メイルストロム: 1 - "Into the Maelstrom"

第1話

Into the Maelstrom

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「大将、おあいそ」

カウンター席に座っていた男はおちょこに注がれた日本酒を飲み干すと、そう言って席から立ち上がった。そのスーツ姿の禿げた男はビジネスバッグから財布を取り出しながら勘定台へと歩いていく。そしてその後について行くように、隣のスーツを着た若い男も席を立つ。恐らくは男の部下なのだろう。飯尾司は調理台を拭く手を止め、調理スペースから勘定台の方へと向かった。

「会計一緒ね」

中年男は司の方を見ようともせず、財布の中を覗き込みながら言った。その後ろで部下風の男が「本当にいいんですか?」と申し訳なさそうに言うと彼はすかさず「若いんだから大人しく奢られてろよな」と言う。男は酒が回っているのか呂律が回っておらず、司にはやや舌足らずなように聞こえた。

「お会計、お二人で19300円になります」

司がそう言うと中年男は大きく鼻から息を噴き出した。財布から取り出した2枚の1万円紙幣をトレーに置き、それを人差し指で司の方に軽く弾いた。司はそれを受け取って、いち、にいと捲って数えた。レジスターを開けて2万円を万札の入っているところに挟み、「700」と表示された電卓と共に700円の入ったトレーを差し出す。中年男はトレーから雑に小銭を受け取って財布に仕舞うと、司の方には目もくれずに出口の扉へと歩き出した。その後ろを若い男が軽く会釈してついて行く。

「ったく。値段だけは一丁前だよな」

中年男の小さな呟きが司の耳に届いた。だが司は聞こえていないふりをして「まいど」と大きな声で言い、振り返ることも無く扉を閉めていく二人の背中を見送った。レジスターの引き出しを閉めて調理スペースに戻る。目の前のカウンター上に残された寿司下駄や小皿を重ねて取り上げると、黙ってそれらを調理スペースの奥にある流し台に置いた。

司は、この手の客の小言にはもう慣れていた。父親からこの飯尾寿司を継いだ以上、父親の握っていた寿司と比較されるのは避けられない。司がこの店を継いではや三年が経つが、父親の代からの常連客に言わせれば司はまだまだ半人前らしかった。そして司自身も、それは痛いほどに自覚していた。そうであるから客の小言に反応などしない。彼は、未熟な自らにそんな資格は無いと思っていた。

司は長いため息を一つき、流し台の蛇口を捻った。掛け時計を見ると時計の針は23時過ぎを指していた。閉店まではまだ20分ほどあるが、客も帰ったことだし今日はもう閉めても良いかもしれない。寿司下駄を洗いながら司はそう考えていた。

「美味いね大将」

司は背後からの声に驚き、咄嗟に少しばかり跳ねてしまった。振り向くとそこには男が座っていた。皺のついたグレーのスーツを着たその男は、カウンターの端の席に座って寿司を頬張っていた。司にはそこの席に客を通した覚えもなければ、その男の顔を見た覚えもなかった。年齢は分からない。顔はこれといって特徴がないが、何故か見ていると違和感を覚えた。彼の目の前には寿司下駄に乗った寿司と小皿、湯のみ、空のジョッキ、そしておしぼりが置かれていた。奇妙なことに、司にはその男を見た覚えがまるでないにも関わらずその目の前に置かれた品を作って出した覚えだけはあった。彼は自分の思っている以上に疲れが溜まっているのかもしれないと考えた。そして同時にいくら疲れているとはいえ客の存在を忘れるなんて有り得ないと思った。自分は本当に半人前以前に違いないと、彼は自らを恥じた。

「親父さんの寿司も美味かったけど、大将のも負けてないよ」

褒められたことは素直に嬉しかった。だが、司はその言葉が自分を慰めるために発せられたものに思えてならなかった。何より父親の名前がその男の口から出たことが司をまたこれか、という思いにさせた。

「ありがとうございます」

司はそう答えたが、それはやや小さな声になった。彼は素直に男の目を見ることが出来なかった。

「大将は良い店を継いだね」

男は寿司下駄からマグロの握りを掴むと、醤油をつけて口へと運んだ。司は男の言葉にどう反応して良いか分からずにただ黙って手を動かしていた。同時に、司はこの男が誰なのかということがより気になっていた。男の話しぶりを見るに、少なくとも彼は司の父親の寿司を食べたことがあるようだ。だが、司はどうしてもこの男を見た覚えなかった。父親の代から司は店で働いていた。そうであるから、常連の客であれば顔くらいは把握しているはずなのだ。だが、いくら記憶を辿っても今目の前にいる男の顔は浮かんでこない。

「親父さんのことは気の毒だったね」

茶を啜りながら男は言う。司は男の言葉に一瞬硬直した。そして「えぇ」と言い、小さな声で「馬鹿な親父です」と付け加えた。

司の父親、飯尾光寿は宮城県石巻市の海辺で見つかった。

発見時点で死後数週間。皮膚は灰色に近い白の部分と黄色と赤と黒の斑模様のようになっている部分に別れていた。全身は酷い臭いのするガスによって膨れ上がり、細身で肋が浮いてすらいた生前の姿とは似ても似つかない。髪は全て抜け落ち、口から膨れ上がった舌が漏れ、両方の眼窩からはふやけて破れた袋のようなものが飛び出していた。警察が言うところによれば水死体の顔は崩れやすく、眼球は蟹やら魚に食われて破れたのだろうという。司の父親の捜索願いは何週間も前に提出されていて警察もそれを把握していたが、死体は腐乱が激しかったこともあり身元は歯型で特定された。警察は泥酔して歩いている内に海に転落して溺死したのだろうと判断した。腐敗は進行していたものの、体内からアルコールが検出されたためだった。

司の父親の葬式はこじんまりとしたものだった。あまり人付き合いが良かった方でも無く、近所に住む昔の客が何人か来たくらいだった。飯尾寿司の板前だった彼は仕事には熱心で評判はそこそこ良かったが、それ故か家庭のことにはまるで無頓着だった。司がまだ小さい頃に、母親はそんな父親に愛想をつかして出ていってしまったらしかった。口数は少なく、そのくせに頑固だった。そんな父親だったが、彼は彼なりに司に愛情を注いでいた。司は母親の顔もあまり覚えていない。兄弟もおらず、家族といえるのは父親だけだった。仕事の場では厳しかった父だったが、誰よりも身近で父親の姿を見てきたからこそ父親の不器用な愛情をよく理解していた。真面目で職人気質な父親を知っているからこそ、酒に酔って呆気なく死に、醜く腐り果てた事が悔しく、腹立たしかった。

「本当に、馬鹿な親父です」

司は泡の流れていく排水溝をぼうっと眺めながら先程よりも少しだけ強く言った。自然に食器を洗う手に力が篭もる。司の言葉を聞いた男は、ただ黙って湯呑みを置く。寿司下駄の上に乗った最後の一貫を手に取り、口に放り込む。彼は味わうように大トロを咀嚼していたが、その目はどこか憂いを帯びていた。二人の間に沈黙が訪れる。店内には水の流れる音と時計の秒針が刻むかちかちという等間隔な音が響いていた。そのどちらもいつも聞き慣れているはずの音だというのに、何故かこの時は司をどこか落ち着かせない気持ちにさせた。

「大将はさ、スシブレードって知ってるかい」

男が沈黙を破って口を開く。あまりに突拍子もない発言に司は思わず「え?」と漏らした。司はスシブレードを知ってはいたが、それは子供向けのアニメや玩具の話だ。司は男が突然スシブレードの話を始めた意図がまるで分からなかった。司はおちょこを濯ぎながら「玩具やマンガのスシブレードですか」と口にした。

「いや、ホンモノのスシブレードさ。コンクリートをも粉砕し、肉を潰し骨を砕きうる」

司はますます意味が分からなくなった。男の言葉はどこか支離滅裂にすら思え、司は少し困惑した。酒を飲んで酔っているのかもしれない。目に見えて酔っぱらっている様子は見られないが、酔いの回り方は人それぞれだ。たらふく飲んでから2軒目にとこの店に来る客もいる。そういう客がよく分からない事を口走ることはままあるのだ。食器を洗い終えた司は「お客さん、相当飲まれましたね」と言ってカウンターの方に振り向いた。

そこに男の姿は無かった。カウンターの上には寿司下駄と小皿、そして男が飲んでいた湯呑みが置かれている。まさか、と思い司は出入り口の扉を見た。磨りガラスの扉の向こうに人の姿は見当たらず、街灯の弱い灯りがぼんやりと見えるだけだった。いつ出ていったのか全く気が付かなかった。席を立つ音も無ければ扉を開閉する音もなかった。まるで狐につままれたかのような、そのような気分になった。一瞬食い逃げを疑ったがカウンターを見ると、そこにはあの男が飲み食いした分の金が置かれていた。司は何が起こったのか飲み込めなかったが、客の残した金を放置する訳にもいかず会計作業を始めた。男の残した金を手に取った。するとそこから名刺のような小さな白い長方形の紙が現れた。紙幣の下に隠すように置かれていたその紙の中央にはボールペンで渦巻きが書かれている。

司がそのカードを手に取り裏返すと、そこには手書きの文章が書かれていた。






『あなたの父親は何者かに殺された』

『真実を知るために全てを捨てる覚悟があるのなら明後日午前2時 宮城県仙台市皆川公園へ』






司は出入り口を勢いよく開け、外へと飛び出した。左右を見ても、あるいは後ろを振り返ってみても。司の目にうつるのは暗闇と街灯、そして道路を通り過ぎていく車のヘッドライトの明かりだけだった。司は暗闇に目を凝らし、辺りを見回しながら男の顔を思い出そうとした。だが、何故か男の顔の記憶が頭から抜け落ちていた。先程まで目の前にいたはずの男の顔を何も思い出せない。まるで、顔が無い人間を相手にしていたかのようだった。司は自らの記憶を疑い、そして目の前にいたはずの男の姿を思い描こうとした。だが、やはり上手くいかない。司は自分でも言いようのない不安に駆られた。

「あんた、あんた一体なんなんだ。どこの誰なんだあんたは」

司は叫んだ。しかし返る声は無い。暗闇に向かって声を上げるその様は傍から見れば滑稽なものだったが、今の司にはそんな事を気にする余裕はなかった。何も答えない暗闇を前に、司は手に握ったカードを見下ろした。






「もうすぐ着きますよ」

前方から聞こえてきた声を聞いて、司は緊張を覚えた。頭に被せられた黒い布袋のせいで周囲を窺い知ることは出来ないが、車に乗せられてから今までにそれなりの距離を移動してきたことだけは理解できていた。自分の身が得体の知れぬ何かに巻き込まれているのは確かだった。だが、そのことについては既に覚悟を決めている。

顔の無い男からのメッセージを受け取った次の日、司は店を休業して仙台市へと向かった。彼は覚悟を決めたのだった。指定された午前2時に仙台市内の皆川公園で待っていると、男が現れた。黒いジャンパーを羽織り、覆面を被ったその男はただ一言「飯尾司さんですね」と言った。司が頷くと、男は彼の頭に黒い袋を被せ車に乗せたのだ。自らの置かれた明らかに異常な状況に司は強い恐怖と不安を抱いていたが、後悔は微塵も感じていなかった。

車が止まり、前方から「着きました」という声が聞こえる。同時に車のドアが開かれ、誰かの手が司の手を掴んだ。手を引かれるがままに車から降りると、袋の中に微かに海の臭いと波の音が流れ込んできた。両脇にいる誰かに肩と腕を掴まれる。そしてそのままどこかへと向かって移動をはじめた。両脇の二人は司をしっかりと掴んではいるが決して乱暴に扱うことはせず、あくまでも司の歩調に合わせているようだった。足を踏み出す度に司の頭の中では様々な考えが浮かんでは消えを繰り返す。誰が何のために自分を呼んだのか。なぜこのような回りくどい方法で接触してきたのか。あのメッセージの内容が事実だとして、なぜ父親は殺されたのか。真実とはなんなのか。いくつもの疑問が浮かびあがり、そして答えを見つける前に他の考えに押し流されていく。

程なくして両脇の二人の歩みが止まる。微かに前方から司の目の前を先導していたであろう男の声が聞こえてくる。何を言っているのかは分からないが、小声で誰かと話しているようだった。男の声が止まると共に、目の前からがたがたという大きな音と金属同士が擦れ合うような耳障りな音が発せられる。司は真っ暗な袋の中で顔を顰めながら、大きな金属製の扉が重い音を立てて開かれている様子を想像した。

「足元に気をつけてください」

先導していた男がそう言うと、両脇の二人が司の体を導く。それに従って何歩か進むと今度は背後から先程の扉が閉じられる音がした。がしゃん、という扉が完全に閉じられた重い音が響き渡る。司は、自分のことが今まさに処刑場へと連れて行かれている囚人のように思えていた。男たちに連れられほんの少しだけ進むと、再び立ち止まった。同時に両肩と腕を掴んでいた手が離れていく。少しの沈黙の後、先導していた男が再び口を開いた。

「飯尾司さん。 あなたはこれから到底信じられないような物を見たり、聞いたりすることになると思います。」

「覚悟ができていないのなら首を横に振ってください。私たちはあなたをあの公園に送り返す準備が出来ています。もしも覚悟ができているのであれば袋を取ってください」

司は僅かに躊躇した。ここで袋を取ればもう後戻りはできなくなるのかもしれない。しばしの沈黙を経た後、司は黙って手を袋に伸ばした。自分がどんな場所に到着させられているのかは皆目検討もつかない。もしかしたら自分は想像もつかないような恐ろしい状況の最中に置かれているのかもしれない。それでもここまで来たのはあそこに書いてあったことを───真実を知るためだ。その真実とやらが信用に足るものなのか、単なる空言なのか、はたまた悪意ある虚偽なのか、それを確かめる。その覚悟はできている。司はゆっくりと袋を握る手に力を込め、頭に被せられた布袋を取り去った。数時間ぶりに外界へと露出した目に電灯の光が差し込んでくる。微かに痛みを感じながらゆっくりと目を開け辺りを見渡す。そこは汚らしい廃墟のような部屋だった。ところどころに亀裂が見えるコンクリートの剥き出しの壁に囲まれ、剥き出しの電球がぶら下がっている。割れた窓にはブルーシートがかけられ、その隙間からは潮の匂いのする風が吹き込んでいた。コンクリートが剥き出しになった床には、足下の錆び付いた鉄くずやガラス片が散乱している。そこかしこに配管が走っているところを見るに、ここは廃工場か何からしかった。

「はじめまして飯尾司さん」

声のした方を向くとそこには背の高い男が立っていた。その男の周りにいる五人は、みな司をここまで導いた男と同じような黒いジャンパーに身を包んでいる。

「先程は手荒な真似をしてすみませんでした」

一人の男が口を開く。茶髪のアップバングの若いその男の声は、まさに司をここまで導いた男のものだった。彼の言葉に長身の男が「そういうルールなんです」と付け加える。

「この紙を、この紙を頼りに俺は来ました」

司はポケットからあの紙を取り出し男たちの前に翳した。男たちは表情を変えることなくそのカードを見ていた。

「真実とは一体なんなんですか」

司が問いかける。しばしの沈黙を経て、長身の男は司の目をまっすぐ見つめて言った。

「あなたの父親は何者かに殺された」

彼は紙に書かれたメッセージと同じ言葉を口にした。男の言葉が室内に重く響いた。司はごくりと唾を飲み込む。その様子を見た男が続ける。

「あなたはそれを、ある男から受け取ったはずです。あの───」

「"顔の無い男"から」

"顔の無い男"。その言葉が指し示すのは間違いなく顔を思い出すことが出来ないあの男のことだろう。司は目の前の男の顔を凝視したまま黙って頷いた。司の周りにいる他の五人は一様に沈黙を続けていた。ただ全員が司の事を真っ直ぐに見つめている。どこかから風の吹く音と波の音が聞こえてくる以外何も聞こえない、奇妙な空間が出来上がっていた。その静寂を破るように一人の女が口を開く。

「私たちは皆、あの男の人に集められた」

「彼の正体は私達も分からない。ただあの男の接触を受けた私達はみな、彼に陰謀めいた真実が背景に存在することを伝えられている」

その場にいた全員がただ黙って頷いていた。女の言うように彼らはみな"顔の無い男"に集められたらしかった。

「…我々はある組織を追いかけています。その組織は、恐らく我々の追い求める真実に共通して関わっている。そして飯尾司さんのお父様の死にも彼らは関わっている。闇に葬られた真実は彼らが握っています」

長身の男が言う。

「闇寿司。それが彼らの名です」

「闇寿司……?」

司がそう聞き返すと、一人の男が声を出した。

「超常的なスシブレード技術を用いて反社会的活動を行う集団。…近年裏社会で勢力を伸ばしていて、様々な犯罪の背後に彼らの存在が見え隠れしている。ヤクザよりタチの悪い、頭のおかしい性格異常者の集団です」

図体の大きいその男は、吐き捨てるようにそう言った。その端々に窺える闇寿司という組織に対する強烈な嫌悪感は、それが嘘ではないことを如実に物語っていた。その闇寿司というのが彼にとっての敵であり忌むべき存在であることが感じられた。だがやはり、その発言は司にとっては聞き覚えのないものばかりだった。スシブレード。これはあの"顔の無い男"も口にしていた。だが司の知るスシブレードというものはやはりアニメや玩具、スポーツに過ぎない。「超常的な」とはつまりどう言うことだろうか。司が困惑していることに気がついたのか、五人のうちの一人───中年の男が口を開いた。

「まずスシブレードについてはホンモノを見せた方が早いんじゃないかな」

彼がそう言うと、髪の明るい女が部屋の隅に置かれていたクーラーボックスを手に取った。中年男はそれを受け取ると、クーラーボックスの中に手を突っ込んだ。クーラーボックスの中には酢飯と複数の魚の切り身が入っていた。彼は酢飯を慣れた手つきで整形し、あっという間にサーモンの握りが出来上がった。シャリには力を込めすぎず、形を保ちながらもふわりとしている。現役の板前である司から見ても、その様子はとても精錬されていた。

「よく見てなよ」

目を丸くしている司の耳元で髪の明るい女が言う。突然寿司を握りだして何をするつもりなのか。司の困惑はますます強まっていた。そんな彼を横目に中年男は割り箸を口にくわえて割ると寿司を挟み、湯呑みを持った手を振り上げた。

「3, 2, 1」

湯呑みが箸に打ち付けられる。プラスチックの湯呑みが木製の割り箸に衝突しただけであるにも関わらず、何かが爆ぜるような激しい打撃音が発生する。箸から落下したサーモンの握りは明らかに自由落下とは思えない速度で地面へと打ち出された。

「な、これは」

司の目の前で信じ難い光景が繰り広げられる。たった今目の前で握られたサーモンの握りが、コンクリートの上で動き回っていた。先程まで確かに柔らかい酢飯の集合体と魚の切り身であったはずのそれが、まるで金属製のベーゴマのように高速で回転している。いや、その様相はベーゴマなどという玩具の域を遥かに超えていた。サーモンはコンクリートを削り、床に白い傷の軌跡が走る。ぐるぐると回りながら地面を削るサーモンが司やほかのメンバー達の足元を走り回る。各々の脚の近くを通過する度に、風圧がズボンを揺らす。サーモンが床に置かれていたブリキ缶にぶつかるがそれでも軌道一つ変わることすらない。それどころかたった一度衝突しただけでブリキ缶はめちゃくちゃな金属の塊に成り果てた。

「もちろん手品じゃない」

驚きのあまり言葉を失っている司に長身の男が言う。司はその光景を目撃したことであの男の言っていた「コンクリートをも粉砕し、肉を潰し骨を砕きうる」という言葉の意味を、ホンモノのスシブレードという言葉の意味を理解した。スポーツでも、玩具でもない。強力な「技術」としてのスシブレードがそこにはあった。

「スシブレードには正道と邪道が存在します。正道はスシブレードでの真っ当な戦いに固執する。邪道は…闇寿司は、正道と違って手段を選ばない」

「彼らは殺人すらも厭わない」

中年男は足元で急速に回転を減衰していくサーモンの握りを拾い上げながら言った。彼の手の内に戻ったサーモンは、射出される前と同じただの握り寿司に戻っていた。

「あ、あなた達は一体何者なんですか?」

司はそう言った。彼の心情は驚愕と緊張に満ちていたが、ここに連れてこられている時に感じていた巨大な恐怖と不安は最早微塵も残されていなかった。眼前の長身の男は司の目をまっすぐに見つめて答えた。

「正道でも邪道でもない。あらゆる手を尽くしてただ闇寿司壊滅だけを、真実の追求のみを目的とする反闇寿司非正道組織。名前は───」

「メイルストロム」

「メイルストロム…」

司は長身の男の言葉を反復する。渦を巻き、激しく流れる潮流。回転を超え、全てを巻き込んで尽く破壊する大渦潮。その名を冠するこの組織は、目的遂行の為であればなりふり構わない。あらゆる手を尽くして目的を遂行する。例えそれが、道を逸れることになろうとも。

「"顔の無い男"があなたに俺たちの事を教えたのには意図があるはずです。だから俺たちは、あなたに一緒に戦ってもらいたい」

「断ったら?」

司は茶髪の男にそう答えた。司の脳裏には「あらゆる手を尽くす」という長身の男の言葉がちらついていた。その言いようからして非合法な活動をしていることは間違いないだろう。図体の大きい男が目配せをする。すると、黒髪の女がポケットからプラスチックのケースを取り出した。半透明のケースの中では錠剤がじゃらじゃらと音を立てている。彼女は蓋を開け、中から一粒の白い錠剤を手に取って司の目の前に差し出した。

「これはベゲタミンという強力な睡眠薬。今は流通してないけど安心して。毒じゃないから」

司は彼女からその錠剤を受け取る。親指と人差し指の間に挟まれた白い錠剤を、司はまじまじと見つめた。

「あなたにお伝えしたことが我々の知りうることの全てです。…あなたがもしこの眼前に広がる暗黒から目を背けるというのなら我々はそれを引き留めません」

「彼女が言ったようにその薬は強力です。飲めば意識を失い、次あなたが目を覚ました時にはあの公園にいることになるでしょう」

「それでも───」

長身の男が全てを言い切る前に司は錠剤を床に落とし、そして踏みつけた。靴の下でばきばきと錠剤が砕けていく。司はその音を聞きながら靴底を床に擦りつけ続けた。その場にいた全員がその様子を静かに見ていた。彼は自身の中に渦巻く不安や疑念を粉砕するかの如く、踏みつける足に力を込めた。錠剤が完全な粉末と化し、砕ける感触が無くなる頃には、彼の中の覚悟は揺るぎないものへとなっていた。






火のついた煙草の先端から細い煙が昇っていた。男は手を口元へと運び、くわえていた煙草を人差し指と中指に挟んだ。運転の車窓から外に向かい息を大きく吐く。街灯の灯りを受け、暗闇に煙が白く光った。

「念の為にもう一度確認しておきます」

後部座席の女が言う。男はスマートフォンの画面に照らされる白い彼女の顔をミラー越しにちらりと見た。彼女の黒い髪と黒いジャンパーとが相まってまるで暗闇の中に顔だけが浮いているようにも見えた。

「阪原励。31歳男性。大手証券会社のSVM証券のトレーダーだったが二年前に妻が失踪。単身妻の行方を追いかけていたがその過程で闇寿司絡みの「何か」に触れて半殺しにされる…それから今日に至るまでは酒浸りの生活」

「以上が今回"顔の無い男"が持ってきた情報」

彼女はそれを読み上げると、スマートフォンの明かりを落とした。車内が再び暗闇に包まれる。女の隣に座っていた若い男はドアに体を寄せると、車窓から暗い外を覗いた。彼の視線の先にある公園には弱々しい街灯の明かりに照らされた男の姿があった。彼はベンチに腰掛け、手に持った何かを見下ろしている。

「彼、ついてきてくれますかね」

若い男は公園の男を眺めたままそう言った。運転席の男は煙草を吸いながら公園の方を見た。そこのベンチに腰掛けている男の姿を眺めながら、彼は自分があそこにいた日の時のことを思い出した。奇妙な男から与えられた、奇妙なメッセージ。得体の知れない出来事の中心に自分が置かれているという状況がもたらす不安と緊張は相当のものだった。あの男も、恐らく同じ類の感情を抱いているのだろうと彼は思った。

「どうだろう」

「まぁ、彼の覚悟次第だよ」

男はそう言うと、肺に溜め込んだ煙を吐きだした。

「司。そろそろ」

後部座席の女が言う。男が車内時計を見ると時刻は01:59を示していた。彼は煙草をドリンクホルダーの灰皿に押し付けて消すと、助手席から黒い布袋と目出し帽を掴んだ。

「それじゃあ司さん。手筈通りに」

司はミラー越しに若い男の方を見て頷いた。目出し帽とジャンパーのフードを被り、運転席のドアを開ける。司は後部座席を振り向き、「行ってくる」と言った。後部座席で女がひらひらと手を振って見せた。

「司さん、昨日横浜でドンパチしたばっかなんだし休んでていいのに」

闇に紛れていく司の後ろ姿を眺めながら男が言う。

「行きたいんじゃないの?」

「自分と重なるとこがあるんでしょ」

二人は司が車から降りて公園の方へと歩いて行くのを見送った。






公園のベンチに腰掛けていた阪原励は手に持ったカードを見下ろしていた。

『真実を知るために全てを捨てる覚悟があるのなら明後日午前2時 宮城県仙台市皆川公園へ』

励はその文字を見下ろしながら、大きく跳ねる自分の心臓の音を聞いていた。妻が行方をくらましてから、彼は自分の持てる力の全てを使って妻の痕跡を追いかけた。だがそうして追いかけた果てに見つけたのは妻の姿ではなく、この世の暗部に蠢く強大な"何か"だった。得体の知れない連中に拉致され、数日間監禁された。激しい暴行の末、生と死の狭間に追いやられ「関わるな」とだけ言われて放逐された。それから今日に至るまで、彼はアルコール漬けの破滅的な生活を送ってきた。もう何も考えないように、自分の知ってしまった暗部から目をそらすために酒を浴び続けた。

だが、そんな日々の中に突然あの男が現れたのだ。顔の思い出せない、不気味な程に特徴の無い男。彼が置いていったカードに書かれた内容に従いここに来た。彼は、もう逃げることをやめた。今度こそ目の前の暗黒から目をそらすまいと心に決めていた。

「阪原さん、ですね」

背後からの声に励はベンチから立ち上がって振り向く。そこには黒いジャンパーと目出し帽を被った男が、闇に紛れるようにして立っていた。彼が「はい」と答えると、男は黒い布袋を差し出した。

「これを被ってください」

励はやや躊躇したが、意を決し男の指示に従って袋を被った。怖くないわけではない。不安がないわけではない。むしろその双方は今この瞬間も膨らみ続けている。だがそれでも彼は覚悟を決めたのだ。今度こそ目を背けないと、そう腹に決めたのだ。

肩で息をする励の手は、本人も気が付かないほどに小さく震えていた。司は彼の手を取り、その手を引いた。

「案内します。私達の拠点へ」





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