珠玉の一作、或いは陳腐表現を護るための酷評

珠玉の一作マグヌム・オプス、或いは陳腐表現クリシェを護るための酷評

暗い嵐の夜に、二人の男が洞窟の中に座っていた。彼らは焚火をじっと見つめ、外の藪の中を押し通る水の流れに耳を傾けていた。やがて、片方の男が、もう一人に話しかけた。

「俺に物語を聞かせてくれよ、フレッド」

斯くして、物語は始まった。

暗い嵐の夜に、二人の男が洞窟の中に立っていた。困惑し、放心しつつも、彼らは焚火をじっと見つめ、外の藪の中を押し通る水の流れに耳を傾けていた。やがて、片方の男が、もう一人に話しかけた。

「俺に物語を聞かせてくれよ、フレッド」

「でも-」

斯くして、物語は始まった。

暗い嵐の夜に、二人の男が洞窟の中に立っていた。片方が、自分の周囲で世界が形作られてゆく中で足を滑らせ、書きかけの雨水の中へ転落した。全身黒ずくめのもう一人は、焚火をじっと見つめ、最初の男の当惑した叫びに耳を傾けていた。何時間も過ぎたように思える間の後、彼は口を開いた。

「なぁ、フレッド、俺に物語を聞かせてくれないか?」

「僕はそんな-」

斯くして、物語は始まった。

暗い嵐の夜に、一人の男が土砂降りの雨を顔に受けつつ洞窟から走り出た。消えて久しい焚火の余燼が後ろから漂ってきて、首の後ろを刺した。

男は中途半端な発想や物語類型に躓きながらも、曲がりくねった山道を降りて行った。彼が細波立つ深い湖に辿り着いた時、背後から何かを踏み潰す足音が聞こえた。

「よう、フレッド」

追われる男が息を呑み、彼に近付く人影からは微かに紙の擦れる音がした。

「僕をどうするつもりだ?」

「俺が何を求めてるか知ってるはずだ。俺が望んでいるのはそれだけだ」 湖に近付くにつれて、追跡者の声は険しく、歪んだものになっていく。「俺に物語を聞かせてほしい」

斯くして、物語は始まった。

暗い嵐の夜に-
「嫌だ」

斯くして、物語は始まった。

暗い嵐の-
「嫌だ!」

斯くして、物語は始まった。

暗い-
「止めろ」

そしてフレッドは湖に身を投げた。

そしてフレッドの頭は洞窟の固い床にぶつかって割れた。

そしてフレッドは焚火で己が身を焼き尽くした。

そしてフレッドは自由になった。



博士は鼻梁を摘まんで、目の前の染みだらけの紙切れを見つめた。名案のように思えたのだが。“再帰的ストーリー展開による物語実体の収容”。不吉な敵対者も、完璧な舞台も考案していた。美しい物語になるはずだった。

椅子にもたれた彼の唇からは、心底からの溜め息が漏れた。この世界に正義が無いこと、それが本当の問題だった。物語の中でなら、それは上手く行くだろう。未知を収容するために奮闘し、幾層もの物語層を抜けてフレッドを追い詰め、最終的にフレッドは降伏し、善が悪に勝利する。この世界にそんな筋書きは無い。

勿論、一つの可能性を除けばだが…

彼はふと前に乗り出し、考えを巡らせ始めた。彼はメタフィクション的な実体についての物語を書いていた。複雑さを増し続ける物語の果てしないネットワークにSCP-423を幽閉できる何か。つまり、物語内の観点から見ると、筋書きはSCP-423を追い詰めていることになる。追跡 — それこそが 緊張を生み、避け得ない屈従が敵となる。

しかし、彼は何と愚かだったのだろう。彼は英雄を、人類の幸福のために戦える財団エージェントを登場させる代わりに、よりによって悍ましい悪役の物語を書いてしまったのだ。

雷鳴が外で轟き、博士は思わず飛び上がった。窓に走り寄ってカーテンを引き開ける。暗闇。冷や汗が額ににじむのと同時に、背後で床板の軋む音が聞こえた。床板? いや、床板ではない、床板など何処にもない。

石だ。硬く、湿っていて、とても、とても冷たい。

彼は肩に置かれる手を、耳元に囁きかける声を感じる。

「やぁ、先生」

悪に対する善の勝利は手垢の付いたお約束だが、依然としてそこにある。陳腐表現クリシェがそう呼ばれるのには理由があるのではなかったか?

「僕だよ、先生。フレッドだ。一つ訊きたいことがある」

凍り付いたような時間の中で、二人の男、書く者と書かれる者は、焚火をじっと見つめていた。

「僕に物語を聞かせてくれないか?」

斯くして、物語は始まった。

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