ブラックウッド卿の星海の船乗り
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1856年4月3日:

助け船がやってきたのだ!
パーマストン卿政権下の上院で、クリミア半島に於ける戦争を終わらせる任務の援助を果たし、今は1年以上もロンドンに居る。
この頁を読む読者諸君には、私が国会勤めに旨味を感じる質で無いと云う事は先刻承知の事であろう。
何と云っても、終わりの無い会議、座談会、更には無所属議員や聖職者議員のヤジなり罵詈雑言なりを食らわされる物なら、キが触れてしまう。
私の様な旅行熱溢れる男にとって、代議士なぞと云った連中は、長たらしくて飽き飽きとさせる、不快な存在以外の何物でも無い。
それでも猶、我が特権階級には責任が伴う。
地方や党の夜会に呼ばれた日には、礼服を纏わないとならないし、投票も行わなければならない。
そして、教会と国家の守り手として、ブラックウッド家の誇り高い遺産を受け継いで行かなければならんのだ。

先日の日曜にパリで調印された条約に、露助は物申す事無く承認したので、戦争が終わった。
それ故、私には英国議会の議席に付く必要性が生じたのである。
デーズ君が、私の不在の間に訪問者が来ていたと伝えてくれたので、私は最終の会議が終るや否や、ロンドンの我が地所へと帰宅した。
訪問者ハイタワー博士(Dr. Hightower)は天文学者である。
彼は、今から二夜後のグリニッチで、この上なく興味深い計画の実地教授と議論を交わす為に会いましょうぞと頼んで来たのだという。
1843年の我々の火星旅行以来、ハイタワー博士から連絡を貰う事は無かった。
私に披露しようと考えている事が、あの冒険の日々の類いであるとすれば、この事は、私が苦しんだ、静かなる自暴自棄の一年からの、歓迎すべき変化となるだろう。

1856年4月6日:

親愛なる読者諸君、私は長年、若い頃から、徹夜をしても次の日が辛いと感じる事は無かった。
当然のことながら、天文学者なぞと言った可笑しな時間まで起きていなければならない仕事には、こう云った性質が要求される。
そして、昨晩ハイタワー博士に王立グリニッジ天文台で出会った時は、夜半の半刻前辺りであった。
ハイタワー博士は、私を見て興奮の様子。
自然科学の抽象概念に取り組む、普段の気難しく、物静かな男性とは打って違い、何時に無く溌剌としていた。
天文台へと昇る階段を案内しながら、彼曰く、偉大なる発見と類稀なる機会を得たのだと云う。
この施設の大望遠鏡は、男の好奇の目へ楽天地を裸にしたのである。
ハイタワー博士が伝えるには、我々の大気が観察に及ぼす干渉を補完し、天体をかつて無い程の想像を超えた水準で観察するべく、この数年、彼は望遠鏡を改良するのにせっせと働き詰めていたのだと云う。
博士は、素晴らしい装置の前へ座るよう促し、私に望遠鏡の接眼部を覗くように命じる。
それは、彼の偉大なる発見が露わになるよう、微細な調整が施されていた。

私は、あおぐろい宇宙の真中に、巨岩を見た。
最近、ピアッツィ氏1と彼の同僚が、木星と火星の軌道の間に見つけた、無数の小惑星の一部である。
タイムズ紙に掲載されていた、銅板ダゲレオタイプ2で見た、虚空を漂う不毛の岩とは似ても居なかった。
僅かばかしの小さな染みを除いて、長方形の天体全域は新緑の海に覆われていた。
間違える事はない、これは未踏の密林の色だ。
ふと、空想する。
私には、ミニチュア世界の天蓋を包む樹葉すら見えるようであった。
私は、その世界の極に椰子に似た樹を見つける。
大きさに於いては巨人が如く、群葉の上へと聳え立っていた。
これは実に面白い発見である。
我々が火星の有名な運河に訪れた時、それは只の幻想に過ぎないと解った。
(そして、火星の大気は息苦しいものであった。)
だが、神はその叡智をもって、我々の神々しくも、こよなく美しい、この天球にのみ生命を与えたのでは無かったのだ。
そう、この場所こそ、瞭然たる証明である。
この銀河に生命の起源の種を蒔いたのだ。

数年前のルベリエ氏3の冥王星発見に続けという熱狂の最中の5年前、ハイタワー博士はその惑星を発見し、我らが親愛なる女王陛下を記念して、発見した小惑星をヴィクトリアと命名した。
彼曰く、この発見は秘密の儘にした、と云うのも、天文学者がかつてした事の無い、壮大な方法をもって、この存在を発表する計画をしているからなのだと云う。
4年もの間、ウェールズのハイタワー博士の地所では、男子を数名雇って、ド・ベルジュラック氏4が2世紀前に提案したものと似たロケットを造っていた。
先の旅で我々を火星に送り届けた型よりも、より大きく、より頑丈であるらしい。
最終調整が先週に行われ、今やロケットは屹立し、燃料が充填されいる。
船は、我々を重力の枷から解き放つべく、我々をヴィクトリアへと連れて行くべく、そしてダーウィンに対抗する科学的体験を控えているのだ。
宇宙探検家達は、数ヶ月間、ヴィクトリアの植生、生態系を試験し目録を纏め、オーストラリア大陸発見以来の新世界の知識を持ち帰り、歴史に探検家としての名を連ねるだろう。

ハイタワー博士は、この数ヶ月間、探検を運営するにあたって乗組員を集めていた。
操縦士、料理人、書記、作家、銀板写真士(dagguerotypists)、画家、重騎兵、労働者等を集めたのだと云うが、曰く、一つ欠けていたのだと云う。
それは、博物学者。
この探検と、彼の星で得た科学的発見を取り纏めるのに必要であった。
彼は、たとえ知る限りの学者を思い出そうとも、私以上にこの役目に相応しい者を思いつくなんざ出来なかったと云う。
まさか、この私が断る訳があるまい!
今日一日は、何が必要とされるのかと熟考を重ねるのに、手が塞がり仕舞いであった。
我々は21日にヴィクトリアへ発つ。
この日は、30年に一度の、我らが地球にヴィクトリアが最も接近する日だ。
天命に縁あらば、ガイ・フォークス・ナイト5迄には戻ってこれるだろう。
私がこの希望と栄光の国から大胆に離れ冒険するということは、滅多に無い事である。
この間の英国は、私の不在に持ち堪えねばならないな。

1856年4月23日:

何時までも、何時までも、星海を漂えど、一向に私は無重力に慣れん。
単純極まりない物ですらも、この環境でやろうとするには、赤子同然に新しく学ばないとならない。
重力に愛撫されずにして、如何にして動き廻るか、如何にして寝るか、如何にして飲み食いするか、はたまた如何にして水洗便所で用を足すのか。
意図せぬ引っ掛かりは、私を四方八方へと突進させ、僅か水滴一つ、あまつさえ、ロケットの部品すらも、如何にか禍いを招きかねない。

今朝、我々の船は月の周りを回遊した。
ハイタワー博士が云うには、最も近い隣人たる月の重力場を利用するらしい。
スリングショットとは違う効果に因るものだが、この事によって得られる加速が無ければ、ヴィクトリアに辿り着くのには、余計に一月掛かってしまうのだと云う。
目標を達成するには、太陽と我らが地球の距離に等しい漆黒の中を、二度も旅せねばならない。
ここまでの所、計画は滞り無く、7月1日にはヴィクトリアに着くと、ハイタワー博士は私に保証してくれている。

月への接近の際、この機会に出来るだけ多くの観察を行った。
我々は船内の望遠鏡から、銀板写真を幾つか撮った。
詩人はこの暗黒を詠っていた。
ハイタワー博士は、人類が初めて作った描写であったと、私に知らせてくれた。
月の表面と云うものは、大層もてなしが悪く、また、空気が少ない場所故に、立つ為には真空スーツが必要で、それが実現するのは百年は先になると聞かされているが、それでも、何時の日か、是非とも試してみたいものだ。

1856年5月24日:

本日は女王陛下の御誕生日である。
並びに、彼女の名を記念した彼の地までへの中途の現在点を公式に記録し、陛下の御名誉に於いて、ロケットのカフェテリアでパーティーを開催した。
こうした軽佻浮華な振る舞いに時間を割く事は、ここ迄の航海には無かった。
と云うのも、全63名の乗組員には毎日割り当てられた勤めがある。
ロケットは最も複雑難解な装置の一つに数え上げられる物であるが故に、我々が勤めを怠りでもすれば、救援絶無の何百万マイルの殺風景に取り残されてしまうのだ。

女王陛下へ、とハイタワー博士が乾杯の音頭をとり、このハレの日に取って置いた貴重なシャンペンを吸う。
科学と帝国の発展に乾杯。
9千マイルの彼方で、英国人が女王陛下の名を褒めそやしていると、陛下が知りなさったら、何と陛下は仰るだろうな?
黯青あんりょくの舷窓から目を背け、私は思い耽っていた。
人の想像及ばぬ速さで宙を貫こうとも、星星は遠方から動かない。
万頃の宇宙に、人は何と小さく在ろう。
人は何処までも些細で、神の御心は何処までも偉大である。
千の生涯を持とうとも、この天地の涯へ、もう一つ天地へ辿り着くことを望めようか?

1856年6月30日:

今日、ヴィクトリアの軌道上に這入った。
芸術家に写真家は、望遠鏡や舷窓の前で忙しなく、この未踏のエデンの園の最初の記録を書き記した。
やっとこさ、覗き見ることが出来たと思えば、私は忽ちに場所を追いやられた。
眼前の光景に、すっかり見惚れてしまっていたのだ。
ハイタワー博士が、グリニッジで見せてくれた物は、決して幻想ではなかった。
小惑星の地表は、足下12マイルにあり、分厚く緑葉が茂っている。
一瞬、大空に鳥が羽ばたく姿を垣間見た気さえした。

明日、我々の殆どは上陸用舟艇に乗り込み、地表へ発つ。
我々が、ヴィクトリアの驚くべき目録を編む2ヶ月の間、一握りの搭乗員は、船を軌道上に保つために船内に残る。
ハイタワー博士は、着陸の妨げとなる巨大な植物の無い、クレーターだらけの土地の一端を着陸地点に指定した。
私は、小望遠鏡でサン・サルバドルの黄褐色の野蛮人を見つけたコロンブスの様な気持ちである。
我々は、人生で一度有るか無いかの、世紀の大発見の最先端に居るのだ。
明日、私ことセオドア・トーマス・ブラックウッド──探検家にして紳士──は、この処女地に足を踏み入れる。

1856年7月1日:

おお、何と素晴しい日であろう!

上陸用舟艇がロケットを離れ、ヴィクトリアの地表に発進したのは、何とかロンドン時間の5時半頃であっただろうか。
再突入の圧は耐え難く、我々の墜ち行く船窓は焰に煽られた。
そして遂に、クレーターの端に着地した衝撃を感じ、ふと窓の外を見れば墨色であった。
ヴィクトリアはこの通り小さな星であるために、不揃いな形で、自転するのに4時間も掛からんのだとハイタワー博士は説明する。
日夜はあっという間に巡る。
黒紫の空を駆け廻る、北より昇り南に沈む、鈍く輝く月程の大きさも無い太陽。
こんな場所では太陽を直視すらできる。
ヴィクトリアは地球と較べると小さく、我々の体重も地球の何分の一程度しか無いとハイタワー博士は警告した。
恐らくはこの二ヶ月の無重力生活に慣れきってしまっていたためだろう、私は決して身軽だと感じられなかった。

陸地初見に際して、ハイタワー博士は最も重大な問題を言い出した。
彼曰く、我々はヴィクトリアの自然環境が我々に好意的であるか否かを知らない。
この世界の空気が我々を窒息させる事や、土地の植物相が人にとって有毒な合成物を滲ませている事や、人を引き千切らんとする獣が待ち構えている事や、内より人を殺すバクテリアが大気中にわんさと居る事等も、全く以て有り得る話であるのだと云う。
この世界が安全だと示すために、探検に先立って、一人の男がヴィクトリアの風に晒されなければならない。
それは必要な事なのだと、彼は云う。
その男が死ぬ可能性は十分に有り、あまつさえ、その男は惨たらしい緩慢な死に報われる事になるやも知れぬ。
だが然し、その犠牲になろうとも、56の命を救うのだ。
誰も、犠牲になれと強制されている訳ではないと、ハイタワー博士は云った。
科学の名において、命を賭す気のある男子だけを探した。

私は、私自身をモルモットにしてくれと志願した。
ハイタワー博士は、最初は反対した。
博士は、この任務は過酷極まりなく、そう無暗に私の生命を賭すことはやめたまえと云う。
それでも、貴族として、紳士として、私は提案した。
そうとも、云わば、私には前を率いて行く義務がある。
我が権限に於いて、一切の男子すら危険に晒すなぞさせん。
第一に、ヴィクトリアの絶景を調査するとしても、彼女が人に毒なすならば、更なる調査を始める事は出来ないじゃないか、と私は主張した。
従って、安全性を見極めるために私が死のうとも、何も失われはしない。
乗組員は、この確固たる道理に同意し、ハイタワー博士は、黙しながらも認めた。
ロンドン時間朝11時、クレーターの端に太陽が昇ると、私は、最上級のカーキ色の探検服、靴、ヘルメットを身に着け、船のエアロックの掛かった階段に独り立っていた。

ハッチが開き、私は初めてヴィクトリアの空気を吸った。
アマゾンの密林の空気よりも重苦しい、熱く、濃厚な、苦味ある芳香、シナモンの香りとは似ても居ない。
そして私は、意を決して深く息をした。
火星の窒息するような空気でもなければ、ヒマラヤの突き刺す冷酷な薄い大気でも無いと解った。
かつて人住まぬ世界で、何の覆いも無く曝されようとも、私は生きている。
慎重に、構台から地面に足を下ろし、処女地に靴底を刻んだ。
これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、帝国にとっては大きな飛躍だ!

私の前にある地表は、不毛で質素な物であった。
1マイル程も無い前方の、ヴィクトリアを覆う森林を眺める。
まるでレンガの塀の様に、一寸の隙も無く、数百フィートの木々が聳えていた。
空は紫にして、緑樹と著しく対照的である。
この光景に偉大なフランス印象派画壇は価値を見出すであろう。
我が視界を駆け抜ける、この奇怪な光景を語る言葉を、私は一切合切欠いていた。
私の代わりに詩人が降りて来るべきであったのか知ら。
勇を鼓した時の様に、私は厳粛な面持ちで、上着から英国国旗を引き抜いて、杭に附け、敬意を払って地に挿した。
満員の船から注がれる、男たち熱狂的な死線の最中、私はヴィクトリアの地に跪き、神より他に聴くもの無く、私は演説をした。
これは、私が数時間前に書いて、心の内で修正を重ねたものである。

此処に、ヴィクトリア女王陛下と大英帝国の名に於いて、私、セオドア・トーマス・ブラックウッド、英帝国勲爵士、ウィンチェスターの第七子爵、は当地、ヴィクトリアを永代所有することを要求する。
本日、我らが主の歴1856年7月1日、此れよりとする。
主と救世主キリスト、この地への遠征が皇后陛下に実りと満足を齎すことを、祈り下さい。
女王陛下万歳。

私はこの星に独りの儘であった。
土の標本を採集し、状態を日誌に書き、そうこうしている内に、日が出て、また日が沈むまで数時間経った。
3時間半後、また日が昇る。
残りの乗組員は、私が元気であるのを見て、私と同様に船から降り始めた。
我々は、森の端に拠点を設営した。
砂の上に描いた線のように、この場所は、植物がこれ以上根を伸ばそうとしない終端の様であった。
明日、我々は全くの森の中を探検し、この星で出来る事を学ぼうと努力する。

1856年7月3日:

親愛なる読者諸君、かつて私は、天地の内で、望む限りの森羅万象を見てきたと考えた事があった。
南アメリカの密林で、西の国境の向こう迄、灼熱の道を切り拓いたものだ。
インド、バングラデシュの人知れぬカルト教団の中で過ごしたこともあった。
偉大なるアウトバック6での骨の折れる様な旅も、シベリアの広大で何も無い森の中を彷徨い行く事も、南極大陸の広漠な大地へ男と犬を率いた事もあったな。

故に、この日まで、私は考えていた。
そうさな、較べるとしたら、ヴィクトリアの森は、ブラジルの熱帯雨林のそれが最も近いと云えよう。
巨木の下に淡い日光は殆ど降りて来ず、懐中電燈が無ければ、我々は全くの盲目である。
藪は分厚く越えられそうも無く、我々は鷹揚と鉈を振るい、森に道を作った。
ハイタワー博士の温度計は、日夜問わず、恒常的に華氏130度を示し、アラビアの荒地の最も侘しい所よりも暑い。
この世界の植物相は大気の熱から栄養素を取り込まないとならない、故に、この暗がりの環境で地球の花々が開くことは無かろう。
既に、我々は地球上で全く見られない有機体の標本を、数百は蒐集した。
これらの有機体を公表した暁には、オックスフォードは、この生物相の性質を解読するのに数十年、耳を傾けるだろうと想像する。

今日、我々が満会一致で驚愕し歓喜した事は、ヴィクトリアには葉々以外にも、動物が存在する事を発見したことである。
4つの翅を持った、昆虫と良く似た生命体が、空を飛び回り、密林の中を十字に蔓伸ばす花々へ止まり渡っていた。
地表の塚から、何千、何千もの生命体、それも地球上で見られる一般的な蟻の生き写しの様な生命体が溢れ出す。
我々は、昆虫型の生命体の標本を集めた。
任務においては下級の生物学者の一人であるアンドリュー君が、蟻塚を調べようとした時であった。
彼は、千の生命体に突如として襲われ、噛み付かれ、その結果として中毒状態に陥り、苦しんだ。
我々は、まだ大型の動物と遭遇していないことから、この蟻こそが、この世界の支配者なのであろうと思いつつある。
蟻塚に接近すると、奇妙な律動音が地下から発散される様な気がする。
私は、地下構造について、何らかの説明のいく理由を見つけないとならない。

1856年7月11日:

今日、我々の遠征隊はビクトリアの極に位置する巨木の根元に達した。
着陸地点から、木の下までは10マイルも無かった。
然し、ジャングルは余りにも分厚く、道を切り拓くのには、男たちが四六時中働き詰め無ければならなかった。
我々は、まだ蜻蛉よりも大きな動物を観察していない。
多種多様な、縺れ絡まった分厚い蔓の植物相はあるのに、何故、動物が巨大に進化することは無かったのだろう。

我々はこの大木を、大樫──メジャー・オーク──と名付けた。
この名は、ロビン・フッドと彼のならず物の一団が謁見式を行った、シャーウッドの森の古木に由来する。
全く、望遠鏡から見た第一印象では、この木は熱帯海岸にそって分布する、珍しい椰子の木と非常に似ていた。
だが、その植物とは違いべらぼうに厳い。
高さは大体400フィートはあって、樹幹は精一杯に腕を伸ばした男七人で何とか囲むことが出来た。

メジャー・オークの錐芯標本を幾つか採取して、彼女の葉の標本を得るために、この私は意気揚々と登ぼろうとした。
だが、私はかつての青年のように若くない、そこでケンブリッジに以前居た下級生物学者のエデルマン君が、その勤めを果たすことになった。
今日に至るまで千年は掛かったであろう巨大な樹幹の上で、彼はシミーを踊る。
私はそれを唖然と見ていた。
彼が木の頂上に着いたので、我々は空の上へ親指を立てて、それに敬意を示した。

メジャー・オークの下に設営した私のテントで、これを書き込んでいる。
この数日間で、途方も無い大前進を遂げたが、私とて信じられない。
私が地球に帰ったら、彼らは何と云うか知ら。
我々の探検の証が、簡単明瞭に、サンフランシスコから北京まで、ありったけの定期刊行誌に掲載されるだろうか?
恐らく、長年望んできたナイトの爵位を最終的に得るだろう。
現世での名誉は、私が心懸けて得た知識によって、科学と大英帝国に栄光の発展を齎したという事実に遠く及ばないのだ。

1856年7月27日:

この日、この上なく恐ろしい災厄に見舞われた。
今朝の6時半頃、その日二度目の日の出の時であった。
我々は、遠くから妙な音が鳴るのを聞いた。
最初は、何とか聞こえる程度の蜂の羽音の様だったが、その音は次第に大きく、不吉な響きを伴ってきた。
音は日の出の方角からやって来る様であった。
アンドリュー君は、双眼鏡を地平線に向け、死の淵を見てしまった。
昆虫の群れ、それも一般的な蝗と何一つ違わない連中が、行く先の何もかもを貪り食い平らげて、我々の拠点へ、途轍もない速さで近づいて来ているのだった!

ヴィクトリアの動物相に於いて、この手の群生行動を見たことは無かったが、いずれにしろ、我々はこの出来事を調査する余裕は殆ど無かった。
何故なら、連中は15分で我々に襲いかかってきたのだ。
我々は大慌てで、出来る限りの器材を上陸用舟艇に持ち込もうとした。
持ち込めた器材と、同じ量の残してきた物資は、その生物に貪り尽くされるか、破壊し尽くされた。
哀れジェイコブス君は、気閘きこうに辿り着けず、何百もの昆虫に群がられ、衣服もろとも骨まで剥かれ、その様に私は慄えあがった。
数分後、群れは消え、我々は破壊状況を調査するために降り立った。

研究成果の殆どはそのままであった事は幸運なのだが、テントと多くの食料、淡水を失ってしまった。
何よりも悪い事は、上陸用舟艇のエンジンが駄目に成ってしまった事だ。
現状、我々は軌道上のロケットに戻れないと、パイロットのダレン君が云った。
エンジンを修理しない限りは、この世界から帰れる希望は無い。

今の所、我々の勤めは続行せねばならない。
男の多くに、エンジンを作り直すように命じた。
我々、残りは調査と観察を続け、成功を祈願する。
ハイタワー博士曰く、遅くとも11月1日までに、ロケットは地球に帰投開始せねばならんと云う。
この年が、我々の世界とこの星の距離の都合が一番良いのだという。
博士はエンジンが修理できると、9月までに家路につけると確信している。
当座の懸念は、我々は僅か2週間相当の食料で持ち堪えないとならないと云う事と、上陸用船艇が使用不能になってしまった為、ロケットから食料を持って来れず、又、我々の窮地を伝える事が出来ないと云う事だ。
小川と細流に流れる水や、樹の上から朝露の様に垂れる水を飲むことは確実だ。
然し、夏の終わりまでヴィクトリアの上で耐えないとならないとしたら。
我々は、土産の生物を食う事を決心する必要がある。

読者の皆様への注意:

ブラックウッド様が、ヴィクトリア自生の植物を消費しなければならないという悲劇に置かれ、以下の頁を書きなさった時、旦那様の神経は健全ではありませんでした。
以下の見出しにおいては、綴り、及び標準化された文構造についての多数の誤り、取り留めなく首尾一貫性を欠き理解できない接続、ブラックウッド様の誇りに泥を塗る幾つかの品格を欠く表現を含みます。
2つの目の見出し全編にわたって、旦那様は英語表記を放棄し、中国語で執筆なさっています。

私は、綴りと文構造を翻訳して、ブラックウッド様が省略するように頼んだ部分は削除致しました。
ブラックウッド様の格調高い学術的トーンを維持するために最善を尽くし、当時の精神状態を記述するために旦那様が時間を割いてくださいました。
読者の皆様が、ご不快な気持ちになる事ないよう願います。

─P.J.デーズ

1856年8月16日:

今、書くのは難しい。
私が苛まされている苦悩自体は、大抵の男子の苦しみよりも大した事は無いのだが、我が精神は曇り、狼狽している。
説明する事が出来る程度に、頭を明瞭にして置く事すら、ヘラクレスが如き努力を必要とする。

我々は、自生する食品についての実験に数日費やした。
幾つかの蔓や果物は有毒であり、男子5人が惨たらしく死んだ。
結果、数種類の大きめの蔓は、刺激的な甘味ある野菜を産出し、これは食用可能で、不快な思いをする事無く、消化可能であると判明した。
全く不味いと云うことはなかった。
夜は、気前よく御馳走にした。
ハイタワー博士の要請で、エンジンを修理している男たちには、食品が何かしらの長期的影響を及ぼす事を懸念し、重大な仕事の妨げになりかねないとして、手を付けさせなかったのだが、彼の判断は、我々を救うことになるだろう。

自生する食品を食べ始めた数日後、我々は緑色になった。
黄疸の様な何てこと無い蒼白色が、次第に濃く濃くなっていったのだ。
良く食べていた男子数名は、もう殆ど木の色と同じになっている。
色は兎も角として、特に悪影響なさそうだった。
ハイタワー博士は、食べ続けても安全だと保証してくれたが、その時は私の意思でレーションを開いた。
私は、ここ二週間、節約しながら食べている為、体重が減り続けている。

数日後、男どもはキが触れた。
最初は、判断力が朦朧とすると訴え(今、私がその通りであるのだがな)、そして幻覚を主張したのだ。
それから、連中は全くナンセンスに話し出したな。
連中の内の何人かは、数時間座り続けて、唐人の寝言だかちんぷんかんぷん言い合っていた。
また何人かは、裸で馬鹿騒ぎして泥まみれで木の間を転がり回っていた。
連中は、植物を「いもうとたち」と呼んで求愛し、まるで嫁になる筈の女性達の様に扱ったのだ。
ハイタワー博士は、もっぱら巨大な蟻塚の前で、異教徒ですぞ、彼らにキリスト教の正しさを説くのですぞ、とか主張していた。
彼は、地面に耳をつけて寝転がり、蟻が彼の周り、体の上を這う中、新約聖書を音読した。
今、これを書いている時点では、使徒行伝の第17章を読み上げている。
(奇妙なことだが、ハイタワー博士はユダヤ教徒だと承知していた筈だ。)

私は、エンジニアが船を早く修理できるように祈っている。
余りにも長くこの場に留まるなら、節約も限界が来てしまう。
昨日、私は2人の男子を撃たなければならなかったのだ。
上陸用舟艇を「大いなる鉄の悪魔」とか断定して、殺さないと駄目なんだとか云い、計器盤の配線に噛み付こうとしていた。
地球からの食料は、殆ど切れた。
エンジニアも、1日か、2日でヴィクトリアの葉を食べないとならんだろう。
狂気に憑かれるか、さもなくな飢えて死ぬか。
いずれの道にしろ、屹度、地獄行きであろう。
我々は、安らかにビクトリアに探検しに来たのではなく、この地で安らかに眠るために来たのかも知れん。

1856年9月8日:

結果として、ハイタワー博士の狂気が我々を救ったのかもしれない。
私は野営地近くの小川で倒れ、昏睡状態から醒めたのは今日の午後であった。
最初は空を漂っているのかと思ったが、辺り一面の蟻によって運ばれていたのだ。
目を上げ見渡すと、拠点の残骸に数百万の蟻が群がっているのが見えた。
蟻の流れは、四方八方から我々の船へと流れ込んでいるのだった。
私は、連中は蝗共が始めだした仕事にケリを付けに来たのでは無いかと恐れた。
だが、誰一人とて呻き声をあげず、私だって一噛みもされていなかった。
蟻共は、何人もの男子を運び、着陸機に詰め込み、その他の物品も同様にして運んでいた。
巨大な鉄塊に、見たこともない工具を運ぶ蟻々。
蟻共は、損害を受けたエンジンの上を這い回っていた。
ああ誓っても良いとも!彼らはエンジンを修理していたに違いない!

2時間も経たない内に、食糧不足の為に飢え細り憔悴しきったエンジニアのグレゴリー君は、エンジンが動き出したと報告してきた。
我々は脱出が可能になったのだ。
男子全員が船の上に居るという訳で無く、他の連中は影すら無かった。
彼らは死んだか、完全にキが触れて森の中を駆けずり回って居るのだろう。
いずれにしろ、意志堅固たる我々の評決によって、連中を探すための日の余裕は無いと決定した。
絶好の機会が与えられたのだ。
これを使わない手はない。
最終的に、我々26名は、ヴィクトリアの狂った植物を捨て置いた儘にした。
離陸する船から、7月に立てた英国国旗をちらと見た。

1856年12月12日:

長い旅帰りは困難なものであった。
ロンドンに帰ってきて、デーズ君が、ブランデー一杯とお気に入りのパジャマを抱えて出迎えてくれた時、かつて無いまでの安心感を得た。
我々の殆どは、初め来た時の様な、まともな神経で無く、ロケットを問題なく操作することは殆ど無理であった。
と云うのも、我々の多くは何日間も眠らなかったのだ。
幸いなことに、一度、狂気誘発性植物から開放されると、男子は感覚を取り戻し、我々の肉体に再び健全な精神が宿った。
大抵は、あの恐ろしい作物が効いていた時の事は何もかも忘れていた。
だが、ハイタワー博士は、完全に快復し無いのかもしれない。
彼は至って正気だが、以前の聡明さと鋭い感性は失われ、郷に退いている。

最後、彼と話した日に、ヴィクトリアでの調査結果全ては出版しない方が、今の所は最良である事に同意した。
彼の地に入植しようものなら、必ずや災いが齎されるだろう。
蟻の文明が見てきた通り洗練されているのだとすれば、連中は帝国を苦しめ、帝国を征服することすら出来るのかもしれない。
丁度、帝国がインドやズールーランドの反乱を鎮圧した時の様に。
保管のために、地方の地所に手記と標本を置いておこうと思う。
2、30年の内に、我々がそれらの化学作用を深く理解した時には、この次の冒険は上手く行くかもしれない。

デーズ君は今日、不運な冒険に着て行った服を洗濯して繕っている時に、ポケットの中から、生きた蟻が数匹が出た事、壁の隙間を通って逃げた事を知らせてきた。
昆虫以外の何物でもない筈だが、私は怪訝でならない。
ヴィクトリアの蟻は、修理に託けて船に這入ってきたのかも知れん。
我々は何匹の密航者を載せ帰って来たのであろうか?

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