プールサイドと傍観者
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およぐひとのからだはななめにのびる、

二本の手はながくそろへてひきのばされる、

およぐひとの心臓こころはくらげのやうにすきとほる、

およぐひとのはつりがねのひびきをききつつ、

およぐひとのたましひはのみづのうへのつきをみる。

 
君はさ、夏が好きかい。
好きじゃないよ。嫌いでもない。
  
実体のない蝉が騒いで、喧しい鳴き声だけが空気に混じって満ちていた。夏、狂騒の季節。退廃の季節。永遠を謳うような自由の季節、その実"正しく謳歌する"為のメランコリーが支配する、息苦しい季節。そこに平穏はない。「僕らの七日間戦争」やら「サマーウォーズ」やらが世間を闊歩するその様は、終わらぬ戦争の季節たる象徴と言える。

気怠い夏のチェックリストを一つ一つ丁寧に埋めたところで、暑さと共に朽ちゆく季節の死骸を眺める頃には、きっと途方に暮れるような虚しさに満ちている筈だ。当然である。どんなに真正面から真摯に向き合っても、記憶の底にくすぶる”かつての夏”は絶えず身体をむしばみ続ける。いつまでも居るような顔をして、その癖どうしようもなく素っ気ない。夏の手のひらの上で踊るくらいならば、寂しさを独りで抱えながら喧騒を眺めている方がずっといいのかもしれない。

停滞、青春、寂寥。何もかも、夏。

 
 

そのプールサイドには、青いタオルが一枚掛かっている。香る塩素の匂いがぴん、と鼻をついた。暴力的な日差しに晒されるがままの床板が熱を反射して、プールサイド全体を余すことなく焦がしている。上から水を振り降ろす特徴的なシャワーも、既に水分を失って枯死している様だった。

満たされた25mのプールだけが、凪いだ水面を涼しげに揺らしていた。水に突き刺さった太陽光は分散し、屈折し、溶け合って柔らかいコントラストを水中に描く。その様は正しく「調和」を表していた。奔走するいのちが轟く世界の中で、その領域だけが静かに幽玄を守っている。プールの中心に浮かぶ、ひとつの異物さえも包み込むかのように。

 
一人の少女の死体がプールに浮かんでいる。

 
服を着たまま、瞳孔は見開かれたまま。どこか幻想的に水を纏う彼女は腐敗をとうに忘れてしまった様で、きっとその頬に触れればプールの水温と同じ、冷ややかな無機質が肌に伝わる事が予想された。とはいっても彼女が浮かぶ水面へ侵入する輩はいない。代わりに、プールサイドでそれを眺める観衆が二人。

青のTシャツを着た少年───そして黒いスーツを着た男。
男は和やかな調子で、独り言のように言葉を浮かべた。

「俺は君とお話しに来たんだけどね、如何せん話が下手くそでさ」

大人は社交辞令ばかり上手くなるんだよな、と男は笑う。外された第一ボタンの下、緑色のネクタイが生暖かい風に靡いている。男は自らの事を"只の大人"と名乗った。その事実が示すのは男の持つ傲慢と、密かににじむ諦観。そして二つを香水の様にまとわせる確かな狡猾さが、そこには磨かれている。

「子どもだって、先生の前ではいい顔するよ」

吐き捨てるように少年が呟いた。いかにも小学生中学年といった発育と、やや大きすぎる服は不思議と大人びた雰囲気を醸し出している。その声色に感情は乗らず、只"眼にした事実"を語っているだけというふうだった。そして今、その眼はぼうっと水面の彼女を捉えている。体育座りの脚を束ねる両の腕はやわらかな手指で結ばれ、プールに浸した足先はかすかに揺れた。

 

二人は横並びで浮かぶ少女の死体を見ている。一人はすねたように座りながら、一人は腕を後ろに組んで立ち尽くしながら。彼等は互いに罪を抱えている。彼等は、決して共犯者ではない。

 


 

「ねえ、泣いてるの?」

ゆりちゃんは僕の頬に人差し指をぴとっと付けて、そんな事を言います。ふたりで作ったささやかなお墓には、昨日まで呑気にキャベツを貪っていた兎の「むぎ」が眠っていて、涼し気だった夏毛は最早すっかり涼しいを通り越して冷たくなっている筈でした。

泣いていないよ、でも。そこまで言いかけて、僕は口を噤みました。嘘じゃなくて、悲しさはもうありません。死んでしまったのは寂しいけど、兎や亀などの小さな彼等はこうして突然お別れする事があると知っていたからです。分かっていたから、涙は流しません。僕は強い男の子だからでもあります。

でも。その言葉の続きを話すまえに、僕はゆりちゃんを改めて眺めました。背負ったランドセルに、昨日までなかった変な落書きが書いてあります。

「僕たちのせいになっちゃった。むぎが死んだの」

ゆりちゃんは僕の言葉を受け止めたのか、少し考えるような素振りをして黙りました。セミがうるさかったから、気まずくはありませんでした。───暫くして、彼女は唐突に僕の手を握って、笑います。「じゃあさ」

「今日からずっと、二人だけで遊ぼうよ」

校舎裏は日が差さないとはいえ暑いですから、向日葵の様に笑う彼女の頬はすっかり赤くなっていました。だから、僕の頬がとても熱かったのも、きっとそのせいだと思います。僕たちの間を吹き抜ける風はとてもぬるくて、いまいち

 


 

いまいちやる気に欠けた青空をつんざく蝉の鳴き声は、まるで何かを急かしているかのようにも感じられる。この空間に静寂は存在しなかった。だというのに、今ここに在る全てがどこか間延びしているのは果たして何故だろうか。

「ねえ、君はどうしてここにいるの?」
「あの子がいるから。それだけ」

少年が紡いだ返事はひどくぶっきらぼうで、それ以上の追及を強く拒絶する響きだけが、余韻として残された。

男が少年をちらと見れば、やはり少年の視線の先、その向こうには一体の彼女が何も変わらずに居る。すっかり時間が凍ってしまったみたいだ。25mのプールには、海のような波は起こらない。一切の動きが削がれた気だるい久遠の中に、彼女だけがぽつんと取り残されているかのようだった。

「なら、君はどれくらいここにいるの?」
「知らない。数えていないから」

「そんな事を聞いて何になるの?」と少年が短く刈った髪を撫でながら男を睨む。答える代わりに微笑を続ける男の垂らした前髪に隠れて、その目元は見えなかった。お互いに分かっていた。この問答がすぐに行きつくであろう言葉を───それで、君はいつまでここにいるの?

「……みんな嫌いだ。嫌いだから、これからもずっとここにいる」
「そうか。そりゃまたどうして」

少年の脱ぎ散らかした靴の片方には、ハサミで故意に裂かれたような切れ目があった。膝小僧の周囲にぽつぽつと残る痣は、服で隠れる範囲に傷跡をとどめる悪知恵が回らない程度には純粋な悪意の名残りである。

「あの子を死なせた加害者だから、嫌い」

カガイシャ。

その言葉に着せられたような響きに、男はかすかに溜息を吐いた。中肉中背、炎天下にも関わらずプールサイドに佇む一着のスーツは、この空間において完全な不調和を生み出している。それはある意味で水面に浮かぶ彼女と対照的で、故こそ少年は男と彼女を不本意ながらに繫ぎとめていた。

 

二人は横並びで浮かぶ少女の死体を見ている。こだまし続ける蝉の声、塩素の匂いが漂うプールサイド、五感に入る喧騒の全てが夏を演じていた。少年少女にはいささか都合のいい、束の間の永遠を。

 

「もう少し、その話を聞かせてくれてもいいかい」

だから、俺はまだここにいていいだろ? 男の問いに少年はただ水面に浸けた脚をバシャバシャと揺らすだけであったが、それは時に否定を意味しない。男は少年にとって味方でも敵でも無いのだ───今のところは。男は笑う、つとめて和やかに、プールサイドに突っ立ったまま。

話をしようぜ。

少女を死なせた加害者というのは、一体全体どういう奴らだったんだろう? 

 


 

僕の線香花火の最後が落っこちた時、ノースリーブ姿のゆりちゃんは少し名残惜しそうに顔をうつ向かせました。でも、その後、またすぐに歯抜けの可愛い笑顔(どうして歯が抜けてしまったのか、僕にはいってくれませんでした。言うまでもないという事かもしれません)を見せて、「帰ろう」と僕の手を取りました。

二人、川辺で花火をしていたものですから、全身虫刺されで僕たちはお互いとても痒い思いをする事になりました。だから、僕が家から痒み止めを取ってきて、家の前でお互いに塗りあいっこをする事になったのです。

ゆりちゃんが僕の脚や腕に痒み止めを塗ったくり、次は僕が塗る番です。「どこが痒いの?」ときくと、ゆりちゃんは「ここ」と言って右の脇を僕に見せてきました。

ゆりちゃんの脇、その左端のあたりにぷくりと腫れる虫刺されを見て、僕は何故だか視線を少し逸らしたくなって。そうしてふと気づきました───脇の下、ちらと見える胸あたりに青い痣がある事に。

「それ、どうしたの」

僕のその問いに、ゆりちゃんは答えませんでした。ただ泣きそうな顔で笑うばかりです。結局痒み止めをチューブごと渡してお別れする事になりました。手を振るゆりちゃんが見えなくなっても、僕の心はずっとあの青色に囚われたままでした。

誰かに相談しなきゃ。

そう思って玄関の扉を開くと、キッチンにお母さんがいます。話しかけるのは久々だったけど、意を決して話しかける事にしました。ねぇ、お母さん。僕が言葉を発した瞬間、お母さんは不快そうに空気を手で払いました。僕が裾をつかんだのだと思ったのだと思います。そしてお母さんは言う。何? 忙しいんだけど。

「あのね、ゆりちゃんの胸のとこにね、なぐられたみたいな跡があって」

僕が言い切る前に、お母さんは家事の邪魔になっていた僕を押し退けました。そうして心底面倒くさそうに、まな板を見つめながら言います。「あの子は

 


 
「あの子は優しかったから、やり返したりとかはしなかったんだ。だからずっとやられた。間違ってたとは思わないよ」
「概ね同意だな。"正しかった"とは言えないけれど」

日差しはより一層強くなり、張りぼての紫外線が二人をじりじりと焦がしている。男の首元を緑に彩るネクタイ、その半ばに留められたピンが水面の反射光を更に打ち返してヌラリと光った。

「良いも悪いも言ってくれないんだね」
「今の俺にそのどちらかを決める権利は無いだけさ」
「……とうご君も、たつや君も、かなと君も、しょうちゃんとか他の皆も、みんな嫌い。嫌いだよ」

だけど、気持ちは分かるんだ。

そう続ける少年の言葉は、特に善意も悪意も込められていない真っ白な雲のように軽く、浮遊感を伴っていた。

「むぎが死んだ時、みんな悲しかったから。悲しさを誰かにぶつけたくて、誰かを悪者にしたくなっちゃうのは僕も、ちょっとだけ、分かる。ドミノ倒しみたいに止められなくなる前に、見ていた誰かが止めてあげればそれでいいんだ」

そう、本当に、それでよかった。それでよかった、から。

「───だから、分からないのは」

 

どこからか、風鈴の音がした。

シャワシャワシャワシャワと蝉の声が酷く耳鳴りの様に空間を覆う。日差しが白く、まばゆく、視界を濃く塗りつぶす。頬に一滴たれた汗が酷くべたついて、不快に肌へと広がっていった。ぬるい風がプールサイドの二人を周る様に吹き荒み、風切り音は笑い声に近しい残響を残していく。

少年の瞳には影が映っている───自らを見る度に無条件で顔をしかめる母親、毒にも薬にもならない事を言う禿げた担任教師、求めた助けに苦笑いを返す大人たち。

「分からないのは、ただ、見てるだけのやつらだ」

肯定も否定もしないという事は、存在が「無」になる事を意味しない。

男は、日差しが、風が、蝉の声が、少年がこちらを睨んでいる事に気づいた。
 

「知ってる? 見てるだけの奴も、立派な加害者なんだよ」

 
男は浮かぶ少女の死体を見ている。腕を後ろに組んで立ち尽くしながら、ただ、何もせず少女の死体を眺め続けている。果たしていつからこの空間にいたのだろう。いつからしたり顔で居座っていたのだろう。本来このプールサイドに立ち入ることが許されるのは、逃避行の行先を選んだ少年少女だけなのに。

少年は吠える。自らが憎む傍観者の残像、その全てを横に並ぶ男に被せながら。

「早く出てってよ。此処は加害者の場所じゃない」

がらんどうの夏の喧騒が一気に男を責め立てる。畳み掛けるように不自然な風鈴の音、ささやかな花火が爆ぜる音や人々の喧騒が混ざり合い、不協和音が蜃気楼に歪むプールサイドを埋め尽くしてゆく。ねえ、早く出ていってよ。出てってよ、出てけよ。鼓膜にへばりつく声が徐々に語気を強めていっても、男は反応を返さない。

ただ、突っ立ったまま。

少年は。

ふと、何かが、プールの低空を飛んでいる事に気づいた。

 
咄嗟に目で追う。両の羽根を羽ばたかせ、細い全身で空を切り裂くその正体が一匹のトンボである事を、少年は認めた。そういや、この空間に在る実存物は少年と少女だけである筈ではなかったか。違和感と困惑をとっさに飲み込めないでいる少年を横目に、トンボは男の肩にとまる。

「色々話してくれて、どうもありがとうな」

男が口を開いた。

「なら、今度は、俺の話をしよう」

 
───プールサイドがひび割れる。

 


 

僕は、僕たちは走ります、白み始めた空に背を向けてただひたすらに走ります。ゆりちゃんと手を繋いだまま走るのは少々やり辛かったので、二人で両の腕をぶんぶん振りながら──さり気なくゆりちゃんの速さに合わせながら走っているのです。

太陽が昇れば、もう明日が来てしまいます。8月の末、夏休みはもう終わってしまいます。また僕達は靴を裂かれるし、いない事にされるし、いたずらに足の裏をぶつけられたりするのです。夜に勝手に外に出ましたからお母さんはきっと死ぬ程怒るでしょうし、僕だって今はちょっと眠いけど、それでも僕達は明ける太陽から逃げたかったのです。
 
「ねえ、プールに行こうよ」
 
ゆりちゃんが笑います。自ら引っ搔いた目の周りの傷を痛々しく滲ませながら、息を切らしながら笑います。そうだ、僕たちは未だプールには行っていなかったのです。屋上のプールさ、忍び込んじゃおうよ、授業なんてさぼっちゃってね、私実は自由研究やっていないんだ。ゆりちゃんの笑顔がパステル色の世界の中で余りにも眩しく見えたものですから、ああ、僕もずっと同じ事を自分の知らない腹の底で考えていたのだと思ってしまって。

クラスの皆も、先生も、お母さんも、通学路にいる痴呆のおじさんも、街ゆく人々も、全員僕たちの敵でした。奴らは加害者で、僕たちは被害者で、ただ二人身を寄せ合うしかなくて、でもその事実だけが僕たちを僕たちたらしめている事など分かり切っていて、そうだ、僕たちはこの夏が終わってしまうのが怖かったのです。

 
僕らが無辜のままで在れる場所を、僕らは夏と定義します。
 

午前五時に住まう鳥たちが遥か頭上で鳴いて、僕たちはああもう朝が来てしまうのだと互いに顔を見合わせます。見合わせて、困ったねというふうにお互い頷いて、そうしてふと思い出したのはあの日泣き喚いていた

 


 

泣き喚いていた蝉達の木霊が、刹那に止まった気がした。

プールサイドが、否、この空間自体に一筋の亀裂が走っていた。ひびの中に広がる黒は蜃気楼ごと喧騒を吸い込んで、何処か遠い場所へ呑んでしまうかのようだ。男が台詞を吐く。

「平たく言うと、色んな奴を眺める業務なんだ」

男の肩に止まったトンボは少年を見ていた。

左右それぞれ一万に分割された眼、そのひとつひとつに少年の瞳が映っている。

「見る、眺める。そして記録する。それだけだ。たったそれだけを、理不尽に死んで当然な極悪人だとか、理不尽に死ぬ道理のない幼児だとか、どちらでもいいその他多数に振りかざしてきた。俺だって、他人事を他人事として飲み込む事ほど、簡単なものはないと思うね」

橙色のツナギを身にまとった死刑囚、アサルト・ライフルを構えた衛兵、同じ"理念"を背負った、自分ほど幸運ではなかった同僚たち。数多の門出が、奮闘が、末路が彼の脳裏には映っていた。彼等の瞳に映っていた、傍観者の自分自身と一緒に、それらは脳裏に映っていた。

「だから、君の言う通り、きっと傍観者おれたちは卑怯な加害者だ」

でもね。

肩に止まった蜻蛉が羽ばたき、刹那にホバリングを挟んだのちにプールの中心へと飛び上がった。一筋入った亀裂が、呼応するように枝分かれして空間に手足を伸ばし始める。

 

 
停滞、青春、寂寥。その何もかもが夏だった。

でも、だから。

 
 
 

 
 

「"夏"は、もう終わりだよ」

 
 

 
 
 

崩壊。

空間が音を立てて崩れ始める。枝分かれした亀裂が世界を侵食し、空間を構成していた粒子の配列がスノーノイズと共にばらつき、間抜けに故障してしまったような音を出しながら霧散を開始していた。枯死したシャワーが細断される。二つに分かれたそれの座標には致命的なズレが生じている。枯死したシャワーが消える。

「な、何が」

少年が必死に息を吸って言葉を発する。困惑、驚愕、恐怖の綯い交ぜになった歪んだ眉毛を引っ掻きながら、少年は男を睨もうとして、気付いた。

ノイズと共に薄れ始めた自分の右手と、歪む緑のTシャツ。自らの存在が、不明な理由で失われかけている。

あれ? 少年は、自らがそんな声を上げている事に気が付いた。一滴垂らされた墨汁の様に広がり、染まる違和感に何もできないままで。

 


 

僕は水に脚先だけを浸します、ゆりちゃんはその姿を見て「泳げないの?」と笑うこともなくただプールの真ん中に浮かんでいる様でした、ただ何をするでもなく空を見つめている様にも見えました、でも僕はその姿にどうも嫌な違和感を覚えて、

「ねえ、泣いてるの?」

ゆりちゃんが僕の頬に人差し指をぴとっと付けて、そんな事を言います。二人、川辺で花火をしていたものですからお母さんはきっと死ぬ程怒るでしょうし、背負ったランドセルに、昨日までなかった変な落書きが囚われたままでした。

 

 

ふたりで作ったささやかなお墓には、昨日まで呑気にキャベツを貪っていた兎の「むぎ」が眠っていて、次は僕が塗る番です。涼し気だった夏毛は最早すっかり涼しいを通り越して冷たくなっている筈でしたので両の腕をぶんぶん振りながら──ゆりちゃんの涙は流しません。午前五時に住まう鳥たちが遥か頭上で鳴いて、僕たちはああもう朝が来てしまうのだとああもう朝が来てしまうのだと互いに顔を見合わせて怖かったのです。だから、僕が家から痒み止めを取ってきて、家の前でお互いに塗りあいっこをする事になったのです。「ねえ、プールに行こうよ」ゆりちゃんが笑います。自ら引っ搔いた目の周りの傷を痛々しく滲ませながら、息を切らしながら笑います。向日葵の様に笑う彼女の頬はすっかり赤くなっていました。お母さんは不快そうに空気を手で払いました。夏休みはもう終わってしまいます。夏休みはもう終わってしまいます。僕たちの間を吹き抜ける風はとてもぬるくて、いまいち

 

 

ただ、思い出は再生レコードされ続ける。

作り物のテープを、絶えず擦り減らし続けながら。

 
それがどれほどに褪せてしまっていたかなんて、今となってはもう、知る由も──

 


 

「────俺はこれからも、色々な奴を傍観し続ける」

その言葉に、もう少年は答えない。喉の奥から出てくるのはただ吐き出されるだけの弱々しい吐息と、粘性の薄い唾液だけだ。視界がぐらついて定まらない。水面に浸けていた足の感覚は既に失われていた。

「何かを座視するという事は、決して責任を伴わないという事じゃない。その行為が、単に手触りの軽いだけの凶器にしかなり得ないのは充分に理解しているさ」

男は浮かぶ少女の死体を見ている。

「でも、だからこそ、背負い続ける必要があるんだ」

それでも、傍観者はその歩みを止めてはならない。卑怯な存在だからこそ、その思考を止めてはならない。常に今を、最前線で見続ける必要がある。判断し続ける必要がある。真に動くべき時、混沌に場が吞まれうる時、誰よりも早く正確に、秩序のラインを引くことが出来るように。

プールの水が失われてゆく。水面と世界の境界線が溶け合い、凪いでいた筈の調和が不可逆に汚されて、只、浮かぶ少女だけが変わらないままで涼しい顔をしていた。風鈴の音が木霊する。木霊する。もはや風鈴の音かも分からない叫びが、空間に絶えず響き続ける。

少年は自分の言葉と喉が既に消失している事を、否応なしに知った。自らを構成する全てが薄氷だったと、それが割れてから気付いてしまった時、人は、少年は、どんな顔をすればよいのだろうか。もう分からない。顔と呼べる物がもう残っているのかすらも。

霞む視界を振る。舌を噛む。意識が散逸する寸前、すぐそこに誰かが立っている事に気付く。

助けて。もう口に出す事は出来ないから、手を伸ばした。眼前の大人に、助けを求める一心で。

 
「ごめんね」

 

「俺は、これからも、君の加害者で在り続ける」

 

傍観者は、手を取らなかった。

 


 

 

 

 
 
 

報告

 
概要: 20██/██/██に自殺した真桑友梨佳氏の死体。腐食の兆候は見られず、着用していた衣服を含め死亡当時のまま劣化せずに存在していると思われる。自らの身体を中心とした準捕食性の異常領域を展開しており、真桑友梨佳氏が生前通っていた██小学校の屋上に設置されたプールサイドを模した空間が広がっている。

異常空間内には真桑氏の死体(以下、確保対象)の他、生前の真桑氏のクラスメイトであった田邊 柊翔氏と外見が酷似している人型実体が一名存在している。実体は基本的に空間中心に存在する確保対象を静観しており、最低限のコミュニケーションが可能である。実体は会話の節々において「生前の真桑氏と過ごした小学四年生時点の夏季休暇」を行動の根拠とするような振る舞いを見せるが、実際の田邊 柊翔氏は小学四年生の六月頃に██小学校から転校しており、その様な事実の一切は存在しない事に留意が必要である。

 
確保結果: 一名(当報告書執筆者)を準捕食性領域内に事前に侵入させ内部の調査及び陽動を担当し、残りの担当班で外部からの領域分解を試みた。内部侵入から4時間32分51秒時点で展開されていた領域の解析が完了し、分解に成功。領域と共に空間内部に存在していた人型実体の消失が確認されたものの、確保対象の回収には無事成功した。

 

 

 

 
一人のスーツを纏った男と、仰向けの少女の死体だけが薄暗いコンクリの廃墟には存在している。

 
緑色のネクタイを今一度締め直して、深く細く息を吐いた。仕事がある程度片付いたからこそ油断は禁物であると、いつも通りに自分を戒める。この場所に陽は入らない。入らないから、腕時計に触れて今が何時かを確かめてみる。偽りの太陽に炙られた金属の熱が、まだ手元に残っていた。

少女を見る。その後で、男が独り微笑んだ。

「俺は、君とお話に来たんだけどね。────如何せん話が下手くそで、申し訳ないよ」

ずっと、君に話しかけていたんだけど。そう溢して、言葉を止める。彼女は最後まで誰かが誰かにぶつける加害というものを許せなかったのだろうか。それが例え、自分から誰かにだったとしても。

代わりに自らを庇って、代わりに周囲を攻撃してくれる代弁者に縋ってまで、彼女は無辜の被害者のままで在りたかったのだろうか。そう在れる状態は、時期は、俺にはもうとっくに過ぎ去ってしまった。

 
そんな事を考えてから、死体に背を向けてまた男は歩き出した。じきに回収班が来る。そうすれば少女は回収されて、この仕事も真の意味で一段落といった所だ。

そうやって、また業務は滑らかに遂行されてゆく。また理念は行使され続ける。

そうやって、いつかまた夏だって巡りゆくのだろう。

 

「……少しだけ、肌寒いな」

誰へともなく呟いた。

それがこの環境の気温のせいなのか、はたまた違う何かによるものなのかについて、男は結論を見送った。

 

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