御舍利の提言 / 第〇〇〇八番
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    (施第壱号閲覧封印術式)

    大八嶋蒐集物覚書帳目録第〇〇〇八番

    捕捉年不明。少なくとも乎富等大王をほどのおおきみ1を大王に迎える際使われたことが知られる。それ以前にも先の諸大王が、十六柱の「大八嶋」とその儀式によって世を統べたと伝えられている。一説には最初の大王が大王となったのは大八嶋によるものであり、四方を征して斎蔵2を設立したのは、これらの異物3を収めるためであったともいう。

    そのはじめについては複数の伝承が残り、いづれが真であるかは不明である。そのほぼすべてに共通していることは、「かつて大王家が「大八嶋」の一柱を手にし、それが大王家から離れることのなかったこと」「大王らが四方へ征討し、諸豪族から「大八嶋」を献上させたこと」「それぞれの「大八嶋」は異なる島で見つかったと伝わること」である。

    既知の「大八嶋」は十四柱存在し、その大小により八と六に分けられる。前を「大嶋」と呼び、後を「小嶋」と呼ぶ。されど伝説には十六柱とある。この二柱を併せて「水嶋」と言う。古い伝承には「大八嶋」を八または十とあり、「小嶋」の発見が「大嶋」に遅れるものであると推測されている。いづれも瑪瑙と香高い木によってできた像である。「大八嶋」はかの御神の御子神の形代であるから、それぞれに宿る神霊と霊力とは非常に近しい。「大八嶋」同士を近づけることは神同士の諍いを招くため、これを生得的に鎮めることのできる大王家のものを除き、一人のものが複数を所持することはできない。

    「大嶋」は淡道4の「狭別さわけ」、吉備5より捧げられた「二名ふたな」、出雲6より捧げられた「忍許呂おしころ」、筑紫7の「筑紫つくし」、伊伎8の「比登都柱ひとつばしら」、津島9の「狭手依さでより」、佐度10の「佐度さど」及び大王所有の「秋津あきつ」である。いづれも高さは一尺ほどであり、「小嶋」に対しより高い神格をもつ。

    また「小嶋」は吉備より捧げられた「日方ひかた」と「野手ぬて」、大島11の「多麻流たまる」、豊12の「一根ひとつね」、知訶島13の「忍男おしを」、両児島14の「両屋ふたや」であるが、多くが失われたままである。高さはおよそ半尺ほどであり、伝承によればいづれも「大嶋」よりも後に見つけられたと伝わる。

    淡道の一島「淤能碁呂おのころ」にて、「大八嶋」を八柱(「大嶋」であることが望ましい)一つに集めることによって、所定の儀式を行うことが可能である。これには「大八嶋」の他儀式者「」一人、用いる「大八嶋」を持っていた者もしくはその代人ヤツカミ八人、数十種の供物を要する。

    儀式の度「大八嶋」は大王に帰属する「秋津」を除き各地に離散する。離散した「大八嶋」が捕捉される場所はその「大八嶋」が初めて見つかったとされる島やその周辺の地域であることが多いが、必ずしもそうであるとは限らない。また時として逆賊が「大八嶋」を得ることがあり、継体二一年丁未に乱を起こした石井いわい15も「筑紫」を有していた。最も近年に行われた儀式は先の志帰嶋大王しきしまのおおきみ16の即位に際し執り行われたものであり、こののち「秋津」等を除き大半が未蒐集のままである。

    (記・不明)

    五八三年捕捉。淡道の岩屋浦絵島のというところで神像が見つかったとの話あり。厩戸王17がこれを未知の「大八嶋」の一つであると見抜く。伝承に残る「水嶋」であると見受けられる。厩戸王によって「水蛭子ひるこ」と命名され、同王が所有。小嶋と同程度の大きさであるが歪であり、大嶋と同等の霊力を有している。

    五八七年、丁未。物部との戦が差し迫ったため私蘇我大臣18の指示により儀式を執り行わせた。一部代替として「小嶋」を用いたが無事成功し、物部らを打ち滅ぼすことができた。儀式に際しては「水嶋」の使用も提言したが、厩戸王が「夢見に曰く、みだりに「水嶋」を用いることは非常に危いとのことである。よく分らぬうちにこれを用いるべきではない」と仰せになったため、これについては実行しなかった。戦後忌部氏19と協力し斎蔵と呪術部とを合して「蒐集院」を設立し、物部方が領していた「大八嶋」をも蒐集した。

    五九五年捕捉。淡道にて香木が発見されたとの報告があり、厩戸王がこれを蒐集。もう一柱の「水嶋」であると判明し、王は「淡島あはしま」と命名したうえでこれを所有。また「大嶋」・「小嶋」の再捕捉についても順調に進行中。

    六二〇年、厩戸王とともに国記等を編纂する。これにともない、「大八嶋」・儀式等の蒐集物に関する大規模な文書記録が初めて作成されることとなる。草案を王より直接見せて頂いたが、大八洲と神々のはじめの伝承と儀式の手順とを巧みに融合させており、知るべきもののみわかるようにできている。完成したものは我が邸宅でこれを所蔵し、適宜捕捉・修正を行うものとする。

    六二二年、厩戸王が急死し、その蒐集品を蘇我と山背王20で分割した。「大八嶋」についてもうち二柱を蒐集した。なお「水嶋」についても分割するはずであったが、毛人えみし21が強固に反対し双方とも山背王の手に渡ることとなった。

    (記・蘇我大臣馬子)

    六四三年、新たに大臣となった蘇我大臣入鹿が諸王と図って山背王を自害せしめる。大臣は上宮王家の蒐集品をほぼすべて強奪し、蒐集院に蒐集させる。これによって蒐集院が「大八嶋」のうち十一柱を占有することとなった。大臣の行為、特に「水嶋」を強奪した事について毛人殿は猛烈にお怒りであった。

    六四五年、大臣主導のもと儀式の実行を企図していたところ入鹿大臣が誅される。毛人殿は甘樫の邸宅で自刃し、蘇我宗家は滅亡した。蒐集院蒐集物の多くが焼失・紛失ないし強奪され、「大八嶋」についてもその過半が大王家の管理下におかれることとなった。蒐集院は勢力を減退したものの、大王のもとで依然存続する。

    (記・蘇我倉麻呂22

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      (施第壱号閲覧封印術式)

      蘇我毛人手記


      私は政務の傍ら、大八嶋の不可思議を解明しようと試みてきた
      国記・天皇記等々の編纂にあたって多くの資料を集め、石上神宮に伝わる口伝や百済より伝えられた経典を紐解きながらこの神霊とは何なのかを探ろうとしてきた
      大伴・物部が衰え、かつての蕃神たる仏が十分この国に入り八百万の神が唯一のものではなくなった今こそできる研究であった

      然るに、大八嶋とは土地神の依り代である。この土地神は神の間に生まれた子神であり、その威光が届くのは神とその子孫たる王が支配する大八洲の中である。ゆえに今、大八嶋を伴って隋や高麗へ行こうともその加護は保たれない

      子神は祖神より生み出された分け身ともいうべきものであるから、その形代を集める儀式によって祖神の形代が作られる。これによって大八洲の安寧と繁栄を祈願するのが儀式である

      厩戸王曰く、水嶋は忌むべき子神である
      水蛭子と淡島とは伝承に言う交合において最初に生まれた双子神であり、未熟であった
      然るに葦船に載せて流されたと伝わる

      水嶋は最初の子神でありまた祖神自体の形代、もしくは大八洲自体の形代としての性格を保っているから、大八嶋のなかでも大きな神力を蓄えている
      しかしその出自は忌むべきものであり、そのほかの大八嶋とも大きく形質が異なるのであるから、大嶋や小嶋と共に儀式へ用いるべきではないし、その持ち主に害がないとは限らない
      事実水嶋を持ったものは入鹿や私を含め、栄華しながらもよからぬ最期を迎えている
      これを将来にわたって保持することは本国の不幸につながりかねないことであるから、長らく企図していた通りに私とこの邸及びそこに蓄えた異物とを贄として、水嶋を鎮めんと図る

      これに用いない国記等の重要な物品については、舎人や史を通じて持ち出させる

      (皇極四年六月十三日)



      上記の資料は二〇〇七年三月、奈良県の甘樫丘東麓遺跡より発見されたものである。
      これによれば、蘇我蝦夷らは「水嶋」のことを、結果的に大きな損害をもたらすものとして認識していたことがわかる。
      しかしその情報は蘇我邸炎上に際する混乱の中(半ば故意的に)消え、長らく忘却されることとなった。

    六六三年、白村江で軍が唐新羅の軍にひどく打ち破られたとの報。中大兄王23は唐の侵攻を恐れ、各地から山城の建設を装い大八嶋を蒐集し儀式を行うようである。

    六七二年一月、大王崩御24。これまでに先の儀式の後離散した大八嶋のうち三柱を捕捉し、さらに「小嶋」を一柱捕捉することができた。乙巳以前から蒐集していた四柱と合わせて儀式を実行する。蘇我左大臣赤兄は大友王を支持するようだが、大伴馬来田25・吹負26らと協議した結果、蒐集院を閥族から切り離しつつその権威を復し、大和を盛り立てるためには吉野の大海人王が大王となるべきだとの結論に至った。

    六七三年三月、さる壬申の戦に勝利し、大海人王が無事大王となった。王の下で権限の拡大と喪失した蒐集物の回収を企図する。

    六八一年、大海人大王は我々の儀式によって擁立されたが、しかしその権威をそごうとしているようである。帝紀・旧辞の大八嶋の条については我らの進言通り改め 、先日奉斎稗田阿礼に対しその誦習を認めた27ことは喜ばしい。だが五年前の陰陽寮設置は認めがたい。同寮へは人員を多く送り込めたとはいえ、これまでに蒐集した十四柱の大八嶋のうち半数を持っていかれることとなり、我々の名も蒐集寮28に改めることとなった。より王権を高める律令を制定することも発布され、もはや王に従属した機関として力を伸ばす道をとるほかないだろう。

    (記・忌部子人29

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      (施第壱号閲覧封印術式)

      古事記記述と「大八嶋」儀式手順の比較
      奉斎大夫 賀茂益荒


      —— 清めを行った「岐」・ヤツカミ、「淤能碁呂」へ寄る
      於是天神諸命以 ヤツカミ、「淤能碁呂」の八方へ「大八嶋」を伴い坐り、祝詞を唱える
      修理固成是多陀用幣流之國。賜天沼矛而。言依賜也 「岐」が祝詞を唱え「淤能碁呂」に侵入する。「淤能碁呂」おのずと結界が生じ、その姿が露わになる。「岐」の足元に紫雲が現れ、何処からか五音の楽が鳴り響き始める。「岐」は紫雲と共に中央の柱へと近づく。
      故二柱神立天浮橋而 淵まで進んだところで「岐」が前進を停止する。女神(以下「美」)が柱を挟んだ対面に出現する。「岐」と「美」が紫雲の道を歩み、柱に近接する。
      指下其沼矛以畫者。鹽許袁呂許袁呂邇畫鳴而。引上時。自其矛末垂落之鹽。累積成嶋。是淤能碁呂嶋 「岐」と「美」はともに柱をつかみ、両手を動かす。数拍のちに柱の周りの水面が凝り始める。
      於其嶋天降坐而。見立天之御柱。見立八尋殿 紫雲が薄れ、「岐」と「美」は固化した部分へと降りる。柱頭が固化部分と同程度の広さまで拡大する。
      於是問其妹伊邪那美命曰。……言阿那邇夜志愛袁登古袁 「岐」と「美」はそれぞれ柱の反対側を半周する。「岐」が「美」に対し声をかける。「美」がこれに応答する。(対となる事例については不明。)
      如此言竟而。御合 「岐」と「美」が光に覆い隠される。この状態が数時間続く。交合か?
      生子。……次生兩兒嶋。亦名謂天兩屋 光が最高潮に至った際ヤツカミの持つ「大八嶋」が光跡を描きながら「淤能碁呂」へと飛翔し、消失する。ヤツカミはみな死亡。神霊が拡散を始める
      既生國竟。更生神。……亦名謂火之迦具土神 供物が順に消失する。神霊の拡散が続く
      因生此子。美蕃登見炙而病臥在。……故所斬之刀名。謂天之尾羽張。亦名謂。伊都之尾羽張 すべての供物が消失したのち、強い霊力を理由として「淤能碁呂」内が炎上のような状態になる
      於是欲相見其妹伊邪那美命。追往黃泉國 光が消える。「美」及びヤツカミ、「岐」は消失している
      爾自殿騰戶。……故其所謂黃泉比良坂者。今謂出雲國之伊賦夜坂也 不明。水面下から「美」およびヤツカミの声が聞こえる、霊力の拡散があるなどの報告あり。
      是以伊邪那伎大神詔。吾者到於伊那志許米志許米岐穢國而在祁理。故吾者爲御身之禊而。 「岐」が水面から出現。固化した大地が水面を覆う。
      到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而。……墨江之三前大神也 大地が沈降し、清浄な水面が出現する。「岐」が清めの儀を行う
      於是洗左御目時。所成神名。天照大御神。……乃神夜良比爾夜良比賜也 複数体の神格が出現する。「岐」は神的実体に対し儀式による目的を告げる
      故。其伊邪那岐大神者。坐淡海之多賀也 龍脈を通じて目的が成就され、「淤能碁呂」周辺が崩壊し始める。光が拡散し、「岐」および神格が崩壊乃至消失する
      —— [削除済]。進入禁止
      —— 「淤能碁呂」が当初の状態に戻る。数か月から数年が必要

      (明和六年)



      上記は明和六(一七六九)年、蒐集院の奉斎大夫30を務めた賀茂益荒かも の ますらによる古事記と大八嶋を用いた儀式の比較表である。
      これを見ると古事記の伊邪那岐命・伊邪那美命をめぐる記述部分が儀式を暗示するものであることがわかる。
      但し神話に組みこまれているため、完全に同一ではない。

    四百年間 略


    一〇五一年、末法による終焉の到来を防ぐため藤原関白頼通殿などからの頼みを受け、陰陽寮とともに儀式を実行した。准太上天皇小一条院を「岐」とすることで無事成功。しかし想定していた見返りを得ることはできなかった。ここ百年にわたって北家に服従してきたが、そろそろ潮時であろうか。尊仁親王も藤氏に対しては不満があるようであるから、王を支援することとする。

    一〇六九年。呪術等の甲斐あって、無事尊仁王31に皇位が継承された。我々に近しい大江匡房らが登用され、我らの権威も復活しつつある。ただこの関係がいつまで続くかは不明である。我らが独自に儀式を執り行えるよう、処々の計画に本腰を入れるべきだろう。近頃は陰陽寮こそ次第に力を失いつつあるが叡山も騒々しくなってきており、対応せねばならないだろう。

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      (施第壱号閲覧封印術式)

      蒐集頭斎部通成手記


      現在儀式の「岐」となることができるのは、複数の「大八嶋」を持つことのできる人物、すなわち大王家の人間に限られる
      大王家外の血が混じることの少なかった記紀の時代ならまだしも、藤原北家の血が多くを占めるようになった当代においてなお大王家の者がいくつもの「大八嶋」を持つことができるというのは非常に不可思議なことである
      一方諸源氏の者のような諸臣は、先祖が天皇であるといっても「大八嶋」を二つ以上持つことは能わない
      これを見るに、大王家に属しているもののみが「大八嶋」を自由に扱うに足るのであると思われる
      即ち、「岐」となれるのは大王家の血を継ぎかつ大王家に属していることが公に認められているもののみであるとの推測がなされる

      この推論によって密かに諸王諸臣の生霊を調べたところ、公に皇族であるとされる人々の型は互いに非常に似通っており、諸臣(臣籍に降りたものを含む)のそれとは大きく異なっていた
      然るに大王家であるということがその者の生霊を大王家のもの足らしめているのであると思われる
      このことは、斎宮のように大王家の者が神を鎮め対処し得る力を持つことともかかわっていると見える

      さて当代は世荒れ荒み、先行き混迷の状態である
      古くから諸蒐集物を守るものとして、「大八嶋」や神への対処は我々が長きにわたり果たすべき役目である
      故に大王家に頼らずとも「大八嶋」の儀を執り行い、神を鎮められるようになるべきである

      四余より大王家の生霊に近い者を集め、これを結ばせ大王家に似せた氏族を作らんとする
      またこれと共にこの氏族に諸神を鎮める術を身につけさせ、秘匿したうえで当院直下に置く
      これを大八洲の祖神の名をもって日奉いさなぎとなづける

      (延久元年)



      これは延久元(一〇六九)年、蒐集寮の長官であった斎部通成32によって記された文章である。
      平安盛期の堕落と権威失墜への反省は、内部からの改革運動を促進した。
      後三条天皇の擁立に成功した蒐集寮は院政期その勢力を回復したものの、改革運動は止まらなかった。
      この後蒐集院は(源平争乱に巻き込まれ力を落としたことも要因ではあるが)政治的に中立な超常団体としての立場を確立し、独自の技術や異物をもって、国内最大の超常団体として長らく存在感を発揮することとなる。

    五百年間 略


    一五八一年。羽柴筑前守が武力によって安宅氏33より淡路国を奪取し、「淤能碁呂」の直接支配権を奪ったとの報。ここ数年来の信長包囲網崩壊により、比叡山34、将軍家35、本願寺36などからいくつもの「大八嶋」が織田方の手に落ちており、信長が独断で儀式を行える状況が近くなっている。早急に対処すべきである。

    一五八二年六月。無事、按察司明智日向守光秀によって織田信長が殺害された。これにより大嶋第一番「狭別」、大嶋第五番「比登都柱」、及び大嶋第七番「佐度」を再度蒐集することに成功した。第八番「秋津」は性質上宮中に存在するが、先日堺会合衆の協力により蒐集された大嶋第三番「忍許呂」と合わせ「大嶋」七つの蒐集に成功。これらの管理目的を兼ね七哲37を発足する。

    一五八二年七月。筑前守が異常な速度で行軍してきたため、明智按察司の支配体制は即座に瓦解した。大八嶋を守るため七哲芝山監物38を通じ堺39の千宗易40殿に便宜を取り計らうよう依頼することとする。

    一五九一年三月。先日秀吉の命によって千宗易が切腹した。秀吉は五年前の堺の堀を埋め立てて以来我々に対しても態度を硬化させている。増長しつつある秀吉に、蒐集してきた「大八嶋」を簒奪されかねない。天下がもはや秀吉のもと統一されようとしている以上、その矛先を外へとそらすほかないだろう。

    一五九二年。秀吉の目を唐・朝鮮へと向けることに成功した。これまでに大嶋第一番「狭別」と大嶋第四番「筑紫」とを喪失したが、小嶋第二番「野手」を獲得することができた。その他長らく我々の手元にある小嶋第六番「両屋」を併せて七柱の大八嶋が蒐集されており、「淤能碁呂」は秀吉の支配下にあるものの、宮中は協力しないであろうから儀式は防げるはずだ。

    一五九七年。一昨年秀次公に自刃を命じたころから秀吉が狂いだした。土御門久脩41ら陰陽寮の諸官も尾張へ流され、我々に対する締め付けも厳しいものとなった。近頃奇妙な絡繰の怪物が出没しており、第二番「二名」と第六番「狭手依」が相次いで強奪された。これらはおそらく秀吉の手の者によるものであり、いつ儀式が強行されるかもわからぬ状況である。それによって何がもたらされるかわからぬ以上、蒐集物を最大限用い、どのような手段を用いてでも止めねばなるまい。

    一五九八年、秀吉の排除に成功。ただし急遽実行したため国内の混乱が続いている。今の間にできるだけ多くの大八嶋その他の蒐集を目指す。

    一六〇〇年、関ヶ原にて合戦、徳川方が勝利。当院に復帰した天海及び崇伝の取り持ちにより徳川家康殿との関係が良好なものとなった。大八嶋についても徳川殿の協力のもと蒐集を行うこととする。

    一六〇三年。我々の後押しもあり徳川殿が征夷大将軍に任じられた。大嶋第一番「狭別」については慣習から徳川殿に与えられたが、そのほかの多くの大八嶋の蒐集に成功しつつある。しかし大坂にも複数の大八嶋が存在するはずであり、その回収が必要である。

    一六〇九年、昨年出された許可によって島津が琉球を攻めた。これに先立ち島津から本領安堵の礼を兼ねて幕府に対し像が献上される。これを分析したところ大八嶋と同一の存在であった。小嶋第七番「多禰たね」と命名。大八嶋が増加するとの情報は今までになかったが、古くから存在したと伝わるとのこと。いまだ見つかっていない大八嶋が存在する可能性がある。

    一六一五年。大坂の豊臣が滅亡し、大八嶋の回収に成功した。徳川殿の申し出を受け日奉椙を「岐」として国内平穏と繁栄を目的に儀式を実行。

    一六一八年、当院にて管理していた小嶋第一番「日方」が急速に霊力を失い、消失した。原因は分かっていないが、「日方」がはじめて見つかった場である児島は今年干拓によって秋津洲と陸続きになっており、これが関係している可能性がある。

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      (施第壱号閲覧封印術式)

      七哲「大黒」手記


      小嶋第七番「多禰」の蒐集に際し、左秘衛大尉42応神藻伏いらがみ もふし43が斯くなる話を蒐集す

      大王夢を見て宝を授かり、四方を征して天に上り給う事


      大王床に伏す
      辺り黒光に満ち、彼方に赤黒いししとくろがねのくちなわの光を食む様見ゆ
      黒光、大王を覆う。大王剣を振るい、かずら櫛をなげて戦いつつ退けども、みな失い、黒光差し迫る
      大王は岩柱を見、登る。なお黒光迫り大王諦念を抱きしとき、茜日の現れたるが見ゆ
      日、鳥と為り、大王の方へ飛び来る。鳥日光を発し、闇を掃う
      鳥、龍と為り、女と為り、大王と交う
      時経てり。大王は礼し、当地を去るを惜しむ
      女は璧と香木の塊を腹より出し、大王に授く
      曰く、これ吾が形代也
      吾が躰は四方の八島にして、その形代は日の光が如く万土に散り埋る
      汝の統べる地広がれば、吾が骨肉もまた広がらん
      汝吾身を一つに集めよ。而して此柱の現身へと来れば、吾汝再び見えんと
      大王目覚めれば、掌中に宝あり
      大王は四方征討し、諸処の豪族を下して宝を献上せしむ
      宝集りて後、柱を探させしむ。ついに淡道国造、おのころにこれを見る。これ大王の夢見せし石柱の現身也
      大王は夢見せし如くに儀を執り行い、かの御神と結び天に上る
      この儀に拠りて大八洲富み栄え、諸民はこれを言い伝う



      これが真であるか、のちに作られた寓話であるかは不明
      薩摩の辺境に伝わる話であるから、その真実性は非常に疑わしい
      ただこの話や「多禰」の存在から、大八嶋が増加し得る可能性については信ぴょう性が高い
      どの大八嶋も異なる島ごとに見つかったのであるから、屋久島や天草などのいまだ見つかっていない島にも大八嶋が存在する可能性がある
      先述の二島については今回集めた複数の文献にて存在が触れられており、存在は確かとみられている
      それぞれ小嶋第八番「掖玖やく」、第九番「天草あまくさ」と命名し、捜索に当たる

      (元和四年)



      この文書は元和四(一六一八)年、当時の七哲の一人「大黒」によるものである。
      この時点で「大八嶋」が島ごとに発生し、増加するという事実が認知され始めていたことがわかる。

    一六二七年、将軍家光の紫衣授与制限を批判した大徳寺44の沢庵らが処罰を受けた。沢庵は我々とも親しい賢僧であるため我々も本院45を通し寛恕を願いいれたが、大御所と将軍は当院の進言を退けた。

    一六三五年、寺社奉行46設立。一昨年崇伝が死去したことをきっかけとする。奉行となった安藤重長は我らとの関わりが薄く、寺社に対し関与する力が損なわれた。将軍は当院に対して寛大ではあるが、着実に我々の力を削ぎつつある。

    一六三八年。島原における反乱が終結した。首魁天草四郎は小嶋第九番「天草」とみられるものを持っていたとのことであるが、混戦の中行方知れずとなった。以前より壊神教徒や吉利支丹が大八嶋をつけ狙っているとの話もあり、やはりこれらは強く排斥せねばならない。国家鎮守の証たる「大八嶋」を喪失し、あまつさえ南蛮人方によって儀式が行われでもしたら何が起こるかわからない。

    一六三九年。将軍殿の強い意向によって、賀茂宮47を「岐」となして儀式を執り行い、「国家の安寧」と「四夷の退散」を祈願した。これによって我が国は海によって閉ざされ、南蛮紅毛の類を退けることができるだろう

    一六四四年、明より救援の要請が来たがこれを退ける。もはや国外に出る必要はない。和蘭の商船も来航は長崎に限られ、その他の南蛮船はこの八洲に近づくことがない。

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      (施第壱号閲覧封印術式)

      研儀大夫霊代忌忌から七哲「検校」へ送付された文書


      元和年間に蒐集した文献以来行っておりました「大八嶋」に関する研儀がひと段落致しましたので報告させていただきます

      日本の地下を貫く龍脈はその国土の隅々までいきわたり、大八嶋はこれが結露したものと考えられます
      この神的な龍脈は諸神と同じく信仰によって強大化するようです
      個々人の信仰が降り積もって大きな火種となり、これが巡り、凝り固まって大八嶋を形作るようです
      火種の澱みは、山を反して鉢にするのと同じようにして、大八洲に属する島々ごとに集まっていきます
      ですから、新たに無人の島々へと住まえば、新たな大八嶋が生じる可能性があります
      ただ先ほども申し上げました通り大八嶋の霊力はその島にて集められた信仰に拠るようです
      それゆえに、大八嶋ができるまでには多くの信仰が必要であり、膨大な時間と人口とが必要になります
      ですから、大八嶋をめぐるこれまで執り行われてきた諸計画と同様に、非常に長期的な視点で見なくてはならないと思われます

      (享保元年)



      これは享保元(一七一六)年、蒐集院の研儀大夫48霊代忌忌みたましろ いまきが内院の七哲「検校」に対して送付した文書である。
      日本に存在する龍脈と「大八嶋」を明確に結び付けた文書の中でも古いものであり、排他的な領土拡大方針の一因となった。

    一七八五年、老中田沼意次らの主導により、蝦夷遠征を行う。当院からも按察司最上徳内49らが参加。「大八嶋」の拡大を狙う。松前において「大八嶋」発生の予兆は確認されており、今後蝦夷地への定住拡大に成功すればあらたに複数の「大八嶋」獲得も見込まれる。赤蝦夷50が次第に当地を侵食しつつあるとの話もあり、急を要する可能性がある。

    一八二八年、按察司間宮林蔵51らより、和蘭商館医フランツ・シーボルト52が不審であるとの報告あり。調査の結果、天文方53筆頭高橋景保らに対し所蔵の異物と「大八嶋」等の重要物を交換を持ち掛けていたことが判明。一部はすでに国外に流出したとみられるが、異常・非異常合わせ一万余の物品流出を防止した。これに際し天文方の保持していた小嶋第四番「多麻流」の蒐集に成功した。近年南蛮人らの接触が相次いでおり、このような事態が再び発生する可能性は十分ある。何としても開国は防がねばならない。

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      (施第壱号閲覧封印術式)

      フランツ・シーボルト手記(部分) 一

      1829.


      (前略)……

      その中で、「あまくさでうす」なる像を手に入れた。これは島原藩が統治する天草において当地の者が崇めていたものとのことであるが、二十年ほど前に異教として同藩の検分を受け54、その像を拝んでいたものが近頃改宗したことによって長崎まで流れたのだという。この物品には幕府に差し押さえられた「大八嶋」とも著しい類似性が見られる。大きさや素材もほとんど同質であるようだし、二者の間に大きな相違は存在しない。

      ただそこから感じられた強い力は日本を遠く離れた時点で失われたように感じられる。帰国後さらなる研究が必要だろう。

      F. Siebold



      フランツ・シーボルト手記(部分) 二

      1831.


      昨年オランダに到着し、コレクションの一部を国王に売却することで同国及びSIB-CDEI55と話がついた。

      SIB-CDEIや研究院56の援助を受けつつ行っている「あまくさでうす」の研究であるが、収集当時に比べ明らかに霊的な力を失っている。

      院の研究者によれば、聖遺物等などとは大きく異なる力の種類であり、我々に対してはあまり大きな影響を与えないようである。おそらく本来地質や地脈(東洋でいうところの龍脈)と結びついており、その接続を失ったために弱体化している可能性があり得るという。

      より詳細について研究するためには改めて日本へ行き腰を据えて研究する必要があるだろう。
      ただ私は入国禁止を言い渡されているから、これを実現するには日本の門戸を開放させる必要がある。
      オランダ、アメリカ、ロシア等の諸国家及びASCI、ツァーリの賢人団等の諸超常機関に働きかけ、これを推進する。

      F. Siebold



      これはフランツ・フォン・シーボルトによって記された文書の抜粋である。
      シーボルトの活躍によって「大八嶋」などの日本に存在する異常物品は注目を集め、開国運動を強く後押しすることとなった。

    一八五九年、横浜開港。朝廷や幕府に開国を防ぐよう働きかけを行ってきたが、ついにこの時が来てしまった。西洋人の野蛮さは目を見張るものがあり、清は国内の異物の多くを奪われつつあるという。我が国でも奴らが同じことをしないという保証はない。大八嶋などが流出するようなことがあれば、どんな災いが訪れるかもわからない。これまで以上の警戒が必要である。

    一八六一年。最大の警戒を行ったものの、結局国内資源の流出は防げていない。金や生糸など多くの物品が想像以上の勢いで西欧へ流出・輸出されており、異物も流出しつつあるとみられる。列強はどこからか「大八嶋」の存在を認知しているようであり、これがすでに流出している可能性もある。幕府は三十年前に追放したシーボルトを顧問としてこれに対処しようと試みている。諸藩や浪士の動きも活発であり、国内の不穏さはより一層強まりつつある。

    一八六七年一月、帝が崩御し、孝明帝と諡号。徳川家茂に次いで我々は理解のある権威者を失った。新帝57はいまだ齢十五であり、国家にさらなる変化をもたらそうとするものたちが蠢いている。七哲「修理」の暗殺以来当院内での混乱はいまだ収束できておらず、この動きをとどめることができるかは危ういところである。

    一八六八年一月三日、王政復古の宣布。事前にほとんど何も知らされておらず、まさに寝耳に水であった。我々はこの変事にほとんど関わることができず、ただ傍観するしかない。果たして大八嶋らを抑え、蒐集することはできるのであろうか?58

    一八六八年一月末、旧陸海軍総裁の蜂須賀斉裕59が死去。跡を継いだ蜂須賀茂韶60は新政府方につき、こののち「淤能碁呂」の支配権が新政府軍へ完全に移行。大八嶋の半数近くを守護する我々としても今後は朝廷方へ強く組することとなる。

    一八六八年十月、儀式実行。蒐集院からも一部協力。目的は「政体改革」及び「富国強兵」61

    一八六八年末、土御門民部卿晴雄62の進言により天文方閉鎖。同局の有する「大八嶋」等の蒐集物はほとんどが、民部卿が陰陽頭を勤める陰陽寮へ吸収されたとのこと。また寺社奉行の有する「大八嶋」についても同様とのことである。

    一八六九年、函館戦争終結。総裁榎本武揚は「大八嶋」とみられる異物を政府に対して献上。按察司からの報告によれば蝦夷地すなわち新名称における北海道に由来するものであるとのこと。これを小嶋第十番「蝦夷えぞ」と命名する。

    一八七〇年、先大阪府知事後藤象二郎63の後援を受け岩崎某64九十九機関65なるものを設立。欧米風の正常性維持なる理念を抱いているとのこと。

    一八七〇年十二月、陰陽頭であった土御門晴雄が昨年死去したことを受け陰陽寮が廃止された。天文方から収奪したものも含め、「大八嶋」など多くの蒐集物は分立した晴明院など政府の管理下に置かれるとのこと。ただし、土御門晴雄から養子の土御門晴榮66へ継承された大嶋第六番「狭手依」など一部の蒐集物については、新たに民間団体としての陰陽寮が発足し、同団体の管理下に置かれるという。晴明院は天皇直属の超常機関となるとのことであり、現在江戸幕府より回収された大嶋第一番「狭別」67及び小嶋第七番「多禰」68を蒐集している。

    一八七三年、修験廃止令。四明院派69などの仏教勢力は力を失い、その後小嶋第五番「忍男」などの蒐集物を喪失した。「忍男」については九十九機関に先手を打たれ、捕捉に失敗。

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      (施第壱号閲覧封印術式)

      蒐集院研儀少進大允保國から七哲へ送付された文書


      御一新に際しての意見書(抜粋)
      蒐集院研儀少進 大允保國


      当に国家の政体大きく変わり、当院もまた変革すべきである。
      ここに改革案を上申する。
      一、合理的呼称を用いる事
       当院蒐集寮の頃より蒐集職、奉斎職、研儀職及び秘衛府の諸職等において、大夫・亮・進・属等の四等官の呼称を用いてきた。然れどこれは当代の気風に必ずしも適さず、職によって名が異なることは混乱を招きかねない。これを一等二等などに分けて一等研儀官の如くすれば、各人の職掌は明確になり、連携・管理の如きも容易となる。また各職の下に部局を設ける際にもこのほうがより都合がよい。

      一、近代化の方針を立てる事
       改めて蒐集・奉斎・研儀の三職を主柱とし、国外の超常機関より近代科学の手法を適切に導入すべきである。九十九機関等の諸機関が興隆している当代において、これを為し損じれば当院が過去に置き去られることとなりかねない。

      一、主たる蒐集物の拡大方針
      ……
       第八番「大八嶋」は古来より当院において最も重要な異物の一つである。その拡大計画は今まさに成功しつつあるが、諸神性の減退は近年より深刻化しつつある。これを補うには教育を拡大して万民に信仰を抱かせ、また食料生産・人口増加等の促進を行い積極的に植民を実行することで、質と数を底上げするべきである。加えて「岐」となりうる両家の聖性を高め、その神性を改めて補強する必要がある。
      ……
      (明治六年師走)



      この意見書は明治六(一八七三)年、研儀少進70であった大允保國だいじょう やすくにによってなされた意見書である。
      彼は岩倉使節団へ密かに随行していた蒐集院の人物の一人として知られ、当時欧州で活発化していた超常界における科学化の影響を大きく受けこの意見書を提出した。
      「大八嶋」についても触れており、このころ顕在化しつつあった時代の経過に伴う神性の希釈劣化に対し複数の対応策をとるよう主張している。
      しかし蒐集院上層部はこれをほとんど無視し、抜本的な改革が行われるのは一九〇〇年以降のこととなった。

    一八七四年千島にて捕捉。「大八嶋」の発生を確認し、諸機関と調整の結果回収に成功。小嶋第十一番「千島ちしま」と命名する。

    一八七五年、千島樺太交換条約の制定により樺太を撤退。昨年「千島」を蒐集したことが一つの契機となったとみられる。樺太における大八嶋の回収は未だできていないが、撤退せざるを得ない。

    一八七九年、奄美にて九十九機関が大八嶋を発見。小嶋第十二番「阿麻弥あまみ」と命名する。九十九機関は国外から買い戻した大嶋第四番「筑紫」・第五番「比登都柱」を加えて現在五体もの「大八嶋」を保有しており、また西南の役でも巨額の利を得ているため、強い警戒が必要である。71

    一八八八年、政府及び陸軍はプロシアの独逸帝国異常調査局に倣い、異常事例調査局72を発足させたとのことである。これに際しここ四半世紀の間にプロシアへ渡っていた大八嶋(小嶋第二番「野手」)が譲渡されたとのこと。国外に流出した大八嶋のうちほとんどが無事国内へ復したとみられる。

    一八九〇年、葦舟家当主の蒐集少進7374葦舟龍臣が「大八嶋」らしき未知の異物を捕捉していたことを報告。詳細な研究の結果千年以上にわたり喪失されていた水嶋第一番「水蛭子」であることが判明した。葦舟の発言力を増し、本院において勢力を拡大しつつある。

    一九〇〇年、臥龍事件75後の混乱が収束。当院は最終的に小嶋第八番「千島」及び近年新たに発見したばかりの小嶋第十三番「阿児奈波あこなは」を喪失した。九十九機関についても大嶋第五番「比登都柱」及び小嶋第五番「忍男」を喪失したとのこと。多くが陸海軍ないし調査局へ渡った。数々の証拠は葦舟が関与していた可能性を示唆しているが、我々にこれを追求する余力はない。組織を大きく改めた上で、勢力を強めつつある軍の顔色を伺いつつやっていくほかにない。葦舟主導で制度改革を行う。

    一九〇一年、在野の陰陽寮が新たに発足した「人類及び総意現実の保護に関する財団76」、通称「財団」なる組織に吸収されたと報告あり。大嶋第六番「狭手依」も財団管轄に置かれたとのこと。超常現象の確保収容に関する王立財団77や全米確保収容イニシアチブ、独逸帝国異常調査局等列強の超常機関等を合して成ったとのことであり、今後警戒が必要とみられる。

    一九〇五年、露西亜との戦が終わり、南樺太が再び我が国の国土となった。異常調査局との協議の結果、樺太の異物蒐集は当院が担当し、異常調査局は朝鮮半島における第三次白澤計劃78を開始することとなった。

    一九一七年、理外学研究所設立。政府が管轄下に置いていた小嶋第三番「一根」を移管したとのこと。

    一九一八年、樺太にて捕捉。小嶋第十四番「唐渡からと」と命名する。日露戦後の協定により当院がこれを蒐集。

    一九二〇年、財団と調査局が協力関係を樹立したとのこと。また同局は日本を代表して同盟オカルト連合(AOC)79に加盟。

    一九二七年、小笠原にて捕捉。帝の行幸に際して発見・献上された。小嶋第十五番「無人ぶにん」と命名され、発見者の所属する海軍が所有を主張し、艦政本部対超常課の管理となる。同課の管轄にある「大八嶋」は、大嶋第七番「佐度」、臥龍事件において当院から喪失された小嶋第十一番「千島」についで三つ目。

    一九三〇年。陸軍との協力によって葦舟龍臣を代表とした葦舟機関を設立する。虚四生類技術局、虚六技術研究所等の陸軍超常機関及び蒐集院から人員・資産等を供出する。異物流出の可能性から院としては消極的であるが、葦舟が強く推し進め実行することとなった。

    一九三一年九月、満州において事変発生。按察官の報告によれば異常調査局と葦舟機関とがそれぞれ関与とのこと。近年軍部の伸張著しく、その超常機関においても拡張傾向が強く見受けられる。この三十年これに追随してきたが当院は疲弊するばかりであり、国家の安寧において必ずしも正しからざるように思われる。「大八嶋」は大八洲を鎮めるための異物であって、これを強めるために「大八嶋」を乱すのは本末転倒である。本院には依然として積極的に追随しようとするものが多いが、内院としては今後軍部との関係を見直すこととする。本院の葦舟が機関立ち上げで当院運営からやや遠ざかっているのが好機である。

    一九三二年、満州等の異常権益をめぐる対立を受け異常調査局がAOCから脱退とのこと。同局の国家と「大八嶋」とを拡大・増強しようという方針は日に日に強まっており、これによって対外協調路線の放棄へ踏み切ったとみられる。財団等の国外組織をも圧迫し、これらのほとんどを国外へ排斥することに成功しつつある。また陸軍との関係が修復されつつある。陸海軍においても五月一五日80前後より一部の将校が徒党を組みつつあるとの報告あり。理外研や九十九機関などは大陸へ進出しようとしているが、当院としては拡大を控える方針をとる。

    一九三五年、朝鮮総督府が神社参拝の強制を開始した。十年前に異常調査局の働きかけをうけ朝鮮神宮を建設するなどし、同化による「大八嶋」拡大を企図していたがこの進行が想定以上に遅れているためであると考えられる。

    一九三六年。陸軍将校により争乱が生じ、国家や軍部はさらに大きく揺れている。この数年来の勉強会等の乱立は益々活発化し、「判官会」81などの組織が成立しているとのこと。同会については小嶋第十一番「千島」の所持者等が参加しており、今後の動向に注視する必要がある。

    一九三七年。本院の葦舟龍臣が離反、蒐集物等多数を喪失。小嶋第十四番「唐渡」をも簒奪された。本院の人員は浮足立ち、内院の方針に従おうとしないものも多くなりつつある。葦舟は葦舟機関を土台として「大日本帝国陸軍特別医療部隊82を設立したとのこと。

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      (施第壱号閲覧封印術式)

      負号部隊基地より回収された文書


      ……により、「水蛭子」と「唐渡」を獲得。

      「大八嶋」は膨大な霊的エネルギー  近年欧州で提唱されているところの「エランヴィタアルエネルギイ」83  を有している。この霊的エネルギーは保持者の心身に対し肯定的な影響をもたらし、これは私が長寿を実現できている一因と見える。

      ここに働いている作用を呪術・科学等の諸方面から多面的に見ることによって、その構造の解明を試み、「非時ときじく計劃」84及び私の天願の成就において参考とする算段である。

      院の愚か者には悪いが、伝蒐集物と人員を奪い独立させてもらった。伝統を守ることに固執して改革を拒絶する連中の介護をする暇はない。あれは蒐集や研儀をすすめようとせず、古びた奉斎を続けようとする老人だ。

      蒐集院がぼけ老人なら調査局は肥えた中年である。満州で計画を実行するにあたって彼らは非常に邪魔くさい。陸海軍のその他の超常機関を含め、いくつかの手段をもって圧迫し来たるべき戦のその後に備える。

      (昭和十三年)



      この文書は満州に存在した大日本帝国陸軍特別医療部隊基地跡より回収された文書であり、葦舟龍臣が記したものとみられる。
      葦舟は不老不死の実現を企図しており、これに「大八嶋」を利用しようと試みたものと考えられる。

    一九三九年九月、後方勤務要員養成所卒業の三川十七が「水嶋」を発見とのこと。水嶋第二番「淡島」と見られ、外部協力者として三川を葦舟に代わって支援する。

    一九四一年十二月、米国英国等に対し宣戦布告とのこと。

    一九四二年二月、水嶋第二番「淡島」保有の三川が加入する三千機関の設立を援助。

    一九四四年三月、凍霧男爵85が陸軍や九十九機関の協力を取り付け研究機関を設立とのこと。虚四生類技術局等を統合し、九十九機関よりは小嶋第十二番「阿麻弥」を巻きあげたとの報告。

    一九四四年。大本営の命令により、戦況の改善を図って国内諸機関の協力の下儀式が実行された。当院についても本院が中心となり関与。諸処の情報から、用いられた大八嶋は以下の通りであるとみられる。

    大嶋第四番「筑紫」(九十九機関)、第五番「比登都柱」(異常事例調査局)、第七番「佐度」(艦政本部)、第八番「秋津」(晴明院)、小嶋第六番「両屋」(蒐集院)、第十番「蝦夷」(異常事例調査局)、水嶋第一番「水蛭子」(負号部隊)、第二番「淡島」(三千機関)

    しかし未知の理由により中途にて失敗、甚大な被害が発生したとのこと。

    一九四五年五月、再捕捉。大嶋第五番「比登都柱」。異常事例調査局からの返還要求は拒否。軍部は十分な「大八嶋」を所持しており、また現在の戦況下においては軍部に恩を売るよりは戦後に向けて備えるべきである。

    一九四五年八月十五日、連合国に対し無条件降伏すると正式に報道。五行結社、皇室から決別。これに際し第八番「秋津」が消失したとのこと。五行結社へ渡ったとみられる。軍部のみならず諸超常機関においても不穏な動きが多数確認されている。当院としては以前からの約定に基づき連合軍内の「財団」へ参画する見通しであるが、本院を中心としてこれに反発するものが多数確認されている。

    一九四五年九月、当院の七哲や九十九機関副総裁を含む抗戦派が儀式実行等をもくろみ大八嶋など多くの異物を持ち出し離脱。財団が単独でこれに対処しようとしたが失敗。十一日名古屋市にて協定を結び我々が対応する。紀伊沖で大規模戦闘が発生し、無事勝利。当院の保有していた「大八嶋」の内半数を回収に失敗し喪失するなど失うものは多かったが、今後もたらされるものを見ると十分である。

    一九四五年九月三十日、蒐集院解散の予定日であったが、財団が調節に手間取ったため蒐集院施設を形式上財団のものに置換することで対応。名古屋協定に修正を加えたオノゴロ四五協定を締結。財団八一管区内における一定の地位を保証する代わりとして、現在我々が依然として保有する大八嶋二柱をはじめとする諸蒐集物・資料は財団が継承する。管区設立については今年末、完全移行は来年中に執り行う見通し。

    一九四五年十二月三十一日、八一管区設立宣言。財団への継承が実行される。

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      大八嶋蒐集の歴史は我々蒐集院の歴史であり、日本の歴史でもあった。
      我が国は大戦に敗北したが、日本人はいまだ絶えていない。
      大八嶋は日本という政治的・文化的集団への意識に依存しており、この国体及び文化非意識的に受容するものが存続することによって存在を保つ。
      国家の滅亡ないし衰退は必ずしもその国土と文化の滅亡を意味しない。
      国家安泰、ひいては世界における一領域の安全のため、我々は今後とも「大八嶋」を奉斎し、その保全に全力を尽くす。
      我々は姿を変えて、この国を守り続けることとなるのだ。

      蒐集・奉斎・研儀


      七哲「伯耆」 改め 八一管区理事「千鳥」
      七哲「善右」 改め 八一管区理事「鳳林」



    財団八一管区支部設立ニ際スル附属文書 第七号

    日付: 昭和二〇年十二月三十一日


    前文 先の財団と日本国内の諸超常機関及び日本国政府との間に結ばれた協定によって、財団八一管区支部の設立が決定された。これによって諸超常機関の保有する資産は全て八一管区支部に継承されることとなった。これに際し、日本国の超常史において非常に重要な地位を占めてきた異常物品についても財団の収容下に置かれることとなる。

    その特異性及び諸協約に基づき、その収容を維持・拡大するため、本協約を制定する。

    第一章: 用語

    第一条
    (a) 日本国内の重要異常物品通称「大八嶋」はすべてSCP-〇〇一-JPと改称し、Thaumiel区分とする。詳細な超常科学的定義については文書Oysにおいて規定する。

    (b) 「大八嶋」のうち「大嶋」はすべてSCP-〇〇一-JP-Aと改称され、附属文書一号の通りに番号が当てられる。

    (c) 「大八嶋」のうち「小嶋」はすべてSCP-〇〇一-JP-Bと改称され、附属文書一号の通りに番号が当てられる。

    (d) 「大八嶋」のうち「水嶋」はすべてSCP-〇〇一-JP-Cと改称され、附属文書一号の通りに番号が当てられる。

    第二条
    兵庫県三原郡沼島村に存在する「淤能碁呂」については「注意を必要とする地点に関する文書」の通り要注意領域86八一〇一号と改称する。その詳細な領域については文書Oysにおいて規定する。

    第三条
    SCP-〇〇一-JPを利用することによって実行可能な儀式については、「儀式〇〇一-JP」と呼称する。

    第四条
    儀式〇〇一-JPの実行者となることが可能な人物は天皇家または日奉家に所属していると社会・生物学・自己認識すべての観点から認められる人物に限定されるが、これらの氏族については「注意を必要とする氏族に関する文書」の通り要注意氏族87第〇〇八一号及び第一三七九号に指定される。

    第二章: 資産の継承

    第五条
    財団八一管区支部へ合併する全組織が有するSCP-〇〇一-JPに関する一切の史資料及び資源、人員、その他は「財団八一管区支部設立草案第四条」に基づき、財団八一管区支部へ例外なく継承される。

    第三章: 確保・収容・保護

    第六条
    (a) SCP-〇〇一-JPはThaumiel級異常物に指定され、財団はその確保・収容・保護にあたる。
    (b) SCP-〇〇一-JP-Aは新たに設立される第八一管区支部理事会の代表者(以下理事と呼称する)がこれを所持することによって収容する。初代理事は現在SCP-〇〇一-JP-Aを所持する、財団第八一管区支部前身団体の代表者がこれに就任する。
    (c) 前項に基づき、SCP-〇〇一-JP-Aの継承は以下のように執り行う。
     (i)SCP-〇〇一-JP-A-一(「狭別」)については、「晴明院の閉鎖とその継承に関する協定」に基づき、晴明院長賀茂相忌が八一管区一号理事「獅子」としてこれを管理する。

     (ii)SCP-〇〇一-JP-A-二(「二名」)については、「九十九機関の解体に関する協定」に基づき、九十九機関臨時副理事長代理「善彌」が八一管区二号理事「升」としてこれを管理する。

     (iii)SCP-〇〇一-JP-A-三(「忍許呂」)については、「財団による蒐集院の吸収と権利保護に関する協定」に基づき、蒐集院七哲「伯耆」が八一管区三号理事「千鳥」としてこれを管理する。

     (iv)SCP-〇〇一-JP-A-四(「筑紫」)については、「九十九機関の解体に関する協定」に基づき、九十九機関理事長「麒麟」が八一管区四号理事「稲妻」としてこれを管理する。

     (v)SCP-〇〇一-JP-A-五(「比登都柱」)については、「財団による蒐集院の吸収と権利保護に関する協定」に基づき、蒐集院七哲「善右」が八一管区五号理事「鳳琳」としてこれを管理する。

     (vi)SCP-〇〇一-JP-A-六(「狭手依」)については、「紫禁城条約」において財団が陰陽寮より継承したものであるが、財団八一管区レベル五管理官土御門晴泰が八一管区支部第六号理事「若山」としてこれを管理する。

     (vii)SCP-〇〇一-JP-A-七(「佐度」)については、「虎鶫秘密協定」に基づき、「恠鳥」が八一管区七号理事「鵺」としてこれを管理する。

    (d) そのほかのSCP-〇〇一-JPについては以下のように執り行う。
     (i)財団八一管区支部及び財団本部は、「異常品蒐集」の名目により多様な方法を用いてSCP-〇〇一-JPの確保及び収容を行う。

     (ii)新たにSCP-〇〇一-JPが発見された場合、「八一管区理事規則第四十一条」に基づき新規理事、ないしそれに準じる新規の地位を任用する。

    (e) 八一管区理事が「財団機密重要人物死亡取扱規定」に定める「死亡及び其れに類する状態」に至った場合、重要機密違反・情報災害暴露等によって理事を罷免される場合、及びその他の理由によってSCP-〇〇一-JPの収容継続が困難になった場合は、当該理事の保有するSCP-〇〇一-JPを回収し、「八一管区理事規則第四十二条」に基づき新規に任用した理事へ継承することにより収容の維持を図るものとする。

    第七条
    (a) LoI-八一一(「淤能碁呂」)については一切の史資料から第一次情報改竄によって抹消し、その周辺領域はサイト八一OGに指定する。

    (b) サイト八一OGへは八一管区支部理事会直属の任務部隊、静止任務部隊い-三七(「神代」)を配置し、常に第一種警戒態勢を維持する。

    第八条
    (a) CoI-〇〇八一については以下のように取り計らう。
     (i)連合国軍最高司令官総司令部及び日本政府の協力の下、八一管区支部の厳重な監視・管理下に置く。

     (ii)管理に必要なコストを鑑み、CoI-〇〇八一に所属する人物を適宜削減することとする。

    (b) CoI-一三七九については以下のように取り計らう。
     (i)財団及び八一管区支部はCoI-一三七九に所属する人物の追跡及び確保を優先的に実行する。

     (ii)確保に成功したCoI-一三七九に所属する人物は厳重に収容する。仮に財団に対し率先して友好的な姿勢を見せた場合は、理事会の議決を経てその他のCoI-一三七九人員の懐柔その他に用いることが認められる。

    (後略)


    附属資料 以下は、現在確認されているSCP-〇〇一-JP「大八嶋」の一覧である。最も認知度の高い蒐集院に於ける呼称及び其の通称と、SCP財団下に於ける新呼称、並びに所有者等の特筆事項を記載したものである。
    蒐集院に於ける呼称 国内に於ける通称 SCP財団に於ける呼称 現在の所在と変化、補則等
    淤能碁呂 LoI-八一一
    淤能碁呂 淤能碁呂オノゴロ LoI-八一一 淡路國██群██村内
    大嶋 SCP-〇〇一-JP-A
    第一番 狭別サワケ SCP-〇〇一-JP-A-一 晴明院長 賀茂相忌 改め 八一管区支部一号理事「獅子」
    第二番 二名フタナ SCP-〇〇一-JP-A-二 九十九機関副理事長「善彌」 改め 八一管区支部二号理事「升」
    第三番 忍許呂オシコロ SCP-〇〇一-JP-A-三 蒐集院七哲「伯耆」 改め 八一管区支部三号理事「千鳥」
    第四番 筑紫ツクシ SCP-〇〇一-JP-A-四 九十九機関理事長「麒麟」 改め 八一管区支部四号理事「稲妻」
    第五番 比登都柱ヒトツバシラ SCP-〇〇一-JP-A-五 蒐集院七哲"善右" 改め 八一管区支部五号理事「鳳林」
    第六番 狭手依サデヨリ SCP-〇〇一-JP-A-六 旧陰陽寮 土御門晴泰 改め 八一管区支部六号理事「若山」
    第七番 佐度サド SCP-〇〇一-JP-A-七 「恠鳥」 改め 八一管区支部七号理事「鵺」
    第八番 秋津アキツ SCP-〇〇一-JP-A-八 五行結社
    小嶋 SCP-〇〇一-JP-B
    第一番 日方ヒカタ SCP-〇〇一-JP-B-一 一六一八年以降消失
    第二番 野手ヌテ SCP-〇〇一-JP-B-二 不明。東弊組または如月関係者が保持との情報あり
    第三番 一根ヒトツネ SCP-〇〇一-JP-B-三 理外研が所有か
    第四番 多麻流タマル SCP-〇〇一-JP-B-四 不明。一九四五年九月時点で蒐集院反統合派の所持を確認
    第五番 忍男オシヲ SCP-〇〇一-JP-B-五 戦後の混乱期に五分したことを確認。全て行方不明
    第六番 両屋フタヤ SCP-〇〇一-JP-B-六 不明。日奉某が所持とみられる
    第七番 多禰タネ SCP-〇〇一-JP-B-七 最後に九十九機関反統合派が所有を確認。
    第八番 掖玖ヤク SCP-〇〇一-JP-B-八 最後に九十九機関反統合派の所有を確認。
    第九番 天草アマクサ SCP-〇〇一-JP-B-九 百年以上にわたって不明
    第十番 蝦夷エゾ SCP-〇〇一-JP-B-一〇 未回収。五行結社が所有の可能性あり
    第十一番 千島チシマ SCP-〇〇一-JP-B-一一 不明、最後に判官会所属人員の所有を確認。ソ連邦による根源地千島列島の占領により将来的に消失の可能性あり
    第十二番 阿麻弥アマミ SCP-〇〇一-JP-B-一二 日本生類総研の凍霧天が所有していたことを確認。根源地が米国管理下により将来的に消失の可能性あり
    第十三番 阿児奈波アコナハ SCP-〇〇一-JP-B-一三 不明、IJAMEA関係者所持との情報あり。根源地が米国管理下により将来的に消失の可能性あり
    第十四番 唐渡カラト SCP-〇〇一-JP-B-一四 最後に満州国異常弁公室による所有を確認。根源地樺太島からの撤退に伴い消失するとみられる
    第十五番 無人ブニン SCP-〇〇一-JP-B-一五 最後に海軍による所有を確認。根源地が米国管理下により将来的に消失の可能性あり
    第十六番 高砂タカサゴ SCP-〇〇一-JP-B-一六 最後にIJAMEAの所有を確認。根源地台湾島からの撤退に伴い消失するものとみられる
    第十七番 カラ SCP-〇〇一-JP-B-一七 IJAMEAにより発見されたとの傍証あり。根源地である大陸からの撤退に伴い消失するものとみられる
    水嶋 SCP-〇〇一-JP-C
    第一番 水蛭子ヒルコ SCP-〇〇一-JP-C-一 不明。一九四五年に葦舟龍臣所持を最後に確認
    第二番 淡島アハシマ SCP-〇〇一-JP-C-二 不明。一九四五年に三川十七所持を最後に確認

    前身団体代表及び新規第八一管区理事花押

    kaou

    O五監督評議会 第八一管区発足担当者 一一号評議員

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