「ちょっと中庭までついてきてほしい」
気の早い蝉が春を追い立て始めた頃、いつもよりも30分近く遅く部室に来た先輩は、挨拶もせずにそんな事をのたまった。
顔を上げると、いつも通りの癪に障るにやけ顔が目に飛び込んできた。先輩のこと自体は嫌いではないのだが、この顔だけは好きになれない。先輩は怪談のような、いわゆる怖い話が大好物で、そういう話をするときは決まってこの表情をしているからだ。まあ、怖い話をしない時でもこの表情なのだが。
「トイレですか? 嫌ですよ」
「私のことなんだと思ってるの?」
「礼儀知らずの文芸部部長」
「礼儀知らずは君もじゃないか」
何がおかしいのか、先輩はけらけら笑いながら手を掴んできた。部誌のために働き続けていたシャーペンが落下し、原稿用紙に黒ゴマが一粒が出来上がる。
あの落ち方は消しゴムでは消せない跡が出来るやつだ。思わず悪態が漏れたが、先輩に気にした様子はない。気にしろ。
しかし、部室の扉に手をかけた瞬間先輩は足を止めた。すぐにスカートのポケットから手帳を取り出し、先輩のスクールバッグに駆け寄ると、ごそごそと漁り始める。何かバッグに入れっぱなしだったのだろうか。
「ちょっとシャーペン借りるよ」
「どうぞ」
どうやら探していたものは筆記具だったようで、結局見つからなかったらしい。原稿用紙から拾い上げたシャーペンで何やら書き込むと、手帳に挟んで原稿用紙の黒ゴマの上に置いた。何を書いたのか聞いてみると、『君へのラブレター』と返ってきた。きっと嘘だろう。
廊下に出ると、どこかから吹奏楽部が演奏してくるのが聞こえてくる。ごちゃごちゃした音の濁流の中に知っている曲を見つけて、マイペースな先輩に荒らされた心が少し落ち着いた。
「先週見せた部誌、覚えてる?」
「ああ。平成10年のでしたっけ。確か、七不思議が6つしか無かったという……」
「正確には七番目の不思議が、『七番目が存在しないのに七不思議』って内容だったやつ。ちょっとした仮説を立てたからさ、実験したいんだよ」
「……その仮説というのは?」
よくぞ聞いてくれましたとばかりに勢いよく振り向いた。現在地は3階と2階の間の踊り場。中庭はコの字型の旧校舎の凹んだ部分にあり、校舎内からでも窓ガラス越しに見えるようになっている。文芸部の部室は3階の図書室の隣にあるので、中庭に行くためには1階まで降りなくてはならない。
「七番目は『特定の手順を辿ったとき、知ってはいけないものになる』だよ」
「なんでそんなのに同行させてるんですか! あの、マジで手離してくださいよ。聞かなかったことにして帰るんで」
「怖いじゃん、ついてきてよ。なにより、心霊現象なんて非科学的なもの、私一人が見たって言ってもオオカミ少年もとい少女扱いが関の山じゃない?」
1階に足を向けながら、先輩は訴えを無視し続ける。髪の隙間から見えた横顔はにやけておらず、心底楽しそうな表情を浮かべていた。声も少し明るい気がする。いつも変なテンションなので分かりづらいが、ワクワクしているのだろう。
「実は、そう仮説を立てた理由は幾つかあるんだ。平成10年以前も、文芸部う ちは部誌を出していたでしょ?」
「毎年少なくとも1冊は出してますよね。伝統って言葉に嘘がなければ、ですけど」
「そこに嘘は無いよ。定期的に部誌には七不思議関連の話が出るんだけど、七番目が書かれていなかったのは平成10年のだけなんだ」
「それがどうしたんです? この前読ませてきましたけど、ただ締切に間に合わなかったとか、そういうのでは? 先輩だって 」
締切のために小説を強引に終わらせることがあるじゃないか。そう言おうとしたのを察したらしく、被せるように再び話し始めた。
「これは驚くべきことなんだけど、10年以前の部誌に書かれてる七不思議は、内容自体は全部同じなんだ。違うのは一から六番の順番だけ」
「受験控えてるのに部誌を読み漁ってた先輩に驚けばいいんですか?」
「可愛い後輩君が反抗期で私は悲しいよ。……まあ、そんなことは置いといて。過去の部誌によれば、七番目の内容は中庭の地下室。ま、名前の通りだね。他の部誌の順番で回った時はただのゴミまみれの地下室だったんだけど 」
聞き逃しては行けないことを言われた気がする。
ただの地下室だった?
「待ってください。試したんですか?」
「全部ね。残すのは平成10年の七番目だけ。ほら、あの真ん中あたりの茶色くなった部分、あそこは私が掘ったとこ」
階段を降り終わって、中庭が見える窓の前で先輩は足を止めた。人差し指で窓の外を指している。
「あ、本当だ。結構目立ちますね。ところで今言った全部って……」
「七不思議全部だよ。過去の部誌の順番で全部見てきた。そりゃあ、そうだろう。車輪の再発明なんて、面白くないじゃないか。私は誰も記録していないものを見て記録したいんだから」
古い下駄箱 新校舎とつながる渡り廊下があるので、使っているのは文芸部だけだ でスニーカーに履き替え、これまた古くなった昇降口から外に出る。いつもよりも明らかにテンションが高い先輩と話しているうちに中庭に辿り着き、繋がれていた手は漸く自由を取り戻した。ずっと握られていたからだろう。心なしか手は湿気と熱を帯びている。外は暖かい筈なのに、手だけが涼しい。
事前に準備していたのか、数秒間離れていた先輩はショベルを2本持って持って戻ってきた。一度掘り起したと言っていたため、もしかしたらずっとここに置いてあったのかもしれない。
「はい」
「掘れと?」
「うん」
「……ああもう、分かりましたよ」
先輩がショベルの先端を突き刺し、土を抉る。芝が音を立てて千切れ、土と一緒に放り投げられた。もし教師の誰かに見つかったら怒られそうだ。
目で急かされ、渋々……本当に不本意ではあるが、一度引き受けてしまったため作業に加わる。正直今すぐにでも引き返したい。 先の話が嘘でないのなら、七不思議……つまり怪談話を今から体験することになるからだ。
「ところで先輩。さっき、ここは一度掘ったって言ってましたよね」
「言ったね」
「廊下の窓から見た時もそれらしい跡は見えたんですよ。でも、ずっと気になってたんですけど……」
今ふと覚えた違和感。それが解消されるのではと思って、ショベルを突き刺す直前で止める。
記憶の中の廊下から見えた景色は確かに先輩が言った通りだった。多分、地下室に入ったというのは嘘でも、中庭を掘り起したというのは事実なのだろう。だが、今足元に広がる中庭は違う。一面緑色の、ゴルフ場のような芝。明らかにおかしい。
「その掘り起した跡、何処にあるんですか? ここ、本当に中庭ですよね?」
「もしかして 」
先輩が何かを言いかけた瞬間、硬いものにショベルが当たった音がして、同時に動きが止まる。顔を上げると、先輩の後ろに白黒の人が立っていた。比喩ではない。まず目に留まるのは真っ黒な服と病的に白い肌。長い髪の隙間から見えた顔に、"顔"と呼ぶべきものは無かった。明らかに人間ではない。
短い悲鳴が口から漏れた。咄嗟に口を押えるが、零れた水は元には戻らない。先輩から憐憫のような、謝罪するような。様々な感情が綯い交ぜになった表情が向けられる。
「ああ、ごめんなさい。無遠慮に掘り起したのは謝ります」
先輩が震える声で話し始めた。声音は固く、どうやら後ろの白黒の人と話しているらしい。白黒の人の声は先輩には聞こえているのか会話を続けている。
「はい、6か所回ったのは私です。そこの子はここを掘り起すために無理やり連れてきました。だから、その子は無関係です。……そう、罪は全部私にあります。だから、その子は見逃してくれませんか?……あ、考えてくれる? 寛大なんですね。ありがとうございます。ところで、何年か前……平成何年って言って分かります? ああ、なら話は早い。平成10年に、ここを掘り起した人、居ませんでしたか?」
平成10年。あの不完全な部誌の年だ。質問したということは、仮説を確かめようとしているのだろう。対話が成り立つと分かってすぐ質問を始めるのは、さすがとしか言いようがない。
しかし、完全に和らぐ前に、また先輩の様子がおかしくなった。それと同時に身体の自由が利かなくなり、声も出なくなる。
ひたり、と首に冷たい感触があった。続いてそれが足首や背中、肘など、全身に纏わりついてくる。そして、全身が冷たい感覚で覆われたあたりで、どういうわけか体が沈み始めた。
ここまできて、漸く状況を理解する。恐怖と困惑が同時に襲い掛かってくる。しかし、どれほどもがいても、身体は勿論のこと、言葉を発する自由すら与えられない。
冷たい手が首と口を押さえているせいで、後ろを見たくても先輩から目を逸らせない。
「え……待って、待ってください。何か粗相をしてしまったんですか?」
先輩が目に見えて動揺した。もう早く逃げてほしい。早く逃げて、先輩には生き延びてもらいたい。
しかし、どれほど切実に願っても、現実とは非情なもので、声が出せるようになるなんてことはない。
「そんな、3回だけなんて! 知らなかったんです! 待って、だめ、お願いです。その子だけは 」
暗くなっていく視界の中、泣きそうな顔で叫ぶ先輩の背後には、また白黒の人が立っていた。口は、抑えられたままだった。
どういうわけかいつもよりも広く感じる部室で本を読んでいると、部室の扉がノックされた。
「お、遅かったねえ! 君にしてはめずらし 」
「あー、すまない。誰かを待っていたのかな」
扉を開けて話かけたが、そこに立っていたのは知らないおじさんだった。スーツによく似た、真っ黒な長袖と長ズボンを身につけている。この暑くなり始めた時期に着るには勇気が要るだろう。少なくとも私は着たくない。
誰かを待っていた、というのはその通りだが、誰を待っていたのだろうか。実のところ、先週からこういうことは度々あった。ふとした瞬間に、誰かの姿を探してしまうのだ。
タナカと名乗ったおじさんは、ある出来事を調査するために来たと言った。警察というよりはメンインブラックという印象を受ける格好だが、はたしてどのような素性なのだろうか。
何故か黒い服を見ると悪寒が走るので、視線を逸らしながらではあるが、タナカとの会話を始める。
「ある出来事、ですか。一体何を?」
「2年C組の行方不明者の話、知ってる?」
「ああ、まあ、はい。一応は」
行方不明者と言えば、どこにも名前と顔を残さずに消えた……あるいは、存在していると思われていた生徒のことだ。先週の木曜日、出欠をとっているときに、空席があるのに全員出席しているという奇妙な事態に陥ったことから話題になった。机とロッカーにはノートと教科書が詰め込まれており、出席簿にも名前は無いが出欠席が記録されていたことから、なんらかの原因で一夜で忘れ去られた人物ということになっている。
怪談話のたぐいは小学生の頃から好きだが、なんとなくこの話だけは食指が動かなかった。
「それで、私に何の関係があるんですか。2Cの知り合いとか居ませんよ」
「君の研究ノートを見させてもらった」
「話聞いてます?」
人に質問しておきながら自分勝手に話すとは。こんなのでも大人として働けるというのは、少し未来に希望が持てる話だ。
「先に全部説明した方が効率がいいから、質問とかはその時に纏めて聞いてほしい。君は七不思議について研究していたね」
「はい。あの、青木先生に渡したノートを貴方が持ってることについて、何か言った方がいいですか?」
青木先生には後で文句を言わねば。穏やかではない私の内心などお構いなしにタナカは話を続ける。こんなやつにもう敬称は要らん。
「その辺は一旦飲み込んでもらって。……研究ノートの途中のページの表、覚えてる?七番目の七不思議については?」
「はい、両方。自分で書いたので」
「そう。『この記述は検証開始直前に書き込んだ。忘れていたらおおよそ仮説通り』。興味深いね。その前の記述から考えるに、君は全部忘れかねないと考えたわけだ」
「最終的に、全部 何も無かったってことを覚えた状態で戻ってきちゃいましたけどね」
そう返すと、タナカはきょとんとした顔でこちらを見てきた。続けて、本当に全部だと思っているのか、と口にする。
「ここ、空欄になっちゃってるけど……」
そう言って見せてきたのは、『 と一緒に行く』という走り書き。筆跡は私のもので、漢字2文字分くらいの隙間が空いている。
「君は、誰か……例えば友達とか、後輩とかと一緒に七番目を見に行ったね?」
「え……」
言葉が出ない。喉の奥に突っ掛かった何かが、息と言葉を堰き止めている。そんな私には構わず、タナカが話を続けた。
「名簿に私物、人々の記憶……全てから名前が消えた、"行方不明者"。性別は定かではないけど、A君とでも言おうか。……少し話は変わるが、身体に染み付いた癖というのは奇妙なものでね、記憶を失っても身体が勝手に動くそうだ」
これ以上聞きたくないと心が訴えても、酸素を失った脳がまともに動くことはなく。やがて、言葉ががら空きの耳に滑り込んできた。心臓が早鐘を打つ。
「そういえば、君。誰かを待っていたわけでもないのに、"誰か"を出迎えようとしたね。相当親しい人物がいるようだ。それともう1つ、これまた奇妙なことにね。青木君に名簿を借りたんだが……名前の数と部員数が、一致しないんだよ。ちょうど2年C組の名簿みたいに」
肺を押さえつけている何かが、心臓にも手を伸ばしてきた。持久走の後のように息が上がり、視界が明滅する。
「随分共通事項が多いな。クラスメイトから忘れられたA君。文芸部の名簿から消えた誰かの名前。手帳に書かれた名前の無い同行者」
今更耳を塞ぐが、それでも言葉は耳を、脳を満たしていく。
「こうは考えられないか?君はA君を連れて七番目を確かめに行った。七番目はなんらかの手段で、特定の存在の名前を消し去ることができる。A君は偶然か必然か、七番目に消された。そして君は 」
何かに罅が入る音がした。
「七番目の影響でA君を忘れ、更に恐怖か罪悪感か……何かの強いストレスで、それ以上に忘れた。君が覚えているのは、七番目を見に行ったことだけ。A君を失ったことは、精神的な問題で忘れた……どうだろう?部分点くらいは貰える推測だと思うんだけど」
「え……あ……」
盛大な音を立てて、内側で何かが壊れていく。口から出た音に意味は宿らず、泡のように消えていった。
「ちがっ、私は何も……して……じゃない、出来なくて……」
漸く単語が口から出てたと思っても、それは羅列未満の……台詞とも呼べない支離滅裂な言葉だ。
溢れ始めた涙が、纏まり始めた言葉を溶かしてしまったのだろう。目元を拭う度に、洟をかむ度に思考は透明度を増し、見えていなかった罪を鮮明に思い出し始めた。そして、無意識のうちに漏れた言葉の意味を理解する。
「……私の……せいだ」
絞り出せた言葉は、それだけ。たったそれだけで、感情が悲鳴を上げた。言葉が意味を得て、代わりに呼吸が意味を失った。
だが、向き合わなくては。これは私の罪なのだ。私が償わなくてはならない。
セメントで満たされたような胸に覚悟を流し込むと、徐々に……なめくじのような速度で、肺が酸素を取り入れ始めた。血液が循環を再開する。失ったものは戻ってこなかったが、忘れていたものは思い出せた。
「ああ、やっぱり、無意識に記憶を……さて、話せるかな?」
「……はい。せめて、全てを告白するまでは」
「子供らしからぬ精神力だねえ、将来有望だ。それじゃあ、最初から話してくれ。しんどかったらそこまででいい」
ポツポツと、蛇口から漏れる水滴のように、記憶を言葉にしていく。
墓を荒らすように、無遠慮に、そして勢いよく記憶を掘り起す。
私は先週、平成10年の部誌では六番目に置かれていた、トイレの花子さんとだるまさんがころんだをしてから部室に行った。連れていかれた子 性別は定かではないが、タナカの言葉を借りればA君 はその時、何か小説を読んでいた。中庭に一緒に来てもらおうと思って、手を引いて部室を出て行った。
A君はいつも怪談を信じようとしなかったから、一緒に見て信じてもらおうと思ったからだ。平成2年の部誌の手順で地下室に行こうとしたときは、3分も土を掘り続ける羽目になったので、少しでも労働力が欲しかったのも理由の1つなのだが、これは黙っておこう。
廊下で七不思議を全部調べてきたと言ったら驚いていたのを、今も覚えている。
「全部っていうのは?」
「過去の部誌のうち、七不思議について細かく書いてた8部全部のやつです。花子さんとか、動く肖像画とか。平成10年の以外の順番で回った時は、七番目の地下室は教科書とかノートがいくつも捨てられた部屋でした。深さは毎回違ったので、これが地下室っていう怪談なんだと思ってました」
思考を一度整理するためにも、タナカの質問に丁寧に答える。込みあげてきた涙が、一時的に収まった。
その後中庭に出て、A君にショベルを渡した。1人で調査してるときに使って、放置していたやつだ。お手本を見せる感じで土を掘り起したら、A君が『なんで芝がきれいなのか』と聞いてきた。今まで芝がきれいになるなんてことはなかったから、地下室が前までとは違う現れ方をしている、と。自分の考えを言おうとした瞬間、ショベルが金属に当たった。錆びた地下室の扉だった。
今までで一番浅い。芝が綺麗になっていたり、違うことだらけで気分が上がってA君の方を見た瞬間。白黒の化け物が、A君の背後に立っているのを見た。申し訳なかった。巻き込んでしまったのだと、今更理解した。A君は、短く悲鳴を上げて、それから私のことを心配そうな目で見てきた。
表情は記憶に残っていないが、あの子ならそうするという確信があった。
「その白黒の化け物はどういう見た目だった?」
「肌は真っ白で……タナカさんみたいな黒い服を着てました。長袖に……長ズボン?髪は長くて、貞子みたいな感じです。……それで、顔が無くて、口みたいな亀裂だけがありました」
思い出しただけでぞわっとした。思い返しただけでこれほどの恐怖心を覚えるという事実に、同じくらい驚いた。
白黒が『どっちが掘り起したのか』と聞いてきた。咄嗟に、A君を庇ってしまった。無理矢理連れてきたので、その子は悪くないと言ってしまった。
気になっていた平成10年の文芸部について聞いたら、地下室にいると言われた。それから、急に白黒が、『代価はもらう』と言って、A君を掴んだ。よく見たら、足元から小さい手がいくつも生えてきて、A君と私の足を掴んでいた。小さい手黒い縞……いや、何かの文章が書かれていて、全てが地下室から出てきていた。首と顔……口のあたりを掴まれたせいでA君は顔を動かせなかったみたいで、最後までまっすぐ私の目を見ていた。そこに非難の色は無かった。
「おぇ……」
込みあげてきた吐き気をティッシュでいっぱいのゴミ箱に押し付けて、口の中が酸っぱいのも気にせずに話を続ける。今ここで話をやめたら、2度と話せない気がした。
「連れ去られる瞬間、A君には何か変化はあったかな」
質問を受けて、必死に記憶を掘り起こす。空になったばかりの胃と脳をひっくり返して、ようやく1つ思い出す。
「そういえば……あの瞬間、A君の口を抑えた手に何か文字が浮かんでました。……はっきり文字は覚えているのに思い出せないので、多分A君の名前、です」
思い返してみれば、あの時のA君の肌は不健康なまでに白かった。
なんで急に代価の話になったのか、パニックになりながら聞いたら、『3回以上質問したから、無条件に庇おうとしたこれを貰う』と返ってきた。もう、ほとんどまともな思考はできていなかった。なんとか思い返してみれば、確かに質問はあれが3回目だった。
足元を掘るために地下室の上にいたからか、A君はどんどん真下に沈んでいっていた。懇願しても意味は無くて、やがてA君は地下室に消えてしまった。最後まで、必死に手を伸ばしていたけど、掴むことも掴まれることもなかった。
全てを話し終わった時、涙はまだ流れ続けていたけれども、心は不思議と凪いでいた。部室には口の中と同じ酸っぱい臭いが充満している。
「以上、です」
「ありがとう。辛い話をさせてすまないね」
「あんな詰め方して、今更ですか」
ティッシュで洟をかむと、待ち構えていたようにタナカが口を開いた。中途半端な気遣いほど不快なものはなかなか無いが、今回ばかりはなんとなく有難かった。
暫く経つと涙も収まり、目と鼻の痛み以外の違和感も無かった。待ち構えていたような いや、実際待っていたのだろう タイミングで、再びタナカは口を開いた。私の話したことについて、いくつか質問があるらしい。
「七番目……白黒のは、3回以上質問したから代価を取ると。そう言ったんだね?」
「はい」
「なるほど、次の質問に移るよ。白黒の人の容姿について、長ズボンのところで自信なさげにしたのはどうして?」
「あの時、目の錯覚かもしれないんですけど、両足の隙間が見えなかったんです。円柱に手と頭がついたみたいな……そう、寸胴の案山子みたいな見た目に見えたんです」
我ながらイメージしやすい説明だと思ったが、タナカの反応は淡白だった。反応を期待していたわけではないが……
「そういえば、白黒のやつ さっき言ってた案山子に見えたやつは何体居た?」
「1体だけです。多分。でも、白黒も地下室から出てきてたなら、もっといるかも」
「そう考える理由は?」
「足下にあった手が、地下室から出てたんです。多分。もし本当にそうなら、手の正体って地下室に捨てられてたゴミなのかなって。1人で見に行った時は教科書なんかが捨てられてたし、なんで手なのか、とかはわかりませんけど……でも、文字と地下室っていう繋がりだけは見えてるから」
突拍子もない妄想じみた仮説だが、冷静じゃない頭にはもっともらしい説明として聞こえた。
「地下室の中身……それなら、もう一度地下室に行って白黒を呼び出したら、A君も居るのかな? 仮に居たとして、救い出せると思う?」
言葉に詰まった。罪に向き合うと決意しながら目を逸らし続けた、嫌な結論。それを眼前に突きつけられている。
「もう、一度……。もう一度呼び出せば、多分白黒は増えて、ます」
決意が早くも揺らぎ始めたのか、舌が何度も止まる。
私の感情的な部分……黙り込んで涙を流している部分を察したのか、あえて踏み込んだのかはわからないが、タナカが救出の可能性について聞いてきた。
「多分、無理です」
続きを促された。喉が震える。言霊思想とは少し違うが、それを言えば言うほど可能性を、A君の命綱を細くしてしまうような気がしてしまう。
それでも、少し前の決意が、死体も同然の喉に鞭を打ってくる。
「連れ去られる怪談は、よくあるんですけど、戻って来られた、って話は、全然無いんです」
洟のせいで言葉が詰まり、自分でも聞こえにくい話し方になっているのを自覚する。
「連れ去られて戻ってくる話が、無いってことは 」
「そもそも戻って来られない、と」
「だから、多分、新しい白黒は……」
A君を材料にした何かでしかない。言葉はもう浮かんでいるが、これだけはどうしても口にできなかった。
タナカも私が口にした部分で納得したのか、あるいは私に気を遣ったのか、それ以上追及してくることはない。
聞きたいことが聞けて満足したのか、椅子から立って礼を言い帰ろうとするタナカを、私は咄嗟に呼び止める。1つ、重要なことを忘れていた。
「あの、最後に1個だけ」
「何か疑問でも残ってたのかな」
疑問は全て解消されている。私が言いたいのはそれではない。
「手帳の件。まだ文句言ってないんですけど」
鳩が豆鉄砲を食ったよう、とはこういう顔を指すのだろう。辞書に載せてもいいような顔をした後、タナカは私の対面に戻ってきた。
「その件に関しては本当に申し訳ないと思ってるよ。……青木君を経由して、個人的にお詫びの品を送る」
「よろしい。お高い茶菓子だと嬉しいです」
窓の外から聞こえる夕焼け小焼けをBGMに今度こそタナカを見送り、私も荷物を持って部室を出た。勝手に手帳を見せた青木先生に文句を言って、それから帰ろう。
2年C組の行方不明者が話題になってから、既に2週間が経った。
結局あれは"クラス一丸となった悪戯"が原因の騒ぎだったらしく、生徒指導部の『悪ふざけもほどほどに』という話で全てが終結した。正直、単なる悪戯でここまでの騒ぎになるのかは甚だ疑問だが、担任を揶揄うのはよくある話だ。偶然が重なって大事になったのだろう。
私の周りであった大きなことといえば、部誌の原稿が真っ白で大いに焦ったのと、過去の部誌が顧問の青木先生のミスで全部処分されてしまったこと。そして、青木先生から良いところの茶菓子が渡されたことである。
「知り合いにもらったんだけど、甘いの好きじゃないんだよね」
とは本人の談。茶葉も一緒に入っていたので、青木先生とお茶会をした。おいしかった。
そういえばもう1つ、私の周りでは奇妙なことが起こっていた。
デフォルメされたヤギが側面に書かれた、どこでも買えるようなシャーペン。手に持つとなんとなく手に馴染むような、懐かしさとも言い換えられる感情が沸き起こるのだが、実はこれは私のではない。……正確に言えば、誰のかが分からない。友達のでも、青木先生のでもないらしい。気味が悪いし捨ててしまっても責められることはないだろうけど、なんとなく捨てられないでいる。本当に、持ち主は誰なんだろうか。
しかし、私がどれほど悩もうと地球は回る。つまり、締切が一歩ずつ近づいてきているというわけだ。締切は1週間後まで迫ってきているのだが、まだ1字も書いていない。顧問編集者の催促を受け流すのも限界が近いし、早く書かなくては。
決意を新たに音圧を増した蝉の鳴き声を聞きながら、ゲレンデのような原稿用紙に向かい合った。