ある者は額をつたう汗を拭うと、容赦なく太陽が照り付け、何マイルもわたって続く黄金に光る砂の中を、重い足取りで前へと進んでいった。もっと遠くにいた際からその存在に気付いていた構造物は確実に大きく見えてきている。ただそれが蜃気楼でないことを願うばかりだった。
奇妙なことに、少なくとも二日は何も飲んでいないというのに、喉の渇きを感じることはなかった。このことには理由があるはずだが、何も心当たりがなかった。過去のほとんどは、頭の中の霧で出来た壁の後ろへと封じ込まれていた。まるで脳の中の何かが解き放たれようとしているかのように、頭痛が時おり、ある者へと襲いかかっていた。
前方に位置する構造物に到着したら何が起こるのか分からなかった。都市であるとした判断が間違っていないとしたら、誰かがその判断を修正できたのだろうか?
しかしだ、ある者は思いだしたいだろうか?もう一度はじめからの方が簡単だっただろうか?乱された頭の中をそんな疑問が駆け巡りだしたとおもえば突然、焼けつくような痛みが頭の中へ襲い掛かってきた。叫び声をあげると、ある者は地面へと倒れこみ、その視界はゆっくりとぼやけていった。
「トム、準備はできたか?」
俺はゆっくり振り返ると、ここ二年間、俺の見習い兼パートナーをやっているジェームズの方を見る。俺を心配するような彼の目は不愉快だ。数多くのテストに、そのバックアップ、加えてあらゆる書類仕事があるにも関わらず、彼は未だ俺のことを心配している。でも、俺らはついにやり遂げた。俺らは直接話をすることが出来た。オネイロイ・ウェストと。
「今日できることは今日のうちにしとけよ」俺は彼にそう言ってウィンクした。彼はため息をつくと、イグニッションキーを回した。俺が革製のシートに横になると、振動が増していき、ゆっくりとした、ぶんぶんという音が空気中を揺らす。この風変わりな機械は本来、オネイロイに入場するため、予め用意された明晰夢を発生させることが出来るコンピュータに過ぎない。とはいえ、こんな説明の仕方では、俺らの成果もちょっと損なわれる気もする。
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風がかさかさと音を立てて吹いているのと同じような静けさに、俺はゆっくりと起き上がった。ジェームズが愛情込めて作り上げた、緑豊かな庭園が遠くに広がっている。俺の体についていた緑色の海のような痕はどんどんと薄れていった。軋むような音を立てながら、俺は身を乗り出して立ち上がると、側にある石道へと足を踏み入れる。
前方にはドアがたった一つだけ立てられていた。他の景色とは対照的に、プラスチックの青がかすかに輝いている。そんなドアがここに存在している。
俺がドアノブを掴み、ゆっくりと開けていくと光が溢れだしていく。足を踏み入れ、中へ進むと、ドアはその後ろで勝手に閉まる。数秒経つと、短いテキストが表示された。「オネイロイ・ウェストへようこそ。適切なドリームスケープが見つかるまでしばらくお待ちください」
紙やすりのようなざらざらとした砂漠の、砂丘の砂が素肌をぱちぱちと飛び散る音である者は目を覚ます。ある者はぼんやりとした目をこすると、ゆっくりと立ち上がり、透き通った青い空をじっと見つめていた。
昨日の構造物へはさらに近づいていた。大きな壁が端を取り囲んでおり、表面には何年も砂漠の砂嵐による風化で、凹凸ができていた。目に見える多くの建物は損傷していることが明らかであり、区画は失われ、育ちすぎた植物に覆われていた。しかしながら、いくつかの建物は住めそうなものだった。ある者は廃墟となった構造物を動き回る蟻の姿や大きさをかろうじて判別することはできた。思いがけず、「キャンベラ」という名が頭の中に浮かび、大きな光に照らされた構造物のイメージが一瞬、記憶に浮かんできた。
ゆっくりと、頭の中の霧は晴れだしていたが、突き刺すような頭の痛みは多くの詳細な情報を不明瞭なものとしてしまった。「SCP」、「オーストラリア」、「アーク博士」そして「フェイルセーフ」といった言葉が記憶の中にゆっくりと浮かんできた。
突然、震えが襲い、ある者は絶叫した。「ああ!俺は……」
「俺は……」
しかしその言葉を言い終えるよりも前にある者は地面へと倒れこみ、涙は砂へと飲み込まれていった。その空を見る目は、生気を失い、光も失われていた。
「申し訳ありませんが、現在接続に問題が発生しています。しばらくお待ちください」
柔らかい声が、俺を空想から連れ戻す。困ったことに、ドリームスケープの外から不安げな話し声が発されているのが聞こえてきている。俺の調子は良いが、機械はおそらく調子が悪くて、オネイロイ・ウェストへの接続リクエストが拒否されたのだろう。
俺はEORT1の使用も試してみたけれど、静寂以外何もなかった。機械とジェームズの端末の両方が故障した可能性はある。こんな事、普通ではないくらいの不運だ。恐らく、今のところは脱出して何が駄目だったのかを解明するのが最善だ。
え?
脱出できない。
俺の体が現実へ戻るのに適していないとかでもない限り、こんな事起こっていいわけがない。例え機械が故障していたとしても、機能するはずなのに。
ああもう、体が動かなくなり出したと思えば、その後再び動くようになる。EORTが使えないのなら、俺に外へ助けを求める手段はない。とはいえ、問題の数を考えれば、恐ろしいのは最悪の事態だが……今は待つこと以外できまい。
ある者がゆっくりと目を開けると、上には一面コンクリートの天井がぼんやりと見えてきた。ベッドか何かの上にいるらしい。うめくような声をあげると、ある者は室内にある手足を伸ばせるような大きさのベッドでゆっくりと寝返りをうった。
「例の方が目を覚ましたわ、ソフィー」
「すでに聞きました。客人にいくらか食べ物を持ってきてください。お腹を空かせてらっしゃるようなので」
足音がゆっくりと近づいてくるのを耳にした。ある者は声のした方へと振り向いた。背の高い、白髪の医者が着るような白衣らしきものを身に着けている女性が、小さく笑みを浮かべながら大股で歩いてきていた。
「生きていたなんて幸運ですよ。調査隊の一人が、一日ほど前に都市のはずれの砂漠に倒れているあなたを見つけたの。あなたが連れてこられたとき、私たちはもう死んでいるとばかり。ですが、あなたの持っている何らかの増強機能があなたを守ったのでしょう」
「ここは……ここはどこだ?」
「バーラにある聖アンデル病院です。第二次宗教戦争の残虐行為の後に設立されたわ。我々は当初、あなたは目的があってここへ来たのではないかと思っていたの」
「いや、違う。俺には誰かの助けが必要なんだ、俺が何者であるかはっきりさせるために。頭の中に……霧が立ち込めてるのか?それが確かなら、俺はこの世界のことも自分のことも何も分からないってことになる」
「記憶喪失で間違いないのね?助けになるものがここにあるかは分からないけど、記録者のリサッドに確認するべきですよ。彼なら何か知っているかもしれません」
「あの、先生」先ほどの少女のものと思われる穏やかな声が、廊下に響き渡る。
「何でしょう?ソフィー」
「ローブを着た方が何人か……」
彼女がその言葉を言い終えるよりも前に、鐘の音が都市全体に鳴り響き、看護師たちは顔色を失ってしまった。鐘のこだまする音はゆっくりと聞こえなくなっていき、彼女はゆっくりとある者へと向き直った。
「起きて、今すぐに起きて、ここを去って」
「なんでさ?」
彼女の特徴であった優しそうな顔は恐怖そのものといった顔へ急速に変わった。「いきなり何かと思うのは分かっていますが、恐らく、軍隊が到着したのです。あなたを助けられると甘い考え方をしてしまっていたんですけど、我々はこうならないことを望んでいました」
「軍隊?何の?」
「"御書の護り手たち"と呼ばれる、予言に関する不思議を崇拝している宗教的集団です。ここ最近、彼らは世界の終わりを予言し、賢者が我々を不思議の時代へと戻そうとしている、と聞いています」
「でもどうして彼らはこの都市を明確に攻撃しようとしてるんだ?仮に終わろうとしている世界での最後の犯罪に浮かれてるんだったら、宗教団体として筋が通ってるとは言えなんじゃないか」
「彼らは不思議を見つけ、世界の終わりを生き延びるためにいくつもの都市を荒らしまわっています。我々が略奪される番が回ってきただけで、いえ、話はここまでです。ソフィーに従ってください。彼女はこの状況における最善を分かっているんです」彼女は背を向けて去ろうとしたが、立ち止まると、「ああ、これを」彼女はそう言って、ゆっくりとある者へと小さな、刃がギザギザとのこぎりのようになったナイフを渡した。「外には気を付けて」
~~~
終わりの見えない砂漠の中の砂丘が、ある者の前へと再び広がる。ある者は戦いというものを見たことはなかったが、爆発音が反響し空気中に轟き、空も大気も、塵によって曇りだすのを見ることとなった。
だが、砂丘はもう何もないと言えるものではなかった。砂漠を通るような隊商の残骸のようなもの共に、いくつかの鞄が砂の中に横たえになっていた。彼らのとった選択について少しの時間考えてみたが、日没へと考えなしに出発するというのは、映画のようでも最善の選択ではなかっただろう。
隊商だったものへと近づいていくと、二つの茶色い塊があることにある者は気付いた。否、二頭の馬が崩れ落ちたかのように地面に倒れていることに気付いたのだ。その下からは最近死亡したばかりに見える男が現れた。ある者は馬のサドルの後部に取り付けられているサドルバッグを調べてみると、中からかすかに呼吸音が聞こえてきた。その音は誰かがもがいている音だった。急いでバッグの表面を少し切ってみると、真ん中に切れ込みの入ったバッグから丸まった人物が姿を現した。
「どうか。どうか私たちを傷つけないでいただきたい」バッグの中から出てきたのはアーク博士だった。共に出てきた女性が、片手を後ろに隠すような形で丸くなって倒れていた。
「そうする理由がない間は、するつもりはない。むしろあの尖った岩をどっかにやってくれ」
女性はハッとしたのか起き上がると、アーク博士の服装をちらりと確認する。「あなたは誰よ、あとヘカンはどこ?!」
「最初の質問は答えるのが難しい、あと二つ目のは答えが"その馬の下"でないと思いたい」
彼女は慌てて馬の方へと一瞬だけ視線を投げたが、安堵の短いため息をつく。「いや、違うわ、こいつは私を捕らえたクソ野郎の一人よ」彼女は恐る恐る立ち上がると、側にあったバッグを指す。
「これ、開けてもいい?」
「構わん」
バッグはゆっくりと揺れ動いて開き、小柄ながらも体格の良い老いた男性が中から現れる。
「もっと若い奴かと思ってたよ、なんでか。侵略してきてる奴らも彼から得られたものは多くなかったんだろうな」
「情報に関してはおそらく、彼はたくさんの話を知っていただろうね。私はただ可愛い顔のやつってだけだったんだと思う」
「それで、どこか行くあてはあるの……」
その言葉が終わるよりも前に、ある者は地面へと崩れ落ち、その眼は眼窩で動転していた。カエダがある者の体をとっさに掴むと、ゆっくりとその体をヘカンの側に、砂の上におろす。「謎多き者だ、うん。そうだね、私たちはある意味、無防備で恰好なカモみたいなものだけど、ここの二人が昼寝の時間を終わらせるまでは、何もできそうにないね」
「なあトム、俺の声は聞こえてるか?」
静けさしかない、作り物めいたドリームスケープの中に、とうとう声が鳴り響く。ここではどれほど時間が経ったかなんて測る手段はないが、何時間も経過しているだろう。
「少しばかり問題がある、サイト-41で大規模な収容違反があった。技術的には全ての重要なエリアの封鎖が行えたが……俺らの研究ラボのエリアは優先度の高いエリアに分類されていない」
「それで機械が壊されたのか?確実に直せるのか?」
「良い知らせと悪い知らせがある。機械に問題はなし。ちょっと傷はあるけど……治してコレクティブへのアクセス許可はできる。悪い知らせは、君の体に何が起こっているのか分からないことだ」
「まじかよ、俺が心配してたことだよ。回復までどれくらいかかるんだ?」
「それはきっと誤解だな、君の椅子は衝撃的な矢面に立たされている。君が戻ってくるための体はないし、残ったものも壁から擦りとらなければならなかった」
「俺の体が……なくなっている?面白い話だな、ということは……俺は今どうなっている、電子の世界にしか魂はないのか?俺のこと……お前は、俺を外に出すことはできるのか、それか俺はここで立ち往生したままなのか?」
「約束はできない、ラボが元に戻り次第テストは始める。でも、君のことも含めて、まだ機械が機能していること自体奇跡だ。君を抽出する技術がまだない可能性もある」
~~~ 2017年7月12日: 収容違反より二か月経過 ~~~
「こんにちは、アーク博士。個人的にお話ししたいのですがよろしいでしょうか?」
ざらざらとしているがはっきりとした男性の声がEORTのスピーカーを通して聞こえてきたので、私は驚いてびくっとしてしまった。幸運にも、朝のこの時間におけるヴェニスの夢の通りには人が群がるようには多くなかったが。「朝」という割にはそんな概念ともこのドリームスケープとは関連性が少ししかないらしい。
オプションから「ホーム」を選択すると、一番近くの道の方へと向かう。私が初めてここに来てから二か月が経過したころ、一瞬だけ光が強く輝くのを見て、牧草地にある自分の家へと引き返したことがあった。
「こんにちは、私に話しかけてきたのはどちら様で?私は他の話しあいに、もう期待などしていないのですが」
「申し訳ございません……この話は……より……個人的な……問題でして。収容違反回数の増加により、収容データの維持がより困難となり、我々としてはあなたに他の選択肢について……」
「分かりました、でもまだ"あなたがた"が誰なのか教えてもらってないですね」
「あなたはアーキビストと呼ぶでしょうが、他の方はO5-10と私を呼びます」
「ああ、前まではO5と話すのを光栄に感じてなんていませんでした。でも今はお知り合いになれて嬉しい限り」
「仕事についての連絡なのですが、我々は一部の機密データをバックアップするストレージの解決策としてオネイロイを使用したいと考えています。あなたの同僚が、その実現可能性についてあなたと話すことを勧めてきたのです。あなたにはこのデータを管理し、あらゆるセキュリティの脆弱性を確認する責任があります」
「そちらの理屈は分かります、しかしどうしてそんなことをO5の方がお伝えになるのかは分かりませんね。データが重要であるのは認めますが、今回の件はそれ以上に何かあるように思えます」
「大変鋭いですね、アーク博士。サイト-18での収容違反の際、以前SCP-1275として指定したオブジェクトが誤ってSCP-1590に収容されてしまいました、正確にはタムリン・ハウスの中です。タムリン・ハウスはO5-13としても知られている、先日亡くなられたディル・ジョセフ・タムリンの住居です」
「O5-13なんてただの伝説、O5-1の為に同点決勝となった投票を決着させる存在だと思っていました」
「部分的には正解です、彼は実際に同点決勝のような状態になった時の投票者でしたから。ですが彼はバックアップでもありました。評議会が崩壊した際に秩序を取り戻す人物。彼を一時的なその立場故に、最終決断を下すための最後の手段として招集したのです」
「なるほど、冗談はこのくらいにしておきましょう。そちらが安全に保ちたいのはデータだけではない、ですよね?あなたがたはデータと共にフェイルセーフとなる人物が必要で、評議会にアクセスできなくなった場合に何らかの形でこれを治せるように、全てを知る人物がそちらには必要である。という理解で合っていますか?」
「素晴らしい、同じ考えを持ってくださって嬉しい限りです、アーク博士。あなたのその性質上、私たちはあなたが拒否するのを止められません。ですが互いに有益なことであると我々は信じていますよ。同僚の博士の全ての研究にアクセスすることもできますし、間近でオネイロイの研究を行えます。とはいえ、あなたは財団の敵に対し最後の障壁となる、眠れるエージェントとしても行動することになりますが」
「とても単純なことに思えますけどね、私はどこかで人生を手放す合図という条項を逃してしまった気がしています」
「アーク博士、我々はただの人間で不可能もあるからこそ、生き延びることに尽力しているのです。我々は神話における全知の力ではありません」
「あなたがたを完全に信用しきれないとしても、どうか許していただきたい。しかし今回の取引において何も問題はないと考えております。ただ一つだけ、条件があります」
「ほう?」
「ジェームズ・カラン研究員を私の助手として研究を手伝わせるためにおいていただきたい。物理的な領域にも誰かがいることは大きな助けになるでしょう。彼は私が昇進することに気付いていないでしょうし」
「私としても良いと思います、残りの評議会の構成員にもこの良い知らせをお伝えしましょう。あなたの献身に感謝を、アーク博士。きっとすぐに話すこととなりますよ」