正月休みを利用して、僕──松川千晴は以前住んでいたこの町にちょっとした旅行で訪れていた。僕はこの地にあまりいい思い出を持っていなかったものの、それでも半年は住んだ町であるし、無性に懐かしさを覚えて衝動的にやってきたのであった。
駅の改札を出たところで、10年前と変わらぬかつての故郷の香りが僕の鼻腔を擽った。小雪の舞う駅前のロータリーは、タクシーが1、2台止まっているだけで人も疎らだった。そのロータリーの中央に立つ時計が夜の10時を指している。白い吐息を漏らしながら重い身体とキャリーバッグを引き摺って歩みを進める僕に対し、後ろから不意に呼び止める声があった。
「なあお前千晴……松川千晴じゃないか?」
「……優作?」
振り向き様に視界に入った同窓の顔には、歓喜と困惑の色が浮かんでいた。
僕は気が付くと彼──吉野優作に連れられ駅前の小汚い創作居酒屋にいた。優作は僕の幼馴染で、とても気が合う友人で、いつも僕と一緒に居てくれた大切な朋友だ。しかし、10年という時の流れのせいか、それともあの事件のせいか、場の空気を支配していたのは沈黙だった。周りに客の姿もなく、気怠げなバイトのウエイターの目線が妙に痛い。
暫くお互い無言のまま運ばれてきた料理と酒をつまんでいると、急に優作が嘔吐き始めた。
「どうしたの優作!?」
「クッソ、この餃子トマト入ってやがるぞ……ちゃんと注意書き出しとけよ……」
「もしかしてアレルギー?」
「ああ、丁度千晴があの事件で……」
そこまで声に出しかけたところで、発作で青くなっていた優作の顔色がさらに悪化して土のような色になっていた。
「……?いいよ、別に。気にしてないし。」
僕は正直にそう言い放ったものの、優作は申し訳無さそうに口を閉ざしていた。
「……ちょっと僕店員さんに文句つけて来るよ」
僕は溜息を吐くように言った。
「いいって。幸い隠し味程度の量だったから大した発作じゃないし。その気持ちだけで十分だ。ありがとな。」
優作は諫めるように若干早口でまくし立てたが、僕は止まらなかった。
「いや別に……。まあでも、どう転んでもこれは食べられないから返さないと。」
少し不思議がる優作をよそに、僕は続けて告げた。
「僕もトマトアレルギーだし。」
「それでさ……あの後どうだった?大変だったよな……」
僕が店員さんに食べかけの餃子を返却して席に戻ると、何やら意を決した面持ちの優作にこう切り出された。「あの後」というのは勿論あの事件のことを指しているだろうということは容易に想像出来た。
「さっきも言った通り、あんまり気にしてないよ。あの頃もう既に色々ヤバかったし、どっちにしろって感じだよ。それに、もう10年も前の話だから。終わった後病院で散々泣き腫らして、それで終わり。」
「いや、しかしな……」
「もう限界だったんだよ。僕も含めて。だからあの事件はある意味では渡りに船だったのかもね。」
この言葉を受けて優作は再び押し黙ってしまった。
「……済まなかった、千晴。ずっと力になれなくて……。」
優作から不意に繰り出された謝罪に僕は当惑した。
「……優作は何も悪くないよ。」
今日何度目になるか分からない沈黙。やがて詰まってしまった話の流れを変えようと、思い出したように優作が問い掛けてきた。
「なあ、その千晴が掛けてる黒縁眼鏡ってもしかしてあの先生の──」
「あ、分かる?……あの人は僕に勉強の楽しさを教えてくれた恩人だからね。心ばかりのリスペクトだよ。」
僕がこう答えると、優作は何やら困ったような顔をして考え込んでしまった。
「どうしたの?」
気になって尋ねると、優作は迷いながら口にした。
「いや、その、何というか……これを言うべきか言わざるべきか……」
「優作らしくないね、隠し事なんてさ。君と僕との間柄でしょ?言ってくれて構わないよ。」
この言葉を受けても尚、優作は暫し思案していたものの、間もなく口を開いた。
「じゃあ言うけどよ……その先生がさ、俺たちの学校から去って1年くらいで亡くなってたって知ってたか?」
「えっ……」
「自殺したんだとよ……アパートの自室で、首を吊って……」
その言葉を聞いた瞬間、自分の耳を疑うと共に心を刃物で刺されたような衝撃を受けた。信じられない気持ちで一杯で、考えるよりも早く次の言葉を放った。
「ねえ、証拠……証拠はあるの?」
すると優作はポケットからスマートフォンを取り出し、何やら探し始めた。程なくして、寂しげな表情の優作にスマートフォンの画面を突き付けられた。それは9年前の地方新聞のバックナンバーだった。僕は怯えながら画面をスクロールする。新聞の地域欄に差し掛かった所で目に入る「教師女性、自宅で自殺か」の見出し。自殺したとされているのは紛れもなく師の名前であった。
僕の頭の中は真っ白になって、そして暫く後に当時のことが走馬灯のように脳裏を過ぎった。突然だった出会い。楽しかった授業。伝え損ねた先生への想い。そしてあの事件……。それは僕の人生を変えた激動の一週間だった。
僕がこの町に引っ越してきたのは小学6年の6月という中途半端な時期だった。父が仕事で大失敗をして、この片田舎に左遷されたのだ。父も母も元々虫も殺せないような性格の人間であったが、この頃はそれが裏目に出ているとしか思えなかった。父はその性格の為に長年世話になった仕事を辞められず大人しく厄介払いされ、明らかに酷な仕事を押し付けられていた。その影響か引っ越した後はしばしば母や僕に癇癪を起こすようになり、酷い時には暴力に走ることもあった。普段の父から突然豹変するその姿は、幼い僕に恐怖心を植え付けるには十分だった。そして情に厚い母は、父の行為を「今は上手く行っていないだけで、成功すればきっと元の優しいお父さんに戻る」と僕に諭していた。僕も温和な父が好きだったし、それをずっと待ち望んでいたのだと思う。
そんな歪み始めた僕の家庭事情は、僕の転校後直ぐに同級生の家庭内で話題となったようで、小学6年の夏というほぼ完成された閉鎖的なコミュニティ、しかも田舎故に1クラス7人しかいなかったという影響も相まって、僕は虐めを受けるようになった。教科書や机、ランドセルに黒いマジックで罵詈雑言を書かれたり、給食をわざと零されたりというのは日常茶飯事であった。担任含む教師陣もこの状況に対し介入するようなことはせず、僕に対する虐めを黙認していた。学校内に於いて僕の味方は隣の席の優作しかいなかった。当初は優作は積極的に虐めを止めようといじめっ子グループを糾弾していたが、彼らと対立して怪我をし、1週間学校を休むという出来事があり、僕の方から止めて欲しいと頼み込んだ。優作が積極的に僕の虐めに干渉して痛い思いをするのが嫌であったし、現に1週間の優作のいない期間の学校生活はかなり精神的に厳しいものがあったからだ。それに、卒業すればいずれこの生活は終わる。そう伝えると優作は嫌々ながらも了承してくれた。そしてその後も僕を支えてくれたことについて、優作には本当に感謝している。
そんな生活を半年程度送ったある月曜日、僕は運命の出会いを果たす。
事の始まりは、国語の担当をしていた新任の教員がインフルエンザに罹ったとのことで、臨時に教員を1週間雇うというものであった。僕は最初その事を気にも留めていなかった。特に臨時教諭が来たところで今の僕を取り巻く状況が変化する訳でもないと思っていたからだ。どうしようもない現実のことを考えると自然と溜息が口を衝いて出る。見慣れた机の落書きを消していると、教室の前ドアが開いた。
教室に入って来た女性の姿を見て、僕はそこはかとなく母の姿を想起した。小柄で、髪を団子にしていて、眼鏡は黒縁で……。きっと、母が若ければこんな感じの見た目だったと感じさせる姿であった。彼女はそのまま教壇に立つと、軽い自己紹介を経て、早速授業に取り掛かるのであった。彼女の佇まいは、その見た目に似合わない程に堂々としていた。
黒縁眼鏡の臨時の先生による授業は独創的ではあったものの、非常に分かりやすく、内容がすうっと頭に入り込んでくる感覚があった。少なくとも、僕が見ていた範囲では全員が先生の授業を食いつくように受けていた。聴衆を引き付けて離さない、そんな魅力が先生の授業にはあった。そして先生は、誰にでも丁寧に、真摯に向き合って教えてくれた。やや厳しすぎるきらいはあったものの、間違っている箇所は徹底的に指摘してくれたし、正しい所は全力で褒めてくれていた。僕は先生に気に入られたくて、一所懸命授業を受けた結果、僕の国語ノート1冊は全ページがあっという間に真っ赤になった。
授業が終わる頃には、僕の感情はすっかり様変わりしていた。引っ越しをしてより常に抱いていた諦めにも似た感情は消え去り、興奮と高揚感で満たされていた。昨日までの僕なら、たった一度の授業でこんなに変わるものなのかと問いたくもなっていただろう。しかし、昨日までの虚ろな日々に彩りを与えてくれた先生の授業は僕の中でそれほどに大きな価値を持っていたのだ。気付けば、僕は先生の事を考えるだけで気持ちが昂るようになっていた。過去に経験の無いこの不思議な感情に、僕は名前を付けることは出来なかった。
先生の初日の授業を終えて、変わったことがもう一つあった。それまで幾度と無く行われてきた僕への虐めが急に止んだのだ。僕の私物への落書きや給食の味噌汁に消しゴムが入れられているといったことがその日を境に無くなった。この理由を僕は掴みかねていた。今朝はいつも通り上履きに画鋲が入っていたし、机の中には腐った牛乳を拭いたような雑巾が雑に突っ込まれていた。それが終わった理由について当初は測りかねていたものの、原因について推察してみれば自ずと答えは浮かび上がってきた。つまりは皆、先生に夢中なのだ。この一件を経て、先生への信頼感が僕の中で益々高まっていった。
父の仕事の状況は依然として芳しくない様子であったものの、先生がいた間の日々はこの地に来てより最も素晴らしい日々であった。しかし、当然と言えば当然なのだが、その週の木曜日、お昼前の国語の授業で来週には元々の国語教諭が復帰するという連絡が先生自身から告げられた。先生の行う授業が終わりを迎える時が近づいてきたのだ。分かりきったことではあったが、辛いことには変わりはなかった。授業中は皆楽しそうにしていたものの、お昼の時間になると教室がどこか暗い雰囲気を帯びていた。僕は雪の降る空を見上げながら先生について考えていた。先生の行う授業は間違いなく僕の人生の中で最高の時間だった。しかし、同時に何か引っ掛かりを感じていた。先生の授業を初めて受けた時からずっと感じている、あの「名無し」の感情についてだ。クラスの皆はきっと彼女のことを好意的に見ているであろう。それは授業中の態度から想像できる。僕も確かに先生に憧れている。先生に対する好意なら誰にも負けない自信がある。しかしこれは恋愛感情であるとか、敬意であるとか、そういった感情だけで構成されてないような気がしてならない。僕は恋愛経験が豊富な方ではないが、それでも、ドラマや漫画で見るような感情とは明らかに異なる感情であると日を追うごとに明確に理解できるようになっていた。先生のことを想うとき、何か別の強く、衝動的な感情が僕を支配しようとするのだ。その僕の心に巣食う得体の知れない感情のことを考えると、自分の知らない自分がいると事実に気付き、少し怖くなった。
そして、夢のような時間は唐突に終わりを迎えた。この週の金曜日に記録的な大雪が降り、学校は中止。僕たちは彼女と会う最後の機会を奪われたのだ。まるで悩む僕を嘲笑うかような仕打ちであった。
僕は突然の別れにショックを受け、休みの3日間を殆ど自室に引き篭って過ごしていた。僕の感情は全て彼女が支配していた。トマトペーストが塗りたくられ真っ赤になったノートを開きながら先生の授業を思い返し、1人呟く。僕はまだ、彼女にお別れの言葉を告げてない。僕はまだ、彼女に思いの丈を伝えていない。僕はまだ──彼女を殺していない。
僕は一瞬、殺すという単語が突如として吐き出されたことに違和感を抱いたものの、直ぐに自分の中で答えを出すことが出来た。そうだ。僕を支配しようとするあの「名無しの」感情は殺意だったのだ。理解出来なくて当たり前だ。僕は今まで、他人に幾ら酷い仕打ちを受けたとしても、人を殺そうと考えたことは無い。そもそも、人を殺したいという思考そのものが理解出来なかった。死んだ人間はもう二度と目を覚ますことはなく、そして、人は殺したら死んでしまう。そんな常識的な道徳心を、優しい両親の教育の賜物からか、当然のように有していたのだから。僕はしかし、自分の感情について答えを出したところであのすてきなせんせいが僕の家を訪ねることは無いのだ。むしろ答えを出してしまったが故に、この感情がまるで家の外の世界を支配する冷え切った雪のように積もっていくような感覚を強く覚えるようになった。もう耐えられなかった。この気持ちを融かすには血が、温かい血が必要だ。ホンナ先生じゃなくていい、黒縁眼鏡の、素敵な女性の──
不意に部屋のドアを叩く音が聞こえた。
3日後に病院のベッドで目覚めた僕は、両親の死を主治医より聞かされた。
曰く、あの大雪の降る日に、僕と母は強盗に入られた。居間を物色中に母と出くわした強盗は母の頭を殴って昏倒させたうえで、キッチンに置いてあった包丁で胸部を一刺しして殺害。その現場を隠れて見ていた僕が警察に連絡したのを発見した強盗は、丁度受話器を置いたところの僕を後ろから包丁で刺して慌てて逃走した。この大雪の中仕事をしてた哀れな父は、警察よりこの見解を聞かされた後、提供された仮宿で首を吊ったということだった。警察は犯人の足取りを追っているが、大雪の影響で足跡などの証拠も消えてしまったことから捜査は難航しているらしかった。
この知らせを聞いた僕は滂沱の涙を流した。この時の僕はアカデミー賞もかくやとばかりの名優っぷりを発揮していた。母を殺したのは自分だというのに。あの時、母に声を掛けられた僕は母の容姿を思い返し、この計画を立て、実行した。経験に乏しい僕の、即興の計画だったにも関わらず上手く行ったのはその日の天気と運、そして先生の授業の賜物であろう。父が死んだことは予想外であったが、壊れかけていた父の心に母の死が止めを刺した結果になったのだと僕は結論付けることにした。
小学校卒業まであと3ヶ月であったこの時点の僕では、到底一人暮らしなど出来るような知識や能力は持ち合わせていなかったこともあり、間もなく父方の実家に引き取られることと相成った。母方の実家という条件も提示されていたが、何となく母を殺したという負い目を感じたということから辞退した。この地を離れるにあたって、担任率いるクラスの連中が見舞いついでにお別れ会を病室で行うといって訪ねてきたことがあったが丁重にお断りした。つい先日まで僕のことを虐めていた連中と、それを見ていただけの連中とは会いたくも無かった。唯一、優作だけには会っても良い気がしたが、気が乗らなかった。彼らとはそれっきりだった。
父方の実家へ越した後も、僕は黒縁眼鏡の女性を見る度に強烈な殺人衝動に駆られ、その都度頭を悩ませた。殺してしまえば楽ではあるが、死体は足が付きやすい。僕は人を殺したくはあったが、刑務所に入れられるのはまっぴら御免だった。刑務所で拘束されている間に先生を殺す機会が失われる可能性も考えられ、それは絶対に避けたかった。様々な対策を講じた結果、一番効果があったのは自分で黒縁眼鏡を掛けて、もし殺意が沸いた時は鏡を見て自傷するというものだった。鏡に映った自身の姿は、ホンナ先生や母にどことなく似ていて殺意が漲ってきた。手首に勢いよく剃刀を入れると想像を絶する痛みが襲い、僕の殺意を強引に塗り潰した。この痛みに耐えるうちにいつしか僕は、ホンナ先生を殺すという行為に縋る様な救いを求めるようになった。僕をここまで変えるに至った先生を殺せばこの殺人衝動を抑えることが出来るのではないか。僕は祈るように願っていた。
でも死んだ?先生が?先生を僕が殺すことはもう出来ないのだろうか。僕のこの苦難の10年は何だったのだろうか。僕は暫時圧倒的な喪失感に支配され、やがてそれは心の底で抑圧されていた殺意と混ざって怪物になった。生まれたばかりの怪物は、まるで母乳をせびるように今か今かと血を欲している。そんな心の中の怪物に、何故か僕は慈しみを抱いていた。これが母性本能というものであろうか。そうだ、この怪物は10年もの長い間痛い思いをして孕んで生んだ僕の子供なのだ。そう考えると、余計に愛おしい。早く我が子に食事を与えないと。
僕の失われた10年を取り戻すための愛しの怪物との日々が、今まさに幕を開けようとしていた。
多くのオーディエンスが見守る中、この裁判の主役と呼ぶべき稀代の殺人鬼は不敵に笑っていた。裁判も終盤の被告人質問に差し掛かり、暴き出された多くの証拠からどう足掻いても極刑は免れないといったこの状況下でも彼は笑みを崩すことは無かった。その様は、まるで何かが取り憑いているかのようであった。
「被告人、何故貴方はこのような凶悪な犯罪を繰り返し起こしたのですか?」
検察側の質問を受け、傍聴席に漣が立つ。世間を騒がせたこの男の動機はこの場の誰もが気にする所であった。黒縁眼鏡の女性を狙い続けた狂気の連続殺人、その真実を。やがて舞台の中央にいる男が重い口を開けた。
「……あれは11年前のことです。小学生だった私の教室に1人の臨時教師がやってきました。彼女はとても可憐で聡明な素晴らしい教師でした。僅か1週間にも満たない勤務の中で、彼女は私のクラスの全員──と言ってもたったの7人ですが──の心を鷲摑みにしたのです。幼い私たちは皆彼女に憧れていました。恐らくはただ教師としてだけではなく、1人の女性として。私もその1人でした。」
「しかし、彼女は飽くまで臨時の先生でした。やがて訪れる別れを前に、僕はある1つの答えに辿り着きました。それはかのジョン・レノンを撃ったマーク・チャップマンと同じ──そう、彼女を殺すことで永遠にしようと考えたのです。しかしそれは敵わなかった。」
「彼女と会えるはずだった最後の日は、大雪で学校が休みになったのです。私は悲しみに暮れました。何故もっと早く彼女を永遠にしなかったのかと。そこから私はずっと失意の日々を過ごすこととなりました。そんなくすんだ日々を辛うじて生きていけたのはまだ彼女に会えるかもしれないという絶望的な希望があったからです。もっとも、それでさえ風の噂で彼女の死を伝えられることで打ち砕かれましたが。」
「彼女との別れから10年経ってなお、彼女を忘れることが出来ませんでした。そして去年の冬、私はあの教室で生活を共にした元クラスメイトの女性と出会ったのです。私は彼女を見て驚きました。あの憧れの先生にとても似ていたものですから。」
「そして彼女と思い出話をするうちに、僕の胸の内に嘗ての感情が蘇ってきたのです。しかし、それはもういない先生への恋慕ではなく、先生のような、黒縁眼鏡の人間に対する殺意だけでした。先生を永遠にしたいという崇高なる感情は10年の時を経て、どこか抜け殻のようになっていました。もしかしたら、黒縁眼鏡の女性を──先生のまやかしを殺すことで、何か満たされるとでも思っていたのかもしれません。そんなことは全く無かった訳ですが。」
ここからは皆さんもご存知の通りです。そう被告が締めると一気に裁判所内は騒がしくなった。そんな下らない理由で殺したのかと声を荒らげる者、その場で泣き崩れる者、記事にでもするのだろうか、被告の供述を必死に記録する者もいた。裁判長が声を張って観客を黙らせると、間もなく被告人質問の時間は終了した。
その後、当然のことであるが検察側は死刑を求刑した。弁護側は最早打つ手が無く、遂に法廷中央の快楽殺人鬼に裁きの時が訪れようとしていた。
「判決の前に、被告は何か言いたい事はありますか?」
「……いざこうやって死刑宣告を受けるとなると、今までの私のやってきたことは正解だったんだなって思います。黒縁眼鏡の女性をいくら殺しても満たされることはありませんでしたが、死ぬことで私は彼女に会うことが出来るのですから。被害者の皆様のお陰です。ありがとうございました。」
傍聴席から再び怒号が飛び掛かった。早く死ね、1人で死ねという心ある人々の声に対し、被告はまるで耳を貸す様子はなかった。再び裁判長の声が法廷内に響き渡り、判決が言い渡される。
「……被告人は、第1、JR██駅前において旅行中であった松川千晴さん(当時22歳)を見掛けるや──」
主文後回し。これが意味するものはこの場の全員が知っていた。滔々と告げられる判決理由を聞きながら、被疑者は絶望するどころか、むしろ益々幸せな顔をするようになっていった。
「──よって、被告人吉野優作を死刑に処する。」
この死刑宣告が言い渡された瞬間の彼の顔を、この場にいた人間は忘れることが出来なかった。