ひとは誰だって、ひとりでは生きていけない。
どんなひとも、ひととのつながりは切り離せない。
これはとある平凡なタクシーに乗り合わせた、
すこし変わった事情を抱えたひとびとの、
彼らだけの変わった関係についてのお話。
その日も、タクシーはいつもどおりの夜を駆ける。
そのハンドルを握るドライバーは、彼らの会話の意味も、
世界の秘密についても、知るよしもないままで──
「せっかく久しぶりに会えた友人と、一刻も早く、可能な限り長く語り合いたいものだけれど」
どこにも視線を合わせていないようなジャック・ブライトはその隈の濃い目を閉じて、
「今は寝かせてくれ。睡魔が首元にまで来てる。まともな会話ができる自信がない」
と、やや聞き取りづらい英語を、せまい車内に放り投げる。
私が日本に到着してからまだ12時間も経過していなかった。しかし私を呼び付けた彼の元へ真っ直ぐ向かってこんな対応をされたとしても、私たちに時間はたっぷりあるわけだし、不満はなかった。
異国の地──日本に、日本人の体で、日本人として生きているジャック・ブライト。彼にも、定期心理鑑定が必要なのだ。ブライト博士が過去現在未来世界中至る所に居ようと、サイモン・グラスには人一人分の一生しかなく、世界に一人しかいない。
彼の外見が変わろうが、彼の全てを理解している人間は、私しかいない。
「……あなたの居住地をおしえていただかないと。このタクシーがどこへ向かっていて、私たちはどこに向かえばいいのかわかりません」
「目的地は指定済みだ。料金も先払いしてある。日本のタクシーは便利だよグラッシー。出張は多くはないけどすっかり使い慣れてしまった」
日本人に関しては、詳しくない。関わる機会も少なかったし、正直言ってまだあまり見分けもつかない。ただ、初めて見るブライトの顔にも、蓄積された曇りがあったことを見抜けないわけではなかった。このブライトの顔を初めて見るとしても、いままで彼が全くしなかったような顔をしていることはわかる。
「まあでも、忙しいのは今日までで終わりだ……まだ鵜呑みにはしてないが、今回の移動で俺は郊外の中でも郊外の小規模なサイトにいくことになるらしいからな。仕事も減って、穏やかな気持ちで生活できるんだと」
「それは結構なことです。あなたは見るからに疲れていますし、そのほうがいいでしょう……何か、大変なことでもありましたか」
「何か小狡い手を考えたりしなくても、俺の要求がすんなり通ることが多くなった。君に関してもそうだ。次の職場に君を本土から呼びつけ、長期出張させるなんて勝手気ままな要望も俺が送った。お互いのために必要だと思ったんだ」
「……必要、というのは」
首飾りが襟元からちらりと見え、ほんの少し鈍く光る。タクシーはハイウェイに乗り込み、街の光たちは背後にかすれて消えていく。
「さあな。死神と呼ばれる男と関わるようになってから──俺にも少し、何かがわかるようになったのかもしれない」
私は、彼のような超能力者ではない。
それでも、彼をただ1人の人間として理解してやれることは、私にとって唯一無二の力なのだった。
「俺みたいな大人にはならないでね。バイトさんは聞かされ飽きてるだろうけど、本当に、下の奴に他に教えられることがなくなるから」
安藤さんがかつて行きつけだったというラーメン屋の帰り、俺は初めて彼の口から説教臭い言葉が出るのを聞いた。ラーメンはまあまあ美味しかった。今日の清掃バイトで一緒になった安藤さんは身構えるほどに関わりづらい人じゃなかったし、軽めの世間話もできる。自嘲するようなつまらない大人なんかじゃない、と思う。
タクシーの中、満腹になった腹とほのかに残る脂の匂いに吐き気を呼び起こされないように、俺はただ正面を見据えていた。別に、しゃべることがなくなったんならしゃべらなくたっていいのに。人の自嘲ほど聞くに及ばない話もないし。
「座布田です。聞かされ飽きましたけど、久々に聞きました」
財団には”ダメな大人”を自称する人が案外少ない。変人や変な仕事は多いが、目の前のことに精一杯というか、何かしらの才能や立場が得ているおかげで誇りを持てているように思う。安藤さんはラーメン屋で、自分がスロットで生計を立てていたころのことを思い出したらしい。
じゃあ何で俺を連れて行ったのかと聞けば、味を気に入ってもらえるか試したかったから、とそれだけ告げた。
「プライドだけいっちょ前に高いくせに、自分一人だけじゃ何も変える力なんてなかったんだ。今の職場がなかったらほんとにどうなってたかわからん」
器用そうな君がうらやましいよ、なんて。
ひと回り近く上の安藤さんは俺と立場が近いのだと言う。どういう経緯で財団にいるのかはわからないが、たしかに、何かしらの能力を買われて雇われたとか、そういう仕事をしているふうには見えない。
俺だって財団という居場所を偶然与えてもらって経つ。その中にも仕事という居場所は無数といえるほどあって、俺はどこに収まるべきなのかを、未だに探しているんだ。
「……うまく言えないですけど、結局のところ今は自分の力でここにいるわけですから。大丈夫だと思いますよ」
でも生き生きとした顔で働いている安藤さんに、そんな内情があったとは想像だにしなかった。
財団へ繋がる地続きの道を走るタクシー。久々に、バイト先の”同僚”と交流する感覚を思い出したし、彼の常識離れしていない感性に多少の安心感を覚えていた。
「はは。財団の人に助けられてばっかだけどね。座布田さんも今の積極性があればきっと大丈夫だよ。これからも頑張ろな。またラーメン食いに行こう」
俺が積極的なのは人間関係じゃなく仕事に対してだけだよ、と思いながら、また機会があれば、とつぶやく。
でもそんな声でも相手に届いてしまえるようなそんな車内の距離感は、気分の悪いものじゃなかった。
「この度は、ありがとうございました」
そんなに急に話を振られても、貴方との世間話は浮かんでこない。
名駅で神山を拾ってほしい、との連絡が入ったのは神山の葬儀に参列した帰りのことだった。なるほど、周囲の人間から「神山博士の欠けに関しては、大丈夫だ」と口をそろえて告げられた理由がはっきりした。深い関わりがなかったとはいえ管轄下の職員の事故死にはうろたえて当然だ。そんな私に慰めの言葉をかけているだけだと考えていたが……
自分で怪訝な表情をしているとわかる顔をシートの隣に座る彼に見せるわけにもいかず、タクシーの車内には重苦しい空気が立ち込める。葬儀の後だからではなくただただ、先ほど火葬場に運び込まれたばかりの人間とうり二つの顔が隣にあるということへの不信感だけがあった。
ひとつのいやな考えが、ずっと頭の中を離れずにいる。
「鳴瀬博士、弟は貴方の元で大変世話になったと聞きました。引継ぎのためにも、普段の弟のことをご存知でしたら教えていただきたいです」
彼の代わりが次から次に現れるという噂が本当ならば、このおべっかも定型文と化しているのだろうか。彼のことを、いや君らのことを教えてほしいのは私の方だ。
「……向こうへ戻ったら引継ぎの資料をまとめておくよ。あまりうかつに話せない内容もあるから、今後のことはゆっくり伝える」
「いえ、仕事内容のことでしたらご心配いりませんよ。既に面倒を見てくださっていた方からあらかた教わっています。私は生前の弟と、博士、貴方について知りたいのですよ」
単なる世間話なら、ここでも構いませんよね。と、神山は窓の外を眺める私に視線を送る。私のことを話すにしたって、信用しきっていない相手に身の内を晒すことには限度がある。ボロも出すわけにいかないし。
「あいにく、彼とは職務上の間柄でしかなくてね。プライベートなところまでは言葉を交わすことがなかったんだ。カツサンドが好きだったとは聞いていたが」
「カツサンド!私も好きですよ。駅で買って来ればよかったな」
タクシーは都市部を抜け、昼なら田園風景がよく見えるような郊外に差し掛かる。財団職員としてではなく、ただの人間としての自分を見せざるを得ないこの時間が、私はやはり苦手なようだった。
「ところで」
「はい」
「弟さんが亡くなった後に貴方に連絡したのは誰だったんだ?」
「そうですね。室中という方からです」
「……」
その名前を、人の口から聞くのは初めてだった。
”室中”という男が人の死に関わる時は、必ず、何かが起きている。何かが秘匿され、偽装されている。
いや。彼が偽装に繰り出されるのは、人の死だけじゃなく──
「どうかしましたか?鳴瀬博士」
神山という一見平凡な人物の生から死までを取り巻く圧倒的な異質さを、この薄暗い車内で私だけが感じ取っていた。異常となんの関りも持たないタクシーは、空いた田舎の夜道を軽快に進んでいく。
「ふう、ちょっと遅くなっちゃったねー。今日1日どうだった?」
「す、すっごく、楽しかったです!なんですけど、その、はしゃぎすぎてちょっともう……へとへとで……!」
すっかり日の落ちた夜の都会の隙間を、タクシーはゆらゆらと進んでいく。混雑する週末の幹線道路。窓の外を見れば、隣の窓に張り付いている少年と目が合う。
屈託のない笑みを浮かべている隣の少女と俺は二人きりで、財団の職務で遊園地に遊びに来ていた──仕事柄、いつ途中で呼び出されるか分からず二人してひやひやしていたが、幸い今日はイレギュラーは発生しなかった。夕方ごろには、ただの休日の様に心からエンジョイしていたと思う。
「あの太田さん」
「なあに?」
「今日は私を連れ出してくださって……本当に、ありがとうございました」
現役中学生の彼女──封間えらと知り合ったのは、上司の紹介だった。部署も立場もまったくもって違うのだが、「先輩としていろいろ教えてやんな」とのことで。彼女の身に起きたこと、彼女が気を落としていたことについても、伺っていた。だから気分転換が必要だと思ったんだ。
他に方法も思いつかなかったし、俺だって今の現状を──自分の今後を憂いていないわけじゃない。
「……俺たちみたいなのはさ。直感が大事なんだ。何が正しくて、何が正義で、誰を救うべきなのか。結局のところ自分を信じるのが一番大事なんだよ」
だから俺たちは……ヒーローをしてるんだ。誰かの操作でしか動かない道具じゃない。信用を買われて、自分の中の意思を信じて動く力を認められている。
財団が、人ひとりのことを信頼している。
「だからこそ、人として何かを感じる心を忘れてほしくなかったんだ。封間さんも一人の人間だから、毎日明るく生きる権利があるんだし、気の合う友達と楽しい時間を過ごす権利がある。自分の心が救えなきゃ、誰のことも守れない」
知らず知らずのうちに他人から利用されることだってある。財団で力を持つ者なら尚更だ。
ただ、自分自身が何かを決断して自ら行動したという事実は、消しちゃいけない。
「……遊園地、とっても楽しかったんです。自分の役割すら、ちょっぴり忘れちゃったくらい。でも、他にもたくさん遊園地に遊びに来てる人がいて、みんな楽しそうで、すっごく幸せそうで──みんなの幸せを、生活を守るために頑張らなきゃって」
財団が、人ひとりのことを信頼して動かしていることは、しばしば非合理的だとされる。それでも俺たち財団が人々を守るためことは、人の手を介さずにはなしえない。財団職員と手を取り合って、民間人に手を差し伸べることは、道具には代われない立派な役割。
だから俺も、道具でも異常でもなく、人に認められたH.E.R.Oとしてその役割を果たすために生きているんだ。自分の力を、人が傷つくことから救うことに使うのが、俺の使命だ。
「うん。封間さんなら大丈夫だよ。君の優しさと人を思う気持ちはみんなが認めて、貴方のことも大切に思ってるから。これからも頑張ってね、後輩さん」
「……はい!私、もっと自分を信じます。これからもよろしくお願いしますね……太田せんぱい!」
大丈夫。封間えらは──瞳に光を取り戻したこの魔法少女は、もっと強くなれる。まだ若いのに、誰にも負けない使命感を持って、人への愛情にもあふれてる子だから。
後部座席で二人、顔を見合わせる。人知れず、人を救うために戦っているという同じ秘密を抱えた俺たちは、戦場も立場も違えど、立派な仲間だった。目的地に到着するまでの残り30分の間、ヒーローとヒロインは二人の人間として、会話を弾ませていた。
気がつくと、ぼくはタクシーの後部座席で横になっていた。
アスファルトからタイヤ越しに伝わってくる振動が、なんとも心地いい。ぼくは長距離移動の疲れに暖かく包み込まれて、まどろんでいた。
トンネル内の電灯で、社内が点滅するように明るくなる。こんな感覚は久しぶりだった。視界が運転席のシートの背中でいっぱいになっている。タクシー運転手を始めてから何年ものあいだぼくは、運転席から見える景色しか見てこなかった。
まるで、幼少期、家族でドライブに出かけた頃の帰りのような──
「あらさとし、起きちゃった?」
「寝てた方がいいぞー。家着くの深夜になっちゃうし」
信じられなかった。ぼくはさっきまで、ハンドルを握っていたんだ。車内は紛れもなく、ぼくのタクシーの様子と同じだった。それに前の座席に座っている両親も、今よりずっと若い。ぼくの記憶の中にある、両親の姿があった。こんなの、まるで──
ぼくは夢なんだと確信したけど、目をこする力はわいてこなかった。不思議と、今は安心して寝ていていいんだという気持ちに満たされていた。
「あのさ、父さん、母さん」
「どうしたの?」
「前に、ネットでこういう話を読んだんだ。長い運転で疲れたドライバーの元に現れて、後ろで休んでる間に家まで送ってくれる、不思議な存在の話。それは本物の両親じゃないんだけど、本当に優しい存在なんだ」
「はは。そんな話が?」
「それみたいだなあって。だって変じゃん。ぼくは今タクシードライバーとして働いてて、今日もそれでお客さんを送り届けたはずなんだよ。普段は寝ないでいるのも平気なのに、今はもうここで寝ていたくて仕方なくて……ぼく、事故でも起こしたのかな」
「……ううん。夢じゃないよ」
母さんの顔が見えそうで見えない。けれど、きっと優しい顔をしているに違いなかった。
「さとし、いつもお仕事お疲れ様」
「ずっとお前の憧れだったもんな。タクシードライバー、なってみて大変だろ?でも世の中すべての人は、誰かにとって必要な存在として生きてる。お前だって、そんな人たちの生活、いや人生を、陰ながら支えるために大切な存在なんだ。立派になったな」
寝ぼけているからか、視界がぼやけてきていた。タクシードライバーは大変な仕事だ。素性も知らない人間を、あっちからこっちへ運ぶだけ。トラブルもあるし、人を乗せる不安だって絶えない。
だから、幼い頃の旅行の帰りに、両親の運転する車内で疲れて眠っていたことがどれほど幸福だったかについて、ぼくは忘れたことはない。
「ありがとう、父さん、母さん」
それらが本物の両親じゃなくて、これが夢だったとしても、ぼくはそれらに感謝せずにいはいられなかった。
「ゆっくりおやすみ。私達の大事な息子」
ぼくは濡れた両目を閉じる。真っ暗な視界の内側で、幼少期の思い出とともに、タクシーで向かった各地の景色がよみがえる。この仕事を選んだことを後悔したことはない。でもぼくは彼らが、ぼくの人生を肯定して讃えてくれたことが、ただ、嬉しかった。









