[データ削除済]への追悼
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ここ財団では、死はさまざまな形をとって現れる。

例えば写真の中の4ピクセル一冊の黒い表紙の本任務中のトイレ。そういった意味の解らない死はそれでもまだわかりやすい方なのかもしれない。[編集済]の文字列の中に、黒塗りの犠牲の中に一体いくつの人命が押し潰されたのか、私には見当すらつかない。

そういった事例を知っていれば、今目の前にある死を理解するのは容易い事だった。0を目指して回る計量器の針。それが意味しているのは、のっぺりと白い防護壁を二つ隔てた先で仲間が今死んでいるという事実に他ならない。アノマリーの一撃を避けそこなったか、それとも別の異常事態が起きているのか。こちらで知る術は無いし、出来る事だって何もない。ミーム汚染の拡大を防ぐため、カメラが取り付けられていないのだ。

握ったレバーから手を離す事も出来ないから、手を組んで彼のために祈る事だって出来やしない。ただ針の動きを見つめ、せめて0で止まってくれと思うだけだ。それ以外の動きをしていたら、死ぬのは一人では済まない事態になる。薄情な祈りが届いたのか、針は0を指して静止した。レバーを下げて、報告を行う。一名損失、状況不明。回収に向かって下さい。無味乾燥な報告を終え、深々と溜息をついた。ああ、酷く寒い。

死を示す計量器、悼むには少々無機質が過ぎる光景。それを眺めながら扉の向こうの物音に耳を傾けた。もう一人の仲間が██の亡骸を回収しているはずだ。汚染具合によっては廃棄処分。そうなれば彼の姿を最後に見たのはさっき出ていった時という事になる。今扉を開ければ一部分くらいは目に留めておけるだろうか、とふと考えた。もちろん実行に移すことはない。

扉のこちら側では後輩が一人、青ざめた顔で扉を見ていた。財団にやってきて一年程度と言っていたか。この任務には最近就いたばかりで、こういう事態に陥ったのは私の記憶にあるかぎりでは初めてだ。ここほど記憶が信頼出来ない職場もないが、私の記憶にないなら彼女の記憶にもない筈だ。沈黙に耐えかねてか、彼女はぽつりと呟いた。

「……██さんは」

「助からないだろうね」

出てきた答えは思っていたより遥かにそっけなく響いた。彼女はそうですかと言ったきり黙り込んでしまった。沈黙が無表情に白く塗りつぶされた空間を支配する。聞こえてきたかすかな嗚咽に目をあげれば、堪えそこなった涙が零れたのが見えた。若干の羨ましさと居心地の悪さを覚え、私は目を逸らした。ここはとても寒い。

何か優しい言葉でもかけた方がいいのだろうと思ったが、私には何を言えばいいかわからない。私が新人だった頃、こういった時に何を言われたか覚えていないのだ。それに、この感触だと多分待っているのは記憶処理だ。すぐ拭い去られる言葉に何の意味があるだろうか。

寄り添う事も出来ないままに扉を見つめてどれほど経過しただろうか。やがて扉が開き、作業を終えたであろう同僚が現れた。彼は無表情に私達を見て、黙って首を横に振った。彼女の啜り泣く声が少しだけ大きくなった。私の方は何も変わらなかった。手に持っているものを見た時点で全部わかっている。クラスC記憶処理。私達の収容チームは最初から三人だったことになるのだ。向こう側に"成って"しまった私達のチームメイトは最初からいなかったことになる。

彼はまず私の前に立ち、準備はいいですかと問いかけた。彼女は後回しという事だろう。私は頷いて、副作用軽減のために渡された粉薬をどうにか飲み込んだ。袖をまくって覚えのない注射痕が残る腕を露わにする。針が刺さっても痛みはあまり感じられなかった。

ああ、██君。私は君の顔も名前も憶えている事は出来ないだろう。どうか私達を許してほしい。せめて存在していたという事だけでもこの記憶に留められたらいいのだが。そんなことを思いながら注射器を見る。液体は残り半分程度。チームが四人だった時の光景を最後に思い返そうとしたところで目が覚めた。

目の前に広がる滲んだ寝室に、私は瞬きを二回ほど繰り返した。それからようやく私は自分が安全なベッドの中にいて、暖かな布団にくるまれていることに気づいた。すぐ上のベッドでは後輩が静かに寝息を立てている。何も起きていない、平和な休日の朝だ。あれは夢だったのだという実感がようやくわいてきた。

私は起き上がり、知らぬ間に濡れていた頬に触れた。二度寝する気にはなれなかったのでそのまま布団を抜け出した。朝から疲れる夢を見た、仲間が死ぬ夢は何度目であっても嫌なものだ。それにしてもあの計量器は何だったんだろう、等と思い返してはたと気づいた。

私も彼女も、四人組のチームに所属した事はない。彼女がやってきて相部屋になってから、私たちはずっと二人でやってきた。残りの二人はいったい誰だったんだろう? もう一度夢の記憶を辿っても、顔も名前も思い出すことは出来なかった。ただ、あれは私の知り合いではないという確信だけが心に残っている。あれは本当に夢だったのだろうか? いや、 間違いなくそのはずだ。記憶が消されたのなら夢にだって出てくる筈はない。皮肉なことに、財団の記憶処理技術の確実さが逆に私の記憶の確かさを保証している。

だが、私たちは本当に最初から二人だったのだろうか? 消されてしまった仲間なんていないのだとどうして言えるだろう? 報告書に溢れる[削除済]が自身の隣人だった事はないなどと、誰がそんなことを保証できる?

心臓が波打ち始める。記憶処理、現実と過去の改変、私たちの思い出を欺く機構なんてこの財団には溢れかえっているのだ。疑ったところでどうしようもないし、信じてみても何があるわけでもない。誰がいなくなろうとも、残るのが黒塗りの実験記録だけであったとしても、私たちは私たちのやるべき仕事をやるだけだ。

考えない事にしよう、あれはただの夢でしかない。悪夢のせいで不安になっただけだと私は自分に言い聞かせた。口の中のざらつきが急に気になって、口をゆすぐべく私はベッドから降りた。早朝の涼しさが肌にしみる。夢の中の粉薬の事を頭から追い出すことに失敗しながら口をゆすぎ、顔を洗った。大体「記憶処理の副作用を抑えるための薬」って何なんだ、バカバカしい。いや、夢の内容に突っ込みを入れるほど野暮な事もないが。顔を拭いてしまえば、最後の夢の名残も物理的にはさっぱりと拭い去られた。身支度を終えて時計を見れば、財団の食堂が開くにはまだ時間があった。こんな朝は散歩をしよう。秋風の中を歩きながら、最初から存在していなかったのであろう仲間の事を考えよう。

私は一度だけベッドを振り返った。後輩はまだ早朝の弱い光に照らされながら眠っている。向こうを向いているから顔は見えなかった。願わくば、よい夢を見ていますようにと願う。私自身のためにも、記憶処理される夢だけは見ていてほしくない。

音をたてないよう静かにノブに触れた所で、ふとドアに貼られたステッカーに目がいった。顔も知らない誰かが貼った、剥がれかけの金色の星だ。これを貼った人間は何を思っていたのだろうか。記憶には残らずとも、残滓の一つくらいは残せるというわけだ。

ここ財団で働く限り、死はさまざまな姿で私たちの前に横たわっている。[データ削除済]の中に何人の死が押し隠されているのか、私にはわからない。それでもその中に含まれているかもしれない、私の仲間であったはずの[データ削除済]に短い黙祷を捧げ、私は部屋を後にした。

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