特等席より
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2017年、日本の中心は東京だった。

徳川家が江戸幕府を打ち立てるまでは何度も変遷した日本の首都だが、以後の400年以上東京は首都として不動の地位を築いていた。

時代が移り変わろうとも、戦争で荒れ果てようとも、ヴェールが捲れようとも。
日本はいつでも東京を軸に這い上がってきた。

故に、誰もが幻想を抱いていたように思う。

東京はこれからも日本の軸であり続けるのだと。

~・~・~・~

「お父さん、行ってらっしゃい」

今日は札幌に行くのだというお父さんを見送って、僕も靴を履く。どうやらお父さんが子供の頃は、沢山の荷物をランドセルという背負いカバンに入れて学校に通っていたらしい。手ぶらで学校に行く今の僕には想像出来ない。

お父さんがクローゼットからランドセルを取り出して見せてくれた時、試しに中身を適当に詰め込んで背負ってみたら、僕は後ろにひっくり返ってしまった。
あんなに重たいものを背負って、学校まで30分も歩いていたお父さん達は凄いなと思った。

家から出た僕はいつもバスに乗る。お母さんが言うには、バスが浮いているだなんて夢みたいな事らしい。
家族で乗っている車にはタイヤという大きな黒い輪っかのゴムがついていて、それで地面を踏ん張って動いている。
父さんは地面に足が着いている方が好きだなんて言うけれど、僕は行きたい場所まで真っ直ぐ行けて全然揺れないバスの方が好きだ。早く買い替えてくれるといいな。

マンションからバスが出て、次の佐藤君の家まで真っ直ぐに飛んでいく。
夏休みの自由研究で交通について調べたら、信号機という物で車の移動をコントロールしていたと言うことが分かって驚いた。赤と緑と黄色の色で、車を運転する人に指示をしていたそうだ。
僕らの乗っているバスに運転している人なんていないし、バスがみんなの家と学校の前以外で止まっているところは見たことがない。

やっぱり昔は不便だったんだなと思った。

昨日の話し合いの時間で、カナコちゃんは「行ってみたい時代」をテーマにしようと提案していた。だから今日は行ってみたい時代を話さなきゃいけない。
でも僕は昔の時代に行こうだなんて思えない。今が一番楽しい時代だと知っているもの。
お父さんも、お母さんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、みんな今の時代に生まれてよかったねえと口を揃えて言う。
だから僕は昔の不便な時代に行きたくないなと思うのだ。

それなら未来に行けばいいかな?と思ったけれど、それもなんだか違う気がする。未来に行けば僕やクラスのみんなが大人になっている世界になるけれど、その時の僕もきっと、お父さんやお母さんのように今が一番楽しいのだと嬉しそうに笑うのだと思う。
そんな未来の僕には、今の僕がどう見えるのだろう。不便な時代から来たね、とか言いそうな気がする。それは何だか…楽しくないな。

バスが出てから10分くらいでみんなが揃っていた。今日の授業に奇跡学の授業があって、とても偉い人が体育館で講義してくれると先生が話していた。みんなはそれがとても楽しみらしい。
ただ身体を動かすだけの体育の時間は嫌いだけど、それを頑張ったあとは奇跡について凄い話を聞けるのだとワクワクする。

「ねえ、ダイヤ君」

となりのカナコちゃんが話しかけてきて、僕はなんだかどきっとした。

「ど、どうしたのカナコちゃん」

そわそわする心をどうにかして落ち着かせようとしながら、カナコちゃんの顔を見る。けれど、カナコちゃんは何だか変なものを見たような表情だった。

「あれ見て。何か燃えてるよ?」

燃えているって、何がだろう。ものが燃えることがあるのは、理科の授業で知っている。でも燃えているものは理科の実験でしか見たことがない。おばあちゃんが昔、自分の家が燃えた話をしていた。でも今は便利な時代だから、勝手に何かが燃えたりなんてしないはずだ。

でも、カナコちゃんの指さした先では確かに何かが燃えていた。

「おい、見ろよ!何だあれ!」
「すごーい!何か燃えてる!」

窓に寄ったみんながはしゃいでいる。燃えているものは、大きなビルとビルを繋ぐ空中回廊の中にあった。

僕はその炎をじっと観察した。理科の先生は観察が大事だと言っていた。ものが燃えるのはおかしい事だ。でも観察したら理由が分かるかもしれない。

でも分からなかった。燃えているものが何か分かっても。

「あれ……人だ」

燃えているものは、手をめちゃくちゃに振り回している、人だった。

「うわあ!」

急にバスが揺れた。あれ?おかしいな。バスが突然止まったり揺れたりするはずが無いのに。これじゃあ遊園地のアトラクションだ。
どうして揺れたのだろう?

少し身を乗り出すと、これはすぐに原因が分かった。バスの前の方が消えていたのだ。運転しているコンピュータが無くなればバスは動かなくなる。とても単純だった。

身体がゆっくりと上に引っ張られる感覚がした。これも知っている。バスが落ちているのだ。
みんなの悲鳴で耳がおかしくなりそうだったけど、僕はひとまずカナコちゃんの手をしっかりと握った。

あとはよく覚えていない。

ふと目が覚めると、僕はバスの席に座っていた。バスが落ちたのに、どうして僕は席に座りっぱなしなのかな。試しに立ち上がろうとしたけれど、身体は全然動かなかった。手が座席から離れない。どうして?

僕は自分の右手をよく見てみた。手首から先が座席のシートにめり込んでいる。
あれ?なんで?どうして?
試しに人差し指を動かそうとしたら、左側の肘掛けがピクっと動いた。
次に親指を動かすと、背もたれが僕の背中を押してきた。
どうやら僕の右手が座席になったらしい。

いや、なんだこれ。

頭の中がぐるぐるする。そういえば僕の左手はどうなっているんだ?あの時カナコちゃんをしっかり握ったのは左手だった。
僕は左手をじっと見た。
そこには、口があった。

「だだだだいやくんだいやくんだいやくんだだだだいじょうぶぶぶぶぶぶぶ???」

口が、喋った。

あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。僕はずっと席に座っている。僕の体は席からどうしても動かなかった。辺りを見回したけれど、通学バスにいたみんなはどこにもいなかった。というより、バスその物が消えていた。僕の頭上ではビルがダンスをしている。僕の下には空が広がっていて、沢山の車が捻れてくっついてを繰り返している。

ここは一体どこだろうか。
何度も考えたけれど、分からない。世界はずっとこんな調子で、いつ見てもぐちゃぐちゃだった。目の前を爪が生えたテーマパークのキャラが飛んでいく所を見た。茶色のナメクジから金色の蝶が生まれていく様子を見た。ねっとりとした光が地面から噴き出していた。
頭がおかしくなりそうだった。

「だだだだいやくんだいやくんぶぶぶぶじでいてねぶじでいてねねねねねねね」

左手のカナコちゃんが今の僕にとって唯一の救いだった。まともな会話は難しいけれど、少なくとも僕が話しかけたら必ず答えてくれる。

もし僕がカナコちゃんの手を握らなければ、カナコちゃんは死んでいたのだと思う。バスの残骸は血まみれのクラスメートと一緒に団子となって転がっていた。いや、でも手を握らなかった方が良かったのかも知れない。口だけが生きていて、それで良かったと思える人がどれだけいるのだろう。

僕は天地逆さの特等席で、じっと世界を見ている。僕が何故無事なのか分からない。分からないけれど、僕は奇跡学のことについて少し話してくれた先生の言葉を思い出していた。

「奇跡は心の在り方なんだよ。ダイヤ君。君はその名の通り、輝く目を持っている。君の目はきっとこれから色んなものを見ていくのだろうね。君の心がこれからもずっと真っ直ぐである限り、その目が曇ることは無いよ」

昔はセミの怪物に立ち向かった事があるのだと笑う、ちょっと変な先生だった。

「カナコちゃん、僕はこれからもずっと見続けるよ」

左手のカナコちゃんに向かって宣言してみる。僕がどうして宙ぶらりんで世界を眺めていられるのか分からないけれど、きっとこれは与えられた役目なのだと信じてみる。

「誰にでも役割はあるんだよ、ダイヤ。お前の役割を見つけなさい」

おじいちゃんは、日当たりのいい縁側に腰掛けていた僕の頭を、優しく撫でながらそう言っていた。

世界はますます速度を増してぐちゃぐちゃになっていく。

僕はそれをひたすら見続けた。

「だだだだいやくんがんばってててて」

「ありがとう、カナコちゃん」

眠気も空腹も疲れも感じない小さな席で、僕はカナコちゃんの唇を肘掛けで優しく撫でた。

時々人じゃないものを見た。ビルよりも大きな影がピンク色の街路樹をむしゃむしゃ食べていた。地割れの中から真っ赤な閃光が空を割いた。覗き込むと、そこにあったのは緑色の瞳だった。

人だったものも沢山見た。校長先生は腰から下が鹿になっていた。ヨダレを垂らしながら何かを探しているみたいだった。僕に気がついて飛びかかってきたけれど、どうやら高さが足りなかったみたいだ。

おじいちゃんは鳥になっていた。おじいちゃんの顔をしたハトが僕の頭に着地して、僕にこう言った。

「ビーフステーキ」

おじいちゃんの大好物だった。

昼とか夜とかもよく分からないし、ビルはしょっちゅう飛び上がっては降り注いでくるので、自分がどこにいるのかも分からなくなっていた。

きっとこの奇妙な世界は夢なのだと思いたかった。
カナコちゃんが左手になったことも、おじいちゃんがハトになったこともみんな夢なのだと。でも僕は心の中の何処かで知っていた。
ここはどうしようもなく歪んだ現実でしかないのだと。

何度となく世界はゴミ箱に捨てられ腐り立ち上がり笑う。

そしてその日は唐突に来た。

「あっ」

ずっと眺め続けていたぐちゃぐちゃの世界、その中の1つが急に縮んだ。知らない人からすればきっと、いつも通りのぐちゃぐちゃと変わらないと考えたと思う。でもその縮みは…なんというか、ちゃんとしていた。形がない世界で形を持っていた。

縮んだそれに色はなかった。空間その物がぎゅっと縮んでいて、微かに震えている。その震え方は、おじちゃんとおばちゃんが家に連れてきた赤ちゃんに似ていた。

ああ、そうか。これが始まりなんだ。

空間が、拡がっていく。

その空間に触れたものは、ピタリと動きを止めた。今までのように荒れ狂うこともなく、適当に引いた線が元の直線へと身体を伸ばそうとしているみたいだった。
四方八方に拡がっていた光の液体が、バチバチと音を立てながら火花となって空気に弾けていく。ビルは勢いよく地面に突き刺さったけれど、また宙に飛び上がることはなかった。

僕自身も、その空間に触れるとゆっくりと捻れていった。でも不思議と気持ち悪くならなくて、なんだかゆっくりと背中を押されて家に帰っている感じがした。右手が席から吐き出される。皮膚が座席の肘掛けのそれと同じ物質になっているけれど、ちゃんと手の形に戻ったのは本当に良かった。

左手は、戻らなかった。カナコちゃんは喋らない。

瓦礫の中に横たわって、ビルが降る間ずっとギラギラと輝いていた太陽が雲に覆われる所を見て、ああやっと終わったんだなと思った。

それから家族の事を考えた。学校の先生のことも考えた。クラスメートのことを考えた。お隣さんのことを考えた。近所に咲いていた花を、落書きした壁を、母さんの卵焼きを頭の中に浮かべた。

ぽつり、と雨が降った。目の端が熱かった。

~・~・~・~

あれから15年の時が経ち、私は正常性維持団体に就職した。元から目を媒介したごく軽度な奇跡を扱えたこと(これのお陰で私は東京事変の全てを正確に記憶している)。左手に完全融合したカナコちゃんを少しでも元に戻すために治療すること。そして東京事変における被災者の中で最も中心地にいた者としての扱いから、財団に庇護されていた。

情報を秘匿する為に世間から隠され、私は死んだものとして扱われている。

あの災害で生き残った私の知り合いは父だけだった。父は今も41年間続く孤独な暮らしを送っている。私が生きていることも知らない。保護された当時は財団の研究員と何度も揉めたが、所詮10才のガキが社会の壁を打ち破れるはずも無かった。

私はあの時空間異常によって10才の身体と精神のまま26年の時を数日程度で過ごしていた。
今は2058年。2017年でもまだ珍しい存在だった先天性動物特徴保持者の割合が増えており、人権を獲得した。2041年には私が一時期通院していたサイト-81Q5が東京事変と似た性質の現実改変による大災害が発生した。あれは天災ではなく、人災だったとの見解が多い。

ヴェールが捲られ、未曾有の大災害を経験しても日本はまだ成長の途中だ。未熟な部分を常に抱えながらも、それを解決するために足掻いている。

地上1000mに浮かぶ群馬の県境に位置するビルから、眼前に拡がる広大な廃墟を見つめる。東京事変により崩壊した東京都は、復興までいくつもの難題を抱えていた。終結して15年経った今でも多くの場所が手付かずのままだ。

かつての日本の軸は、死体のまま腐り果てている。それをどうにかするのが私の目標だ。

「ダイヤ君、そろそろ仕事の時間だよ」

隣に立つカナコちゃんの呼び掛けで我に返り、時計を見る。あのバスで人体発火を見たのと同じ、丁度9時になる所だった。

「9時半から会議があったな。カナコちゃん、スピーチの該当箇所はちゃんと覚えたよね?」

「当たり前よ。ダイヤ君こそ資料を忘れてないでしょうね。東京復興計画に必要な機材開発のデータ、説明出来ないとまずいでしょ?」

「相変わらず強気だねぇ」

敢えて治療をせずに残した、緑色の樹脂になった右手で研究室のタッチ型認証パネルに触れる。

廊下を走ってサンフランシスコにある会議室に向かいながら、私は過去の僕のことを思い浮かべた。2017年のバスに乗って、隣に座った女の子の手を握った少年のことを。

君の考えは少し正しい。未来は常に進歩し続ける。過去は加速度的にその彩りを失い、やがて忘れられていく。

しかし、過去は確実に未来を創る礎になる。

あの時カナコちゃんの手を握らなければ、彼女は人の形を取り戻して私の隣に立つことは無かっただろう。
あの時東京事変の全てを見届けると決意しなければ、私が東京復興計画に参加することも無かった。

私の席は今も変わらない。

ここが私の、現在から未来へと向かう特等席だ。

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