彼女の墓への目印に
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前原博士が死んだ。

前原博士は実験中に起きた不測の事態により、人かどうかも分からない程に四散して死んだ。実にありふれた死因だったので、誰も驚きはしなかった。ただ、前原博士の運が悪かっただけ。1人の人間が死んだ程度で職務が滞るほど、財団は落ちぶれていない。だから、殆どの職員は彼女の死を気にしなかった。

彼女は生前「米国の巨大トカゲとタイマンを張れる」とか、またあるとき「機動部隊に紛れて危険な作戦に従事し、彼女だけが無傷で帰ってきた」とか口々に言われていた。そういうことを言う職員は総じて、彼女の訃報を聞いて、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。彼女が不死身でないことを、彼らは知らなかったのだろうか。

前原博士と親交の厚かった少数の職員だけは、彼女の死を嘆き苦しんだ。前原博士の多くの業績のため、職員としては異例となる葬式が開かれた。弔辞を述べたのは、誰だったか。たぶん、男性だった。一部職員のような目立つ格好ではなく、声や話し方にも特徴がなかったので、あの場にいた殆どの職員の記憶には残らなかっただろう。

思えば、彼女も外面は普通だったような気がする。肌の色、瞳の色、鼻の形、目の大きさ、声の高さ、話し方、背丈。そのどれもが普遍的だったような。そう思えるのは、財団という非日常が引き起こす錯覚だろうか。ただ、可笑しいほどに膂力が強かった。それこそが彼女の最大のアイデンティティだった。でも、そんなものは死んでしまえば何の目印にもならない。

どうしようもないくらい、人間は脆い。事実、ほんの一瞬の不運の結果、最期の言葉すら記録されることなく、彼女は死んだ。まだ飲みかけの酒瓶が大量に残っているというのに。この処理の仕方すら私は、何も教えてもらっていないのに。でも、たぶん、彼女は酒が大好きだから、勝手に捨てたら怒るだろう。だから私は、その内の1つを手に取った。


暫く後、共同墓地の一角の、彼女の墓前に私は居た。彼女の墓前には、たった一本の汚れた酒瓶だけが置かれていた。私が置いたのだ。いつ置いたかは思い出せない。彼女の声も思い出せない。顔も、肌のぬくもりも、いつか交わした言の葉も、思い出せない。彼女の記憶は何処に置いてきてしまったのか。

ただ、墓に刻まれた文字と私の姓だけが、私と彼女の関係を静かに示していた。代り映えしない、林立した墓石の中のたった1つ。きっと目印がなければ、私は彼女の墓の場所さえ忘れるだろう。だから私は、持ってきた酒瓶を墓前に置いた。私の愛した人への目印に。

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