祇園精舎の鐘の声──なんて気取るほど、そもそも闇寿司という組織は繁栄していないが。それでも、私は、私たちはどこかで甘えていたのかもしれない。
ヴェールが剥がれ、紛れる闇が減ったとて。表の寿司が繁栄し、闇寿司への対抗が強くなったとて。それでも闇寿司は、闇寿司で在り続けたことで。寿司の革命児たる我々は、普遍の存在として停滞していたのかもしれない。その結果が、これか。
闇親方が亡くなってから四十九日。闇寿司は混沌の中にあった。
そして、私は。
「まさかあの方が、天寿を全うするとは思いませんでしたよ」
「……そうだな。最期まで、あの方は強かった」
「死ぬ前日までスープの仕込みをやっている様な方でしたからね」
「『弟子が増えた分、仕込みの時間がかかる』なんて言ってな」
通夜の後、暗い部屋で二人。"出刃包丁"のウィークと、"十徳ナイフ"のオールラ。幹部格たる闇寿司四包丁、それも黎明期の「はじまりの四包丁」の最後の二人は、そこで盃を交わしていた。
闇寿司がラーメンも出すだけのありふれた寿司屋だった頃から、彼らも随分と歳を取り、多くの人を見送って、闇寿司という組織も変わっていく。しかし彼らはそれを嘆くでもなく、思い出話をするでもない。もちろんそれらの積み重ねは、彼らにとって尊ぶべきものではあるのだが。それに囚われて仕舞えば、"協会"と同じだ。それに何より──伝えずとも、彼らが闇寿司の歩んだ、語られぬ歴史を想っていることは、わかる。
「オールラさん」
「どうした」
「アナタ、明日からどう生きるつもりですか?」
どう生きるか。どうするのか、ではなく。親方亡き今の、彼の魂は何を選ぶのか。機械化された表情は読み取りにくく、進化した技術はモーター音すら鳴らさずに盃を手に取った。数少ない生身である舌が、純米酒を味わう。嚥下したアルコールで喉を回す。
「権力争いに巻き込まれるのはゴメンだし、私ももう長くはない。伝えるべき技術も全て伝えた」
盃を置く。コト、と陶器が小さな音を立て、盃の底で液体が回るように揺れる。オールラは静かに息を吐いた。
「古い機械の時代は終わったんだ。余生はそうだな、放浪でもするさ」
「そうですか」
去る道もまた道であり、ウィークはただそれを受け入れる。特別なことではない。正道も邪道も行く道も去る道も、彼はたくさん見てきたから。
「で、お前はどうするんだ、ウィーク」
「決まっているでしょう」
次の頭目はワタシです、今のこの組織を束ねるのもまた、面白そうですからね。
変わらぬ好奇の目と、少し煤けた白衣が、闇の中で未だに浮かんでいた。
"十徳ナイフ"は世界を回る。
"出刃包丁"は変革を廻す。
闇と勝。寿司の新時代を切り拓いた変革者が二人とも長く生きたことは、偶然ではのないだろう。幾つもの死地を通り過ぎたそれを、寿司の祝福と捉える者もいるほどだ。
でも、そんなわけはない。"死包丁"のベアは線香が灰になっていく僅かな時間、目を瞑る。死を握る彼は、死に誰よりも近い彼は、その平等さを知っている──。
「随分と長いお祈りだね、ベア」
「……ブラッド」
目を瞑ったまま、ベアはその声の名前を呼ぶ。西洋風の墓じゃなくて助かったなんて嘯く"十字包丁"のブラッドは、不老不死の吸血鬼だ。だから彼女は、この墓に──根無草な闇寿司の同胞たちが眠る墓に、入ることはない。出会った時と変わらぬ顔に、ベアは一つ尋ねた。
「なぁブラッド、お前は何のために生きている?」
終着点のない旅路で、彼女は何を目標にしているのか。墓前にて生を問うた彼に、悠久を生きる吸血鬼はしかし軽く答えた。
「生きるのは面白いから、生きてる。闇親方に封印を解かれて、彼の愉快さに惹かれて、ここにいた」
赤髪を弄りながら、心なしか恥ずかしそうに、下を向いてブラッドは言う。
「そう、か」
「ええ」
闇親方のカリスマは圧倒的だった。この墓に眠る武人、"肉包丁"のストーンは彼を守るため抗争に身を投じた。破戒僧だった老人、"縁切包丁"のニルヴァーナも、最期まで闇親方の元にいた。"妖包丁"のベルも、包丁に呑まれて尚、闇親方には傅いた。
だからきっと、彼の死で闇寿司を去る者は増えるだろう。そうして、闇寿司は否が応でも変わっていく。それを嫌だとは思わない。生きていくことと別れは、セットで回るものだ。ただ、変わっていく中で、きっとあるのは別れだけではない。
目を開く。ブラッドは既に影も形もなく、線香は全て灰になっていた。ベアはその灰を握りしめて、墓を後にする。
"死包丁"は摂理に回される。
"十字包丁"は廻る世界を漂う。
"肉包丁"は闇の歯車を回した。
"縁切包丁"は輪廻に還った。
"妖包丁"は力に振り回された。
生命がいつかは死ぬように、回る寿司がいつかは止まるように、混沌にもいずれ秩序がやってくる。次期の頭目を決める権力争いも、既に大勢が決まっていた。賄賂だったり暴力だったりコネだったり、闇の下に隠されていた手段を使ってのし上がった"彼"。四包丁でなく、闇寿司関連企業の役員が次期頭目になったのも、新たな時代を感じさせる。
それでも──変わらない奴は、変わらない。"ペティナイフ"のカタリーナの高笑いに耳を塞ぎ、Dr.トラヤーの実験室の爆発に飛びのいて、"ペーパーナイフ"の書類に雑に目を通す。
変革も、革命も、混沌も。かつては私も望んでいた。頭目の座を狙っていたこともある。けれど、今はどれにも興味はなかった。若くないから、というよりは。意味がないから、と言った方が良いか。
自室の鍵を開けて、最奥にある扉を虹彩認証で開いて、その部屋の奥の金庫のダイアル錠を「1134」で開く。
丼と蓮華が、そこにあった。
自らの次元間スシフィールドにそれら一式を入れて、用は済んだと自室を後にする。闇親方亡き今だからこそ、この丼と蓮華は──闇親方から受け継いだ唯一無二で至高の一杯は。
私しか、私にしか、伝えられない。
"ペティナイフ"は変わらずぶん回す。
"Dr"も変わらず振り回す。
"ペーパーナイフ"は根を回す。
"隠し包丁"のスニークは、闇寿司で最も才能がない人間だと自負している。かつては最弱を謳っていた彼は、だからこそ、自身を超える圧倒的な才を見出すことができる。寿司に愛されたサーモン使いを筆頭として、かつて多くの才能に触れてきたことも理由かもしれない。
そして、スニークは一つの回答を知った。「寿司に選ばれた才能に対抗するには、闇寿司を回さなければいけない」こと。そして、そこから導き出される答えは、ひとつ。
即ち──寿司に選ばれた者が闇寿司を回した場合、誰も勝てないということ。そしてスニークは知っている。次期頭目の息子が、『寿司に選ばれている』ことを。
「だから、あなたにこれを託す」
丼と蓮華を机に置いて、スニークは相手の目をまっすぐに見る。"サージカルナイフ"のバイオン──比較的新人である彼に、それを託すために。
「何故、私に?」
丼と蓮華は、今も尚圧倒的なオーラを放ち続けている。常人には蓮華で丼を挟んで持つことも難しいであろうそれを、闇寿司四包丁の中で特段実力があるわけでもない、しかも新入りの自分に渡す──バイオンの疑問は当然のことだった。
「決まってる」
スニークは立ち上がり背中を向ける。もう自分の役割は終わったのだとばかりに、立ち去ろうとする。
「闇寿司四包丁の中で、お前が2番目に才能がないからだよ、バイオン」
そう、それはかつて闇がスニークにしたことと同じ。才能がないのに、四包丁まで上り詰めたその研鑽は、正しく評価されるべきであると。スニークはそう言い残し、バイオンの元を後にした。
「……いや」
待て。そもそも、これは手放していいものではないだろう。スニークは、何故これを手放す? これがもう要らなくなったとしたら、それは……!
"サージカルナイフ"はこれより回る。
「どうもこんにちは、寿司の御子よ」
これは、闇の中で始まって闇の中で終わる一戦。
「私は"隠し包丁"のスニーク。突然で申し訳ありませんが、あなたの箸を折りに参りました」
闇寿司の最高傑作同士が、人知れずにぶつかった一戦。
「不意打ちのようになってしまい申し訳ないですが──寿司の未来のためです、構えなさい」
これより無数の勝ち星を重ねることになる、ある天才ブレーダーの初陣。
「ほら、3、2、1──」
闇に隠されたまま、語られずに消えた物語────。
"隠し包丁"は闇を回った。