エージェント・速水
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エージェント速水の話をしよう。

20██年██月██日-████県██████市
深夜26時30分。 丑三つ時にそれは起きた。
要注意団体東弊重工。奇妙なオブジェクトを作りだす謎の組織。奇妙、というのはもちろんこの世にあらざる物という意味だ。
彼らの作り出したものはどれもこれも、物理法則の類を無視したものばかりだ。逆に言えばそれは世界を変える素晴らしい発明とも言える。
しかし彼らはそれを人のために役立てようとは思っていないらしい。決定的に、論理感や価値観があまりにも歪なのだ。
中には明らかに人間や環境に害を与えるものも存在する。だとしたら彼ら、財団の出番だ

そして財団は彼らの居場所を特定し、数十人の確保チームと、エージェントと博士とを送り込んだ。
このがらんどうの廃工場に。
結果としてはほとんど空振りに終わった。彼らが残したのは奇妙なコインロッカー状のSCPオブジェクトがひとつ。それだけだった。

すでに確保チームは引き上げ作業に入り、作戦に同行していた前原博士とエージェント餅月も眠そうな顔で撤収作業をしていた。
全身を財団特製の各種レーダーと耐衝撃材で固めたライダースーツを着込んだエージェント・速水は手持ち無沙汰にそこらを徘徊していた。
スーツを脱がないのは、ただ単にこれがお気に入りの格好だからだ。
エージェント・速水は今回のチームで最も若い、新米のメンバーだ。現場に慣れていない彼は自ら仕事を見つける事に慣れていない。なのでそこらをぶらついていた。
「んだよ、バリバリバリーって撃ち合うのかと思ってたのによ。」手にしていたグロックを腰のホルスターに収めてひとりごちるとふと工場の隅に目が向いた。
工場の半分はまだ照明がついておらず暗闇のままだ。自分以外にも数人のエージェントがそこらをライトで照らしている。
意味のある行為ではない。だがそこに何かが蠢き、自分達を見ているような気がしていた。
妙な高揚感を覚えつつエージェント・速水は一人、暗闇の中へ入っていく。ライトを向けた場所だけが別の世界の様に照らされる。
散らばる工具類や大きな旋盤類はどれもこれも古めかしいが、意外なことに埃一つなく視界は悪くなかった。
180ルーメンのハンドライトが工場の隅の一角を写す。黒光りする鋭角なシルエット。ああ、そうか俺はこいつに呼ばれたんだ。なぜか速水はそう思った。

黒曜石を思わせる黒いボディ。美しかった。まるで漆黒の魚雷の様な先進的なデザインの、愛しの自動二輪。
休日には一日バイクのカタログを見ながら過ごす彼も見たことの無いマシンだった。東弊重工に関わりがある事はわかっていたがどうでもいい事だ。
スラリとしたボディを指で撫で、無数についたメーターに吐息を吹きかける。タンデム部に妙に突き出したベースセットがある所を見ると荷物の集配用か。
こんなに美しいバイクで集配が出来るなら日本中どこにだって喜んでぶっ飛んで行くのに。
気がついたら速水はクラッチを握っていた。驚いた事にキーが差しっぱなしだ。欲情した男特有の熱っぽさでアクセルを開ける。驚く程静かだ。重工のお嬢様は上品でらっしゃるらしい。
音を立てて無駄にエネルギーを使ってしまわないように設計されているのだ。

「おい、エージェント・速水!なにをやってる、すぐに降りろ!!」
スーツに角刈りのエージェントが怒鳴る。いつもなら速水は即座に萎縮して、へこへこと頭を垂れていた所だろう。だが「彼女」の前でそんな真似はできない。
今、俺はスピードを手に入れたんだ。気が付けばクラッチを繋ぎ、バイクは工場内を走り出していた。
「クソッ!全員退避!エージェント・速水が何かしらの影響を受けてる可能性がある!…でなけりゃ撃ち殺してやる所だ。おいっ!バイクを止めろ速水!死にたいのか!!」
しかし速水は止まらず、工場内をぐるぐると巡っている。固定された旋盤を乗り越え、エージェントや収容チーム達を散らしながら。
「あー!だめだっ、止まらない!ハンドルから!手が!離れないんだ!」
怒鳴り声に我に帰った速水は自分が置かれた異常な状態にようやく気がついた。ハンドルから手が離せない。シフトダウンができない。
まるで体が停止するためのプロセスを拒否しているかのようだった。そもそも、なぜ俺はこのバイクにまたがってしまったんだ。
「落ち着け速水、スピードを落とせるか?」
「だめです!ていうかむしろ速度上がってるよこれ!」
エージェントはため息を付いて頭をかきむしる、そこにイヤホン越しに気の抜けたような声が届いた。
「眠い」とエージェント餅月の声。
「Cクラスエージェント・速水が異常存在の影響を受けている。停めてあったバイクで工場内を走ってる、ハンドルから手が離れないらしい」
「撃ち殺せば?」
「許可が出るならそうしている」
無線はオープンな帯域を使っていた。やりとりは当然、エージェント・速水にも、ヘルメットに内蔵された装置越しに聞こえている。
「オイオイオイ!ふざけんなよ!ちくしょう! それより工場のドアを開けてくれ!もうこれ以上この狭い所は無理だ!速度が勝手に上がってきてるんだよ!!」
「待って、愛に殺していいか確認すらから…… あー、まぁそうよね 確保を最優先だって、そのバイクの」
「俺は!?」速水はほとんど泣き出しそうだった。


エージェント・速水は公道を走っていた。空はまだ暗いが特製スーツのおかげで少しも寒くない。それどころか精神がフラットになっていくのを感じている。
同時に興奮もしていた、シューティングゲームでステージの大ボスと戦っている時みたいなものだ。
速度はすでに時速64km、後ろからは一台のマイクロバスと数台のバイクがこれを追跡している。今頃、財団のデスク組みはたたき起こされ、対応に四苦八苦している事だろう。
対象オブジェクトの推測、対応策の割り出し、現地メディア及び公的機関への連絡、危機管理対策、ああ、なんてこった。
「エージェント速水、状況を整理するわ。できるわね?」無線機越しにも良く通る、前原博士の声。妙に無機質な響きなのは怒りをこらえているからだろう。
「は、はいっ! ええと自分はいま、バイク型の未確認オブジェクトに乗っています ハンドルから手が離れず、自分の意思に反してバイクは加速しています。」
「そうね それで、現状あなたがやるべき事はなに?」
「はい、これより████サーキットに向かいます 被害を最小限にするために!」
「よくできました」
「それでその、回収の方法はどのように…?」
「うるさい」
「すいませんでした」
速水は冷や汗をかきながらも真っ直ぐに目的地を目指した。途中ちょっとした峠を超えねばならない、最大の懸念はそこだ。
このまま進めばかなりの速度で入り組んだ峠道に突っ込む事になる。だが速水には自信があった。
俺の腕ならばヘマなどしない。このモンスターで峠最速を記録してやるぜ。
明け方の路面を踊るように速水は駆け抜けていく、速度計は時速72kmを示していた。まだこの程度はツーリング程度のものだ。

男というのは誰でもワルや正義の味方に憧れるものだ。ハイスクールに突然テロリストがやって来たら、かっこよくクラスメイトの女の子を助け出す。
空手の道場に通って修業を積んで、街中のチンピラどもを片っ端からやっつける。スーツにハットに二丁拳銃が俺のトレードマーク。
なにかきっかけさえあれば、ワルになる事に人生を捧げていたのに。
だが速水は財団と出会ってしまった。もう世界一のワルにも正義の味方にもなる必要はないのだ。
財団はおよそ想像しうるなかで世界最高のワルで、そして正義の味方だ。その存在は決して揺るぐことはない。
そうだ、俺にはこのくらいのワルでいるのがちょうど良い。自分にできることをやるべきだ。
俺に出来る事。そうだ、こんな化物バイクを乗りこなす事が他の誰にできるってんだ。

徐々に東の空が明るくなり始めていた、道は平坦で整備された公道から、徐々に人気のない山道へと移っていく。
今頃、予想進路を封鎖するために無数の人員が動いている事だろう。速水は言いようの無い全能感に支配されつつあった。
見ていろよ、このクソ峠を俺は最高のスピードで突っ込んでいってやるぜ。
果たしてその思いが通じたのか、バイクの後部から奇妙な振動が伝わって来た。何かがやばい。そう感じた次の瞬間、エキゾーストパイプから猛烈な排気がなされた。
バイクの速度は急激にあがり、一気に90km台を示す。
「今の、なんだよ!」
明らかにまともじゃないバイクの挙動に急激に現実へと戻された。道はすでに峠の入口だ、もはや引き返す事はできない。
視界にちらりと、誰かが寄贈した小さな道祖神が見えた。ああ、神様、まだそちらには行きたくありません。
もはやこの速度に追随できる者はいなかった。この速度のままワインディングロードへ突っ込むなど自殺性癖以外の何ものでもない。
「イイイイッッヤァアアー!!!!!!」
雄叫びをあげ、火花を散らしつつ、ヘアピンカーブを鋭角に曲がる。ほとんど体を横倒しにして、猛烈なGに耐える。財団ライダースーツは実に役に立つ。
鋭い低音を響かせ、アップダウンの激しい道を駆け抜ける。幸いなことに財団の封鎖が功を奏し、対向車はいない。
誰もいない明け方の峠道を世界で一番イカレたバイクで駆け抜ける。しかもペンタゴンも命乞いする世界最強の組織のバックアップ付きだ。これほどのスリルと贅沢はもう二度と味わう事はできないだろう。

エージェント・速水の脳のシナプスが異常に活性化し、上がり続ける速度に反比例してその主観時間は鈍化していた。周りのものが全てゆっくりと、そしてはっきりと見える。
強烈なRのカーブでも、簡単に最適なコースが判断できた。スピード、スピード、スピード、スピード、スピード!男は口元が緩むのを隠せない。
しかし人生がいつもそうであるように、不測の事態は突然に、偶然に襲いかかるものだ。ダウンヒルの途中、鹿の親子が道の真ん中に立っていた。
猛烈な勢いで迫る漆黒のバイクを、金縛りにあったかのようにただ呆然と見ていた。
「っ!!」
速水は息を吸い込みそして止めた。黒い巨体の前輪が上がり、道から離れる。その時、速水の背中で小さな爆発音が鳴った。
速水は空中を飛んでいた。排気口からは炎が出ている。それもアセチレンバーナーのような凄まじい勢いで。途端にバイクは空中でさらに加速した。
つまりこのバイクはロケットとのハイブリッド仕様だったという訳だ。なるほど、クールだね。
速水は15秒間滞空し、いくつかのカーブと木々の間を乗り越え、着地した。もうすこし角度と速度がでいればそのまま世界初のロケットバイカーとして空の彼方に消えたのだろうか。
時速142Km。峠の出口まであと5分。


「それで、俺に協力しろって?」
「ええ、お願いよ 事態は一刻を争うのよ 他に良い方法はないわ 時間が無いのよ!」
「ヘリか何かで釣り上げるとか…」
「そのつもりだったけど、それも無理になったわ あのバイク、今はロケット推進で走ってるのよ」
「次はラムエンジンか、核融合か?それでどうにかなるっていうのかい?」
「うまくいくはずよ 見殺しにするよりずっとマシだわ 私だってこんな真似したくないわ でも正規に手続きなんかしてたら間に合わないの」
「あぁ…くそっ! いっこ貸しだぞ前原」
「ええ、貴方の副業の事 黙っておいてあげるわ」

20██年██月██日-████ サイト-810█ 街を見下ろす上層階で言い争う二人がいた。
エージェント・差前と前原博士だ。ゆったりした白衣を着た前原は日本人女性としては背が高く、差前よりも一回りも大きく見える。
「まった なんで俺がそんなガキ一人のために…」
「SCPのためでしょ 放っておいたらどんどん面倒になるわ」
差前は手でこめかみを押さえ、前原に背を向けた。ややくたびれたポールスミスのコートからカチャカチャと金属音が鳴る。
「なんやぁ、なにしてはるんお二人さん?」
そこに現れたのは世にも奇妙な空飛ぶ水槽。その中には一匹の爬虫類。彼こそがエージェント・カナヘビ。れっきとした財団職員。
「ああ、ちょうど良かったカナヘビ お前も巻き込んでやるぜ」
「ちょ、ちょ、まってや! うわー、めっさ悪い予感しかせぇんのやけど!」
そう言って上階へと続くドアへ向かった時にはすでに女の姿はなかった。


速水はまだ山道に居た。本来あるべきコースを大きく外れてしまった。しかしこのまま入り組んだ山道を走り続けるわけにはいかない。
エージェント・餅月は表情を崩さぬまま速水のナビゲートを続けていた。彼女の超常的なほどの無感情さはかえって現場を安心させる効果がある。
山道への出口に先回りした餅月率いる確保チームはトレーラーで待機していた。さらにその後方で警察に偽装した部隊が一般人を阻んでいた。
本物の警察達はこの事態に一切関与する事は無い。絶対に。
封鎖を続ける偽警官の前にけたたましい音を上げるバイクの一団現れた。地元の暴走族である「ヘル・ネイション」は武闘派で鳴らすグループだ。
あちこちで行われている突然の検問と封鎖に彼らは苛立っていた。まだティーンエイジである彼らは権力や抑圧への闘争心だけをひたすらに昂ぶらせていた。
「あんだよ、これよぉ!聞いてねぇぞこれよぉ!これぇ!」若者の一人がしゃがれた声をあげる。
「っかしいだろ、事故で封鎖とかよぉ!どこで事故あったんだよぉ!」
「だいたいお前ら何処の奴等よ、みんなしらねぇ顔だぜ!」
数台の偽パトカーとカラーコーンで封鎖された区域の前で、数十人の若者と財団が用意した偽警官たちは睨み合っていた。暴走族の中の一人が携帯電話を折りたたみ、周囲の者に話す。
「ケンちゃんとこの兄貴、警官だったろ?聞いてみたけど事故とかしらねってよ」
「じゃぁなんだよこれよぉ! 峠攻めんだよぉ!」

「おい、お前ら いっちまうか?」「やろうぜ!」「マジ!」
モラトリアム期のエネルギーを凶暴性へと変換させた彼らの行動は酷く短絡的だった。甲高いバイクの騒音が威嚇するかのように強くなる。
彼らは一斉に封鎖中のパトカーの隙間を縫い、カラーコーンを蹴り飛ばしながら峠道へと侵入していった。何人かは取り押さえらるか断念したが半数近くが封鎖区域を突破していった。
「「「こちらKC-75A 封鎖区域に侵入者あり 地元の暴走団約15名です、そちらへ向かっています」」」
エージェント・餅月の乗ったトレーラーに通信が入った。
「んえ… 速水の到達までどのくらいだっけ?」
「約4分27秒」
「んまぁ間に合うか だめでもあいつ死ぬだけだし」
封鎖を突破し、意気揚々と峠への道を走る若者たち。彼らは突如、強烈なライトに照らされた。多く者はその場で急ブレーキをかけた上に玉突き事故を起こし、ある者はコントロールを失い転倒した。
ライトは巨大な黒塗りのトレーラーから投げかけられていた。その上から人影が右往左往する彼らを見下ろしている。暴走族からは逆光でよく見えない。
「っだおらぁ!なんなんだよこれよぉ!!」「眼がいてぇ!」「どけよてめぇ!」
「っ、お、おい… なんだよ、こいつら…」
哀れな暴走族たちの前に警防を手にした、黒塗りの防護服を着込んだ影が数人見える。その影は訓練を受けた財団の収容チームの者だが彼らには知るよしも無い。
「あー、あー、ぅ゛ん゛っ いけない君たちにはおしおきが必要だね 仕方ないね」
トレーラーの上の人影が拡声器で呼びかけた。少女のような声だった。声だけでなく、よく見ればその背格好も少女そのものだ。
人影がひらりとトレーラーから飛び降りる、その両手には折りたたみ式の警防が握られていた。
望月は両手をクロスさせた妙なポーズで暴走族を指し示す。それを合図に一斉に影が飛び掛っていったのだった。
それから3分35秒後、速水は照明をもって行儀よく一列に並ぶ暴走族の一団の脇を駆け抜けていった。


「よぉ、ドイツ・ブラジル戦の結果聞いたか?」ニコチン無配合の電子タバコをくわえたエージェント・差前が収容サイト屋上で警備員に話しかけた。
「いえ、まだ知りません… どうなったんですか?」
にやにやしながら差前は担いでいた半開きのボストンバックを置き、足で隅によける。そしてスマートフォンを取り出して警備員に見せる。
「そうだどっちが勝つか賭けないか?お前が選んでいいぜ。」
「へぇ、… んんん、じゃぁブラジルで」 「OK」
差前は巧みに警備員を屋上に特設された収容室から遠ざける、かつ、監視カメラから扉が自分の体で隠れるように立った。
「いいか、ここでトーマス・ミューラーがコーナーキックからの…」
「わお!すげぇ!綺麗に決めた!ちくしょう!」
二人は顔を寄せ合うようにしてスマートフォンの画面に魅入っている。だが差前の後ろに回した手にはいつのまにかカードキーが挟みこまれいる。当然、目の前の警備員からスリ盗ったものだ。
差前がカードを指から離す。そして地面に落ちる直前にカナヘビがカードを口でキャッチし、収容庫へと向った。
「ダメ押し!6点目だ!見ろ見ろ、今度はシュールレ!」
「ああ、もう見たくない… 全然動けてない…俺のワールドカップは終わったよもう…」
「まぁそう言うなよ、じゃぁ今度残念会だな、お前のおごりで」
「はぁ…」
頃合だ、差前はスマートフォンを胸元にしまい、足元のボストンバックを担いだ。少しだけ重くなったバックを。
「あ、差前さん」 警備員が声をかける。
「なんだよ」
「そのバックはなんです?」
「ああ、これから高飛びするんだよ」
言葉の真意を測りかねた警備員はあいまいに笑うとそれ以上の追求はしなかった。


エージェント・速水と彼のバイクは時速450kmで無給油のまま高速道路を走っていた。あまりにも速度が出すぎているため一般道は断念された。
上空からは一台のティルトローター機が速水を追っている。その中にはボストンバックを抱えた前原の姿があった。
財団による封鎖は間に合わず、道路上には一般車両が行き交っている。早朝であったのが不幸中の幸いか。
「速水、聞こえる?いい?あと45秒したら右側に工事中の道があるわ そこに入って」
「工事中?大丈夫なのかよそれ!」
「良いから言うとおりにして、私に考えがあるわ 道路の切れ目にヘリを待機させる そこからフックで…」
会話は前方から迫るトレーラーのクラクションにかき消された。あまりのバイクの速度に、併走してるはずの車がすべて対向車の様だ。そして前方、数キロメートルの所で大型のワンボックスカーが急に道を逸れ、後続車両に追突するのが見えた。アクシデントだ。
速水は乱れた車列を紙一重でかわし、火を上げる乗用車と中から転がり出た男の脇を狂った猫のような勢いで駆け抜ける。指示を受けていた分岐地点は……すでにはるかに過ぎていた。
「速水!通り過ぎたわよ!前!前!」
速見は目を見張った。
正面には大量の車の姿が見える。渋滞が起きているのだ。
声を上げる余裕は無い。速水は急角度で引き戻し、90度のターンを決めた。そして0.2秒後には高速道路を飛び出していた。
監視していた全員が息を飲んだ。機体の中で前原が。カメラからの映像を見ていた職員たちが。だれも瞬きもできなかった。
速水は飛び出したバイクを空中で制御し、ロケット噴射の推力で飛んでいた。少しでもバランスを崩せばあらぬ方向に向かいやがては墜落していただろう。しかし速水は天性のバランス感覚でこれを御し、無理やりに角度を変えてそして着地を果たした。
本来予定されていたコースである建設中の高速道路に。だがその先は行き止まりだ。数キロの距離をモンスターバイクは一瞬で駆け抜けてしまう。
「くっそぁ!予定通りだろ!お、おい道が無いぞ!」
「そのまま、もういっかい飛んで!」
次の瞬間、道路の切れ目からティルトローター機が浮上し、フックを下ろした。やるか死ぬかだ。
すべては一瞬。長い一瞬だ。速水はこれまでに無いほどに集中していた。生きるか死ぬかの瀬戸際に立ったとき、人は思っても見ない能力を発揮するものだ。速水には周りのすべてがスローに見えていた。
極限の集中がもたらした主観時間の鈍化。体中を脳内麻薬が走っていくのを感じた。タレ下げられたフックの始点には前原の姿があった、その手に何か小さいものを抱え、そこからフックが伸びている。
何かを叫んでいるようにも見えるがもはや耳には入らなかった。速水は頭を下げ、フックを頭上スレスレの位置でやり過ごす。
フックはバイクの後部についていた頑丈なループ状のベースセット部分にかかる。だがバイクはロケット噴射を続けており、それ自体に推力がある。ただ単にヘリに固定したフックで引っ掛けただけではバイクは暴れ、ヘリ共々墜落するはずだ。
しかしそうはならなかった。速水とバイクはフックからぶら下がった姿勢から動くことは無く、ゆっくりと25度の角度で飛行していった。フックの先はグレーの、鳥の模型のような物につながっていた。
「良かった… うまく行ったわね…」
「ま、前原博士、なんですかこいつは」
SCP-166-JPよ さて、そのバイクのハンドルを切断しようかしらね」
「もし切れなかったら?」
「腕を切るわ」
「勘弁してくださいよ…」
SCP-166-JPは常に時速4km弱の速度で空中を移動するSCPオブジェクトだ。この不細工な鳥の模型は外部からの干渉を一切無視してとび続ける。
そしてこれもまた東弊重工が生み出したと思われるオブジェクトである。皮肉な話だ。
へリからぶら下がった回収隊員はこの鳥の角度を調整しつつ宙釣りの速水とバイクを回収した。なんて事は無い、ただキーを回しただけでバイクは停止し、ハンドルから手も外すことができた。
バイクはその後、Anomalousアイテムとして登録され、事故の記憶も記録も全て抹消された。


「すいませんでしたっ!」
エージェント・速水は土下座したまま頭を上げることができなかった。事件後、前原をリーダーとした事故対策チームが結成された。
二週間にわたってチームは事件の隠蔽と再発防止や新たなプロトコルの作成、そして大量の書類作成に忙殺された。
もちろん、SCP-166-JPの無断持ち出しの件も追求された。
記憶処置の上解雇されてもおかしくなかったが哀れな暴走族以外に怪我人も無く比較的低い被害で済んだ事が幸いし、厳重注意だけで済んだ。
しかし完全に自分の失態によって引き起こされた事件であるだけに、速水にとってこの二週間は針の筵の気分だった。
「もう、顔を上げてよ 事件はとりあえず解決したんだから」
「で、でも自分のせいで、前原博士をはじめ、ほうぼうにご迷惑を」
「だから、もう終わった事なんだからいいってば」
「それにこれは俺のミスでもある お前を一人で行動させた俺のな」とエージェントD。
角刈りに刈り上げた髪と見るからに屈強そうな体をした彼は事件当時の現場リーダーだったのだ。
「そういう事よ」
頭を上げた速水は涙でゆがむ視界の先に微笑む前原博士の姿が映る。普段は人を遠ざけるような鋭い印象を与える女性博士が今は優しい姉のように見えた。
「前原博士…」彼は感涙しながらヘルメットを受け取った。ヘルメット?
「さ、泣いてないで、さっさと走行試験を始めるわよ」
「え?えぇ?そ、そうこう、しけん?」
「回収したバイクのよ とりあえず最高速度と航続距離の試験ね エンジンはリモートで切れるようにしてあるから安心して」
「Noooooooooo!!!!」
エージェント・速水の悲鳴がこだました。

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