メリー・ポピンズ リターンズ
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54人目のメリー・ポピンズが墜落死した。


目の前の真っ暗闇にジョージ・バンクス氏のイギリス英語が響く。

「メリー・ポピンズ! メリー・ポピンズは何処だ!」

名前を繰り返すバンクス氏の足元を、3体のペンギン・ウェイターがお腹を床につけて滑っていく。セルアニメ調の肉体が過ぎると、風と軽やかな効果音が舞い起こった。
バンクス氏は後方を見やる。やはりもう1体が遅れてやってきていた。その1体を足で制すると、たじろぐペンギン・ウェイターの蝶ネクタイを正面から握り、彼は脅すように囁いた。

「彼女を探せ。じきに時間なんだ」
「私ならここですわ」
「私もです」
「何か問題でも起きました?」

同性質の3つの声は、総じてバンクス氏の頭の上から聞こえた。
3人のメリー・ポピンズがそれぞれ毅然とした表情を演じ、彼を見下ろす。衣装はすべて同一で、よそ行きの格好をしていた。
彼女らは、テーブルと椅子ごと宙に浮いてしまったお茶会の席に着いているらしかった。ときおり、横目でテーブルの方を確認する。男の子と女の子が1人ずつ、青年が1人、太った中年男が1人。みんなジョークを飛ばしあってゲラゲラはしたなく笑い、浮遊を続けている。
バンクス氏は腕組みをして、声を張った。

「大声で聞こえないのに小声だと聞こえるのは一体どういう了見だ? 答えよ、メリー・ポピンズ-57!」

57と呼ばれたメリー・ポピンズの瞳孔がかっと開く。次の瞬間には、それを含んだ茶色い目はあちこちへ泳ぎ回っていた。とにかく口を開くも声は出ない。結局、唐突に名前を呼ばれたNo.57は押し黙り、下を向いてしまった。
側からそれを眺めていたNo.55は溜め息をつき、端然とした目つきでバンクス氏を見た。

「私の名前を呼ぶときに叫びが伴うようになってしまっては、お体と子どもたちによろしくありませんもの。"普通に"呼んで頂ければ、"普通に"返事を致します」
「しかしだな――」
「それより何かご報告があるのですよね、バンクスさん」

くぅ、とバンクス氏の声が漏れる。

「とにかく来てくれ。3人ともだ」

先んじてNo.56が席を立ち、ふわふわと降りていく。
彼女に続いてNo.55も腰を浮かす。去り際、一連をぼうっと眺めていたNo.57と目を合わせる。

「あなたも憧れたのでしょう、メリー・ポピンズ。それならあれくらいできるはずよ」

No.57はおそるおそる頭を下げ、彼女もまた下へと降りる。
彼女たちが去るとお茶会テーブルは丸ごと落下し、人間役は笑顔のまま硬直して床から動かなくなった。


「風向きが変わった」

そう告げると、バンクス氏はばらばらに破られた紙を掌に載せ、メリー・ポピンズたちへ突き出した。紙は末端が黒く焦げていたが、なんとか単語は読み取ることができた。
"優しい"、"ナニー"、"希望"、"綺麗で"、"おもしろい"、"親切な"。ぐちゃぐちゃな子どもの字のほかに、カラフルな大人の女性の絵が見えた気もした。
紙を見て、No.57は震え上がる。彼女が"ナニー募集広告"を目にしたのは初めてのことだったからだ。
No.56が口を開く。

「もうそんな時期なのですね」
「そうだ。ナニー泣かせのジェーンとマイケルが待っているんだ」

バンクス氏は広告の欠片の中から"ナニー"と書かれた紙だけを取り、残りは床へと捨てる。三角形にも似た紙の切れ端は、遠目からでは鋭利なナイフのようにも見えた。
そっと、バンクス氏はそれをNo.55に差し出した。
No.55の心臓が高鳴った。

「メリー・ポピンズ-55。君に任せたい」
「ありがとうございます」

依然として役に徹するNo.55の声も、このときばかりは動揺が混ざった。
バンクス氏から切れ端を受け取ると、彼女は倒れるように前にのめり込んだ。沸き立つ思いから口元を手で覆うと、紙に染みついた焦げたにおいに鼻をくすぐられる。興奮で少し過呼吸ぎみになりながら、No.55は背後から聞こえてくる拍手を聞いた。

「おめでとう、メリー・ポピンズ-55」

振り返ると、No.56が笑みを含んだ悔しそうな表情をしていた。

「私かあなた、どちらがよりメリー・ポピンズらしいか気になってたけど、どうやら負けてしまったようね」
「ありがとう、メリー・ポピンズ-56。でも、あなただってもう立派なメリー・ポピンズよ。きっと巻き尺で計ったら"完璧"と書かれているはずよ」
「人を褒めるのが上手いのね」
「私だって"完璧"だもの」

素っ気なくお道化たNo.55に、No.56は思わず噴き出してしまった。
そこへ、飄々とした動きで青年が1人、彼女らの間に割り込んだ。

「遂に選ばれたんだね、メリー・ポピンズ‐55!」
「まあ、バート! いたのね!」
「ああ、今日の僕は"路上絵の中の世界"での僕だ」

お茶会のテーブルに着いていた青年と、彼の姿は一致していた。けれど、普段着のような茶会席から一転、今の彼は縦ストライプの礼服とカンカン帽で陽気に気取っている。
勢いを抑えることなく、バートはNo.55ににじり寄る。

「どんな気分だい?」

No.55は口を動かそうとした。が、混ざり合う感情を的確に表現する言葉は思い当たらない。
頬を緩め、彼女は俯いた。

「……この気持ちを言葉になんかできないわ」
「何を言っているの? 私たちにはあの言葉があるでしょう?」

No.56の声で、No.55の頭の中に長い長いスペルが走る。
彼女にとっても、彼女でない彼女にとっても大好きな言葉。当たり前過ぎて、または使い慣れ過ぎて忘れてしまっていた。

「――Supercalifragilisticexpialidociousスーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス?」

舌を噛みそうな単語を呟く。
バートがぶん、と大きく腕を振った。ダンスの振り付けの一部だった。

「ご名答!」

ぞろぞろと、周囲の闇の中からセルアニメ調の人間たちが現れる。新聞記者たちの次に出てきたのは、年老いた鼓笛隊だ。鼓笛隊は彼女の背後へと歩き、定位置に着いた。
ふと、No.55は足元を見た。草が――もちろん、これもセルアニメ――風に吹かれて揺れていた。視線を上へ逸らすと、競馬場の設備や写実的なメリーゴーラウンドの競走馬が目に入った。
間違いなく、求められている。キーワードを放ったそのときから。
多福感に包まれ、彼女は普段の調子で「It's」の「I」のための息を吸いこんだ。

しかし、見かねたバンクス氏が、咳払いでその儀式を妨害した。

「すまないが、本当に時間がない。2分と待っていられないんだ」

彼は言い、鼓笛隊や新聞記者たちや競馬場の草に対して元に戻るよう手で示した。残念そうに彼らは闇に帰っていく。
3人のメリー・ポピンズとバートだけが残ったのを確かめると、バンクス氏はNo.55を手招きしてから歩き出した。

「こっちへ」

バンクス氏を辿るように、No.55は足を踏み出す。
最後に後ろを顧ると、直立するNo.56の隣でNo.57が不安そうにこちらを見ているのがわかった。
No.55は自信に溢れた笑みで彼女を見返した。


四角形の青が床に貼りついていた。床に大穴が開き、そこからは外が覗いているのだ。
外気が穴を通して吹き乱れ、No.55の肌にも冷たく突き刺さる。けれど、彼女の服や髪の毛の一切はまったく乱れない。
No.55はバンクス氏を一瞥する。彼は懐中時計で時間を頻りに確認していた。
背後で足音がした。

「やあ、メリー・ポピンズ。支度はまだみたいだね」

No.55がちらりと見ると、白い目と歯が闇の中で浮かんでいた。顔が煤けて黒っぽくなり、闇に同化しているようだ。呆れたように腰に手を添え、彼女は彼に向き直った。

「バート、またあなたね?」
「ああ、今日の僕は煙突掃除屋さ。そんなことより、荷物だよ」

全身が暖炉の煤に汚れたバートは闇から這い出るように現れると、手に持ったトランクケースを置き、彼女へと傘の柄を向けた。傘の柄には緑色の鳥の頭がついていて、ちょうどそれはオウムに似ていた。
No.55は傘を手に取り、柄を撫でた。その行為に妙に長い時間を使っていたのが、"煙突掃除屋"バートに微かな引っ掛かりを覚えさせた。
少々してから、バートは彼女に右手を差し出す。
爪の中まで真っ黒な手を見てNo.55は一瞬固まった。だが、すぐに意図を理解し、彼の手を掴んだ。

「"煙突掃除屋との握手は幸運のしるし"。そうでしょう?」
「その通り。本物の彼も言ってたよね」

ふふん、と冗談めかしてバートは話す。
握手を解くと、No.55は息を吐き、バートとの距離を一歩詰めた。

「ねぇ、バート……こういうのは"らしくない"と思うんだけど、私、わからないの」

突然切り出した彼女を前に、バートはただ眉をひそめるばかりだった。

「自分でも素晴らしい人に成ったと思う。もっと晴れやかでいるべきなのも知ってる。でも、なぜか"もや"が混ざるの」
「水曜日、13時13分。時間だ」

彼女の独白を遮るようにバンクス氏が呟いた。
No.55は思いを断ち切るようにトランクケースを掴むと、四角い大穴の前に立つ。切り抜かれた穴から下を望んでみる。青と白に染められた景色が一面を覆っていた。非アニメーションの空と雲を見るのは久々だった。
実写の舞台を前に、彼女の複合的な感情には明暗が付けられ、より複雑に着色されていった。
背は向けたまま、No.55は首と目だけを動かしてバートに問いかけた。

「メリー・ポピンズもネガティブになると思う?」

彼女の視線の先で、バートはにんまりした笑みをつくる。煤のせいで、彼の顔にはシワが浮き立っていた。

「君がメリー・ポピンズさ」

その言葉で、ごちゃ混ぜの気持ちが統合されたように思えた。かつては存在しなかった長い長いスペルがまたしても頭を駆け巡り、いよいよ口先へ零れ出た。
バートの笑顔を視界に収めたNo.55――メリー・ポピンズは、体を空へと傾ける。鼻歌を歌っているうちに腕は自然と開き、空気抵抗を受ける構えを取っていた。

「そうよね」

屋内の闇で埋められた床を、メリー・ポピンズは蹴った。
数秒だけ、彼女は魔法がかかったかのように空に浮かんだ。彼女の顔には自信たっぷりの微笑が戻っていた。

「ありがとう。風向きが変わったら、また会いましょう」



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55人目のメリー・ポピンズが墜落死した。


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