死亡という言葉に対する耐性は、すでに持っていると思っていた。財団職員は普通の人と比べてその言葉を聞く機会が多いし、常に隣り合わせであるものだと理解している。だから、死亡通知を見たとしても悲しみの涙を流したり、狼狽し震えるといったことはしなくなっていた。それが職員としての当たり前だから。そう考えながら私は仕事用のパソコンに送られた2人の死亡を連絡するメールを閉じた。多分雨が降っているのだろう、部屋の壁の奥からわずかに小さなノイズのような音が聞こえる。その音は仕事をするときにぴったりな環境音であり、私は書類仕事の消化にいつもより集中できていた。が、突然のメール通知に邪魔をされてしまった。背伸びをして、首を回すと小さくこきりとなった。さあもう仕事だと再び事務椅子に座りなおした。しかし、作業は扉を乱暴に開ける音によりまたもや中断せざるを得なくなった。音の方向に向くと、膝に手をついて息を整えている同僚がいた。その状況から最悪の展開を脳内で組み立てながら私は扉に向かって小走りで近づいた。
「一体、何があったの?もしかして、オブジェクトの収容違反が?それとも、実験が失敗したとか……」
「こ、国都さん。ええ、その通りです。実験が失敗し、彼が、その……」
収まりきっていない呼気の合間合間から紡がれる言葉をしっかりと聞く。
「隈取博士が、実験に、巻き込まれて……」
亡くなりました。
その言葉を聞いた後、私の耳から、いや、世界から音が消えた。目の前の同僚はまだ何かを呟いているし、私は手に持っていたボールペンを落としたのだが何も聞こえない。脳内で先ほどの言葉が泡のように生まれては消えていく。
実験。失敗。隈取博士。巻き込まれて。
「……いま、隈取博士は、どこに?」
精一杯だった。これ以上何かを聞くことはできなかった。これ以上の情報を聞いてしまうと、足が動かなくなってしまうと思ったから。
同僚から居場所を聞くと、私はすぐに走り出した。ひらひらと風の抵抗を受けて重くなる白衣を脱ぎすてて、走る。リノリウムの床に靴が擦れる音も、運動により激しくなる鼓動の音も、全てが鬱陶しい。しかし、脳内を駆け巡る言葉の方がもっとうるさかった。何故、どうして、彼が、と言った様々な疑問が脳からはみ出で口から呟かれる。心臓の限界がきて、壁にもたれる。ぜっ、ぜっ、と細かく息を吐いて体の中にたまった熱を放出する。額ににじんだ汗をシャツで拭きとる。体を動かしたからか、私の中に冷静な私がいつの間にか現れた。
どうしてそんなにも慌てているんだい?死亡通知なんて日常茶飯事じゃないか。
確かにそうだ。死ぬことは珍しくない。それがこの仕事。それがたとえ先ほどまで実験を共にしていた職員だとしても、同期の研究員だとしても、そして、それが恋人だったとしても。
隈取博士と初めて会ったのはお見合いパーティーと冠した、奇妙な催しの時だった。様々な職員が楽しんでいる中、私の目は隈取博士にくぎ付けとなった。白衣を着た普通の体の上に、立方体の水槽がのっかっていたからだ。どうしても気になってしまい、私は隈取博士に近づき、聞いた。
「その頭は、本物ですか?」
そんななれそめだった。頭部は本物であると聞いて驚いたのが懐かしい。そこから趣味の話などで気が合い、食堂で一緒に食事をすることも多くなった。彼の話す口調はとても優しく静かで、聞いているだけで安心できるような低い声に私は少しずつ惹かれていき、あまり詳しくない私にも分かりやすいように噛み砕いて海洋生物の説明をしてくれる姿は、例え表情が見えないガラス製の頭だとしても楽しそうで、嬉しそうで。私はそんな姿に少しずつ、それでも確かに惚れていた。そして、4回目の食事の時に、私から告白をしたのだ。彼は「まさか私が驚かされるとは」と笑いながら言った後にオーケーの返事をくれた。他サイトに属している彼とはなかなか会うことが難しかったが、それでも時間があれば彼と過ごすことが多くなるほど、私は彼に恋していた。しかし、そんな素敵な彼にも1つ悪いところがあった。彼はいたずらがとても大好きだったのだ。ある時は前から、またある時は後ろからこっそりと。私はとても怖がりなのでこのことに関してだけはよく彼に怒ったものだ。そう言えばある時にいたずらについて聞いてみたことがあった。確かその時も雨が強かったような気がする。
「隈取さんは何故、いたずらをするのがそんなに好きなんですか?」
いたずらをされた後に問いかけたから、少し語気が強くなってしまったが、決して糾弾したかったわけではなかった。純粋に気になったから問いかけたのだ。しかし彼はその問いかけの後、ぴたりと体の動きを止めて少し顔をそむけた。そして、呟いた。
「国都さん、最近笑った出来事はありますか?」
「え、笑う……?」
唐突に問い返されて、答えに窮してしまった。笑う。多分、1週間前に彼と食堂で話した時だろう。あの時は、確か手帳とコーヒーを入れたマグカップを間違えてベットに投げてしまったミスの話を聞いてよく笑ったものだ。
「では、涙を流すようなことはありましたか?」
またすぐに問われてしまった。が、この問いには上手く返せなかった。涙を流す。悲しい。喜怒哀楽のうちの1つである感情をさらけ出した経験をすぐに答えれなかったのである。
「思い出せない、でしょう。きっと他の職員に聞いても多くが同じような答え方をするでしょう。」
後ろに振りむいて、背中に手を回し、両の指を絡め、握りながら再び話し始める。
「この仕事において、感情は不必要な要素の1つです。オブジェクトへの愛着を持つことは規則違反ですし、むやみに易怒し直感的な行動をするのが命取りになります。職員が死んだからと言って涙を流して立ち止まることも許されず仕事は続いていきます。それがこの職場の、私にとってはこれから生きていく世界のルールです。」
でも、と一旦言葉を切って組んでいた指に力を入れる。まるで、神にでも祈るかのように。
「それは、ルールとはいえ、正しい事ではない。仕事としての正しさではない、人間としての正しさから外れている。もちろん規則違反をしろと言っているんじゃないですよ。ただ、私は、普通の感情さえ無くしてはいけないと言いたいんです。」
「普通の感情、とは、なんですか。」
「例えば、自動販売機で当たりが出た時に喜ぶ、辛いことがあったらその感情をさらけ出して怒る。……そして、人が死んだときは何かしらの感情が生まれるはずなんです。」
最後のたとえだけ、言葉尻が冬の白い息のように薄く、小さくなっていた。彼が再びこちらに向きなおす。その姿には、先ほどのいたずらが成功した姿に比べてとても小さく、震えているように見えた。
「だからね、国都さん。私はルールへの小さな反逆として、いたずらをしているのです。いたずらに怒ってくれてもいい。びっくりしたと笑ってくれてもいい。あ、でも泣いてしまうのは申し訳ないので、気を付けないといけませんが。でもそうして、少しでも感情を取り戻してくれたら、私は嬉しいのですよ。」
そしてまた首を下にして俯く。水槽の水がぱしゃ、とガラスにぶつかる音が聞こえた後、彼は急に顔を上げて私の横にささっと移動し頭に手を乗せてきた。
「なーんちゃって。いたずら成功です!」
「……え?」
「いやあ、急に真面目になるとどんな反応になるのか気になったのですが、嘘ですよ。国都さんは真面目ですね。そんな意外な一面が見れるから、私はいたずらが大好きなんですよ。では!」
そう言うと彼はそそくさと部屋から出て行ってしまった。私はまたいたずらをされた、と怒りながら彼の後を追いかけるために走り出した。しかし、今酸素をたくさん吸収して冷静になった頭で考えなおすと、私は彼が吐いた嘘を間違えているのかもしれない、という考えが浮かんできた。彼はあの時に本当のことを伝えていたのかもしれない。そして、最後にいたずら成功と言った後、嘘だと。そう、「いたずらである」という事を嘘だと言ったのかもしれない。推察にしか過ぎないが、彼は本当に彼の生きていく職場せかいに小さな抵抗をしていたのかもしれない。壁に着いた手に力を込めて拳を握りしめる。そして、走る。彼の好きな感情に身を任せて。職務を消化する作業を放っておいて、彼への感情をさらけ出して私は走った。
教えられた部屋の扉を開く。負傷者の運ばれる部屋らしい。壁の白より無機質な白いベッドがずらりと並ぶ。その空白の1つに、彼は少し皺の寄ったシーツを首元まで被って寝ていた。確か、水槽の中の水は不思議なことに外にこぼれないんだよ、と彼は言っていた。その言葉は真実だったようで、彼は寝ているのに枕には一つの水分もしみ込んでいなかった。枕元にへたり込んでしまう。
「ねえ、これも嘘なんでしょう?」
水槽に触れると、冷たかった。熱がどこにも無かった。いつものことなのに、とても怖かった。
「いたずらにしては酷いですよ。ねえ。いつもはもっと軽いものばかりじゃないですか。こんなことで感情を思い出させるなんて、ずるいですよ。」
枕元に私の涙が落ち、吸われていき、すこし灰色のシミがついた。
「私は、隈取さんのおかげで表情筋が痛くなるほど笑えましたし、いたずらに怒るのだって、本気で怒ってたわけじゃないんですよ。隈取さんに会えるだけで嬉しくて、心が弾んで……嘘じゃないですよ?本当です。嘘だったら、こんなにあなたを好き、になるわけないじゃ、ないですか。」
好き、といった後からはちゃんと言えていたか分からない。涙が口の端についてしょっぱく、いくら鼻をすすっても、心から漏れ出した感情で言葉がぶるぶると震えてしまう。それもこれも、全部隈取さんのせいだ。隈取さんのせいでこんなに私は死に涙を流してしまうようになってしまった。泣かせてしまうのは申し訳ないと言ったのに。
「うそつき……」
シーツに伏せて声を殺し涙を流す。しばらくしゃくり上げる胸を押さえていると、頭を何かに包まれた。それは暖かく、柔らかく、優しい私がよく知っている手のひらだった。
「国都さん……なぜ、そんなに泣いているのです?」
隈取さんの声が聞こえる。困惑と心配の混じった、それでも心にしみこんでくるあの声と寸分たがわず同じだった。
「く、まどりさん……?あれ、だって、実験、で。」
詰まりながら必死に答えようとした。実験で、もう死んでしまったと思ったと。そう伝えられたと。すると、水槽のガラスを指でかきながら首をかしげる。
「いやあ、実験で確かに倒れてしまったのは覚えていますよ?しかし、失神しただけだったんですよ。倒れた衝撃で少し体が痛むので休んでいたのですが……」
きっと、国都さんに伝えに行った研究員は私が倒れたところを見て早とちりしたのだろう。と彼は笑いながら推察した。が、私はそれどころじゃなかった。心配かけて、と怒るのも筋違いだし、そもそも私が早とちりをしなければという申し訳なさ、そして結局私の感情は、涙でぐしゃぐしゃになった姿を見せた恥ずかしさでいっぱいになってしまった。
「……もう一回、頭を打って今の私は忘れてください。後頭部はここら辺ですか!」
「いや、ここまで取り乱した国都さんは珍しいですから、忘れようにも忘れれないと……いたた、一応負傷者ですよ!もうちょっと丁重に……」
照れ隠しのパンチを肩や頭を軽く叩きこみながら、私は彼の頭に移りこむ自分を見直した。仕事をしていると、こうやって自分を出すようなことはなかなかできない。でも、隈取さんがいれば、きっと私は2度と自分の感情に迷うことは無くなるだろう。もう、彼の前で取り繕うことはやめた。私も彼と一緒にルールに反逆をするのだ。
隈取さんの感情のクーデターに、私も仲間入りだ。共に作ってやろうじゃないか。無機質な世界のルールに、小さな笑顔のひび割れを。