Please ”Pink” me, my darling.
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いたずらっ子なお星様たちは、『この子』とわたしの間に、ふぅっ、と息を吹き込んだの。
まるでわたしの細い糸みたいで、今にも消えちゃいそうな、そんな声を、綿毛を飛ばすみたいに、そおっと。

「……わたし、」

窓際の白いレースカーテンがさあっ、と音を立てて、お気に入りのフローラルのコロンの香りがした。舞い上がったカーテンは海の波みたいに、スローモーションで元の形にもどっていく。

波の引いたあとには『この子』──愛の妖精ポロップの、夜空を映してたっぷりと涙を溜めた顔が残った。

まだ月明かりが窓から顔を覗かせていなかった頃。わたしの『お祈り』を聞いて、流れ星みたいに空からポロップは落ちてきた。

あこがれの魔法少女アニメのはじまりみたいな、そんな、夢みたいな出会い。わたしはそれこそ眠りから覚めたみたいに目をぱちぱちさせたままで、しばらく目の前の現実を信じることができなかった。

でも、何度目を擦っても、ほっぺをつねっても、確かにポロップはそこに居てわたしを見つめている。

ポロップはやがて、その小さな両手で震えるわたしの手を握った。

『世界を守るため、キミには伝説の戦士になってほしい』

くりくりの両目をわたしに向けて、縋るみたいにそう叫んだの。

伝説の戦士……それは、魔法少女。

お月様は別のお家の窓を覗きに、わたしの部屋から居なくなった。

『伝説の戦士──魔法少女になりたい』

それがわたしの、お祈り。わたしのココロの中。
フリフリのきれいな衣装をまとって、キラキラ輝くステッキを振って、みんなを虜にする笑顔と魔法の力を持った、女の子。世界を救える、みんなの味方。わたしは、ずっと魔法少女になりたかった。

感激で震える唇を開いた。
でも、でも。
何かがわたしの喉で詰まった。

かち、かち、かち。時を刻む、メトロノームのテンポは60。

『魔法少女にして』

それさえ言えればいいだけ、なのに。

白雪姫が飲み込んだ、毒りんごのかけら。わたしが発せられないその『お願い』は、わたしの『お祈り』までジャマをしているみたいで。

わたしは、魔法少女になりたい。

心からそう願っているのに、毒が全身にまわっていくみたいに、自分の意思に反するこの身体が重たく沈んでいく。

魔法少女に、なりたいだけ?

……ねぇ、わたし。あなたが本当になりたかったものは、なぁに?

……それは。

ちくり。


心を針で突かれるような痛みを、感じた。




「──8番、で、よろしいでしょうかあ」

午後6時半、小糠雨。持ち上げられた弁当の水滴は、蓋の内側を重力に沿って流れ落ちていく。気の抜けた店員の声と、表面部分だけを彩ったような店内ラジオがじっとりとした空気の中に響いていた。

目の前の女性店員の『店員マニュアル』通りに動かなかったのであろう、イレギュラー、所謂『クソ客』に、店員は威嚇の眼差しを向ける。耳のふちに空いた自身のピアス穴を見せるつけるよう、短い茶髪を耳にかけて。

「ラッキーストライク」

俺はあえて小さく呟き、箸を一膳、おしぼりをひとつ入れ終えた瞬間のビニール袋を強引に引き寄せた。
思惑通り、俺にタバコを渡し終え背を向けた店員からは苛立ちを含んだため息が聞こえる。

どんなに怒りを覚えようと直接客に手を出す勇気はないこの『お嬢さん』の、せめてもの仕返しといったところか。電子レンジで温めた弁当の上では冷えた安酒の缶が転がっていた。

哀れだ。俺はそう思った。

「ありあっしたー」

自動ドアともう一つの手押しドアに隔てられた狭い空間の中に、形骸化した感謝のシンボルが投げつけられる。しかしその言葉が届くことは、もうなかった。

ふん、と鼻を鳴らしながら右半身で押し開けたドアの外は傘を差すほどでもなかったが、風に煽られた軽い雨は数日洗っていない髪の毛一本一本にしつこくまとわりついた。

前髪の水分を払いながらふと、俺が店員に向けて零した感情を反芻する。

『哀れだ』

……哀れなのは、俺の方だった。

さながらロミオとジュリエット。俺は今、ある『別れ』を翌日に控えていた。赤の他人に八つ当たりしなければいけないほど、苦しい別れを。

考えれば考える程、『後悔』の二文字が俺に重く伸し掛る。金があれば良かった。金さえあれば、こんな事などしなくて済んだ、のに。

癖のついた歩き方をする足から甲高く地面を擦る音が鳴る。

鳴き声を上げた靴とはうってかわって、そのふらふらとした足取りは酷く重たく、傍から見れば足でも挫いたのかと空目するほどだっただろう。

数歩進んでは立ち止まり、また歩いては、立ち止まり。

日の沈んだ道路の白線の上をうつむいて渡る様は、テストで赤点を取ってしまい、それをいかに誤魔化すかを考えながら帰路に着く子供の様であった。

いや、俺の心は、まだ未熟な子供だった。

霧のような雨が煩いビーズ玉に変わる頃。時間にしては十数分。皮肉にも、帰巣本能というものは馬鹿にできないものだった。人はいつしも、無意識のうちに足は帰るべき家の前に辿り着く運命なのだろうか。

目の前のボロアパート。錆びた鉄板と煤けた玄関ドアが家主を手招きする。

『ほら、最後の挨拶だよ』

そう俺を嘲笑うかのように、触れる金属の床とドアノブは冷たかった。

ギィ、と鳴いたドアの向こうはいつ見ても良いものとは言えない。大量のゴミ袋に、いつ抜け落ちてもおかしくないような不協和音を鳴らす畳と、日に焼けた壁。天井はひどくタバコのヤニに汚れている。

そんな部屋の中でも、『彼女』は嫌な顔ひとつせず待ってくれていた。

「──ただいま、帰ったよ。ダーリンピンクちゃん」

そう声をかけた先は、『彼女』──魔法少女ダーリンピンクの、偶像だった。

彼女はアニメ『きらめく魔法少女 ♥ ダーリンピンク!!』の主人公、中村いちご、もとい魔法少女ダーリンピンクだ。

街を『ダークネス』の魔の手から守るべく戦うヒロインであり、美しく、勇敢で、優しく、この世にある全ての美しい物を掻き集めても表せない素晴らしさを持っている女性。

そして、俺の最愛の人であった。

『……おかえりなさい。どうしたの?そんな顔したら、ハッピーが逃げちゃうよ?』

俺の虚ろな瞳を覗き込んで、彼女はそう微笑み語り掛けた、気がした。しかし、それだけで俺の目には直ちに光が宿る。たまらず、俺は彼女の頬を優しく撫でた。

思い出せば、初めてテレビの前で彼女の輝く笑顔を見たあの日。身内からは『早く結婚しろ』だの『家庭を持て』だのと口酸っぱく言われていたあのつまらない日々の中の、その瞬間。俺の心に何かが深く突き刺さった。

ハートの矢。そう、一目惚れだった。俺は恋に落ちたのだ。

その日から今日この日まで、俺は全てを彼女に捧げて生きている。当時の職場からのコールがどれだけ鳴ろうとも、テレビにどれだけ埃が被ろうとも。

毎週テレビに張り付き、『きらめく魔法少女 ♥ ダーリンピンク!!』で起こる彼女の活躍を見届けて。

俺は正義のため戦う戦士、魔法少女ダーリンピンクの輝く瞳、笑顔、汗、全てを愛していた。

いや、愛している、そんな言葉で表せるようなものではない。彼女は俺の全てなんだ。


その全てを、明日俺は売り払う。

別れる。そう決心したのは、つい昨日だった。昨日俺は、全ての財産が尽きた。手元にあるのはよれたポケットの中の小銭、数枚ほど。

人は、当然金が無ければ生きて行けない。

いつこのボロアパートを追い出されてもおかしくない俺は、どうにかして金を集めようと血眼になっていた。

もう時間もない、しかし、お縄になることはしたくない。
俺は必死に考えたのだと思う。その必死さ故に、俺は愚かな選択をしてしまった。

その過ちに気が付いたのは、リサイクルショップに出張買取の電話を掛け終えた後だった。

別に、キャンセルの電話をかけることも出来た。しかし、俺はとことん弱気なやつだった。……金を前にしてはどうしても背に腹はかえられなかった。

ダーリンピンクちゃんのように勇敢であれば、魔法が使えたら。容易く決断出来たのかもしれない。

最悪の過ちに俺は目を白黒させながら、固定電話の前で、震える手で喋らない受話器を叩きつけていた。

「ごめん、ごめんな、ダーリンピンクちゃん」

慟哭。俺は崩れ落ち、狂ったように泣き叫んでいた。ダーリンピンクちゃんは俺がこの世で一番幸せに出来るのに。彼女が俺の元から去るのが辛くて、俺の元から去る彼女が可哀想で。悔しくて、悔しくて、たまらなかった。

突き立てられた爪が固く握り締めた拳に刺さる。その痛みと共に、走馬灯かのようにふと昔のことを思い出した。数年前、いや、もう十年よりも前だろうか。

俺にもかつては同僚、後輩、上司なんてものが居た。

俺がひとりタバコをふかしている間に、奴らはその日着けるネクタイでも選ぶかのように女を取っかえ引っ変えしては、逆に自分から切り離されもしていた。

それを、奴らは『愛』と呼んでいた。

可哀想だった。いいや、哀れだった。いつか終わりゆく、形だけの愛。川岸の土手に捨てられているような汚らわしい不健全な冊子と何ら変わりのない、自己満足。そんな愛とやらに執着する奴らが。

しかし、俺は違う!俺は愛する人を生涯幸せに出来る心があった。あんな野蛮で、生物としてのカタチを擦り合わせているだけの獣共とは違う。その俺の気持ちに応えてくれる俺の愛する人もまた、完璧な女性だった。

画面越しの彼女はいつもひと仕事を終えた後、俺にその天使のような無垢なまなざしを向けて、微笑むんだ。

『病める時も、健やかなる時も……愛と正義の名の元に!きらめく魔法少女、ダーリンピンク!』

彼女の決めゼリフ。その言葉を贈る先は、もちろん俺だ。いつだってその2つの宝石は凛として俺の方を向いていた。

病める時も、健やかなる時も。これを本物の愛と言わず、何と言おうか!ああ、ダーリンピンクちゃん。この俺に、俺は一生ダーリンピンクちゃんの事しか見ないと、これからも誓わせてくれ。

願わくば、ダーリンピンクちゃんもこの先永遠に俺のことだけを見ていてくれたとしたら、どんなに幸福だろうか。

だが世界は、星は、神は。その愛を、献身を見放しやがった。

世界がぼやけていく。目がぐるんぐるんと気持ち悪く回る。

様々なプリンセスが様々な物語の結末を迎えるように、プリンセスでもプリンスでもないただの俺達の永遠に続くラブストーリーは織姫と彦星さながら、天の川に断ち切られたんだ。

「ダーリンピンクちゃん、ごめん、こんな俺で。愛しているよ。なあ」

今すぐにでも喋ってくれ。

そう願いながら、数ある彼女の偶像の中でも一際彼女にそっくりな『それ』を乱暴に掴み、揺さぶった。
涙にひどく揺らぐ視界の中で、ふと彼女が痛みに顔を歪めた気がした。はっと我に返り、慌てて手を離す。

『大丈夫だよ』

声が聞こえた。目の前の、ただのぬいぐるみから。

『あたし、ハッピーだったよ。あなたは辛いのよね?あたしをこんなに大切にしてくれたあなたに、あたしは大切なあなたに恩返しをしたいの。……あたしのことは、好きにして』

最期まで、大切にしてくれて、ありがとう。

そう言い残して、彼女の『言葉』は絶えた。

マボロシな訳がなかった。彼女は、最期に俺に感謝を伝えるために、愛を伝えるために喋ってくれたんだ。俺とダーリンピンクちゃんは相思相愛だったんだ!

俺はもう一度、震える手でその偶像を優しく、しかししっかりと抱き寄せて涙を流した。

愛する恋人の為に、今度は覚悟を決めて。

そのような事があった昨夜から、丸一日が経った。
俺は荷造紐とビニール袋を前に、深くため息をつく。

『あたしのことは、好きにして』

胸がズキリと痛む。彼女の遺言。その言葉をもう無駄には出来なかった。
震える手でひとつひとつ、懐かしみながら、大切にビニール袋に仕舞っていく。

彼女の事を何もかも詰め込んだ『きらめく魔法少女 ♥ ダーリンピンク!!』のブルーレイ。彼女の勇気を込めたステッキ、食玩、ポスター、書籍。どれもが彼女であり、俺と彼女の思い出であって、あまりに愛おしかった。

半分ぐらいの荷物が片付いたあと、おもむろに伸ばした指先に触れた『何か』に、思わず大袈裟に肩を跳ねさせた。恐る恐るその方向に目をやれば、それは昨夜自分が胸に抱き寄せたダーリンピンクちゃんだった。

どぎまぎしながら目を合わせると、ダーリンピンクちゃんはまた何か喋ろうとすることはなく、ただいつものように微笑んでこちらを見つめている。

この表情も、今は俺との別れを惜しんでいるかのようだ。

やはり昨夜の事を思い出すと途端に涙が溢れそうになる。しかし、俺はもう彼女を心配させる訳にはいかない。

今の俺はさながら、眠れる姫を守る王子の心意気だった。

俺はビニール越しに、貧弱な考えと共に仕舞った、愛しい恋人の頭をそっと撫でた。安心して、眠って欲しい。そんな願いを込めて。

その後も何度か手を止め、また動かし、また考えを改めかけた。それでも時計の針が背中を押すように黙々と作業は続き、やがて部屋を埋めていたあらかたの偶像はすっかり片付いていた。

だいぶ広くなってしまった六畳半。俺は最後に、唯一ビニール袋に仕舞っていない『それ』を手に取った。

プリティースパークルパクト──魔法少女ダーリンピンクの変身アイテム、の、玩具だ。ごく普通の少女だった中村いちごは、これを使って魔法少女ダーリンピンクに変身する。

初めてこれを手にしたのは、幾年か前だ。家電量販店で女児と手を繋ぐ母親の隣ですら通るのが怖くて仕方がなかった当時の俺が、これを手にした理由もわかるような気がした。


俺は、勇気が欲しかったんだ。

ただの女子中学生である『中村いちご』を『魔法少女ダーリンピンク』にしたパクトを手にすれば、弱気な俺も勇気を手に入れられると信じていたんだ。

彼女を生涯、死ぬまで、いや、どんな形になろうと、恋人を愛する勇気を。

家電量販店で購入したこれは実際にダーリンピンクになれるわけではなかったが、今、俺はダーリンピンクちゃんになりたかった。

フリフリのきれいな衣装をまとって、キラキラ輝くステッキを振って、みんなを虜にする笑顔と魔法の力を持った、女の子。世界を救える、みんなの味方。

──明日、俺に捨てられてしまう恋人。

俺はダーリンピンク──いや、その立場を代われる存在になりたかった。
この『祈り』を聞いたら彼女は何と言うだろうか。

風が、吹いた。

開いた窓から少しばかり強く風が吹き付けた。
空いたダンボールの山に置かれていた、あまり好ましくは無い冊子を吹き飛ばすように、強く。

「──あ」

薄い壁に隔てられた部屋がみしっ、と音を立て、ヤニと不潔な匂いがぷんとした。落ちた冊子は無機質に、ぱらぱらとページが捲られていく。風が落ち着いたあとには冊子の中の、とてもではないが健全とは言えない、そんなページが顔を出していた。

『身体を売って欲しい物が手に入るなら。それでもいいから彼女の身代わりになりたい』

まだ月明かりが窓から顔を覗かせていなかった頃。俺は『お祈り』をした。魔法みたいに、全てが変わってほしくて。ボサボサの髪と無精髭、汚らしい格好をして、縋るみたいにそう祈った。

『あたしのことは、好きにして』

それが恋人の、祈り。恋人の想い。

『フリフリのきれいな衣装をまとって、キラキラ輝くステッキを振って、みんなを虜にする笑顔と魔法の力を持った、女の子。世界を救える、みんなの味方。』

恋人は、そんな勇敢な魔法少女だった。

震える手で勇気の印、パクトを握った。
でも、でも。
何かが俺の心で詰まった。

かち、かち、かち。時計の針がうるさく俺を嗤う。

『ダーリンピンクになりたい』

それさえ叶えばいいだけ。
俺の『願い』は、恋人の『想い』まで無駄にしているようで。でも、俺は彼女になりたい。心からそう願っているのに、現実はどうにもならない。


……俺は、お前になりたかった。

……あぁ、

ズキリ。


心を針で突かれるような痛みを、感じた。




「──わたしは、ダーリンピンクに、なりたい」

気づけばわたしは歌うように、言葉を紡いでいた。

確信はなかったし、その『ダーリンピンク』という存在もわたしは知らなかったけど。でも、なぜか、わたしはそれにならなきゃいけない気がしたんだ。

不思議そうな顔をするポロップに向けて、強く首を縦に振る。

わたしのワガママに、やっぱりポロップは困ったようにうつむいてしばらくの間悩んでしまった。

そんなポロップがあまりに気の毒だったので、わたしはあわてて口を開いた。けれど次の瞬間、それを遮るように甲高い声が弱々しいわたしの声をかき消した。

「わかったポロ、その『ダーリンピンク』が何なのかボクは分からないけど、キミは今日から『伝説の戦士ダーリンピンク』ポロ!」

そう言い終わったと思ったら、ポロップは途端にぱっと顔を上げた。なんと、先程の悲しそうな顔とは見違えるようにキラキラとまぶしい顔をしている。

わたしがその百面相にびっくりしている間も、ポロップは「わーい、わーい!」なんて言いながら、無邪気にわたしの周りをくるくると飛び回る。

そのうち満足したのか、最後に一回転、くるんとフィギュアスケートみたいに回りながら、わたしの前にゆっくりと舞い降りてきた。

「そうだポロ!キミのお名前を聞き忘れていたポロ」

ポロップはわたしに向かってその短い手を突き出す。重たい空気の霧が晴れた今、わたしは自信満々にその質問に答えた。

名前……こい、がはら、ぴんく。

「……恋ヶ原ぴんく!」

あれ?なんでだろう。
こんなの、わたしの名前じゃない気がする。

ダーリン、夫婦、恋人、恋……ピンク。

ダーリンピンクって名前と似ている、気がする。わけも分からず、わたしは……


いいえ、それがわたしの名前。わたしは恋ヶ原ぴんく。

「ぴんく!よろしくポロ!」

そう笑うポロップの曇りのない瞳は、宝石みたいに綺麗だった。




「──ねぇ、いちご?」

「はいっ、加奈子さん」

鏡の前であたしの髪をていねいに梳かしながら、加奈子さんは口を開いた。手持ち無沙汰だったから、今日つけてもらうつもりの飾り付きヘアゴムを指で弄りながら返事をしてみる。

ああ、今日の外はいい天気みたい。

なぜなら、この世界に来てから大きく、だけどシンプルになってしまった『あたしの部屋』の外から、小鳥さんの歌が聞こえたから。

加奈子さんは着ている白衣の、清潔で糊の利いた襟を触る程度に整えながら、あたしに尋ねる。

「いちご、あなたは『自分以外のダーリンピンク』って、存在すると思う?」

加奈子さんは突拍子も無いことを口にした。

……あたし以外の、ダーリンピンク?

知らない。だって、知らないもの。あたしはある日いきなり『ダーリンピンク』になって、ひとりでみんなをダークネスから助けて……ずっと、ひとりで。

「えっ……考えたこともないです!あたし以外にダーリンピンクが居るなんて、そんなこと、あるのかしら」

少しの沈黙があった。
そのうち、そうよね、と加奈子さんは呟いて、代わりにあたしの手からヘアゴムを取り上げた。鏡越しの加奈子さんは、口をつぐんで気まずそうな顔をしていた。

やがて、加奈子さんは重たい唇をゆっくりと開いた。

「日本、まぁ、あなたが初めてこの世界に来た場所ね。その国のある所でね……ダーリンピンクを名乗る魔法少女の女の子が見つかったそうなの」

沈黙。

清々しい朝とは対照的に、『あたしの部屋』の中は、隠していたテストの答案が見つかってしまった時みたいな、クラスメイトが投げた野球ボールが校舎の窓ガラスを割ってしまった時みたいな……いえ、例えが見つからない。そのくらいの、重たい空気がどんより流れた。

「へぇ、信じられないわ」

あたしは、悲しそうな顔をする加奈子さんにどう返したらいいか、よく分からなかった。

……この気持ちはいったい何なんだろう。鏡の中のあたしの顔、いつもの、ハッピーな笑顔じゃない。

うつむいたあたしを見かねて、加奈子さんは精一杯のフォローをかけてくれる。

「まぁ大丈夫よ、貴方と似ても似つかなくて……それに、その子の抱えている事情も、貴方とは全く違うの」

いちごはいちご。その子と関係がないなら問題はないわ。そう言って、加奈子さんはポンとあたしの肩を叩いた。あたしの気が滅入っていたからか、顔を上げると気付かないうちに綺麗なツインテールが仕上がっている。

ありがとうございます、とお礼を言って、鏡を覗き込むように首を傾けてみる。

どんな時でもあたし、やっぱり加奈子さんのしてくれるツインテールがいちばん好き。加奈子さんはいつも飾り付きのヘアゴムがいちばん映えるように、かわいく見えるように気遣ってくれるもの。

「変なことを言ってしまってごめんなさいね、いちご。まさかあなたがそんなに落ち込んでしまうとは思わなくて……」

「いえ、大丈夫です。……あたしと同じお名前の、女の子、ね」

仲良くなりたいな。

そう呟いた時、部屋から出ようとする加奈子さんがぴくりと反応したことに気付いた。加奈子さんは前からどうしてもそこだけは意地悪で、あたしのことをなかなか外に出してくれないから。

きっと、心がズキンとするような気持ち、だと思う。
そのまま加奈子さんはあたしの方を見ずに、部屋から出ていった。

……また、ワガママを言っちゃった。

でも加奈子さんが居なくなった今、あたしの中の悲しいココロは、その『あたし以外のダーリンピンク』ちゃんに対する興味に塗り替えられていた。

ええ、『あたしと同じ名前の女の子』への興味はそう簡単に無くなるものじゃなかった。

憧れの、お友達。あたしは心の中でその空想をふくらませる。

女の子ってことは、あたしと同じような歳の子なのかしら。もっとちっちゃな子だったりして!もし出会えたら、一緒に遊んで……ダークネス退治が一緒に出来たら素敵ね。その子が居れば百人力も同然よ。

その子もあたしみたいに髪が長い子なのかしら。そうしたら、あたしがその子のヘアアレンジをしてあげるの。

加奈子さんがしてくれるように、ヘアアクセサリーがいちばん可愛く見えるようにしてあげるのよ。

ぱちり、と鏡の中の自分と目が合う。かわいくヘアアレンジをしてもらって、ハッピーな笑顔。
でも、どこかその笑顔は寂しそうだった。

悲しいココロは、消えたはずなのに。

「あたし、あたしの事が大好きな人に会ってみたいな」


心を針で突かれるような痛みを、感じた。


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