ヒュミルの歌
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遥か昔、雷神は牛の頭を釣り針に付け海に垂らし、大蛇を釣り上げようとした。
大蛇は暴れ、岸には波が押し寄せた。 
大蛇と雷神は激しく戦い、周りの水は巻き上がった。雷神は大蛇の頭に槌を打ち付けたが
沈没を恐れた船乗りは針を外し、大蛇は再び海中へと戻った。


セクター-27は言わば巨大な介護施設だ。
たった一人の男のために三年の月日と途方も無い金をかけ、洋上の小さな島に設置されたそこには一人の人間が健康な生活を送るのに必要とするであろう、ありとあらゆる物資が考えられる限り用意されていた。
この上なく安全で、様々な自然災害や核攻撃にも耐える頑強なシェルターで、武装した兵士達に守られている。もし何か施設に少しでも異常があれば、即座に調査部隊が派遣されいかなる事態も終息するだろう。

彼は平凡な男だ。地方の大学をそこそこの成績で出て、普通の一般企業に就職した。
所謂オタク気質であった彼はご多分に漏れず、あまり異性との交流も無いまま20数年を過ごした中肉中背の普通の男である。
ではなぜ?

なぜ彼は核戦争に怯える指導者よろしく、この巨大な要塞に匿われているのだろうか?
彼は「財団」からSCP-094-JPの呼称で呼ばれる存在だ。彼の特異性について、研究者達は彼を「海洋人間」と渾名した。
彼の身体には海が流れていた。その血の中に魚達が群れを成す。彼が少し風邪を引いただけで現実の海で魚の大量死が起きる。
彼の死は、すなわち海の死。この星を覆う有機体の大半の死だ。それは少なくとも人類世界の滅亡に等しい。

「んー、今日はもう時間かな……?」男は椅子の上で身体を伸ばし、プリンタから出力された紙束を適当に放ると、反動を付けて立ち上がった。
白衣を着た色白の男、稲川は放り出された書類を確認する。なんのつもりか彼はいつもスタンガンを腰にぶら下げていた。
「あぁ、ちょっと待って██君。……こことここ。記号が間違ってる。…まぁいいか、残りは明日にしよう。」
██と呼ばれた男は笑みを浮かべ、肩を回してから部屋を後にした。彼こそがSCP-094-JP。この施設のスーパーVIPだ。
彼が特異性を見出され財団に確保されてからもう4年が経とうとしていた。
最初の半年の間は塞ぎこみ、脱走を図ろうとしていたが今は落ち着き、自分の境遇を理解し笑顔を見せるようになっていた。
彼には仕事が与えられ、その生活は保証されている。仕事は財団の運営に関わるものとされていたがそれはダミーでありさして意味の無い事であったがそれはさておく。

人間が一人、健康に生きていくという事はかくも多くのものが必要なのだろうか。
衣食住はもちろん、適度な運動、栄養管理、そして心の底から信頼できる友人。
人は弱い生き物だ。草木のようにただ生きているという事さえできない。
彼はここで新たな仕事と、その対価を得て暮らしている。対価は日本円で支払われ、施設の中において好きなものを購入する事ができた。
パナソニック製の高級髭剃りやアニメのブルーレイ、最新のキャラクターフィギュア、ちょっとした嗜好品などをある程度の範囲内で認められていた。
彼の嗜好や興味は徹底的に分析され、その傾向に基づく様々な報酬が与えられた。これは財団の方針としては格別な高待遇だ。何としてでも、彼は可能な限り健康な状態のまま延命させねば成らなかった。

「今日はジムの日でしたっけ、坂本さん?」青年は、自分の隣でメモを片手に歩く男へ話しかけた。
歳は30代に差し掛かったかどうかのあたり、彼に話しかけた青年よりはやや歳を取っているが背格好はほとんど変わらない。
「ああ、そうだったな。 あれ、結構きついんだよなぁ……」
「でも、おかげでだいぶ痩せましたよ。」
「ははは、良かったじゃんか。ここ来たばっかの頃よりずっと健康そうだぞ。」
「あの時はまぁ…… まだ慣れてなかったですし。魚食べれなくなったら嫌ですからね。」
「お前が魚アレルギーじゃなくて本当に良かったぜ。それより、今期のさぁ」
坂本は当然ながら財団の職員だ。青年、「海洋人間」の友人でありメンターでありボディーガードの一人だ。何人かいる「友人」の中でも一番仲が良く、頼られていた。

「昨日さ、母さんと電話許可をもらえただろ?それで……。」
「帰って来いとでも言われたか?」
ランニング姿の二人はジムでたっぷりとかいたを汗をスポーツ飲料で補充しながらベンチで休んでいた。
ベンチは角が無く、なるべく柔らかい素材が用意されている。ベンチだけではない、この施設の中で、「海洋人間」が歩き回れる範囲に存在する、あらゆる物がそうなっていた。
不意な事故で彼が傷つくことを避けるためだ。

「実は申請出してあるんだ。」
「え?」
「外出許可のな。受理控えも貰ってるから、正月は親御さんに会えるぞ。」
「ほんとに!?やった、ありがとう坂本さん!」
「ま、監視は付くだろうけどな。そうだ、何なら彼女役も用意するか?真子ちゃんあたりでさ。」
「ちょっとぉー、やめてよ坂本さーん!」
他愛もない、いつもの会話。だがその時、急に青年は顔をしかめ、片手の甲で背中を押さえはじめた。その顔が苦痛に歪む。
「おいどうした?」
「いや、背中が急に……」
「おい、またか?前にもあったな。」
「ええ、実はずっと前からだったんですが……なんかいつものより痛いような……」
坂本は大声をあげたりはしなかった。彼らの状態は24時間、常に監視されていて、必要とあらば瞬時に専門家達が駆けつけるのだ。だからわざわざ合図を送るような無駄な事はしない。
「よし、落ち着いたら、医務室に行こう。ちょうど明日は検診日だ。新しい機械が入ったらしいからそいつのテストも兼ねてきっちり検査しよう。」
「坂本さん。」
「ん?」
「ありがとう。」
「ハッ、なんだよ急に。」
「本当に母さんに会える?」
「ああ、約束するよ。」
その日、█████████諸島においてM7クラスの地震が観測された。


「それではこちらをご覧ください。」
セクター-27の一室。そこにはSCP-094-JPのためだけに集められた医療スタッフ達が顔を付きあわせていた。
プロジェクターには人間の断面図が写しだされていた。最新のMRI写真だ。人体のスライス写真を、医師たちは睨みつける。
「何故今までコレが見つからなかったのか……」医師の一人がつぶやく。
まるで蛇の化石の様に身体を縦に貫く太い骨。人間の運動や知覚を集め、無数の神経と血管からなる、コンピュータで言えばマザーボードのような部分だ。
技術者の一人が機械を操作すると、その背骨に絡みつくように伸びる長い白い影にハイライトされる。
「これがおそらく、SCP-094-JPが数ヶ月ごとに訴えている背部の痛みの原因であると思われます。そして驚くべき事に、これは動いています。」
「それで彼の背に痛みが。一体なんだこいつは、寄生虫か何かか?」
「少なくとも、今まで知られている種ではありません。」
「つまりこれはSCP-094-JP-1である可能性があるという事か?」
「そうだとしたら……途方もないサイズだ。そんなものは地球上に存在しない。」
「そんなことより、コレを摘出する方法を考えた方がいい。」
「彼の脊髄を傷つけずにコレを取り出すのは不可能に思える。運が良くて半身不随、さもなくば……。」

医学者たちの議論をよそに、博士の一人が食い入るようにMRI写真を見つめていた。
もしこれがSCP-094-JP-1だとしたら?今まで発見されたSCP-094-JP-1の実体のサイズは大きいものでもせいぜいが十数マイクロメートル、赤血球レベルのサイズだ。
だが、脊椎に複雑に絡みつくそれは目算で数メートル。1マイクロメートルを現実の1メートルとすれば、これはおよそ数千kmもの長さを持つ巨大な何かとなる。
「海洋人間」に定期的に起きる背中の痛み。長く、巨大な影。それが意味する可能性に、坂本博士は目を見開き、即座に財団データベースへの照会を試みた。


- 南緯██度██分、西経██度██分付近 -
████政府の海洋調査船「███」は異常な低周波をキャッチした。モニタリングしていた技術者は首をかしげ機器を揺すった。
「ファック!一体なんだコレは。故障か?」
「なんだ、どうしたオコーナー?」
「コレを見て下さいよ、教授。数値がめちゃくちゃだ。さっきからずっとなんです。」
眼鏡をずり上げた男は赤く染まる液晶モニターをボールペンで叩きながら言った。
「なんだコレは?一体どうなってる?」
「さぁ、センサーの故障じゃないとしたら、この辺りの海底がまるごと盛り上がってる事になりますね。地球がひっくりかえっちまう。」
「冗談を言ってる暇があったらさっさとなんとかしろ。……オイ待て、こりゃぁなんだ?」
初老の男は小さなブラウン管モニターを凝視した。それは海底数千メートルを範囲に収める強力な魚群探知機に繋がっている。
モニターには深さ数千メートルの海底、まるで蛇のように巨大なシルエットが鮮明に写しだされていた。


- 同刻、█████████列島 機動部隊ガンマ6司令部 ガンマ6-N -

基地内は恐ろしいほど整然と、冷酷に、破滅的数値が積み上がっていくのをカウントしていた。
その海域には地図に乗らない幾つかの島と、24時間体制で監視を続ける部隊が居た。
財団の職務は異常存在を収容し、人類から遠ざける事だ。だが「ソレ」は収容されてはいない。未来永劫に至っても「ソレ」は収容されないであろう。

「各国政府には?」
「いえ、まだ公表されてないようです。現在O5が召集され、議論しています。」
この海域における調査、監視を続けるガンマ6の隊員達は島の各所に設置された観測機器から海底データの収集を行っていた。
この海域の海底にはある巨大な物体が存在している。彼らが機器を設置しているこの島も、まるごとその巨体の背に乗っているほどだ。
「やはり、覚醒しているのでは無いかと思われます。移動には指向性が……」
「寝相が悪いだけだといいな。向かっている方向を特定しろ。危険可能性のある施設、領域をリストアップだ。」
「領域?全世界では?」

SCP-169は推定全長数千キロメートルに達する、途方もなく巨大な生物とみられている存在だ。あまりにも巨大なため確保、収容、保護の概念は通用しない。
出来ることはただ、「彼」を刺激しないようにそっとしておいてやることに全力を尽くす事だけだ。
今までこの怪物はほぼ同じパターンの行動を繰り返している。それは怪物がなんらかの不活性状態、つまり睡眠状態にあることを示唆していた。
そして三ヶ月ほどの周期で呼吸をし、その度に海底断層を揺らすのだ。体があまりにも巨大であるため、体中に酸素(そもそも酸素を必要とする生物であるかどうかも不明だが。)をいきわたらせ、そして排出するのにそれだけの時間がかかるのだろう。
だがそのパターンに突然変化が現れた。海底の急激な隆起、頻発地震。それまで不安定で無作為な移動を続けていた怪物はある方向を向いて動き出したのだ。
「SCP-169、ユーラシア大陸に向けて移動しています。途中には███島、███基地、そしてセクター-27があります。」
「セクター-27?」
「はい、施設の詳細はこちらに。」
「ふむ、クリティカルだな。待て……こいつは…… SCP-169はこいつにむかってるんじゃないのか?」
「ええ、そうかもしれませんが確かめている余裕はありません。我々はすぐに」
その時、緊急連絡を知らせるアラームと、それと同時に突き上げるような強い揺れがガンマ6司令部を襲った。
しかし、この程度の揺れはここ数日の間に何度も経験している隊員たちは冷静に対応していた。
「こちらガンマ6H。どうぞ。」
財団特製のラップトップPCに接続されたスピーカーからノイズ交じりの音声が流れる。この基地から遥か彼方にある対策司令部からの通信だ。もちろん、秘匿された専用回線を使用している。
『ガンマ6Hへ、こちらK-F169HQ、コードブラックだ。セクター-27から約120kmの地点に169を確認した。』
「120km地点?この数時間で?500km以上移動したことになる。」
『ああ、やつは予想より巨大だったという事だ。俺たちが頭だと思っていたのはただのコブか何かだったようだ。』
「ガンマ6H了解。もはや俺たちに出来る事は無いな。」
『そういう事だ、即座に施設を放棄し撤収せよ。以上だ。』
「了解。お前たち、店じまいだ。」


「なんだ?何が起こってる?」
地響きが鳴り、体が持ち上がるほどの強烈な揺れ。
頑強なはずの鉄筋コンクリートの壁に亀裂が走り、蛍光灯が明滅を繰り返す。
日本列島から離れ、外洋に築かれたセクター-27は世界で最も安全な場所であるはずだった。
台風のルートからも、活断層からも外れており、もちろんだが犯罪や交通事故もありえない場所だ。
だが、偏執的なまでに安全さを追求し、核攻撃にすら耐える強靭な施設が文字通り崩れ去ろうとしていた。
「坂本さん!」
「海洋人間」は背の痛みと揺れに立ちすくむ自分の肩をひっつかんだ男の名を呼ぶ。
「立てるか、██。すぐに施設から脱出するぞ!」
「どうしたんですか、これ!何がこんな!」
「後にしろ!さっさとここから出るんだ!」

低く、獣の唸るような地響きの中、二人は駈け出した。他の職員たちも慌てふためき、脱出路へと急ぐ。
だが、訓練された武装警備員達は冷静に、機械的に任務をこなす。すなわち、優先事項の選択。
最優先なのは坂本に引っ張られるように走る男だ。
彼を失えば、世界は滅びる。
自分も自分の家族も、友人も、ただの知り合いも、毎日テレビで見れる光景も、すべての日常が消えて無くなる。
だから彼らは冷徹に作業をこなす。出口に押し寄せ、何事かを叫ぶ職員たちが警備員達に押しとどめられ、突き飛ばされた。
その姿を尻目に、二人は走り続けた。
坂本の耳に装着されていた連絡用のイヤフォンから音声が流れる。
『ヘリの準備が出来た。そちらは。』
「はい、彼は私と一緒に。」
『よろしい、優先事項は彼と主席研究員、次に医療スタッフだ。わかっているな?』
「ええ、了解しています。それで、彼には話しますか?」
『それはお前の判断に任せよう。追加の救助ヘリは15分後に到着する。それまで辛抱するんだ。』
「はい。」
坂本の顔が一層険しくなり。歯を噛みしめる。

「待ってください、坂本さん。」
「海洋人間」が足を止めた。
「何をしている!話は後にしろ!」
「待ってください!何が起きているんです?地震って、ここに活断層は無いって話じゃないですか!何か起きてるんでしょう!?坂本さん!」
坂本は小さく頭をふり、こめかみを押さえた。今起きている事をどう伝える?適当な嘘を付く?いや、バレるのは時間の問題だ。じゃぁ、仕方ない。
「端的に話す、さっきから起きてるのは地震じゃない。いや、地震ではあるが、普通じゃないんだ。」
「ですよね。」
「馬鹿げた話に聞こえるかもしれないが、今ここに馬鹿でかい化物が向かっている、海底をだ。この揺れはそいつが引き起こしてるものなんだ。」
「なんですって?それも財団が収容していたもの?」
「いいや、現実的には収容不可能だったものだ。発見はしたがでかすぎてどうにも出来なかった。ゲームとかでよくあるだろ?ウロボロスだの、リヴァイアサンだの、本当に居るんだ。そいつが。」
「どのくらい?」
「少なくとも5000km以上だ。」
「5000、なんだって?そんなの、ゲームにしてもでかすぎる!そんなの、設定段階でありえないよ。」
絶望的な笑みを浮かべる男に、坂本は深刻そうにうなずいた。その表情は決して嘘でも冗談でも無い。
その時、「海洋人間」の脳裏にあるひらめきが生まれた。地震?海底を進んでいる?この背中の痛みは?
彼は考えをまとめるために、白いリノリウムの床をとぼとぼと歩き出した。
「そいつが、海の中に居るって言うなら、僕の中に居るはずだ……そうか、だからそいつはここに来ようとしているんだ。僕の所へ!」
「ああ、そうかもしれない。だがそれが判った所で、どうすることも出来ない。」
「僕の中のそいつを殺せないのか?」
「非常に難しい手術が必要だ。それだけの時間的猶予はない。それに…… それに、上手くいったとしても君に障害が残る可能性がある。」
「障害……?」
彼は狼狽した。当然だ。
「そうだ、あいつは君の脊髄に巻きついている。無理にはがそうとすれば、重要な神経や血管を傷つける可能性が高い。それに、本当にあいつがそれで死ぬかも判らない。」
「……化け物に殺されるよりマシだ。」
「ああ。だからすぐにここを離れる。何をどうするにせよ、時間を稼がなくてはいけない。」

二人はまた走り出した。周囲には彼らをエスコートする完全武装の警備員達。財団の警備員は特殊部隊並の武装をしている。
長い廊下を走り続け、そして施設の外に出た。外は暗く、暗雲が天を覆っていた。数機のヘリが周囲を旋回している。
RPGのラスボスが登場するとしたらこんな感じだろう。
「早くしろ!早く!もうこれ以上待てないぞ!」
外で待機していた一機のヘリに乗り込んでいたパイロットがマイク越しに叫んだ。パイロットは海の方を指差していた。
海は強い海風と反対に奇妙なほどに静まり返っていた。いや、異変はさらにその先だ。水平線が隆起している。
津波。巨大な水の山脈がセクター-27に迫っていた。
ヘリにはすでにいくつもの機材と白衣の人物が乗っていた。あと1人、最重要人物が乗り込むのを待つだけだ。
あと1人?ここに残っているヘリは一機だけしかない。だがまだ多くの職員が残っている。施設には人員や物資が行き来するための大型船や有事のための小型潜水艦などが用意されていたが今回は役立たずだ。
海流の大きなうねりの中では、暴風にさらされるシジュウカラのごとく捻りつぶされてしまうだろう。
「待って、坂本さんは?」
問いかけに、坂本は首を振った。
「お前が優先だ。安心しろ、施設はあの程度の波なら大丈夫だ、すでに救助ヘリがこっちに向かっている。」
その言葉を嘲笑うかのように轟音が響き、地揺れと共に施設の外壁に亀裂が走る。
「坂本さん、約束しましたよね。僕を里帰りさせてくれるって。」
「すまないな、だが今はそれどころじゃない。お前の母親だってこのままじゃ……」
屈強なパイロットの腕が「海洋人間」の体を捕まえ、強引にヘリに引き上げた。
ヘリは元々軍用のものを利用しており、およそ居心地に配慮された代物ではない。真横には顔面蒼白の研究員の姿。なんのつもりか、スタンガンを手に震えていた。

ヘリが上昇する。ダウンウォッシュに巻き込まれた海水が周囲に巻き上がった。徐々に地面が遠ざかり、サイト-27の全容が見え始める。
「おい!あれはなんだ!?」
遠くの海面から水柱が上がった。いや、そんな生易しいものではない。周囲の海底が丸ごと持ち上がり始め、巨大な波が施設を丸ごと飲み込んだ。
「クソッ!化け物め!」
猛烈な風に煽られながらもヘリは旋回を始める。 
まるで大地が誕生したかの様な光景だ。だがそれは実際には途方もなく巨大な、質量という暴力。それも、理解も対話も不可能な意思を持った存在だ。
島が波で洗われる姿から彼は目を離すことが出来なかった。男の叫び声が、ヘリのローター音を貫き響き渡った。その時だ。
まるでそれに呼応するかのように低い唸り声が響いた。地響きの音ではない。周囲の海の全方向から聞こえてくる。大きな音だ。
そして、それは姿を現した。海面から持ち上がる、黒い突起。ひとつが高層ビルほどもあるそれが、海面から無数に伸び、それはより大きな本体に繋がっていた。
ちょうど、ワニ革の瘤のようなものだ。あまりの大きさにそれと認識できないのだ。
ヘリとの距離は数Kmほどあるはずだがサイズ感が狂い、すぐ近くに感じる。眼下には、まさに水の中に沈もうとするセクター-27。このままではいけない。
自分みたいな、ただ普通に生きてきただけの人間が、なぜこんな目に?ゲームや小説の主人公とかじゃない。ただの人間なのに。
だが、彼にはひとつの確信があった。この化け物は、明らかに自分を目指してここまで来たのだ。そしてその生死を握っている。この怪物を、御することができるはずだ。
彼は突如、ジェットコースターに乗せられた少年よろしく、手すりにつかまって震える男からスタンガンを奪い取り、そして自分の体に押し当てると目をつぶり、スイッチを押した。
90万ボルトの電圧が体を駆け回り、男は叫び声を上げてヘリの床にはいずった。それと同時に、一際大きな唸り声が響き、周囲を包んだ。
「なんだ!何をやってる!?おい、稲川、そいつを取り押さえろ!稲川!」
パイロットが絶叫する。
「ああ、くそぉ……、痛てぇ……」
まだ身体が痺れがあったが、なんとか起き上がる。背中の痛みも一層強くなったがそれどころじゃぁない。
「ヘリをあいつに、あいつに近づけてくれ。」
「は?なんだとおい、気でも狂ったか?稲川!こいつをどうにかしろ!」
しかし、哀れな白衣の男はあまりの状態にただ震え、小さく首を横に振るばかりだった。
「狂ってなんかいない。今のを見ただろ、あいつを止められるんだ!」
「ふざけるなよクソガキが!なんのつもりか知らんが大人しくしていろ!」
「あいつを止めなければ、みんな死ぬんだぞ!少しここに止まっているだけでいい!イヤならここから飛び降りる!」
パイロットはバイザーを上げて、厳しい視線でにらみつけた。やや浅黒い肌の、おそらくは東南アジア系とのハーフと思わしき顔だちだ。
「早くしろ。危険を感じたらすぐに引き上げるぞ!」
「ありがとう。」

男はヘリから身を乗り出した。この海の王様が誰か教えてやるのだ。
巨体はすでに、空を覆わんばかりに鎌首をもたげ、視界の全てを黒く塗りつぶすほどになっていた。だがそれでもなお全体のサイズからみれば鼻の先程度のものだろう。
「聞こえるか化け物め!今すぐ、海に戻れ!出なければお前をここで殺してやるぞ!」
あらん限りの声で叫ぶと、大きく息を吸い込み、再びスタンガンを体に押し当てた、後ろで震える稲川に目で合図をすると、小さくうなずき、スイッチを入れる。衝撃に呻きながらのけぞる男を稲川はなんとか支えた。

怪物は再び苦悶の声を上げ、地面が音を立てて揺れた。
「どうだ!僕は本気だぞ!」
首筋にスタンガンを突きつけ、またも叫ぶ。常軌を逸した行動だ。地球を覆うほどの化け物を相手に彼は、自分自身を人質に交渉しているのだ。
パイロットも、稲川も、その光景を固唾を呑んで見守るしかできなかった。
そのとき、海中に何か光るものが見えた。光るというよりはかすかに光を反射していると言うべきか。ヘリからのライトに照らされ、僅かに周囲の海とは色の違う領域が現れた。
その時、ヘリに乗る全員がそれが何か直感的に悟った。それは目だ。怪物の、島ほども巨大な眼球が、海中から彼らを睨み付けていたのだった。
スタンガンを握る手が震える。だが男は毅然とした態度を崩さなかった。ヘリもそこから逃げることはなかった。そして。
三度目の咆哮。上がった水柱が危うくヘリを直撃する所だった。
海中でうごめく眼球が、ゆっくりと海底へ沈んでいく。海面からいくつも生えた突起も。
しばらくの間、三人は口も聞けずにただ事の成り行きを見守るほかなかった。
しばらくして、パイロットがやっとイヤホンから流れる声に反応した。
気が付けば怪物は海底に沈んでいた。海に静寂が戻った。
セクター-27は、どうやら無事だ。少なくとも海に沈んでしまう事はなかった。
「おい、あそこを見ろ。サイトのヘリポートだ。」
津波と地震に襲われ、崩れかけた施設。だがそこにはヘリに向かって手を振る男の姿があった。
世界を救った男は涙を流しながら手を振りかえした。

雲が裂け、空は太陽を取り戻した。琥珀色の光が巻き上げられた海水に反射して鮮やかな虹を作り、救助に現れたヘリの編隊を歓迎した。

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