「ありがとうございます♡ご主人様のお越しをお待ちしてますにゃ〜☆」
黒猫の耳がついたカチューシャと白いフリルが目につくミニスカートのメイド服、そして透き通るような水色の美しいロングヘアを肩から流した女性は両手に銀製トレイを保持しながらにこやかにスーツの男性を見送った。
男性の姿が隣に建つ建物の中に消えると同時に、女性の笑顔は一瞬で消え去り無表情となる。踵を返して目の前にあるガラス戸を一瞥し、掛金に提げてある「OPEN」の札をひっくり返す。
「CLOSED」となった扉を開けつつ、片手で水色のロングヘアを鷲掴みにする。カツラの下から現れた素顔はメイクによって印象がかなり違うものの、Dクラスであれば殆どが名前は聞いたことがある人物のものだった。
沙流さりゅう 留るい。Anomalousアイテム専門の研究員にして、Dクラスの管理官であり、そしてメイドカフェ『すきっぷ☆』の店長兼メイド長である。
「沙流さん、新しいAnomalousアイテムが登録されましたので確認をお願いします。回収してから間もないので安定した異常性はまだ確認が取れていません。確認後に詳細なデータの記録を行うそうなので立ち会いをお願いします」
「分かりました…本日の14時から309研究室で行いましょう。準備が出来ましたら直接私に電話して下さい」
「沙流研究員。新たなSCiPの実験のため女性のDクラスが3名必要となった。30代が望ましいとのことだ。倫理委員会の審査も通ったので本日中にサイト-8105に向かわせて欲しい」
「了解です…30代女性かつDクラス研修を修了済みの方は2名です。あと一人に関しましては…20代の候補から私が選定します」
「店長。明日の仕入れなんですが、いつもお世話になっている養鶏場に検査が入るらしく、直接産みたて卵を仕入れるのは難しいそうです。どうしますか?」
「では…一時的にオムライスを数量限定にしましょう。産みたて卵を使用しないオムライスを提供する訳にはいきませんから…養鶏場の責任者の方とは、私が後で連絡を取り…今後について相談致します」
沙流研究員の部屋にはかなりの頻度で人が訪れ、電話が鳴る。Anomalousアイテムの研究・管理。そこにDクラスの管理やメイドカフェの運営を合わせると非常に多忙な仕事となる。
「沙流研究員はいつ休んでいるんですか?自分はあの人が休んでいるところを見たことが無いのですが」
サイト-8190の警備を務める機動部隊員が丁度沙流研究員の部屋を通る際に尋ねると、隣で歩く部隊長は少し考えてから首を振った。
「いや、俺も見たことがないな。サイト-8181のメイドカフェってのも最近は繁盛しているらしいし、俺たちがこうして偶に見るよりも更に忙しいのは間違いないんだが」
「ひょっとして最低限の睡眠時間で疲れがとれちゃうとかですかね?」
「そうかもだな。あの人が睡眠時間をどう過ごしているのか分からんからなあ。実は仕事しながら目を開けて寝ているのかもだ」
「目を開けながら寝て……ふふっ」
つい口を抑えてひっそりと笑う隊員だったが、ふと気配を感じて顔をあげると、目の前に立つ沙流研究員に驚き小さな悲鳴をあげた。
「さ、沙流研究員!?」
「こんにちは、隊員さん。私の睡眠時間についてのお話をされていましたよね?」
「ひっ!き、聞こえてたのですか!?あの距離で!?」
「ええ、私は耳がかなり良いので…ところでいつ寝ているのかについてですが…」
「すみませんでしたァ!!」
無表情な沙流研究員の目線に耐えきれず、隊員は即座に謝罪し全力でその場を後にした。
「おい、待てよ新人!俺を置いていくとはいい度胸じゃねぇか!」
青筋を立てて隊長が叫ぶと、咳払いを挟みつつ気まずそうな顔で沙流研究員の方を横目でチラリを見やる。
「申し訳ない。あいつはこのサイトに配属されてから日が浅くてね…貴女のこともよく知らないんだ。後で謝罪に行かせますので、それで勘弁してください」
「…いえ、別に私は」
沙流研究員は特に怒っている訳でも無いことを伝えようとするも、隊長は「では、これで」と告げて新人隊員の後を追うように小走りで去っていった。
「……はぁ」
沙流研究員は物憂げにため息をつく。自らの考えが顔に出ず言葉としても出にくいのは承知していたが、コミュニケーションにおいてここまで脚を引っ張ってくるというのは随分もどかしい。彼女は極力和を乱したくないし、滅多なことで怒ったりもしない。新人隊員を怯えさせてしまったのは自分の方にも非は有るし、むしろ新人隊員の早とちりは最もなものなので責めるつもりは毛頭なかった。
やはり円滑にコミュニケーションを取るにはアレしかないのだが、普段の仕事でメイド服になる訳にもいかず、そもそも恥ずかしさが勝るので仕事にならないのは自明の理であった。
~・~・~・~
「それで、今回のAnomalousアイテムの異常性はどのように報告されている?」
「はい、こちらの老眼鏡ですが、これを装着した人物は一様に過去の幻覚を見るそうです。見るものは人によってまちまちであり、そこに一定の法則性は見られません」
研究室長と研究助手の会話を注意深く聞きながら、沙流は台の上に置かれたそれを観察する。
Anomalousアイテムは「異常性を有するものの研究の価値無し」と判断される必要がある。過去にはAnomalousアイテムからSCiPとなった物もあればその逆もある。膨大な量が保管されているそれらを定期的に点検し、新たなAnomalousアイテム候補にその資格があるのか慎重に検討するのがこの研究室であり、いわばAnomalousアイテムとなる前に迎える最後の研究が行われる場所である。
目の前の老眼鏡はそれらの中でも比較的大人しい代物の様だった。少なくとも下手に刺激しても暴走したりはしない。
「実際に何名かのDクラス職員により装着されましたが、概ね同じような異常性であると確認されています」
「念の為…幻覚を記録した実験記録を見せてください」
助手から手渡された資料に目を通す。簡潔に整理されたDクラス職員の名簿と、その横に併記された3行の文字列を黙々と読み進める。
「特に何も無い…平凡な幻覚を見る者が殆どですね…」
「ええ。念の為一人一人への質問時間に三時間を宛てたのですが、特にこれといった共通点はありませんでした」
9割の被験者が『家にいた』『仕事をしていた』『旧友と遊んでいた』と過去の日常を語り、その中で特に印象的な場面についても具体的な回答は得られなかった。
「少し気になるのは…被験者の年齢と幻覚での自分が対応している点と、被験者全員がいかなるケースにおいても…幻覚を現実だと認識していた…という点でしょうか」
「まあ、ただそれだけであればAnomalousとしての資格は充分でしょう。ロッカーにはまだまだ空きがある事ですし、書類に登録しておきましょう」
助手の一言に室長も頷き、老眼鏡はトレーの上に置かれた。
「沙流研究員、他の仕事も大変だろうし本日の業務はこのアイテムの登録手続きで終了して構わないよ。私と助手君はアイテムの定期点検に行く事にしよう」
「沙流さんの分は僕がやっておきますね!ではお先に失礼いたします!」
「ええ、お先に…どうぞ」
2人が出ていった後の研究室は少し広く感じられる。窓から差し込む光はややオレンジに染まり、時計の針は午後5時を示そうとしている。
何処か遠くからサイレンの唸りが聞こえてきた気がして、彼女はスマホを取り出した。だが、非常事態発生の通知は入っていない。本格的に死の危険があるオブジェクトを収容していないサイト-8190において非常事態は起こりづらい。だが、それは誰も死なない事を保証するものでは無い。
Anomalousアイテムの登録にあたり、沙流研究員は必ず自らがその異常性を確認してから作業に当たる様にしている。ナンバリングされたSCiP達に何人も精神を狂わされ、死を迎えていく。その影でAnomalousアイテムによる死者はあまり目立たない。
彼女がAnomalousアイテムを持つ時、いつも考えてしまう。自分もいつか死んでしまう時が来るのだろうかと。この小さな研究室で唐突に、なんの前触れもなく孤独に、あの人の様に。
目を閉じて静かに老眼鏡を掛ける。一呼吸おいてゆっくりと目を開けると、研究室は闇の中にあった。明らかに時間帯が変化している。
(ここは幻覚だ…私は幻覚を見ている)
深呼吸して周囲を見回し、電灯のスイッチを探す。既に動悸がしていた。いつ何が起こるか分からないという不安が心臓を撫でる。
「あれ、沙流ちゃん?そんな暗い所で何をしているんですか?」
小柄な影が廊下から入ってきたのが見えた瞬間、老眼鏡越しの幻影である事を彼女は考えられなくなった。常に仕事を堅実にこなす彼女にとって、それ程の光景だったのだ。
「……██先輩」
「どうしたんですか?もしかして迷子になりました?無理もありませんね。私が連れてきてから一週間しか経っていませんし」
これは過去の記憶だ。Anomalousアイテムの作り出した幻覚だ。そうだと分かっていても彼女は1歩前に踏み出してしまう。
「私、今は研修を全部こなして、研究員になっていて、それで…」
しどろもどろに彼女の今を語ろうとする沙流研究員に、██管理員は優しく笑いかける
「迷子じゃないって?嘘つきですね。私はこの耳で何でも分かっちゃうんですよ」
幻覚故に、会話は噛み合わない。言葉は届かず、視線は交わらない。それでも沙流研究員は必死に目を合わせようと声を張り上げる。
「貴女には返しきれない恩があるのに!私は…何も出来ないままで…死んだとか転勤したとか、どっちが嘘でも!もう二度と会えないのは本当で!」
「ほら、怖がらないで」
彼女の耳が沙流研究員の鳩尾に押し当てられる。
「貴女の優しさがこうしていると伝わってくるんです。でも迷子だからって恥ずかしくなって誰にも連絡しないのは駄目ですよ?私は呼ばれたら何時でも駆けつけますから。貴女の居場所はいつも広くて明るい場所でいいんですよ」
暖かい声に、沙流研究員は研究員である自分を喪った。手を伸ばし、彼女を抱きしめ返そうと再び足を踏み出す。
「――員!沙流研究員!」
ふと、耳に響く別の声が幻覚を歪ませた。抱きしめようとした手は相手を虚しくすり抜け、不安定になった重心でよろめき踏み出した足は現実のデスクの脚に引っかかる。
「あっ」
床に全身を打ち付けると同時に、サイズが微妙にあっていなかった老眼鏡は顔から外れて宙を舞った。
「沙流研究員!どうしましたか!大丈夫ですか!あっ」
パリン。
沙流研究員の声と異様な雰囲気に駆けつけ、ついでにAnomalousアイテムとして登録されるはずだった老眼鏡を踏み壊したのは昼間に出会った新人機動隊員であった。
〜・~・~・~
「すみません、ウチの新人が…まさか異常アイテムを壊すなんてとんだヘマをしでかすとは」
翌日、目を離した隙に部下がとんでもない失態を犯していた事を知った隊長は説教と然るべき処分を下した後、研究室へ直接赴き謝罪していた。
「いえいえ、いいんです…私の不注意もありましたし、破壊された老眼鏡もAnomalousアイテムとして登録予定でしたので…」
「だからこそ保管されるはずだったのでしょう?状況は聞きました。いくら異常性に見舞われていた所を助けるためとはいえですねぇ」
隊長の愚痴を聞きつつ、沙流研究員は壊れた老眼鏡を見やる。レンズが粉々になっても異常性はそのままかもしれないと僅かな期待を込めてもう一度掛けてみたのだが、あの時の光景は全く見れず仕舞いだった。
隊長の愚痴が一通り述べられた後、沙流研究員はおもむろに口を開いた。
「この老眼鏡、実は過去を見せる異常性があったのですが…それが私にとってとても思い入れのある人物との記憶だったんです。ある場面だけを延々と繰り返し見せるのだと過程すると、私は…もしかしたら老眼鏡で過去を見るために何度でも…何度でもこれを使ったかも知れません。過去に囚われてしまっていたかも…ですから内心ほっとしているんです。管理すべき物品が破壊されてホッとするなんて、財団の研究員としてあるまじきことですが…」
それを無言で聞いていた隊長は頷き、穏やかに笑う。
「私も今まで色んな部下をもっては失って来ましたからなぁ。もしかしたら私もその老眼鏡であの頃の部下たちと会えていたらと考えると、何も言えませんな」
立ち去る隊長の後ろ姿を見送り、彼女は老眼鏡の事を思い返す。老眼鏡の出自についてのデータを参照したところ、所有者は60歳の頃に購入しその後無くなるまでの25年間ずっと愛用し続けたという。所有者の母親が亡くなって以降は認知症にかかり、晩年は母親の幻覚を見ることが多く穏やかな最期を迎えたそうだ。
親しい人と会えなくなった時に感じる寂寥感を老眼鏡は満たしていたのかもしれない。もう先もない身であればそれもいいのだろう。しかしまだ先のある人が過去を想う時、それは今を見直す一助にも先を見失わせる幻にもなり得る。
壊れてしまった事を残念に感じる自分に苦笑いしつつ、彼女は老眼鏡の破片をビニール袋に入れてデスクへ仕舞った。