつもりはないんだけど。」
何度こいつをあしらわなければならないんだろう。
どっちかというとこっちがあしらわれている部分も多い気もするが、そっちは癪だから無視。
「ええ~、仲良くしましょうよ~。スイーツに真剣になってくれる人がここだと全然いないんですよう。」
「…私は別に真剣になってなんて──」
「嘘ですよね。さっきの視線はちょっと高いけど選ぶ価値はある特性抹茶パフェにするか、コスパがいいなめらかプリンにするか、はたまた期間限定の苺タルトにするかの視線でしたもの!」
千里眼もここまでいくとなんだかもうどうでもよくなってきた、が少し恥ずかしい。弱みを握られた気分だ。
それに周りの職員の目が痛い。甘い物好きは隠してきたというのに。
「分かった、分かったから。少し静かにして。」
「それじゃあこれからよろしくお願いしますね~。言質取りましたからね。」
そういうとまたフードの下で彼女はにっこりと笑った。
ああ、どうしたものか。
こいつに悟られないように食事を進めながら、この先どうこういったインシデントを回避していくかを考え続けていた。
次の日からは新しい仕事も入り外に出ることも多くなっていたので運よく例の彼女とは出会うことはなかった。
ああ、平穏とは素晴らしい。人間みな知られたくないことも多い。彼女といるのはそれだけで危険だ。このまま何事もなく日常が進めばいいのに。
でもやっぱり神様は性根が腐っている。
ついに仕事が終わってしまった。最後のミーティングを終えて部屋に戻ってきたとき仕事の疲労の上にもうひとつ重石が乗っかるのを感じた。いやな予感がする。
そう思ったとたんドアをノックする音が聞こえた。
「ルシアさ~ん、お昼ごはん行きましょうよ~。」
そういえばもう昼だ。確かにお腹は空いているが、このままあいつと一緒に行くのは嫌だったので居留守をつかうことにする。
「ルシアさ~ん。あれ、いないのでしょうか...。」
よし、そう、私はいない。ひとりで食堂に行ってくれ。
「いないみたいですね…しかたないです。」
そうするとノックの音が消えた。よし、助かった。私の平穏な昼食が守られたことは確かだ。
少し時間を置いてそっとドアを開けて廊下をかくに──
「あ、やっぱりいましたね。まってたんですよ~。」
「きゃっ」
柄にもなく恥ずかしい悲鳴を上げてしまった。
「ふふっ、驚いたでしょう。あ、今の悲鳴可愛かったですね~。」
かあっと顔が熱くなる。くそう、また握られた弱みが増えた。あわてて態度を取り繕う。
「あ、あんたもしかして私がいることを知ってて?」
こいつは何を言っているんだとばかりに首をかしげている。それが酷くむかついた。
「あたりまえじゃないですか~。ルシアさんが部屋に入るのを見かけたので、ここ最近会ってませんでしたし約束を果たしてもらおうと思って声をかけたのに居留守なんて。ひどいですよう~。」
あれ、私が悪いのか?
「ほら、いきましょうよ~。デザートなくなっちゃいますよ。」
「ちょっ、わかった、分かったから引っ張んないで。」
引っ張られるままにそのまま食堂に行って、彼女が選んだデザートをとって席に着いた。
「まったく、初めてだよ何度もおんなじ人と食事を取る経験は。」
こいつといるときには会話のペースをこっちが握らないと危険だ。
「そうなんですか?ルシアさんプリチャード学院ですよね。女の子とかから誘われたり、一緒に食べたりしなかったんですか?ほら、ルシアさん女の子に好かれそうですし~。このサイトは男性職員ばっかりなのでそういうのはなさそうですけど。あ、もしかしてあるんですか~?」
ブルドーザーみたいにパーソナルスペースをつめてくる。それに、過去は一番進入を許したくはなかった。
「そんなものはないし、私は一人でいるほうが楽だから。あと声が大きい。」
まったくこいつといると周りからの視線が痛い。極力人との関わりを減らしてきたのに、それも裏目には出ているがここにきて興味を引く対象になるのは居心地が悪い。
「ごめんなさい、気にしてるんですね。軽率でした。」
急におとなしくなった。はたから見れば私がいじめているようにも見えなくもない。
ああもう、どうしろと。
「…この抹茶のパウンドケーキ美味しい。」
思い切って話題を振ってみることにした。かなりのスイーツ好きのようだから食いついてくるだろう。
会話を切らず続けずというのはなんて難しいのか。
人目がなければこのまま無視して食事を終えれるのに。と、ちらりと向こうを見るとぱあっと表情が一気に明るくなる。
「ですよね!私抹茶が凄く好きなんですよ~。ここのパウンドケーキは生地が…」
延々とスイーツの薀蓄が飛び出してきた。やめときゃよかった。
記事にしたら高評価が取れそうなほどのレシピ考察を聞き終えてやっと部屋にたどりつくと疲れがどっと肩にのしかかった。おかしい、私は食事をしてきたはずなのにそれ以上のカロリーが消化されている気がする。
やりのこした洗濯物に触れる気も起きず、そのまま眠りに落ちた。
次の朝からはまた仕事が入り平穏な一週間が過ぎた。仕事だけの生活はやはり楽だった。ただそれだけをこなせばいい。しかし食堂での彼女との食事が災いしてか一緒に仕事をしている面々からの視線が強くなっていたり、直接そのことで話をしてくるやつも増えた。
ああ、やっぱり面倒くさい。
でも、それだけで済んでいるのはありがたかった。あいつと話すときにはいつも千里眼に気をつけなくてはいけない。
目の前のことを見抜かれるのはまだいいが、始めて会った時に生まれたもっとも遠ざけておきたい過去を見抜かれることはさけたいし、その不安が読まれていればいつ聞かれるかもわからないし、それに対して確認しようとする姿勢をとればますます見抜かれそうだから、と表情と感情のコントロールが常に付きまとって休まる暇がないのだ。
そんなことを考えながら部屋のドアノブに手をかけると後ろにあの気配がした。
「ルシアさん。」
思わず悲鳴を上げそうになったが無理やり押し殺す。フードをかぶっているから余計に存在感がなくて怖い。
「…びっくりするからその唐突に声をかけるのはやめて。気配がなさ過ぎて幽霊かとおもった。」
ただ思ったことを言っただけなのに、このフード千里眼はえっ、と驚いた声を上げた。
「なに?本当の幽霊とか言うんじゃないでしょうね。やめてよ。」
何か悩んでいる様子だったがすぐに笑顔を取り戻した。自分で言っておいてなんだが、そのおかげで笑顔が不気味に見える。
「そんなことないですよ~。あ、ルシアさん、おやつ持ってきたので一緒に食べましょうよ~。」
と、手に提げた紙箱を差し出してきた。紙箱には某有名スイーツ店のロゴが。さすがに現物を見せられて断るわけにもいかなかった。
「分かった、いいよ。じゃあ入って。」
致命的なミスだった。今日は、部屋の掃除をしていない。こいつは千里眼かつ若干のお節介。足し合わせるとどうなるかは目に見えていた。
「お邪魔しま~、わ!なんですかこのビールの山!それに下着も脱ぎっぱなし!いきなり誰かが尋ねてきたらどうするんですか!ここは男性職員ばかりなんですよ、もうちょっとプライベートに気を使わないと。あれ、でも他の所は綺麗ですね。ちゃんと掃除してる…だとしてもこれはだめです!うんぬんかんぬん…」
猛烈に怒られた。気迫が凄すぎてその場に正座してしまったほどだ。怒られるままに部屋の掃除を終えてやっとおやつの時間になった。
「ルシアさんがここまで無頓着だとは思いませんでした。一見するとスマートな女性に見えるのに、人は見かけによらないとはこのことですね~。」
「…余計なお世話。」
もう表面的に握れる弱みは全部握られてしまったに等しい。この先私はこいつに頭があがらなくなるのではないか。
どうしようか。
そんな自分の心配とは裏腹にこいつはいそいそとケーキの準備をしている。ケーキはまた抹茶味らしい。
異常な抹茶味好き。こいつのプライベートに関しての収穫はこれしかなかった。
久しぶりに早起きをした。そろそろ夏の影が見えてくる時期だったがまだまだ朝は涼しい。
今日は最近頻発している事件の調査に借り出されることになっている。かなりオブジェクト色が強いと言われているし、事件の凄惨さが昨日のミーティングで強調されていた。こういう事件はよくあるが、普段の業務に比べたらやはり行きたくはない。
常に死の意識はしているものの、改めて自覚するのは怖いものだ。
今のうちにルーティンを済ませておこう。
ジーンズのポケットから銀製のジッポーを取り出す。風で消えないように気をつけて、ゆっくりと火をつける。炎の輪郭がぼやけるまで静かに見つめ続ける。
向こう側は夢の世界。炎が暖かさだけを置いてきた世界。
手に感じるぬくもりが体を駆け巡るのを待って、蓋を閉じる。
マッチ売りの少女は救われた。私も救われるだろうか。
静かに十字を切り、祈る。神ではなく、私が信じるものに向かって。
大事な仕事の前にはいつもこうする。
大切な人に守ってもらっていると自分に言い聞かせるために。大切な人が消えていないと言い聞かせるために。
ふと下を見たら彼女がじっとこっちをみていた。散歩でもしていたのだろうか。反射的に彼女から隠れるように部屋に飛び込んでしまった。
たいしたことじゃないけど、これでは隠し事をしているみたいじゃないか。
苦手なタイプだから反射的でもおかしくない、そう言い聞かせようとしたけど自分で考えてみてもやっぱりおかしい。
履歴書にも似たようなことは載せてあるけど、十字のことまでは載せてなかったような。
さっさと仕事に行こう。見えていなかっただろうと思おう。
仕事も予想に反してたいしたことはなく、近辺の聞き取り調査やサンプル採取に留まった。帰ってきたのは夜遅かったので彼女に出会うことはなかった。
それはそれでよかったのだが、明日からのことは考えたくなかった。忘れてくれているだろうか。
結局朝の食堂で彼女と鉢合わせてしまった。
「おはようございます~。あ、また寝癖直してないですね。またお酒ですよね?気をつけないと駄目ですよ~。職員の体調やメンタル観察も一応私の仕事みたいなものですからね。少なくともルシアさんは注意の対象ですよ?研究職じゃないのに朝死にそうな顔をしているエージェントはルシアさんぐらいですからね。」
良かった、昨日のことはなんとも思われてないらしい。
「…そう、でも大丈夫だから、ほんとに。」
「反省してないですね~。あ、そういえば昨日ルシアさん私のこと見て逃げませんでした?せっかくお近づきになれてきたのにひどいですよう。」
何て謝ればいいのか、とりあえずそれっぽいことを言って誤魔化しておこう。
「いや、あれはもう仕事に行く時間だったから別に。」
「ふ~ん、そうなんですね。その後食堂でも見かけませんでしたし、そういうことにしておきましょう。」
完全に信じていない目だった。
そこからはまた仕事の日々だ。
以前からの調査の続きを連日こなし、もう少しで目標に行き着くと思われた矢先だった。
同僚と二人で追っていた対象が尾行に気がつき車両を奪って逃走。同僚に運転を任せて捜査本部に連絡を取っている最中のことだ。
人気のない住宅街に入り込んだと思ったとたん鈍い音とともに対象車両が急停止、車両から降り万事休すと判断したのか銃撃戦を開始しようとした馬鹿を同僚と連携して確保したまでは良かったのだが、同僚に本部への連絡を任せて逃走車両の確認に向かったのが良くなかった。
そこには血の海に浮いた女性と、子供と思しき女の子が泣いていた。
交通事故なんてありふれていて、自分がしている仕事でおきる事故に比べたら凄惨さも少ない。対応マニュアルなんてあってないような事件。簡単に対処でき、そのための講習も受けてきた。民間人への被害への対処もこれが初めてじゃなかった。
それなのに、目の前で起きていることに脳がオーバーフローを起こした。同僚に事情説明をして救急車を呼び、そのサイレンが大きくなるところまでしか記憶がない。
目が覚めたら看護室のベッドで寝ていた。
情けないことだ。人の死というものはここまで大きくのしかかってくるものなのか、そして私の精神耐性がこの程度のものだったのか。
自分の弱さを突きつけられたようでひどく惨めだった。
上司や同僚もあからさまに困惑していたし、その哀れむような目が苦しかった。以前からの精神鑑定やカウンセリングでは何も問題のなかった職員、しかも周りと接する時も乾いていて気の強い様子を演じてきた者、がいきなり精神的ショックで倒れたのだから当たり前だろうが。
経過観察で一週間の休暇を言い渡された、何もする気が起きなかった。
膨れ上がった羞恥心と無気力さの中に浮いていた。
言いつけられていたカウンセリングにも行きたくなかった。彼女と今回のことについて話すのは気が引ける。
そんなことを考えながらベッドに寝転がっていた。ビールは少し前に切らしている。
しかたなくポケットに手を突っ込んで、手のひらに銀の金属的な冷たさを馴染ませているとドアをノックする音が聞こえた。
ドアを開けると彼女が立っていた。しまった、無防備に開けすぎた。
ドアを閉めようかどうか逡巡していると彼女はそのまま部屋に入ってきた。
「いま閉めようかなって思ったでしょう。駄目ですよ~、カウンセリングの時間にも来ませんし、私も仕事なので困るんです。少しでもいいのでここでお話しましょう。じゃないとずっとこないつもりでしょう?」
帰って、と言おうかとも思ったけれど諦めた。とりあえず早めに帰ってもらおう。
「それで、何を話せばいいの?私はもうなんともないから、たぶん一時的なショックだと思うし、ほら最近あんまり寝れてなかったのが悪かったんだと思う。次からは気をつけるから。」
彼女はにこりともしなかった。
「う~ん、大丈夫じゃないと思いますよ。確かに生活習慣の影響もあるかもしれませんけど。一応ルシアさんの過去の業務記録とかも確認しましたけど今回は特に異質です。簡単に割り切れるものじゃないです。なのでちゃんと質問に答えて欲しいです。」
普段の彼女からしたら信じられないほど真剣な声だった。見えない視線が自分の体を射抜くのを感じる。
「状況を簡単に同僚さんから確認してきましたが、以前も似たような事故に遭遇していますが同じ状態に陥っては居なかった。そして精神的なショックによっての‘‘昏倒‘‘まで行くとかなり精神面で影響するものがあると思います。心あたりがありませんか?」
答えたくなかった。
言えば積み上げてきたものが決壊して、二度と修復できない気がしたから。
しばらく黙っていると彼女もひとまず諦めたのか別の話題を振ってきた。その言葉にはさっきの鋭さは滲んでいなかった。
「あれ、このぬいぐるみ。ルシアさんぬいぐるみ好きなんですか~?いや、そうじゃないですね。ひとつしかありませんし~、これ結構古いですね。ところどころ補修もしてありますし~、もしかして大切なものなんですか~?」
言っているうちに彼女の視線が少し変わった。ぬいぐるみに触れられたときに顔に出てしまったのだろうか。
「いいでしょ、べつに可愛いもの好きでも。」
「そうじゃないんですよ~。確かに可愛いものが好きなのはスイーツが好きなのと同じぐらい隠したいことかもしれませんけど、これは可愛いものだから、じゃないですよね?」
黙っておくことにした。こういうときは黙秘が一番いい。態度として見抜かれはするだろうがそれはもうずっと前からだろうし、気にしないことにする。
結局彼女はそれ以上詮索するのをやめた。
「分かりました、今日はここまでにしましょう。ですが仕事ですのでまた明日も来ます。それでは。」
次の日、その言葉のとおりに彼女は現れた。私がカウンセリングにこないからわざわざ部屋にまで足を運んでいる。そのことは申し訳なかった。
「今日もいくつか質問をします。ちゃんと答えてくださいね。あまり詮索するのは好きじゃないんですが、仕事上報告書も書かなきゃいけませんし、あなたの上司からもちゃんと確認を取って欲しいといわれています。業務成績はルシアさん高いですし仕方のないことだとは思いますけど。」
まったく、あのクソ上司が。そう思ったが口には出さない。
「今の仕事がいつからのものかも聞いてきました。ちょうどルシアさんが私から隠れた日からでした。あの時もルシアさんは何か特別なことをしていたように感じます。関係がないかもしれませんが、良かったら教えてくれませんか?」
おそらく彼女は履歴書を再読していて、そこから何か引っかかるものを見つけているのだろう。だから余計に言いたくない。
「少し質問を変えますね。昨日のぬいぐるみですが補修はご自身でやったんでしょう?糸の劣化で分かります。それと、私がぬいぐるみを手に取ったときひどく視線がゆれていました。これもルシアさんの現状に関係していますか?」
それは少し違ったけど、間違ってはいない。ここから先は詰め将棋になる。とりあえずなんでもいいから逃げたかった。
「うるさい。あなたには関係ない。」
「関係なくはないですよ。ちゃんと答えて欲しいです。仕事だからって言うのもありますけど、それ以上に私もルシアさんの力になりたいですよ。まだ始まったばかりですけど共通の話題で仲良くなれたんですよ。」
「…それなら、なおさらほうっておいて。もうこないで。」
自分が逃げられないなら突き放してしまえばいい。もう彼女も懲りるだろう。そう思ったのに。
彼女は私が思っているよりよっぽど強情らしい。
「また明日来ますから。」
そう言って。彼女は静かに出て行った。
次の日も彼女はドアをたたいた。
私は夜を重ねるごとにフラッシュバックが増えていた。過去の認識が強くなっている。彼女と話すことで強くなっているのだろう。
自分の居場所が分からなくなってきた。恐れだけが体にまとわり付いて、伸ばす手が空を掻くだけだった。
「ルシアさん。ちゃんと答えてください。ルシアさんは閉じ込めることで自分の平穏を守れていると思っているでしょう?違うんです、それじゃ解決にならないんですよ!私はそういった人たちを何人も見ています。このままじゃルシアさんも壊れちゃいます。きっと夜うなされて──」
彼女の良心は理解できる。それに暖かさを覚える自分も居た。
だけど、その自分はもう黒い感情の塊の中に塗りこめられて、私の心に触れることが出来なくなっていた。
「…黙って。」
「駄目です、逃げないでください。ルシアの履歴書からいろんな事を調べました。もう何が原因かも分かってます。お母さんが交通事故で亡くなって──」
渦巻いていた感情が溢れ出す。恨みが、後悔が、恐れが脳を駆け巡る。
せっかく秘密にしてきたのに、繕ってきたのに。なんで、どうして、そのままなら大丈夫なはずだったのに!
「うるさいっていってるでしょ!」
突然あげた大声に彼女は押し黙った。
「そう、そうよ。あなたが言ったことに間違いはほとんど無い。でもね、根本的な部分であなたは間違ってるの。私は大丈夫、大丈夫なの。哀れまれる謂れはないのよ!」
本当は彼女の言ったとおりで、大丈夫なんてことはまったくないのに。この虚勢がどれほどむなしいものかも分かっているはずなのに。
崖際に居るのに強がってしまう。
その敵愾心は全て自分に向かえばいいのに、目の前に居る彼女にも降りかかってしまう。ああ、早く、早く出て行って。もうあなたが傷つく必要なんてないの。
良心が壁の奥で叫び続ける。それもトラウマに取り付かれた私には届かない。言いたくもない悪態を口が紡ぐ。
「それに、そういえばあなたも前に何か隠し事をしたわよね。もしかして本当に幽霊とか?ねぇ、そうなんでしょう?そのフードも取ってみなさいよ。なに、自分が問い詰められるのには慣れてないの?いいじゃない、彼岸って苗字も幽霊ならぴったりじゃ──」
そこまで言うと頬に鋭い痛みが走った。彼女が頬を叩いたのだ。
見れば、急に立ち上がった反動で浮かんだフードと髪の隙間から涙の溜まった桜色の瞳が見えた。
「ごめんなさい。」
そう小さく彼女は言うと、そのままドアを乱暴に開けて走り去った。
目の前には彼女の香りの残滓が残っていたが、それもすぐに消えた。
抜け殻になったままシャワーを浴びた。体を滑り落ちるお湯が、やけに熱かった。
何も考えずにビールを出して、放り出されていたぬいぐるみを手繰り寄せる。それを抱いたまま、酔いが回り夜が更ける。
これで良かった。私は元からこう人間だった。そう、言い聞かせる。
誰かとかかわりを持てば、その終わりが怖くなる。かかわりを持とうとすれば、その先が怖くなる。だから、私は冷たく生きてきた。
なのに、ああ、なんでこんなに胸が痛いのか。
ベランダの壁に寄りかかって、欠けていない月を見上げる。雲は無いのに、朧月だ。
コンクリートの染みは、少しずつ増えていく。
おかあさん、おかあさん、と小さな女の子が泣いている。父親につかまれて、駆け出せずに泣いている。
光る赤いランプ。
鳴り響くサイレン、クラクション。
ざわめく雑踏。
ひしゃげたバンパー。
潰れた運転席。
赤い水溜りは雨に溶けてゆく。
夜久ルシアの母は交通事故で、彼女の目の前で死んだ。父親の車の助手席に座っていた彼女は母がトラックに押しつぶされる一部始終を見ていた。
母は、彼女にとって唯一の拠り所だった。父は厳しく、その厳しさを拒否することを許さない人間だったから。
父は仕事に出ているときのほうが多かったが、彼女が課題をすべてこなしていなければ家から簡単に閉め出すほどだった。そんな時にいつもドアを開けて彼女を助けてくれたのは母だった。母は彼女のことになれば父にも意見してくれた。
父は母を心から愛していたから、彼女はまだ、恐怖で支配されずに居れた。
それでも、母は居なくなってしまった。彼女の救いは無くなった。
そこから彼女は機械のように生きてきた。父の命令に従うまま生きてきた。
それでもプリチャード学院に入ってからは人との関わりを見つけようとした。それまではハーフというだけでいじめられ、遠ざけられ、父の言うことを聞くしか他に無かったから。
学院で彼女は始めて人間のように生きようとした。でも、関わり方を知らなかった彼女の周りに残る人は居なかった。
ハーフという特性も最初に興味を引くだけで後のコミュニケーションには役に立たない。片親、というのもあまり好まれなかった。だから、関わりを作ってはすぐに消えてしまう。そのたびに彼女は傷つき、その無為さを知った。
だったら最初から作らなければいい。彼女はそこに行き着いた。
幼少のときに壊された日常と愛は戻らない。彼女はそれを悪化させ続け、やっとそこから逃避する方法を見つけた。でも、そこで彼女の人生は終わってしまったのと殆ど同じだった。
皆と同じになりたくて裁縫の練習もしたし、お菓子を好きになったりもした。女子力といったものは身につけてきた。そんな無意味に終わった積み重ねは、今彼女の過去を押し込めるためだけに使われている。
スイーツの甘さと、母がくれたぬいぐるみの暖かさと、それを修繕することで、過去がその中からあふれ出ることを押しとどめている。
大人になって飲めたお酒は記憶の忘却薬だ。その量は年を経るごとに増えているのに。
夜は更けて、月が落ちて、暁は伸び上がった。
彼女はどうやって辿り着いたのか分からないベッドの上で目を覚ます。体が重く起き上がれない。声がかすれ、頭はふわふわと。夜風に吹かれ、風邪を引いていた。
窓だけをやっと閉めて、ベッドに倒れこむ。床に落ちたぬいぐるみを拾おうとして腕は力なく空を掻く。そのまま思考は暗転した。
次に目を覚ますと、看護室のベッドの上だった。担当医に聞けば、仕事仲間が復帰する日のミーティングに来ないのを怪しんで部屋に行くと、ドアが開いたままだったので中を見ればあなたが寝ていた。たたき起こそうとしたら、異常にうなされていて触れたらとんでもなく熱を持っていたからここに運び込まれた、とのことだった。
要約すれば風邪を引いて一日寝込んでいた、ということらしい。馬鹿な話だ。
前回に続いて二回目の大失態。頭がどうにかなりそうだった。
もう一日で部屋に戻れと言われたので安静に──ただ寝ているだけだったが──していたら初めての見舞い人が来た。
「なんで──」
それしか声が出なかった。
彼女はフードの下で固く口を結んで、プリンを手渡し無言で帰っていった。
あっけにとられてプリンに目を落とすと、乱暴な字で「明後日面談」と書いてあった。
翌日重い体を引きずって部屋に戻り、見舞い品のプリンを食べる。明日、どんな顔をして彼女に会えばいいのか分からなかった。
何て言えばいいのか、どうしたらいいのか。
何も、分からなかった。
結局朝になっても縺れた感情を解けなくて、面談には行かなかった。
そのまま仕事に行って、普段は会話すらしない同僚に茶化されたり見舞われたりしながら昼ごろに帰ってきた。
外で食べて来れば良かった、と今更になって同僚の誘いを撥ね付けたのを悔やんだ。
食堂に行くと彼女が居た。一人で窓際に座って食事をしている。珍しくトレーの上にはデザートが乗っていなかった。
なるべく彼女のほうを見ないようにしながら食事を選び少し遠い席を選ぶ。
食事をしていたらいつのまにか食堂に居る職員は炊事担当を除いて二人だけになっていた。少しだけ彼女のほうを盗み見ると、ちょうど彼女もこちらを見ていたようで視線がぶつかった。
気まずい。
何か声をかけるべきなのだろうか、でももう関わらないほうがいいだろう。
そんなことを考えていた矢先、くぐもった爆発音とともに侵入者報告のアラートがけたたましく鳴りはじめた。
破壊された箇所が放送で繰り返される。運悪く食堂に近い玄関らしい。
このままここに留まるのは得策ではないが、逃げ出すにも廊下に出るわけには行かない。それに非常口から逃げる時間を確保できるのか、それすらも怪しかった。皆緊急時には備えているものの、炊事担当はそんな危険に晒されるのもまれであるのだろう。分かりやすくパニックに陥っていた。
彼らを置いていくことも出来たがそれはみすみす死人を増やす可能性もある。
早いうちに決断を下す必要があった。彼女のほうを見ると意外にも落ち着いている。
もうなりふり構っていられない。この間にも目に付くドアを蹴り飛ばす音は近づいてくる。
意を決して彼女に話しかけることにした。
「いきなりでごめん。頼みたいことがある。今は前のこととかを話している場合じゃない。それを分かって欲しい。私が侵入者が入ってきたら応戦して時間を稼ぐ。あなたは、今のうちにあの炊事係を非常口から逃がして。」
彼女は驚く様子もなく至極当然のように返事をした。
「分かりました。急ぎましょう。」
彼女が厨房に向かうのを確認しながら身近で武器になるものを探す。早々運よく銃みたいなものが落ちているわけもないのでゲリラ戦を仕掛けるしかないだろう。
とりあえず消火器を使うことにする。入り口付近の机の影に身を隠し消火器のノズルを入り口に向け煙幕代わりに使えるようにする。
ないよりはましというぐらいだが、まあ大丈夫だろう。
ほとんどの防火シャッタは降りているはずで、侵入者たちはここに向かうしかないだろうし。
意外と、自分が楽観的なことに驚いた。
4人ほどの足音がこちらに向かってくる。どうやら何か大声で言い争っているようだ。
厨房を見れば、いまだに火の元栓などの対応にもたもたしている。刃物で自爆しなきゃいいが。
その瞬間黒い覆面の集団が走りこんでくるのを視界に捕らえる。
消火器を噴霧、一番前に居たやつの懐に入って後ろの一人を巻き込む形で投げる。厨房あたりで悲鳴が上がっているが無視。こちらに走ってくるような足音も聞こえたが、そんな馬鹿は居ないと思うので気のせいだろう。
自体が把握できずに居る一人が放った銃弾が消火器本体に当たりさらに視界が悪くなる。
白い視界において自身が優位なことを判断し、自分は黒いシャツを脱ぎ捨てて、黒く目立つ侵入者どもに向かって放る。
姿勢を低くして相手がシャツに向けた銃弾に当たらないようにしながら懐に入り股間を蹴り上げる。
崩れ落ちた体が盾になって最初に投げたやつの方向から飛んできた銃弾を運よく防いでくれた。悪視界で銃を乱射するとはよっぽどの馬鹿らしい。
そう思っていたら後ろから伸びてきた手に首をつかまれた。しまったと思ったときには体を持ち上げられ、息が続かなくなる。終わりか、と思ったとき首にかかっていた力がぐぇっ、という音とともにふっと抜けた。
視界が次第に晴れてくると、彼女によって首を絞められている一人の侵入者の姿が見えた。
どうやらあの足音がしたのは彼女だったらしい。私が投げ飛ばした二人を気絶させてこっちに加勢しに来たようだ。
視界が完全に晴れる、一人だけ股間を抑えていたやつが起き上がろうとしたのでもう一発蹴りを入れておいた。
これボーナスでるかな、と腑抜けたことを考えていたら後ろから悲鳴が聞こえた。
何だと思って後ろを見たら彼女がこっちを指差しながら顔を真っ赤にして、唇をわなわなと震わせている。
「ちょっと、なに?どうした──」
「なんっ、なんで下着なんですかぁぁぁああ!信じられません!早く上を着て下さい!」
かなりどうでもいいことで怒られた。しかたがないので粉まみれになったシャツを拾ってこようとすると、目の前にパーカーを押し付けられた。彼女の方を見れば、あれだけ脱ぐのをためらっていたフードがなかった。
ふわりと広がった髪の中で桜色の瞳がこっちを見ていた。少し照れたような笑顔は綺麗でしばらく見とれていると、急にその目がつりあがって早く着て下さい、とまた怒られた。
「わかった、わかった、わかったから。ほら着たから。もういいでしょ。」
つい数十分前までよそよそしかったのが馬鹿みたいだ。彼女もそのことに気が付いたのか思い出したように顔を背ける。
それがなんだかおかしくて、自分の中に固まっていた何かが壊れた気がした。
だから、思い切って声をかけてみることにする。
「その、さ、えっと、助けてくれてありがとう?」
ろれつもうまく回らなくてどもったお礼の言葉は、それでもちゃんと彼女に伝わったらしい。
彼女はぷっと吹き出すと
「こちらこそ~、頼ってくださってありがとうございます~。無事でよかったですねぇ。」
そう穏やかな声で言って、にっこりと笑った。
三回目のタイマーが力尽きてからかなりあとに目が覚めた。寝坊である。寝癖も、着崩れた服も直さずカウンセリングルームへ向かった。
「遅刻ですよぅ、常習犯ですね。」
あきれの色が濃く出た声で、フードをかぶっていない彼女は言う。
「深酒して二日酔い。でしょう?」
「エージェント・夜久ルシア 生活態度要改善です。面接態度も△、ですね。」
彼女はそういうとにっこりと笑う。
「えっと、あらためてなんですけど、このまえはごめんなさい。私ついカッとなっちゃって。普段はあんなことしないんですけど。ごめんなさい。」
一瞬何のことか全く分からなかった。ああ、頬を叩かれたことか、と気が付くまでにしばらく時間がかかった。思い出してああそうか、と彼女の方を見ると頬を膨らませていた。
すごく気にしてたのに、忘れるなんて、と拗ねる。
「ごめんごめん、あんなことがあったから忘れちゃってて。」
あのサイト襲撃はこのまえ町で捕まえた逃走者を取り返しに来たものらしい、が計画性もなく人員も少なかったので何らかのトラブルがあったのではないかと見て事情を聴取しているらしい。優しいことだ。
まあおそらく弱みを握って殲滅、ということだろうが。
そうだ、今はそんなことを考えている場合じゃない。彼女はこちらからの謝罪がないからだろうか、明らかに拗ねている。
「こっちこそ、このまえはごめんなさい。自分のことばっかりで、あなたのこと何も考えてなくって。」
彼女は機嫌を取り戻したようだ。もう彼女との仲を壊したくない、そんな都合のいい思考が今は頭を占めていた。
彼女は少しだけ逡巡して口を開く。
「いいんです、だって、あれは本当のことですから。」
そういうと彼女は指輪をそっとはずした。彼女の体がすっと薄くなる。
「私は幽霊ですよ。それは間違いじゃないです。でも、私もこの体については言いたくない過去があります。それは、あなたと同じです。」
「…ふ~ん。」
最初に出た言葉はこれだった。一瞬ぽかんとした後、彼女は分かりやすく怒り始めた。
まあそれもそうだろう。自分が意を決して言った言葉がそんな反応をされたら仕方がない。
だから、反撃のチャンスを渡すことにする。
「そうね。私の過去はあなたが思った通り。でもあまり触れたくない。それでも、あなたになら話せる。」
「…しってますけど~?そのためのカウンセラーですし~。」
やっぱりやり返してきた。いけない、口元がにやけてくる。
こんな馬鹿みたいなやり取りが出来るのが幸せだった。
「さてと、さあ、早く食堂に行きましょう!今日はスイーツ全制覇!ですよ~。」
サイト襲撃の時に逃げ遅れた炊事担当者が自分の下着姿を見てしまったらしく、バツが悪そうにデザートの無料券を提供してくれたことを思い出す。
いい機会だし使わせてもらうとしよう。少し色を付けて2人分貰っておいて良かった。
隠すつもりもなかったが、抜け目なくそのことに気が付いた彼女はさながら燃料がスイーツの蒸気機関車だった。
それに示し合わせたかのように食堂では、抹茶を押し出すにはうってつけなアイスやらかき氷やらが並び始めている。
夏は始まったばかりなのにサイトの食堂は気が早い。
無料券は今日でなくなってしまうだろう。
彼女は少し前で早く行きましょうとまた急かしてくる。
腹を壊さなきゃいいな、何て事を考えながら、もう一度だけジッポーの冷たい確かさを手に馴染ませる。
新しく心の中に生まれた暖かさとそれを混ぜ合わせながら、静かにポケットの奥に落とし込む。
この重さを忘れないように、ゆっくりと彼女の方へ足を向けた。