「えー、またかよ?」
喧噪で満たされたカフェの一角、フォークに巻いたナポリタンを口に放り込みながら正面の男は言う。
もちゃもちゃと動くその口は語るよりも多くの不満を湛えているが、苦笑いの様相を呈している以上、そこまで怒ってはいないのだろう。
「まぁ、その……うん」
なんとなく居心地が悪くなり、思わず向かいのジト目から視線を逸らす。
掌は無意識に紅茶のカップを持ち、くるくるとそれを揺らした。
詰まった息を緩く吐き出しながら、柔らかい空気を擁した店内を見渡す。銘々が談笑に興じているこの空間は、コーヒーと木の匂いを感じさせる。
「ま、別に 俺は良いけどさ? でも、一応金払ってるのは俺だからなあ」
香くろを煮詰めた液体を啜って、あっけらかんと男はのたまった。
「それはいつもありがたいなぁって思ってるよ? 安いものじゃないってのも知ってるし。だから……なんというか、色々、家事とかしてるじゃん? できる限りの事するしさぁ」
相変わらずケチな男だと思う。が、内容も内容。頼み方次第では断られて当然だし、今まで許されてきたのはひとえに彼の優しさだ。
「できる限りの事? じゃあ 」
「?」
「 その体、俺の好きなようにさせろよ」
「え……っぁ、はぁ?」
突拍子もないことを言われて、計らずも自分の体と男の顔を往復してしまった。
いや、まてまて、この中学生の体を辱める? 言葉を反芻すればするほど意味がわからない。取り敢えず、周囲に話が聞かれていないかを確認して、それから……なるほど、つまりそういう趣味をお持ちか? いやこいつに限ってそんな事を思う訳がない。だってこいつは
「いや、流石に冗談だぞ?」
「……」
燻る殺意が発火する前に、紅茶で消火する。
カップの中、銀のスプーンに反射した自分を一瞥し眼前の男を睨んだ。
「 っ、 っ、……言葉が出ないくらい、今、ドン引きしてるから」
「すまんすまん、悪かったって……てか、お前がそこを気にするとは思わんかったわ。
……なんというか、こう、もっとドライっていうか、執着ないのかと」
「逆に、わたしがそこ気にしてなかったらやる気だったんだ?」
「そりゃ勿論。据え膳食わぬはなんとやら、ってなもんで」
はぁ、と溜め息を付く。自分の羞恥心が人並みなら彼の性欲も人並みか。
へらへらと手を頭の後ろで組む変態に呆れた目線を送っておきつつ、通りすがった店員を引き止めて、紅茶のおかわりを注文する。
「んーまあ、取り敢えずは、『安い買い物』ではないって事を把握、よろしく」
「だからわかってるよ、それくらい……」
おどけた調子で語る彼に、げんなりとした口調で返す。「いけしゃあしゃあと」等と言わなかった所は褒めて貰いたい。だが何もしないのは癪に障るので、一口分残っているナポリタンを食べてやる。
「あっ、ちょっ……はぁ、ったく……。
にしてもさぁ、俺はどうして『アレ』が好きなのかさっぱり分からんだわ。
正直、"それ"と変わらんだろ、って思うんだがなあ ……知ってるか? 俺たちは別に、人肉を食べなくても生きていけるんだぞ」
「それとこれとは訳が違うんですぅ」
男は、トマトソースの赤で彩られた口元を指して言う。素知らぬ顔で口元を拭って反駁するが、彼にこの考えが通じるとは思っていない。
幾ばくかの話し声と厨房から響く洗い物の音を背景に、なんとも言えない空気が流れる。窓から覗く橙と緋の雲が、熱の籠もるアスファルトに反射して、埃っぽい世界を照らす。
「とりま、好きにしてもらって構わないから、俺は。一言伝えるなら『捕まらないようにしろよ』とだけ
んじゃ、そろそろ帰りますかぁ」
「あ、ちょっと! 相変わらず君は適当だよなぁ!」
そうぼやき、いつの間にか机の上に置かれている紅茶を一息に飲み干してから、伝票を手に取る彼の後についた。
時々、思うことがある。
どうしてこんなに、危険な行為を冒してまで求めてしまうのか。
今まで何度も"何者か"に連行される同胞たちを見てきたのに。そして、それに怯えている自分自身が居るのに。
なのに、なのに
「お待ちしておりました。 おや? 本日は随分と可愛らしいお格好で」
「そうでしょ? 新しい店で仕入れたお気に入りだけど……似合ってるかな」
「ええ。とてもお似合いですよ。 では、こちらへ」
いつもと変わらず、ウェイターに案内をされていく。
ウェイターである彼は職業柄、お世辞でこの容姿を褒めたのだろうがそれでも顔が綻んでしまう。
化粧こそしていないが、ベージュのチェック柄ワンピースに、アイボリーのドルマンスリーブカーディガンを羽織ったこの出で立ちは中々のお気に入りだ。
「いつも」とは言ったが、この店に最後に訪れたのは半年も前になるのだろうか。
通る通路、帯びている雰囲気も含め、少し懐かしさを感じる。
「こちらで、少しお待ち下さい」
誘導された先にある個室で、「注文品」が来るまで待機する。
ヒト一人が横になれそうな長い机と、対照的に小さな椅子が一つ。
この体がぴったり収まる椅子に腰掛けながら鼻歌を口ずさんでいると、何かが近付いてくる音が聞こえてきた。
少年。眠った少年を乗せた台が、ウェイターと共に部屋へと入ってくる。
「こちらがご注文の品、『生きた、若い個体』でございます」
「うわぁ……あんな曖昧な注文だったのにすごい想像通りだ………」
「恐縮でございます」
目を緩く閉じて胸を動かし、心地よい寝息を立てて台に横たわる齢十程の少年。その命に、自分は感動のような感慨を抱いていた。この時の自分の目は輝いていたと思う。
「流石は、わたしとの関係も浅くないってところだよね……好みを完全に抑えられてる」
「いえいえ、それほどでもありませんよ。……それでは、こちら、脳を抜かさせていただきます」
「うん、よろしく頼むよ」
ウェイターは台に置かれた板状の金属棒を手に取り、少年の局所麻酔を受けた顔部、鼻の穴にそれを突っ込む。
見ていると何故か背筋がぞわぞわするので得意ではない。
素早く、丁寧に。金属の板がぐっと深くへ押し込まれ、脳が締められる。
少年の体がびくり、と一度跳ねた後に、その生命を停止させた。
「うひぃっ……
……いつ見てもなぜか、背中に虫が這っているかのような感覚がする」
「ご観覧が本当にお嫌いでございましたら、是非お申し付け下さい。以前とは別の対応を致しますので」
「いやぁ、別に………べ、別に嫌なわけじゃぁ、ないんだ。ひぇっ……あぁ、いや、その………
彼らに対しての最大限の感謝を示すために、こ、ここで逃げるわけにはいかないんだよ」
「左様でございますか」
次にウェイターが手に持ったのは、先端がフックの形をした金属棒。 鼻から「ぢゅるん」と"引きずり出される"、赤と黄のコントラストを眺めながら、心の中に刻んでいる自分のポリシーを述べる。
が、やはりこれを見るのは得意でない。
「では、"こちら"は後ほど。御用がございましたら、そちらのベルでお呼び出し下さい。
それでは、ごゆっくり」
透明なカップいっぱいの脳を手に持って、ウェイターは個室を去る。
自分と少年、その二人のみの空間となった。
息を呑む。少年の目は閉じられたままだ。それともウェイターが一度開かれたその瞳を閉ざしたのか。
「自分」と同じくらいだろう年齢の少年は、穏やかに眠っている。
食べたい。
喉がカラカラと、灼けるように熱くなる。ただ、ただ、食への渇望が、本能が、体を動かそうとしている。
こんなに、こんなに美味しそうなんだ。
そう考えれば意識が訳のわからない高揚に包まれて、どうしようもなく心臓が高鳴る。
「ふぅーーー………。とりあえず、おちついて」
そう、おちついて。今までやってきたことを、焦らず実行するだけで良い。
まず、丁度いい長さのテーブルに横たわって。
そして 「這い出る」。
できるだけ体を傷つけないように、背中から。
ゆっくりと、優しく、ずりずりと這い出る。
外に出るのも半年ぶりだ。裂けた皮膚から滑り込む冷たい空気が、少し心地よく感じられた。
少女の背中からまるで羽化するかのように、黒い、黒い「化け物」が這い出た。それはさながら禁忌。秘匿されるべき気配を纏った、化け物である。
収まらない興奮と、少女を傷つけまいとする感情がせめぎ合う中で、体外という光に向かって進む。
火照る躰からだは冬の室温に冷まされるより早く、じんじんと熱くなっていく。
全身を外に出せればようやく、"彼"を食べる時だ。
テーブルから、床を伝って、ゆっくり、ゆっくりと。
ふと、同居者の男がいつか溢した言葉を思い出した。
『お前の事、同胞の間でどう呼ばれてるか知ってる? 「人肉狂い」だぜ?』
実際にそうなんだろう。
生きるために、隠れるために人を食べる彼らと違って、自分はその人肉自体が持つ魅力に惹かれている。
味覚は殆どなく、口はパイプ。頼りになるのは触覚と嗅覚のみ。それなのに、とても美味だと感じてしまうのだ。
黒い塊のみである醜い「私」は、その唯一の捕食器官を少年の口に挿し込む。
口腔、首の間を縫って通り、その深部、さらに深部へ。
ずぶずぶと埋まっていく筒の感触に、思わず身じろぎしてしまう。
心地が良い。その一心で掘り進め、腹部 腸まで達した所で
(いただきます)
一思いに消化液を流し込む。
流れていく液体。大抵の同胞たちは臓器を食べずに捨ててしまうが、自分はそんなもったいない事をしない。
消化液と一緒に溶かされた肉体を啜る。むせ返るような生の匂いが体いっぱいに充満して、筒の中を、溶かされた"彼"が通る。
ずず、ずるるる。
少々はしたない音ではあるが、これもまた良い。味を感じることのできない自分にとっては、音の信号も極めて甘美なものなのだ。
酸の、饐えた匂いが滴る空間の中で、骨と皮だけの少年を見つめる。
心は非常に満足だが、この先にも待っているものがあるので少し急がないといけない。
無言で。
その翅と臓器とを変形させ、口に体を器用にねじ込ませていく。
萎びた少年の体はみるみる形を取り戻し、文字通り新たな命を創り出す。
丁度「寄宿」が完了したあたりで、見計らったかのようにウェイターが入室してきた。
促されるまま椅子に座り、渡された冷水を飲み干す。
「お調子の程はいかがですか」
最高だ。
笑顔でこくり、と頷きウェイターに示し、そのまま正面を見る。
正面 目先のテーブルに眠るのは、過去の"自分"であり"少女"。
もしも魂が脳に、心臓にあるとするならば、この抜け殻には何の生物的価値も残っていない。
だけれど。
無言で手を合わせ、目を瞑り、黙祷を捧げる。この少女の姿で過ごした記憶に思いを馳せる。
最大限の感謝だ。こんな、身勝手な自分がするには足りないだろうが。
瞳を閉じた昏い世界の中で、かちゃかちゃとウェイターが作業をする音が聞こえる。
「こちらをお受け取り下さい」
目を開けば、硝子造りの透明な箱に少女の歯が一本、毎度受け取る記念品をウェイターが差し出してくる。
それをできる限り丁重に受け取れば、ここでやり残した事もおそらく一つだ。
「それでは最後に……。こちら、脳のスムージーでございます」
最初に取っておいた少年の脳。それを余すことなく使ったスムージー。
スムージーと言っても牛乳やクリームを使用したそれとは違い、スパイス等がふんだんに使われたものとなっている。味が分からないのは至極残念だが、嗅覚のみでも十分に楽しめる逸品だ。
どうしてこれを最後に持ってきたかというと……
「んっ、んくっ、んくっ ッ」
すり潰された脳が映える透明なコップを手に取り口に運べば、スパイスの刺激と脳の臭みに併せて流れくる膨大な 少年の記憶。
少なくとも心地の良いものではない。同胞たちが人食いを好まない一因がこれだ。
もしかしたら、業を背負った自分達に与えられた罰なのかもしれない。……そんな事を考えながら、記憶の川に溺れる。
「 がっ、はぁっ、はっ、はっ……」
気付けば、空になったコップを床に取り落とし、ウェイターに支えられた状態だった。
床には、跳ねて飛び散った脳の染み。膝上には硝子の箱と、数滴の涙。
けたたましく鳴る頭痛と揺れる視界が先走る呼吸と共に去っていくまでは何も考えていなかった。いいや、"何も考えられなかった"が正解か。
毎度の事だ。沢山の記憶に流されて気を失い、暫くは放心状態になってしまう。
この現象は自分以外の同胞にはあまり見られない。知る限りでは大体、頭痛や酷い気持ち悪さで収まっているようだ。
「………いつもの事だけど、迷惑かけてごめんね?」
「いえ、そんな。お気になさらないで下さい」
震えた、か細い声。寂しさが絡んでしまうのは、少年の記憶が悪戯しているから。
取り敢えず……記憶を得たことで、やっと少年と同じ声が出せるようになった。
"寄宿している体の、本来あった声以外は出さない" 自分自身が課した、寄宿先に対する最低限の礼儀の内の一つだ。
「今回も、ありがとうね」
「恐縮でございます」
いつから持っていたのか、ウェイターから手渡された冷水を飲み、涙を拭いて、小さな溜め息を付く。
「そんなになってまで良くやろうと思うよなぁ〜。俺なら最初っからギブだわ、ギブ」
「それも含めて良いんだよ……たっく、わかってないなぁ」
へらへらとしながらスマホを片手に喋るのは、我が同居人である男だ。
場所は、前回のカフェと打って変わってファミレスである。
「ふん……"前"の方がまだ可愛げがあったのになあ、『お嬢ちゃん』?」
「そんな呼び方今まで一度もしたことないだろ君。それに今は『僕』だから」
ハンバーグにピラフにオムライス。雑多で大味で、大衆が喜びそうなメニューが並ぶ中、相も変わらずナポリタンをくるくると巻いているその姿勢には敬意に近い何かを感じる筈もなく。
「スマホ見ながら飯食うのってどうかと思うんですが?」
「そんなお硬いこと言ってたらいつか脳の血管切れるぞ〜? 性格まで引っ張られてるんじゃねえの?」
「真面目なのは生まれつきなのでお構いなく」
口に赤いケチャップを付けて笑う男は、本当に人間と変わらない。 本当に。
唐突に襲い掛かってきた不安には気づかないふりをする。
「ねぇ
この生活って、いつまで続けれると思う?」
「…………。さぁ? 少なくとも俺の知ったことじゃねぇけど。強いて言うなら『死ぬまで』じゃねぇの? だってホラ、捕まえられたら殺されるんだろ? 多分」
「そんなもんか?」
「そんなモンだろ」
不安と幸せと、またいつか湧き上がってくるだろう食欲は、今だけ人々の喧噪に隠されていた。