記録の始まり/記憶の終わり
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「お疲れ様です。では、あちらで速やかに処理を受けてください」

「はい、わかりました。お疲れ様です」

機械的な挨拶。感情のない労いの言葉に合った、抑揚のない反応を返す。そして、示された場所へ向かう。無機質に響く足音は、等間隔に拍を刻んでいた。目を下に向け、先の見えない道を進み、目的の部屋に入る。

「お仕事お疲れ様でした。さあ、楽にしてください」

「はい、わかりました」

入ってすぐ近くのソファに腰掛け、その時を待つ。私の仕事は、これをすることで1つの区切りになる。何度やったのか、覚えられないので仕方ない。この行動に慣れたのか慣れていないのか、それすらもわからない。

「準備ができました」

「お願いします」

白色の薬剤を幾つか手渡される。見覚えのないものに感じるが、これを飲んだ後の感覚だけは知っている。私はこれに慣れている。今まで見たものは、聞いたものは、全ては悪い夢だったことになり、また何も知らない私になるだろう。

「いただきます」

何の感情も持たず、ただ飲み込む。すぐに視界が白くボヤけ始める。さっきまでの浅い思考は糸のように解れ、広く大きな海に自分が溶け出していくような感覚に陥る。私の記憶領域に穴が開き、私が得た知識や経験はボロボロとこぼれ落ちては奈落に消える。私が前に進むことはない。私が新たなものになり得ることはない。私は常に失い続ける。忘れ続ける。それでも私は私であった。少なくとも私は、私のことを"角宇野一四"という人間であると覚えているのだから。




私、角宇野一四は財団で働く職員である。主に実験の記録係や他言語の報告書の翻訳を行っている。ただ、私は一介の事務職員であり、研究者ではない。だから、私が知る必要のない記憶は"処理"される。私が明日の私に保証できることは、覚えてない分だけ給料が出ることくらいだ。

ここ──サイト-81██で働くようになったのはかれこれ2ヶ月ほど前だっただろうか。雇用前後のことは殆ど覚えていない。同僚や上司に聞いても、全く記録がないらしく反ミーム的な何かに当たったんじゃないかというのが専らの噂だ。……事実上出自が不明な私をこうして働かせてくれていることには感謝しかない。だから、私は今できることを精一杯やろうと考えている。

「あ、角宇野チャン、よっ」

「あ……えーと……こんにちは」

私は変わった名字であるため、人に覚えてもらうのは割と早い方だ。私自身、私がいなかったらこんな名字が存在するなんて信じられないだろう。それに加えて、周りの人と比べて背丈が頭1つくらい小さいし忘れる方が難しい。しかし、ここで私にされる"処理"が重くのしかかってくる。私は業務で関わった人の名前も、顔も、性格も、何一つ覚えていられない。男か、女か、人間だったかすら。だから、廊下ですれ違ったときに手を振られたり、食堂で声をかけられたりしても、曖昧な返事しかできないのは気まずいものである。

「この後暇だったりする?アレだったら一緒にご飯でも──」

「いえ、結構です。お気遣いありがとうございます」

私はそう言って一礼し、その場から足早に去る。覚えていられない。だから、こうやって人と深く関わることはしない。深く関わらなければ、相手が忘れられたことに傷つかない。私が忘れることに苛まれない。全く持って理に適ってると思う。

「あちゃーまたフラれたな。これで何回目だ、桜庭?」

「うるせーよ!なんかいっつも1人だし、ほっとけねーなと思っただけで──」

「はいはい、言い訳は署で聞くから」

「クソー!次は絶対成功させるからな」

しかし、遠くに聞こえる喧騒に対して寂しくならないかというと。

「……っ」

そういうわけではなかった。




"人は支え合って生きているから人と書く"。ドラマの中の人格者はそう言っていた。では、支えのない1本の棒はどうなるか?自身の重みに耐えられるものはその場に立ち続けられるだろう。しかし、そう上手くいくものではない。支えのないものはその感情を吐露できず、その心労を解消することはできず、その重みを耐え切るほどの自分の価値を得ることができない。そうして自分でいられなくなったものは、舞台から転げ落ちるしかなくなるだろう。今の私のように。

その日は昨日と、そのまた昨日と、そして恐らく明日とも同じ仕事をして、その終わりを行っていた。全く持って不愉快な酔いだけが残っている状態で、無機質な廊下に立つ。これまで何度も見てきた光景であり、これは私にとっての終業の合図だ。しかし、今日は今までと違っていた。

「……?」

方角がわからない。いや、自分がこれからどこに向かえばいいのかがわからない、が正解だ。これは経験したことがない未知の感覚であった。今日は記憶処理が効きすぎたのだろうか。ちょっと報告すべきだろうと思い、今出てきたはずの扉の方を振り向く。

「……!」

扉は鏡ではないが、私の酷く驚いた表情がそこに写っているように錯覚した。私はこの扉に見覚えがない。いや、そんなはずはない。例えどんなに記憶処理をされても、このサイトのことすら忘れるなんてありえない。そこまで消えたら私は生きていられないじゃないか。落ち着こうと深呼吸しようとしても、荒くなった息を無駄に意識してしまうだけだった。思考が高速で回転し、記憶中枢の様々な扉にノックする。ここは──サイト-81██。今は──仕事が終わった直後。私は──実験の記録と翻訳をして──背が小さくて──無愛想で──変な名前で──変な名前──名前──。

あれ?私ってなんて名前だっけ?

刹那、視界が暗転した。




[療養期間: 1週間]

私が今眺めている紙に書かれている言葉だ。私は記憶処理室の前で気絶しているところを発見され、すぐに医務室に運ばれたらしい。精密検査とかもやっていたらしいが、脳に異常はなくストレス性のものかもしれないと言われたため、1週間の療養期間を得ることになった。起きた後に医者からは"記憶処理剤は許容量の範囲内で使用されており、人体に影響を与えているとは考えにくいが、安全を取って休んでほしい"と言われた。目覚めた直後は少し気分が悪かったが、今は特にそんなこともなく。すぐに復帰したい気持ちもあったが、医者にあんなに心配そうな顔をされたら流石に言い出せない。というわけで、サイトの外に興味がなく大した趣味もない私は、完全に暇になってしまった。

行くあてもなく薄暗いサイト内を彷徨う。日焼けの全くない白い顔で辺りをうろつく様は生きながらにして幽霊になったようだった。つい視線をあちこちに飛ばすと、普段は目に付かない、いや、目に付けないようにしている景色が嫌でも入ってくる。……思えば、私がここに来てから私以外の事象に興味が行くのは初めてかもしれない。笑い、会話をしながら歩く人々もいれば、忙しなく行き交う人々もいる。中庭では皆思い思いの休憩をし、その時間を自分のために謳歌している。そんな人たちを見て私はただ眩しく思った。そうやって人々の様子に少し夢中になりながら歩いていると──

「きゃっ」

「おっと」

誰かにぶつかり、尻餅をついてしまった。ボーッと歩いてるところに人とぶつかるなんていうドジをしてしまったことに気づき、つい赤面してしまう。

「すいません、お怪我はありませんか?」

「こ、こちらこそすいません。大丈夫です」

「よかった。さ、手を取って」

優しく手を差し出してくれた人の方を見る。私より少し背が高いくらいだが、幼い雰囲気と大人びた雰囲気を同時に強く感じた。彼の華奢な右手を私の小さな右手が握る。

「あ、ありがとうございます。ええと……」

「遠野です。ここの併設図書館の司書をやっています」

「す、角宇野です」

業務以外で人と話すのは久しぶりであり、半ばパニックになってしまっている。こ、この人とは会ったことがあるのだろうか?

「初めましてではありませんよね?」

痛いところを突然突かれ、身体が小さく飛び上がる。全然思い出せないし、ここは素直に謝ろう。

「す、すいません……覚えていなくて……」

「いえ、責めている訳じゃありません。貴女が置かれている境遇はわかっているつもりなので」

「は、はあ?」

「僕は記憶力がいいので、このサイトの人間のことはほとんど覚えています。貴女は角宇野一四さん。肩書きは事務職員、もしくは記録官。セキュリティクリアランスは1から3まで可変。記憶処理をよくされていて、身長は142センチ、体重は──」

「わーっ!」

いきなり何を言い出すんだこの人は!

「い、いきなり、女性の体重に、言及するなんて、非常識です、よ!」

「あはは、すいません。でも、緊張感は無くなったでしょう?」

ふと自分の身体に意識を戻す。心の震えと肩の強張りはどちらも綺麗さっぱり無くなっているのがわかった。これが彼なりの気遣いなら、もう少しやりようがあったのではないかと思う。つい感情がそのまま顔に出てしまう。

「もう……」

「ほんとごめんなさい。でも、これで僕が色んなことを覚えていることはわかったでしょう?」

「ええ、まあ」

そう答えると遠野さんは少し満足そうな顔になる。そのまま人差し指と親指を直角の形にして私を指差す。

「ズバリ、貴女は今休養中で暇である」

「……はい」

私が不服ながらに返答していると、遠野さんは"そうですね……"と何か考え事を始めた。この人は何を考えているのだろう。

「貴女はもう少し人と関わった方がいいかもしれません。すぐそこに談話室がありますので、そこの職員さんとお話ししてみるのはどうでしょう」

「え?」

私はおそらく"いきなり何を言ってるんだこの人は"という顔をしているんだろう。遠野さんは続ける。

「ええとですね、貴女には今お仕事しかないみたいなので、人と関わってみたり、趣味を見つけたりしたらもっと楽しく過ごせるようになるかな、と」

「はあ」

「要らないお節介だったらすいません。でも、貴女のことを覚えている人だって、貴女のことを心配している人だっているってことだけは覚えていてくださいね」

「……」

言葉に詰まる。私は関わらないようにしているのに、私を心配してくれている人がいる……。

「あの……」

「では、僕は仕事に戻らなくてはならないのでこれで。図書館でまた会いましょう」

「あ……はい」

様々な進言を押しつけて、小さくて大きな彼は行ってしまった。談話室。足は自然にそちらの方を向いていた。一歩進むと、その先の廊下の照明が点き、パッと明るくなった。




「ん、お前は……」

談話室の中にはコタツの中に潜っている女性が1人でテレビを見ていた。何処となく粗暴そうな雰囲気であるため、喋るのを躊躇ってしまった。が、人と関わることを目的にここへ来たのだ。とりあえず返答しよう。

「こ──」

「待て。今思い出す。確か……そう、かくなんちゃらだったよな?」

「えーと、角宇野です」

「え、あれでかくって読まないの?」

「そうです、あはは……」

つい苦笑してしまった。これまた、調子が狂うというかなんというか……。既に彼女独特の波に押し流されそうになっている。

「ま、ここん中入れよ。寒いだろ?」

「え、あ、はい」

有無を言わせない雰囲気を感じたため、そそくさと彼女の向かい側に入る。コタツは思ったよりも熱かったが、心がほのかに温かくなるように感じた。

「お前さ」

「……なんですか?」

彼女は私の顔を眺め、薄ら笑いを浮かべている。

「偶にはサボれよな。お前がぶっ倒れた話、サイト中で噂になってるぜ」

「ええ!そうなんですか……」

「大マジだ。ま、サイトに所属されたばかりのやつが、張り切りすぎて過労で倒れるなんてのはよく聞く話だ。ここじゃ適度に真面目に、過度にサボって息抜きしなきゃやってらんねえよ」

「す、すいません」

私のことがそこまで広がっていたとは……。恥ずかしい気持ちになり、俯いてしまう。彼女の言うことは正論であり、何の異論の余地もない。しばらく縮こまっていると急に向かいからため息が聞こえた。彼女の方を向くと、呆れている様子だった。

「はあ、私の言うこと真面目に聞くやつなんてお前が初めてだ」

「すいません……」

「そんな謝んなって!ったく、しょーがねーなー」

と言うと彼女はコタツから立ち上がる。

「何処に行くんですか?」

「ま、テレビでも見ながら待ってろって」

やれやれ、という顔をしながら備え付けのキッチンの方へ向かう。一体何をする気なんだろう。暫く待っていると彼女は手に紅茶とプリンを持ってコタツに戻ってきた。

「これは──」

「偶にはこういうことしてもバチ当たんねーかなってな。初回限定サービスだ。次回からは有料だかんな」

「──ありがとうございます!」

純粋な善意を向けられた私は、歓喜の心を抱いたまま彼女によって目の前に置かれたプリンに目を向ける。……あれ?何かが貼ってある……。

「これ、"日野"さんって人のものじゃないんですか?」

「あ?あー。あの冷蔵庫、共用だから誰のものかわかるように目印が付いてんだ。こういうのがあったら、それを置いてったのが誰か、誰が食べる予定なのか忘れられずに済むだろ?」

「忘れられずに済む……」

「ああ、そうさ。ここでは毎日色んなことが起きている。人が死ぬようなことも日常茶飯事だ。でも、プリンなんてこんな些細なことを覚えているだけで、その日1日仕事ができる。これを見てソイツが生きているという事実を覚えているだけで、安心して生活できる。人間ってのは大事なことを忘れずにいるってだけで、案外死ななかったりするもんなんだよな」

彼女は誰かを思い浮かべながら語っているようだった。覚えることで、忘れないことで生きる意味に繋がる……。私だったらどうだ。私の、穴が空いた記憶にそんな役割は、ない。例えそれを頼りにしていたとしても、知らぬ間に私から消え去っているかもしれないからだ。しかし、彼女が言っていることも理解できる。支えがあってこその人間だ。私は多分、耐えられなくなる。

「お前はどう思う?」

彼女は質問する。私は。どう思う。

「──長くなりそうですがいいですか」

「おうよ」

彼女は身体をこちらに向け、少しだけ真剣な表情になる。

「──私はあらゆる物事を覚えていられません」

ゆっくりと喋り始める。

「それがそのときよく関わっていた人でも、何かの話で盛り上がった人でも。それどころか自分のことですら」

「だから、私は人から覚えられないようにして、誰も覚えないようにしています」

吐き出す。

「でも、私だって、誰かの何かになりたいです」

「私だって誰かの思い出に」

「1人は──嫌です」

吐き出す。

「私は、どうすればいいですか」

全て吐き出した。私の思っていることを。感情が昂ったせいか、それとも初めて感情を喋り尽くしたからか、頬を涙が伝う。

「その答えなんて簡単だろ?」

先程とは違う優しい笑顔で答える。

「え?」

「忘れるならなんかに残しときゃいいじゃん。その付箋みてーにな」

彼女はプリンを指差しケラケラ笑う。

「ふつーの人間だってすぐ忘れるんだ。記憶補強剤でもなけりゃその呪縛から逃れらんねー。だから、記憶を外に写す」

ああ。

「お前は人よりちょっと忘れっぽいだけだ。なら、人よりちょっと多く外に出しときゃ人並みに過ごせるだろ」

ああ、そうか。それはとても簡単なことだったんだ。

「だから、まあ、なんだ、泣くな」

「──はい」

「これ食って元気出せ」

私の目の前にあるプリンを指差す。

「でもこれは──」

「アイツなら話せばわかる!私が責任持つから!」

彼女はプリンに貼られた大きめの付箋を取り去り、ぐしゃぐしゃに丸める。

「人間は都合よく忘れることだってできる!さ、食え!」

ニィと犬歯を見せるような少し悪い笑顔をしながら、彼女は私に再度プリンを勧める。私は何だそれ、と彼女の強引な理屈に苦笑した。彼女の話を反芻する。私は──誰かの何かになることを拒むなんて止めよう。その第一歩がこれなんだ。勢いよくプリンの封を開け、その柔らかいカスタードを小さなスプーンで掬う。そうしてそのまま口の中に入れると、甘みが全身に染み渡るのを感じた。これが覚えている限り初めて感じた味だった。




その日は昨日と、そのまた昨日と、そして恐らく明日とも同じ仕事をして、その終わりを行っていた。全く持って不愉快な酔いだけが残っている状態で、無機質な廊下に立つ。これまで何度も見てきた光景であり、これは私にとっての終業の合図だ。しかし。

「……?」

以前発生した記憶の混濁は決して良くなった訳ではなく、このように時々何もかもがわからなくなることがある。でも、私たちが繋いできた記録を、私の記憶にすることで私は私として生きることができるようになった。私の知識や経験は奈落に落ちず、昨日の私も今日の私も明日の私にその存在を保証できるようになったのだ。

何もわからなくなった私は胸元に何かがあることに気づき──それがメモ帳であることがわかる。そして、最初のメモを読んで私は私を知り始めるのだった。

全てを忘れた私へ

これは私に関するあらゆるものをまとめたメモです。これで忘れたところを補ってほしい。そしてこれを見ている私もメモを取ることを忘れないでほしい。

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